■劇評■(2007〜)

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『由比正雪』       「文藝軌道」 2008年10月号 「演劇時評:2008年春から夏の舞台」 野平昭和

 一九六人年、劇団状況劇場によって新宿花園神社で上演された唐十郎二十八歳の時の作品を、丁度四十年後の現在、当時、二十一歳の団員でもあった流山児祥自身が、いくつか書き加えた部分も混え、新たに今の観客に突きつけた舞台である。

 由比正雪という人物が実在したのか、とか、幕府の自作自演による徳川永久政権確立のためのヤラセであるとかの奇説まであるほどの、江戸時代初期の大事件、慶安の乱のヒーローであり、兵学者にして門弟五千人、宝蔵院流槍術の名人、丸橋忠弥と組んで、大革命を起せた筈が、事前に計画が洩れて自刃した四十六歳の姿を舞台に乗せるとあっては、「慶安太平記」などとはべつの興味で見逃す訳にはいかないのだ。島原の乱の残党との設定で、他にも柳生十兵衛等、実在の人物が登場し、当時の、不安定な徳川政権確立期の江戸を舞台に、夜タカ、岡っ引等、誰が主役かと戸惑うほどの扱いで活躍する、いわば民衆劇の作りでもある。それどころか、七十年安保を生み出した昭和四十年代前半の世相、―――政治、経済、社会現象の時代劇版の要素が色濃く投影していて、既成秩序一切破壊の炎のに「新劇」があり、作、演出、俳優の活躍で、それを如実に示した舞台であることは、イマの客の眼にも明らかである。それを認めるか認めないか、好きか嫌いか等という「寝言」は跡形もなく粉砕されてしまう二時間だった。とはいえ、毛利攻めによる尼子氏の滅亡と、その再興を願う山中鹿之助の話を、六十年安保反対闘争の敗北を投影して描いた福田善之の「三日月の影」(余談だが筆者はこの青芸の舞台の批評を昭和四十年の「テアトロ」誌上に発表した)の延長に「由比正雪」の土台を位置づけ、その歴史的事実はしっかり固めた上で、さらなる飛躍追究展開を示したのが唐十郎であることを、あらためて確認した。

 ともあれ、全般的に、小さく静かになつてしまった劇界を揺さぶりたい破壊=建設の衝動にかられた演出と見るのは言い過ぎだろうか。老観客の一人である筆者でさえ、赤テントや新宿文化の地下などうろついていた昔を偲んで、思わず興奮さえしていたのだから。塩野谷正幸、沖田乱、伊藤弘子、上田和弘等おなじみの役者が奮闘していて気持ちがよかった。他に小林七緒、平野直美、坂井香奈美、阿萬由美、鈴木麻理、眞藤ヒロシ、甲津拓平、イワヲ、保村大和、蒲公仁、加地竜也、小川輝晃、阪本篤、木暮拓矢、奈佐健臣、栗原茂、藤村一成、冨澤力、武田智弘が出演。

 

『由比正雪』        「悲劇喜劇」2008年11月号  演劇時評  越光照光

 唐十郎作、流山児祥演出です。本多劇場でやりました。

 唐十郎が一九六八年に二十八歳の若さで書き上げた作品。劇団状況劇場が新宿花園神社で上演した「由比正雪〜反面美人の巻〜」は、若き日の流山児祥が演劇=集団とは何か≠体験した原点でもあるといいます。流山児★事務所創立二十五周年記念公演と銘打ってあり、芝居の進行に重ねて随所に、六〇年代後半に盛り上がった学生運動の映像記録がその舞台装置に映しだされるなど、演出家流山児祥の思い入れが充分に伝わるエネルギッシュな舞台となっていました。

 

『由比正雪』       「江森盛夫の演劇袋」2008年8月14日 江森盛夫

 この芝居は69年の新宿西口公園でのあの「腰巻お仙」上演事件の前の年68年に花園神社で上演されたが、観ている人は少なくて幻の芝居のようで扇田昭彦さんも観ていないそうだ。この芝居は唐の芝居の臭いが全く感じられない。セリフも唐ワードでなくて、唐の作とは思えない感じなのだ。正雪の時代の江戸、島原の乱、天草四郎とか、それらの事件についてのナレーションを入れるとか、芝居全体がアングラのコードを使っていない「普通の芝居」なのだ。

 その時代を彷彿させる吉本隆明「言語にとって美とはなにか」をもじった、「剣にとって美とはなにか」などのセリフが頻発するが・・・。つまりアングラ芝居、唐独特の芝居の最前期の作品なのだ。だからこの芝居を観て福田善之の「袴垂れはどこだ」を思い出した。唐は福田がリーダーだった劇団「青藝」にいた。歴史上の人物に現在を重ね、江戸のアウトロー、浪人正雪の時代への反逆を描き、クーデターを起こす話は福田の作風をかなり忠実に学んだ芝居だと如実に感じさせた。

 流山児がこの作品を掘り起こして上演したことは、唐の作品の理解のためにも演劇史的にも有意義なことだった。テクストを損なわないきちんとした舞台だった、長年下積みだったイワヲが柳生十兵衛という大役をもらって、とにかくサマになっていた。嬉しいことだ。  

 


『双葉のレッスン』        「中日新聞」 2008年6月6日   (三田村)

  名古屋を代表する劇団の一つ、少年王者舘の主宰・天野天街が日本劇団協議会の創作劇奨励公演「双葉のレッスン」を演出し東京・下北沢の小劇場ザ・スズナリで上演されている。流山児★事務所の制作で、京都の劇作家ごまのはえ(ニットキャップシアター)の戯曲を演出した。

 名古屋と関西の演劇人の顔合わせで東京中心の現代演劇シーンを揺るがそうと、流山児祥が企てた。降りやまぬ雨で孤立した旧家の洋間を舞台に、団地から避難してきたらしき人々が織りなす奇妙な物語を夕沈振り付けのダンス、濱島将裕の映像など少年王者舘の特徴をたっぷり交えて味付けた。

 ごまの戯曲を大幅に改変。天野流の手並みで登場人物が錯綜し、時間がよじれ、記憶が混濁したような幻惑感を生む舞台となった。

 

『双葉のレッスン』        「シアター・アーツ」2008年秋号   オールラウンド★観劇日誌    江森盛夫

 流山児はパンフで「何処にもない演劇を創ろう、演劇でしか出来ないコトをやろう!」を合言葉にこの芝居を三者で創ったと書いているが、その合言葉はほぼ舞台で叶っている。客はアマノ・マジックに幻惑され、翻弄されてあっけに取られて舞台に奪取された

 設定は近未来のニッポン。降り始めた雨がやまず、団地の人々は旧家の洋館に避難した。つまりは方舟に乗り合わせた人々の新世界の「創世記」、そこでの人々の未知の世界への初めての(双葉の)行動様式のレッスンというものらしい。舞台に現出するのは、この館に入ったり出たりする行動、人々との関係や必要な用事を果たすという原初的な事柄のレッスンらしい。それは同じアクションの際限のない反復で、反復にも微細な差異があり、その反復の高揚が極点に達するとダンスやコーラスに昇華される。

 その反復の独創的なスコアは哄笑に満ちていて、新しいルーティンを創造する真摯な試みだと自然に納得できるのだ。伊藤弘子が出色、天野の演出に即応するセンスが抜群だ。

 

『双葉のレッスン』        「もずくスープね」 安藤光夫  

 『双葉のレッスン』は、「面白かったですね」とひとことで言ってしまうのはもったいないような、奇妙な余韻を残す作品であった。降る雨は止むことを知らず、限りなく洪水に近い状態の中で人々は或る旧家の洋館に避難してくる。その中で謎深いサスペンス・ドラマが男女たちによって繰り広げられてゆく。しかも、その洋館さえも水底へと沈みかかっている…。そこに、天野天街の得意とする反復と差異の運動作用が随所で働いて、観客は物語をどう判断すべきなのか眩惑を覚え始める。

…さて、我が個人的な経験として、和田竜の『のぼうの城』を読んだばかりであったことは前述の通りである。豊臣秀吉による小田原北条攻めの際、別動隊を命じられた石田三成が、北条方につく武州忍城を攻めるにあたり、秀吉の有名な備中高松城攻めに倣って、同様の水攻めを忍城に対しておこなうも、こちらは結果的に失敗に終わったという史実がある。これを魅力あふれる痛快娯楽時代小説として描いたのが『のぼうの城』である。この時、人工湖のどまんなかに浮いたように見えた忍城は「忍の浮き城」と呼ばれたというが、その光景と、今回の『双葉のレッスン』の洋館のイメージが、自分の脳髄の中ではほとんど重なっていったのである。或いは「浮き城」というよりも、辻井喬の詩/小説の題名よろしく「沈める城」のイメージのほうが適切かもしれない。

 そんな「沈める洋館」の中で、あたかも梅原猛が柿本人麻呂の悲劇を描いた『水底の歌』と、ディズニーランドの『ホーンテッドマンション』が交差するようなイメージで、「水底」での死の舞踏会が繰り広げられる場面は、哀しく怖く美しい。そして、天野作品としては珍しい洋館でのサスペンス、しかも不思議な反復技法で描かれる様は、今年2月に亡くなった仏作家アラン・ロブ=グリエが脚本を書いた傑作映画『去年マリエンバードで』(アラン・レネ監督作品)を思い出させるものでもあった。そういう意味で、『双葉のレッスン』は、『去年マリエンバードで』×『のぼうの城』÷(『水底の歌』+『ホーンテッドマンション』)として楽しめるものであった。

 

『双葉のレッスン』        「演劇◎定点カメラ」   まねきねこ

 ニットキャップシアター・ごまのはえ脚本を、少年王者舘・天野天街演出にて。舞台。洋館のリビング。正面奥、一段高く。窓際に椅子三方。左隣に登り階段の 一部、右の壁に「思イ出スベカラズ」の貼り紙。両壁は貼り紙がはげかけ、内に棚、写真や人形など置物。

お話。一発の銃声、惨事のしるしから始まり。世界は洪水、高台の洋館に避難している人達。誰もが誰かを捜し続けて、出会えない。ここにいながら、いない人々の思い出=記憶は輪舞のように繰り返される、すこしづつ形を違えながら。 

異種混合素材もみんな天野レシピに煮込まれ。ファンには嬉しい味付け加減。前半はミニマルな会話延々。そんな中、壁紙が「思イ出スベカラズ」→「思イ出ステルベカラズ」と意味深に変化。後半、ダンスと映像を挿入して、少年王者舘らしい演出。一方、物語はモザイクが晴れるように生っぽく露出を始め。男女、近親の愛憎が ぽつぽつ、時折どしゃ降り。足下が揺らぎ、不確かとなっていく世界で色濃く、確かにわき出る情感に興味津々。

 


『ぜ〜んぶ書きかえたロール・プレイン・ザ・バグ』 「毎日新聞」〜日常生活のエネルギー結集!〜 2008年5月1日  明珍美紀

 平均年齢57歳。女性だけの演劇集団「楽塾」の年に1度の公演が新宿区の「SpaCe早稲田」で開かれた。劇のタイトルは「ぜーんぶ書きかえた、ロール・ブレイン・ザ・バグ」。劇作家の北村想さんが「楽塾の女性たちのために」と書き下ろした新作で、羽田から札幌に向かう飛行機に乗っていた女性11人が、異次元の砂漠に放り出される物語。奇想天外なせりふや歌のなかにも、高齢社会や沖縄、戦争の問題などが盛り込まれる。 楽塾は、演出家の流山児祥さんが「中高年の大人たちで演劇を」と呼びかけ、98年春に旗揚げ公演をした。「初めは男性もいたが、いつの間にか女性だけになってしまった」と流山児さん。現在、メンバーは50歳から67歳までの14人。「それぞれ家庭や職場で奮闘し、日常の思いを演劇というかたちで発散している」

 

『ぜ〜んぶ書きかえたロール・プレイン・ザ・バグ』「シアター・アーツ」2008年夏号  オールラウンド★観劇日誌 江森盛夫

北村が楽塾に書き下ろした新作。羽田から千歳へ向かう飛行機が砂漠に墜落? 北村の宇宙、神、それに原爆と沖縄と北村ワールドが詰め込まれたビターなナンセンスファンタジー。それを流山児が歌と踊りを絶妙に按配して楽しい舞台になった。平均年齢五六歳の女性集団楽塾は十一年目でも初々しさを失わない。

 

『ぜ〜んぶ書きかえたロール・プレイン・ザ・バグ』   「演劇◎定点カメラ」  まねきねこ

  舞台。クリームの柔らかい段ボール壁。パステルのタイル状パネルを重ねた、優しい感触の美術。

 お話。砂漠に墜落した飛行機の生存者達は、いずことも知られぬそこで困惑する。 ゴジラと先の戦争、戦地沖縄、暴君アメリカ、老人犯罪と背景、宇宙の成り立ち、
 夢と現実が劇的に交錯する。

 楽しく、ちくりとメッセージを忘れず。歌と踊りたっぷりの音楽劇仕立てで綴り。 やったもんがちな、つらいけど楽しそうな、シニア役者達。よく動くわ、唄うわ、
 パワーと気概に驚き、心から拍手をしたいねこ。生と死、国家と国民の犠牲を負った作品に、懸命健気な有り様が重なり、味わいひとしお。時代に置かれ、単刀直入に
 暴力で感情表現の老人犯罪はより切実。盲人達の見えざる事実や酷い現実を映した暗喩、踏まえての荒唐無稽ぶりとも、魅力的な舞台となった印象ねこ。


血は立ったまま眠っている 』   映画芸術 2008年春号    「七十二歳の寺山修司」   伊藤祐作

二〇〇八年五月四日は、寺山修司が四十七歳で亡くなってから二十五年目の命日である。 寺山の「家出のすすめ」に煽られて上京したわたしは、いま五十八歳。
 寺山の生きざまを見つめ、それに近い形で生きようと努めてきたが、老いた寺山像がないのだから、これからはわたし自身で考えて老いて生きることを実践していかなければならない。


 そんなわたしにとって、二〇〇七年の夏に観た高取英の作・演出、月蝕歌劇団公演「寺山修司過激なる疾走」で語られた、青年寺山の独白調の科白、 「わたしだって、父親になるチャンスは、何度かあった」だが、わたしは父親になることを望まなかったし、自らを増殖させ、拡散することを、拒んできた。わたくしはわたし自身の父親になることで精一杯だったのだ=@は、ずーっと気になっていた。


 寺山といえば即思い浮かぷのが母親との確執である。ところが父親ともいろいろあったようである。
 また「家出のすすめ」を説いた寺山だが、実は彼自身は「天井桟敷」という擬似家族を作り、そこの父親であったようである。
 父親、家族…‥
 年齢のせいだろうか、わたしもここのところそういうことが多くなってきた。
念のために記しておくがわたしはひとり者である。
 そんなわけで、ここのところどういう芝居を観てもそういう部分が やけに気になって観えてくる。


 二月七日、新宿のSPACE雑遊で観た流山児★事務所公演「血は立ったまま眠っている」 (作=寺山修司 演出=流山児祥) は寺山が一九六〇年、二十三蔵のときに書いた処女戯曲。八年前流山児★事務所が上演した公演も観た。そのとき、この芝居は六〇年安保時のテロリストの物語であったと記憶している。
 ところが、今回わたしがこの芝居でひっかかったのは、本筋のテロリストの生きざまではなく、ストーリー展開上は脇役である猫殺しの少年 (小林七緒) と床屋であるその父親 (冨澤力) の生きざま・死にざまだった。仲間を裏切った父親に対し、少年はこんな科白を吐く。


 「裏切り者のお父ちゃんなんか、おれの唾だ」
 「おれの吐き出す唾のなかでも、一ばんうすい、水っぽい唾だ」
 「父ちゃんの豚め」
 これは寺山の父親観である。寺山は処女戯曲ではっきり父親との確執を書き記していたのである。
 父親を豚と定めたとき、少年は?
 この苦しさは、そう定めた者しか理解出来ない。わたしが若い頃に寺山に親近感を持ったのは、父親を豚と定めたその感性が共通していたからかも知れない。

 ところで、いま寺山修司が生きていたとしたら、七十二歳。どのような老い″を見せてくれているのだろうか。
 

血は立ったまま眠っている 』  演劇雑誌テアトロ  劇評:林あまり    2008年4月号

 日本劇団協議会 次世代を担う演劇 人育成公演/流山児★事務所「血は立ったまま眠っている」 (寺山修司 作、流山児祥台本・演出、SPACE 雑遊) は意欲的な舞台だった。

 一九六〇年に発表された、寺山の処女戯曲。同年四月、劇団四季が初演、 演出は浅利慶太。日下武史や影万里江が出演している。「この作品の稽古中に、六〇年安保闘争は最大のヤマ場にさしかかり、デモ隊が国会に乱入したとき、私たちは最後の舞台稽古に入っていた。世をあげて政治的季節に酔っているとき、政治を通さぬもう一つの『救済』と『解放』のための抵抗を説くことは、きわめて至難のことであった」と、寺山はのちに記している。  (『寺山修司の劇曲3』思潮社)

 当時と現在とでは若者の置かれている状況は全く違う。けれど、どうだ。 テロリスト志望の青年も、猫殺しが趣味の子供も、いま生まれたばかりのよ うなみずみずしい登場人物ではないか。 流山児は今回、多少の削除と変更はしているものの、ほぼ九割がた、もとの戯曲の通り上演している。それが良い。寺山の言葉がこの時代にどう聴こえるのかが、はっきりと判断できる。

 宇崎竜童の音楽に乗って、若者たち が歌い、跳ね、踊る。もっと激しい口ックミュージカルに仕立てても面白いだろう。

 

血は立ったまま眠っている』  産経新聞文化欄 「週末魅シュラン」  2008年2月8日 昇

 日本劇団協議会の「次世代を担う演劇人育成公演」のひとつ。流山児★事務所による「寺山修司没後25年メモリアル テラヤマ・プロジェクト第1弾」は、昭和35年に発表された寺山の処女戯曲。平成12年に閉館した小劇場ジァン・ジァン(東京・渋谷)での最終公演以来、8年ぶりの上演となる。

 革命を夢見る自称テロリスト、退屈な生活を持てあますチンピラ、彼らをそそのかすナゾの男ら、戦後の焼け跡に生きる著者たちの反抗を描く群像劇。演出の流山児祥いわく、上演時間は前回の1時間50分から15分ほど短くなり、若手俳優ならではのスピード感を増したという。そして破壊、むき出しの性、アナーキーさ、猥雑さの要素も。約70席の小空間が熱い。 ☆熱血度99%☆

 

血は立ったまま眠っている 』  「藤田一樹の観劇レポート」   2008年2月6日 藤田一樹

寺山修司さんの処女戯曲『血は立ったまま眠っている』。この作品が流山児★事務所によるテラヤマ・プロジェクト第1弾として、SPACE雑遊という新宿のとても小さな劇場で、明後日まで公演されています。戯曲が半端なく面白いです。そして、荒々しい疾走感に満ちたパンチ力のある演出も然り。上演時間は約1時間35分。

 安保闘争といった時代背景を踏まえながら、若者たちの憤りや葛藤が熱く描かれていく青春ドラマ。だけれども、同時に演劇の虚構な嘘の世界を露にしていく刺激的な戯曲でした。演劇という従来の形式をぶち壊そうという闘志がメラメラと燃えているようで、演劇表現の新たな可能性を模索しているようにも感じます。今回の演出も戯曲に過剰な意味を加えないで、シンプルかつストレートな作りでとても良かったです。

 ひとつひとつの台詞がとても面白くて聞き惚れました。最近の戯曲や文学は、読みやすかったり聞きやすい言葉が多めな気がするけれど、この作品の言葉は何度も何度も胸に引っかかって、読解したり思考したりするのがすごく楽しかった。きっと役者さんの身体を通して体現していくことで、いつまでも色褪せない新しい戯曲のままでいるのではないだろうか。

 


『続・オールド・バンチ』       雑誌「文藝軌道」 2008年4月号 「2007年秋の舞台」    野平昭和

 昨年十二月の第一回公演に続く第二回公演 (第三回が一応最終公演になるとのことだが)として、「パラダイス一座」と名乗る現役第一線の、最高九十一歳の成井市郎から、最年少の肝付兼太七十二歳の、五人の老名優(?)と、十二人の若手(?) 俳優等、計十七人の出演する舞台である。作者の佃典彦四十三歳の戯曲を、演出の流山児祥六十歳が、装置の妹尾河童七十七歳の見事な舞台の上で繰り広げて見せる、まさに復讐劇ではあるが、同時に、唄入りのオペレッタ風というか、バラエティ風なところさえある楽しいオシバイでも あった。


 昨年の作者山元清多が六十七歳だったせいかもしれないが、銀行強盗の話の中に、直接戦争体験が出てきたのに反して、今回の続篇では、一九六三年十二月という東京オリンピック前年に、一網打尽に抹殺されようとしていた殺し屋たち、という時点がスタートラインになつていて、四十四年後の現在の再集結の場所が、廃止後の銭湯を改造した老人福祉施設「ドゥライフひまわり」という設定で明らかなように、戦争ではなく、現在進行中の諸問題の中で、すべてが展開するという生々しさが前面に出ているのはおもしろい。二〇一六年に、東京オリンピック招致に名乗りむあげる、という今の状況の上に劇が進行してゆくからでもある。


 日本暗殺者協会というのがあって、二〇〇七年十二月のある日、元亀の湯、今は「ドゥライフひまわり」に、老いた殺し屋ハリー(本多一夫)もぐら (肝付兼太) がえんま (戌井一郎)を探して入ってきて、職員の田所(石井澄)横山 (坂井香奈美)を相手に、歌まじりのトンチンカンな問答を繰り返しているところへ、うるふ(瓜生正美)も加わり、浴槽に隠れていた男を縛り上げる。性転換して男性になつたろーず(中村嘩夫)も加わり、腕はいいがもぐりの医者B・J(岩淵達治)のビデオを見せたりする。そこへ三波春夫のお面をつけたえんまが、現われる。実は皆「招待状」で集められたのである。浴槽の男、小谷ユウジ (谷宗和) は、老人施設慰問サービスセンター 「ハートケア」 の職員と名乗りクリスマス・ケーキを取り出して一同に振舞うが、毒入りだとうるふが止める。

しかしケーキは何ごともなかったが、横山だけが倒れる。キノコから抽出した神経毒の匂いがするとろーずが見破る。ついに小谷はこぶら(藤村一成) の孫だと名乗り、こぶらはもちろん、東京オリンピックの前年に父も殺され、その復讐のために「招待状」を出して一同を集め、仇を討つとピストルを構える。だがえんまの手によって、日本暗殺者協会乗取りを企むハイエナの指示で、小谷に架空の仇討ちを実行させるために送り込まれ、失敗すれば、直接ハイエナが手を下すことになつていて、今や、この施設が包囲されていることが明らかになる。果して小谷は撃たれ、真相が明らかになり、ついでにもぐらが協会に入れない訳も、えんまが若い時ホステスに生ませた息子だからとわかり、すべてが明らかになる。

こぶらの弔いに集まった五人が自浪五人男ばりの見得を切っているところへパトカーのサイレンの響きが迫る中で幕となる。

 一見荒唐無稽の歌人りドラマに見えるが、風刺の利いたホンの骨組みとディテール、それを血肉化した五人の老名優とそれを支える役者群の力で、爽快なカタルシスを得た。

 

『続・オールド・バンチ』       シアター・アーツ  2008年春号「彼たちに明日はない」   『続オールド・バンチ』をめぐって  林カヲル

 小劇場演劇は若さの演劇だった。演じる者が若く、見る者もまた若い。若さは老いを憎悪する。既成の演劇、特に新劇を強く否定した。自然の若さは本質としての新しさであり諸々の望ましいものであり、老いはその反対だ。  

  やがて小劇場の演劇人たちは地位と評価と年齢を得る。本質としての若さを保持したまま、あるいは捨てられぬまま。自然の老いを退けることはできないが、本質としての老いは排除されるべき敵だ。ミック・ジャガーは永遠の若さに呪縛されているかのように、今も「(若い)俺たちは満足できねえ」と歌っている。

 しかし若さは老いを否定せずにはいられないのか。現在の若い演劇にとって既存の演劇や老いとの関係はもっと柔軟であるように見える。老いと対立しているのは老い自身なのだ。老いの演劇とは誰のどんな演劇なのか。近頃話題の 高齢者による演劇がそうなのだろうか。

 二〇〇六年十二月、ザ・スズナリにおけるパラダイス一座の旗揚げ公演『オールド・バンチ〜男たちの挽歌〜』(作=山元清多、演出=流山児祥)は、年の瀬の思わぬ拾い物だった。大して期待していなかったのだ。パラダイス一座とは流山児祥が結成した活動三年限定の高齢者劇団である。九一歳(年齢は二〇〇七年当時)の戌井市郎を筆頭として、年齢順に瓜生正美、中村哮夫、本多一夫、そして最年少七二歳の肝付兼太。観世榮夫と岩淵達治は映像で参加した。本多が元俳優の劇場経営者で、他は演出家。

  俳優も兼ねる肝付を除けば、演技は五十年ぶりという本多も含め、舞台経験はほとんどないに等しい。これは裏で長く活動してきた演劇人たちが表舞台に立って見ました、という所詮はお遊びの企画だろうと高を括っていた。しかしこの気分はいい方向へ裏切られる。あれほど無条件の楽しさを味わえるのはまれだ。しかし、いい舞台というのとは少し違う。そもそも、あれは演劇だったのだろうか。

 さて一年後の再び十二月、劇場も演出家も同じ、作者のみ佃典彦に代わって『続オールド・バンチ〜復讐のヒットパレード!〜』が上演された。残念ながら観世榮夫は亡くなったが、他の座員も彼らが醸し出す楽しさも健在だった。 続と銘打っているものの、登場人物も内容も別物だが、数名の年老いた悪漢たち、つまりオールド・バンチの物語という点では繋がる。そもそもこの題名はサム・ペキンパーの西部劇映画『ワイルド・バンチ』が元になっているのだから、時代遅れになった中年強盗団の行末を描くという大枠を借りているのだろう。  

  今回の彼らは日本暗殺者協会の会員で、東京オリンピックの前年である一九六三年、協会の内部抗争に巻き込まれて殺されかける。その危機を何とか逃れ、別れた四十四年後、オリンピック誘致が叫ばれる二〇〇七年に因縁の場所への招待状が届く。一瞥以来の再会。しかしそれは、現在の若い協会実力者の彼らを殺そうとする陰謀であり、危機と脱出が繰り返される。

  このように物語を要約してみても、作品の魅力は伝わらないだろう。それはどこかで見たような活劇の断片で綴られているが、そこから何か新しいものが生まれているとは思えない。しかしこの台本は独自の物語や思想を提示しよう とするものではなく、一座の座員たちが舞台に存在するためのきっかけ、生きるための手がかりと考えればよいのではないだろうか。それならパターンであることは、かえって俳優と観客を結びつける役に立つ。

 たとえば彼らが登場する場面では、全員黒のスーツで舞台前面に居並ぶ。五人、悪漢、勢揃いとなれば、白浪五人男を思い出す。そして劇の最後で、お約束のように七五調の台詞で五人男が演じられる。しかしこの引用自体が面白いのではない。白浪物の雰囲気が彼らを包むと五人の立ち姿という絵面が輝くのだ。極端にいえば彼らが動く、語る、笑う、それだけで何やら心が浮き立つ。

 そうなるのも彼らの内に観客を惹きつけるものがあるからだ。彼らはそれぞれの役であると同時に彼ら自身でもある。観客は暗殺者のリーダーが同時に戌井市郎であることを忘れることはない。彼らはしじゅう台本からはみ出して自身を露出する。といっても素の、高齢の彼らではなく、年齢を持たない俳優としての彼らだ。その時彼らを支えるのは一種の芸であり、ほとんど演芸大会に近づく。さきほどこれは演劇だろうか、と書いたのはこういう理由であった。

 中高齢者演劇を、演劇経験のほとんどない中高齢者がプロによる訓練を受けて上演するものだとして、二〇〇七年はその注目度が一挙に高まった年だった。主な原動力はさいたまゴールド・シアターの第一回本公演『船上のピクニック』だが、彼らは前年の活動開始時点からすでに話題を集めており、先の定義から は外れるがパラダイス一座もこのブーム形成に与ったといえよう。同じく流山児による十年早いゴールド・シアターともいうべき楽塾も昨年本多劇場で十周年記念公演を行なっている。川村毅は中高齢のベテラン俳優ばかりを集めて 二〇〇六年に『黒いぬ』を作・演出した。ここに挙げていない他の中高齢者演劇も含めての推測だが、集まった人々と彼らを指導する演劇人の少なからぬ部分に次のような思いがあるのではないだろうか。彼らのほとんどは演劇の経験 も技術もない。しかし豊富な人生経験と処世術があり、演劇への並々ならぬ熱意がある。その蓄積された財産を情熱と訓練によって表現に転化すること。こうして固有の劇形態を発見し作り上げられたなら、それは技術に勝る若い俳優の及ばない独自の世界になるはずだ。

  ゴールド・シアターを指導する蜷川幸雄は「個人史と表現を結び付ける」と言う。「生活史を表現へ」と言い換えるなら、たとえば鈴木忠志を始めとするアングラ演劇の方法論になる。蜷川や流山児などアングラから出発した人々が、 いま中高齢者演劇に腰をすえて時間と手間を割くのは、初発の志を取り戻すためであるのかもしれない。

 ゴールド・シアターは新聞の社会面でも取り上げられた。老いはシアターが上演する演劇の問題にとどまらない。生活と演劇を往復する活動自体が高齢者をめぐる社会の問題でもあった。

  一方、パラダイス一座では違う。まず、舞台経験がなくても、演劇経験はありすぎるほどある。人生も人並み以上に波乱万丈かもしれない。しかしそれら全てを生活史の名の下にまとめてしまっては、わざわざこの人々の演じる意味が 薄れてしまう。かといって演劇生活史と限定しては表現の幅を狭めかねない。  

  そこにあったのは、少なくとも生活から直接汲み出したのではない作品だった。演出家が俳優になる時、演出の経験は蹟きのもとにもなりかねない。彼らの演技は多年の演出生活から得た精髄を提示するというより、過去を脱ぎ捨て た自由に満ちていた。すでに生活と表現を結ぶ回路を確定している場合いこの道から外れることが必要だったのではないか。結果としてこの軽さ、薄さは今日の若い演劇の一部に似ることになった。中高齢者演劇は、社会問題の文脈で語られるだけのものではない。ゴールド・シアターもパラダイス一座も演劇の現在を担っている。

 同時に、各地で展開しているであろう中高齢者の俳優訓練は、明治時代の自由劇場の「素人を俳優に」というスローガンを想起させる。その訓練は、若い俳優志願者向けのプログラムを体力や記憶力の衰えた人々向けに手直ししたものなどにとどまる必要はない。稽古場は二十一世紀の自由劇場でもある。新しい演技が目指されてよいのだ。

  ゴールド・シアターのメンバーにとって演劇は切実な課題であるようだ。俳優で生活できるかと言う心配がいらない分、不満の過去と不安の未来の精神生活をかけている人も少なくない。舞台は、彼らの全生活過程が表現に転化して 問われる場所だ。

  だが、彼らより一回り以上高齢のパラダイス一座では違う。たとえば九十代の戌井を見て、台詞を間違えずに語りしっかり動いている、矍鑠(かくしゃく)としているなどと思うのは演劇の問題を老人問題に矮小化することだ。

 この場合、演劇の方が大きい。そこで彼はまず俳優であり、次に高齢の人間だ。舞台活動を支えるはずの身体機能と表現能力の順序があたかも逆転している。ゴールド・シアターが単なる数字には還元できない固有の年齢を引っさげて舞台に立っているとすれば、一座は年齢も体験も置いて舞台に出ている。この、何かに根拠を置かない、人生を背負わない演劇。その魅力は無視できない。  

  プロという目的があるゴールド・シアターにとって、技術の上達は重要な課題だ。一座にとってもどうでもいいわけでなく、実際第一回から第二回ヘと確実に上手くなり慣れてきている。しかし個々に向上心はあるとしても、これから俳優になろうというのではあるまい。ゴールド・シアターが余技以上の本業を目指すなら、本業に限りなく近い余興といってもいいのではないか。ただし演劇の深い知識と経験から出発して、それらから離れた結果の余興だ。目標を持たず気楽な真剣さで取り組む遊びだ。この、発展のない、可能性のない演劇。そのたたずまいが人を誘惑する。

 老いの演劇とは何か。ゴールド・シアターを始め多くの中高齢者演劇は、身体の衰弱ではなく生活経験の多様性としての老いに根拠を置き、未知の表現を探求しょうとする。一座が独自なのは老いを否定も肯定もせず、意味付けを避け、もはや演劇ではなくなるような場所で老いという冠を脱ぎ、いわば演劇の裸体の魅力を発見したことにある。

 この俳優たちは老人ではない。だから彼らには未来がない。彼らの演劇にも未来がない。ところで絶望は未来に属する。だから彼らの演劇には絶望がない。それはつまらぬことだろうか。

 

『続・オールド・バンチ』                「太郎の部屋」2008年1月1日号 芝居の日  鈴木太郎

 佃典彦作、 流山児祥演出、妹尾河童美術。平均年齢が79歳の男たち劇団で三年間という期間限定の2年目の舞台。

旗上げの昨年のメンバーは戌井市朗、瓜生正美、岩淵達治、観世榮夫、中村哮夫、本多一夫、肝付兼太の7人だったが、今回は6人(観世榮夫が死去)。ベテランの演出家や俳 優たちがみせてくれるエネルギーの発露はとにかく刺激的で、なんといっても面白い。  

舞台は1963年の東京の下町。銭湯・亀の湯から始まる。銭湯の壁にはくっきりと富士山が描かれている。しかし、銭湯は廃業、福祉施設になっていた。そこに、殺し屋の4人が集結してくる。それぞれに思い出の曲を歌いながらの登場である。1時間35分の舞台には笑いと歌と熟年人生そのものの感慨がつまっていた。ラストには「白浪五人男」に即した名セリフが用意されていた。けいこが好きな演出家のもとで、よくぞやってくれたという感じであった。

プログラムもよく出来ている。作家と演出家による座談会も楽しい読み物であったし、台本も収録されている。2009年2月、本多劇場の3作目も楽しみだ。

 

『続・オールド・バンチ』               「悲劇喜劇」2008年3月号  岩波剛・藤井清美

高田 では、パラダイス一座の「続・オールド・パンチ〜復讐のヒットパレード〜」、佃典彦作、流山児祥演出、妹尾河童美術です。下北沢のザ・スズナリでやりました。去年が第一回で、たいへん好評でした。出演者は平均年齢七十九歳。
岩波 えー。七十九歳か。

高田 成井市郎さんが最年長であとはずっと若くなりますけど、瓜生正美、中村哮夫、本多一夫、肝付兼太ですか。ではこれを藤井さんのほうから。これはストーリーを簡単に言っていただかないと。
岩波 これは殺し屋なんだな、マフィアじゃないんだ。
高田 殺し屋です。
藤井 去年の第一回目がわたし観られなかったんですけど、第一回目のキャラクターを踏襲するかたちになっていたようですね。日本暗殺者協会≠アれは微妙に日本演出者協会≠ノ聞こえる
高田
 あれは酒落てますよね。
藤井 暗殺者協会の暗殺者たちのグループがいて、若いころの絶対絶命のピンチに陥ったシーンから始まるんですけど、ピンチを何とか切り抜けて生き残った人たちがこの何十年を経て、一人亡くなった人の葬式という名目で呼び出される。誰が呼び出したかも分からず、どういう事情で自分たちがそこに来ているのかは分からないんですけれども、その記憶をたどりながら、その中で年齢が上にあがってることを強調するために何ども同じ話を繰り返すとか、そういうことをやっていました。

 結果として、ある男が自分の父の敵であると信じて、その復讐のためにみんなを呼び出したんだということが判明し、その男自身が騙されていて、実は暗殺者協会の新勢力が黒幕で、邪魔になった旧勢力の人たちが陥れられたということが分かってきます。
 その中で昔のピンチの時の自分たちと対面する場面があって、その場面がわたしは面白かったなと思ったんですけど。

高田 岩波さんもご覧になってるんですね
岩波 
駆けつけて観たけれども、出てるのは演出者協会、演出の人たちですよね。岩淵達治さんも映像で出演してる。
 老人福祉施設を会場にするという、そういう現代性を持たせてちょっとハードボイルドと思わせて、老人だからできないこともあるけど、老人でなきゃできない役ではある。、一種のヴォードヴィルって感じ、オペレッタの変形で、浅草軽演劇系列のものだと言える。
 演出家のインテリだから、奇妙なサスペンスの中にちゃんといいたいことを挿入している。「アメリカはサダム・フセイン一人倒すのに、民間人を何人犠牲にした。ビン・ラディン一人殺すために何万人を殺したと思う?」 「おれなら一発で仕留めるぜ」と、こういうかたちで現代の問題を折り込んでますね。
 そして、誰が招待状を出したか。アガサ・クリスティーを思うわけだけれども、「そして誰もいなくなった」じゃなくて、逆に全員が最後に、「白浪五人男」 の勢ぞろいじゃないけど悪人の名乗りを上げて幕を切る。楽しい芝居でした。


藤井
 それぞれの出演者のキャラクターを佃さんがうまく生かしておられたと思います。
 何人か若い出演者というか、若い日の姿を演じる人たちがいるんですけれども、その方たちがもう一役、老人福祉施設では老人を演じていて、それも典型的な老人、腰が曲がっていてヨボヨボしている老人を演じていて、彼らに対して 「本当の老人はこんなんじゃない」というようなことを言わせたりして、「もうまさにおっしゃるとおりでございます」
という感じがする。
 そしてみんな歌って、踊って……という程ではなかったですけれども、でも少し踊って楽しかったです。でも来年が一応最終公演っていうことみたいで
岩波 本多一夫にはどこか遊び人の残り香がある。瓜生正美はあて書きなのかキマジメで、中村哮夫は女性から性転換した男のやわらかさとすごみを出していた。肝付兼太は動きの軽さ、成井市郎は台詞、とくに歌で思いがけない一面を見せた。なにより貫禄がある。
藤井 (笑)客席も興味深かったです。

 

『続・オールド・バンチ』        「長老演劇人舞台で気を吐く 」   日本経済新聞2007年12月15日  文化欄「アート探求」 河野孝

 「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは不詳…殺しはすれど非道はせず……地獄の『えんま』っ!」
 「さてその次に控えしは、普段着馴れし振り袖から…泣く子も黙る毒矢の『ろーず』っ!」……

 大団円で、歌舞伎の「白浪五人男」に負けじと名乗りを上げる伝説の殺し屋たち。東京オリンピックの準備に沸き立つ一九六三年、抹殺されかかった殺し屋たちが、四十四年後の今年、銭湯を改造した老人福祉施設によみがえった。 とはいえ、施設の職員から「老いてはケアマネに従え」という諺を知っているかなどと要介護老人扱い。 「始まるよったら始まるよぉ イチとイチで鬼さんだぁ ガオォ……」などとお遊戯をやらされて、苦み走った殺し屋も形無しだ。
 しかし、彼らが集まったのは招待状を受けたから。招待主は慰問サービスの職員に化けた男と判明、同じ殺し屋だった祖父「こぶら」が仲間だった彼らに殺されたと思い込んで、復讐をたくらんだのだった。

殺し屋の経歴を紹介しよう。
 えんま(日本暗殺者協会名誉会長)=現役最高齢の演出家、一九三七年、文学座創立に参加し、現在、文学座代表、劇団協議会会長を務める戌井市郎(91) うるふ(一匹狼のヒットマン)=演出家・劇作家、火野葦平らと「かもめ座」創立、その後、青年劇場の代表も務めた瓜生正美(83) ろーず(日本暗殺者協会元国際交流担当)=折口信夫の最後の生徒、演出家として息長く活動。弓道を習い、黒澤映画「蜘蛛巣城」の助監督で三船敏郎に向け失を射った中村哮夫(76) はりー(日本暗殺者協会)本多一夫(73) =新東宝ニューフェイス第四期生で俳優志望後、 本多劇場など多数の劇場を経営する本多一夫(73) もぐら(始末屋)=劇団主宰、声優・俳優・演出家で、アニメ「ドラえもん」のスネ夫の声といえば分かりの早い肝付兼太(72) ほかにビデオ出演するドイツ文学書の岩淵達治(80)、舞台美術家の妹尾河童(77)らが加わったのが高齢者劇団「パラダイス一座」だ。昨年の第一弾では能楽師の観世榮夫も参加したが、今年亡くなり、「こぶら」役に弔意をこめる。


 仕掛け人は、アングラ演劇の精神を受け継ぐ演出家の流山児祥。「老いざまを見せるのも芝居者の仕事。商業化が進む演劇界で、プロ俳優やアマチュアとも違う演劇好きの重鎮が集まり、演劇本来の無償性を取り戻す試みだ」と説明する。
 前回は銀行強盗、今回は殺し屋、とピカレスク(悪漢)ものが続く。脚本は名古屋で活躍する佃典彦が書いた。「今の世の中、毒になる芝居をやっていかないと変わらない」と流山児。

 約二ヵ月の稽古で本番を迎えた出演者の声は……。
 「客に受けようとするなと俳優にはよくダメだしするけれど、逆の立場になると、受けようとしてしまう」と肝付は苦笑する。 「自分の役の視点から見る風景が違う。弓を使う役を劇作家が書いてくれたのがうれしい」と中村。 熱演の瓜生が「役者の方が楽しい。芝居はやはり役者のものだ」と言えば、本多も「五十年ぶりに役者をやった。劇場主よりも役者が一番面白いことが改めてわかった」と楽しむ。 最年長の 戌井は「この舞台と並行して、文学座などで演出もしていた。自分も俳優として立っていると、無理なことは要求できなかった。高齢者の人たちに、我々も元気にやっているので、元気を出してくださいと言いたい」と語る。

  彩の国さいたま芸術劇場では、演出家の蜷川幸雄の下で五十五歳以上の男女を対象にプロ俳優の養成を目指す「ゴールド・シアター」が発足したが、「パラダイス一座」は経験豊かな演劇人が演じるだけに、意外な面白さが発見できる。
「九十一歳の戌井さんが頑張っているから疲れたなんて言えない」 (中村)と体力勝負だ。再来年二月にも第三弾が企画され、「節制してそれまでは生きなければね…」(瓜生)と次の目標も定まった。

 

『続・オールド・バンチ』                「週末観シュラン」     産経新聞文化欄 2007年12月14日 昇

3年間の期間限定で昨年、結成された演劇界の重鎮たちによる高齢者劇団「パラダイス一座」の第2回公演。前回は気骨あるオールドボーイたちの銀行強盗ドラマで沸かせ、今回は老い≠フありようを描くことに定評のある佃典彦の新作で熱い芝居を見せている。
演出は流山児祥、美術は妹尾河童。

 昭和38年暮れ。腕利きの殺し屋たちが組織に抹殺されようとしていた。それから44年後。生き延びた面々(戌井市郎、瓜生正美、中村哮夫、本多一夫、肝付兼太)が再び招集されるのだが…。若き日と老いた現在を交錯させた荒唐無稽な物語が痛快に展開する。平均年齢79歳。中でも91歳という最高齢メンバー、戌井の存在感とおちゃめぶりが最高!

 

『続・オールド・バンチ』         「河村常雄の劇場見聞録」 読売新聞 YOMIURI ONLINEエンタメ 2007年12月31日  河村常雄

流山児祥が3年の期間限定で立ち上げた高齢者劇団パラダイス一座の第2弾、「続オールド・バンチー復讐のヒット・パレード!」が、12月12日から21日まで東京のザ・スズナリで上演された。


 佃典彦作、流山児演出。東京五輪の前年に内部抗争で死んだ仲間の葬儀に集まった5人の暗殺者の物語だ。 5人は老人になり、現代とのギャップに悩みつつも意気盛ん。時に歌い、時に歌舞伎調のせりふを語り、笑いの連続。


 最も感心したのは暗殺者を演じた5人の「高齢」役者の味わい深さだ。文学座の演出家、戌井市郎、91歳。 青年劇場の創立者、瓜生正美、83歳。 守備範囲の広い演出家、中村哮夫、76 歳。 本多劇場経営者で近年、俳優活動の目立つ本多一夫、73歳。 「ドラえもん」の初代スネ夫の声優で、俳優、演出家の肝付兼太、72歳。 全員70歳超で、肝付以外は、演劇界の大物ながら、役者としては素人に近い。 しかし、人生の年輪が曰く言い難い味を滲ませる。名優の名演にはない味だ。


 ほどなく彼らに追いつく団塊の世代に、大きな勇気を与えた一作。 40年もの長きにわたりアングラ、小劇場で暴れてきた流山児は、「演劇界の楽道を見つけた」とうそぶく。 自慢していい。快挙だ。拍手を贈る。

 


雑誌「join」 私が選ぶベストワン2007選出 「団体:流山児★事務所」:柳原昇子氏、河村常雄氏選出 

                            「作品」:佐藤康平氏選出 「演出:流山児祥」:浦崎浩實氏、佐藤康平氏選出

●演劇雑誌「悲劇喜劇」2007年の収穫に選出。 貝山武久氏

●雑誌「シアターガイド」あなたが選ぶ2007ベスト・ステージに選出される。


『オッペケペ』                   雑誌「文藝軌道」2008年4月号  2007年の秋の舞台  野平昭和

 一九六三年に福田善之が劇団新人会のために書き下ろした「オッペケペ」を、作者自身の手で今回改訂して上演されたものである。当時演出を担当した観世榮夫が、台本、演出と作者、演出と共同作業にあたることになっていたが、二〇〇七年六月に亡くなったため、追悼の意味を籠めて、観世条夫「新劇」セレクションとして上演された。


 二幕ものではあるが、二時間半休憩なしの舞台から放出される迫力に、終演後、その熱気に興奮し久し振りの観劇後疲労さえ覚えた
ほどである。 明治初期に板垣退助等による自由民権運動が盛んになり、度重なる弾圧の中で衰退して行く。その中で壮士芝H盾が生れ、それに刺激されて、川上音二郎は書生芝居の一座を旗揚げするが、渡仏帰国後、日清戦争を題材に戦争劇で成功をおさめ、妻の貞奴と共に川上座を結成して欧米巡業の旅に出る、その頃の時代背景の上に、虚構として組み上げた劇である。


 明治二十四年、大阪卯の花座の城山剣龍(河原崎囲太郎)一座(壮士劇上演中)に、愛甲辰也 (里見和彦) が入門したいと訪ねてくる。城山はオッペケペ節を作って自由民権思想普及を目指し、拍手喝采を浴びて小田原へ行く〔上演妨害をする吏党派壮士と乱闘が始まり、愛甲は人を斬る。責任者として城山は逮捕される。民党対吏党の対立の中で、奥中欣治(塩野谷正幸) は検事宅に放火を迫るが、城山の妻お芳(町田マリー) が止め、土田富吉 (冨沢力)が放火して一座に逃げ込んでくる。城山は釈放され、一座は上京する。内務卿・鎌
田剛道(加地竜也) は「オッペケペ」上演をめるように申し出る。城山は申し入れを受け入れる。その席で出会った芸伎・奴(伊藤弘子)と、愛甲はお芳と結ばれる。明治二十七年、日清戦争が始まり、城山は「戦争劇」で大当りする。愛甲は戦争反対を唱え、城山を舞台で刺そうとする。だが未遂に終り、城山は愛甲を許すが、愛甲は旅順陥落の報に熱狂する客の中に、黒木綿の筒袖に小倉袴、陣羽織姿というかっての壮士芝居の姿で、オッペケペを大声で歌い踊りながら現われ、観客の恩声、怒号の中で閉幕となる。


 否応なしに客は今の日本の姿を重ねて見ない訳には行かない熱波が舞台から伝わってくる。当然、演出、演技は、そのことを意図し
ていて、日本の、世界の、人間の歴史は百年を越えても、変りばえしないもので、あらためて「歴史は繰り返す」という古い言葉を噛
みしめながら、夜の街へ出た。
 

 

『オッペケペ』           「太郎の部屋」 2007年10月1日号 芝居の日   鈴木太郎

流山児★事務所「オツペケペ――― 心に自由の種をまけ!」 (森下・ペニサ ン・ピット)。観世榮夫「新劇」セレクションの第1弾。福田善之作、流山児祥演出。1963年の初演で、演出したのが観世榮夫だったという。
「オッペケペ節」といえば、川上音二郎がうたった歌で、明治時代の自由民権の代名詞的な存在である。ドラマはその川上音二郎や貞奴、伊藤博文、幸徳秋水などの人物を想起させるが実禄ものでなく、作者のオリジナルである。


今回の舞台は、作者自身による改作で2時間25分、休憩なしで突っ走るエネルギツシュなもので、重厚な仕上がりで芝居の面白さが堪能できた。
舞台いっぱいに展開された活気に満ちた芝居の世界は、まさに極旨。観世さんの出演が叶わなかったのが残念だった。


が、その意思を継いでつくりあげた舞台は感動的であつた。前進座の立女形として活躍する河原崎囲太郎が客演、なんと壮士演劇座長・城山剣龍役で、凄みのある男を演じきっていた。塩野谷正幸の重厚さ、客演の加地竜也の凄み、さとうこうじの巧緻さなどもあって、舞台にひきつけられた。久々に舞台の醍醐味を味わうことだできた。

 

『オッペケペ』        「WONDER LAND」 2007年ベスト・ワン 「年末回顧 振り返る私の2007」  野原岳人

小説よりも奇なる事件が続いた今年、劇場空間でみるドラマに求める刺激の水準が高くなったのか、インパクトのある作品に出会う機会が少なかった。   『『オッペケペ』は、故観世榮夫氏の企画を流山児祥氏が引き継いだ福田善之氏の戯曲。ベニサンピットの演劇臭と、自由民権運動の時代感が見事にマッチ。演出・美術・役者の素晴らしさも含めて申し分のない傑作。

 

『オッペケペ』       「シアター・ガイド」 2007年12月号 STAGE GALLERY    映

ペニサン・ピットの小さなスペースを、天井いっぱいまでの装置と歌も交えた大群衆シーンで、ダイナミックに衣替え。
川上音二郎(劇中では城山剣龍)をモデルに、自由民権を訴える壮士劇が国威高揚劇に変わっていくさま、理想を追い求める弟子との愛憎を描く。

理想とは何か、なんのために表現するのか、行動すべき時とはいつか!

そこにあるのは40年以上前の”新劇’’のテーマであると同時こ、今日、私たちが向き合うべき課題でもある。
 

『オッペケペ』      「悲劇喜劇」200712月号 演劇時評      藤井清美×岩波剛

高田 では流山児★事務所でやりました福田善之作「オッペケペ」作者自身による二〇〇七年改訂版とあります。初演は六三年、新人会、 演出でした観世榮夫。今回はベニサン・ピットでやりました。 観世榮夫「新劇」セレクション 「オツペケペ」と表題が付けられてます。演出は流山児祥です。

岩波 一種の時代劇で、舞台は明治二十年代。この城山剣龍(河原崎國太郎) という一座の座長のモデルは川上音二郎。これは歴史的に有名な話で、彼がやった壮士芝居というのは歴史に残ってる。政府を批判する彼らの痛烈な皮肉を込めたオッペケペ≠ニいう歌が歌われたというのも歴史的な事実です。川上音二郎というのは自由民権運動の片棒を担いだ男ですよね。

ある日そこへ愛甲辰也(里美和彦)という若者が入門したいと言って来るところから始まります。自由民権の思想を歌と踊りに託した一座は、人々の喝采をあびて世評は高いけれど、もちろん反対派がいます。舞台で乱闘が起こり、あやまって愛甲は人を斬ってしまうけれど、逮捕されたのは城山座長でした。この傷害事件は政治問題に広がりますが、「検事の家に放火して事件を大きくしろ、それが民権連動のためるとになる」とたきつける奥中欽冶(塩野谷正幸)がいて愛甲は実行しようとしますが、それを押しとどめたのは城山の妻お芳(町田マリー) でした。でも結局、放火は別の男 ・車夫土田寅吉(冨澤力)が実行して火事になるし、なぜか城山は釈放されます。政界の裏側の駆け引き、謀略に愛甲は気づかない。さらに、政府攻撃のオッペケペをやめるように、という政府高官の申し入れを城山は受け入れてしまう。その変節を信じられない愛甲とお芳は結ばれる……というふうに展開します。

 今度の公演では、愛甲とお芳の交わりを相当濃厚に官能的に見せますが、初演のときの記憶にはそれがないんです。男女の愛というよりも、時代が変わり利害関係が変化しても愛甲は「どこか間違ってる」という思想の純粋さみたいなものを持っていて、そこにお芳は若き日の城山の姿を見た、だから結ばれるんだというふうに、若い日のぼくは感じ取っていた記憶があります。一九六三年、安保反対闘争の三年後という状況だったからでしょう。戯曲の意図はもっと広いかもしれませんね。

 川上音二郎というか座長は日清戦争の戦意高揚劇をやるようにまでなってしまうわけです。城山座長にはそれなりの現実的思案、哲学があるのだけれども、愛甲辰也にとってはどうしたって受け入れられないわけです。戦争で人を殺していいはずがない。だけど民衆は戦争に向かつてるわけです。日本は勝てる、バンザーイ! という中で愛甲だけはそういうものに対して同意できない。最後、愛甲は抜身を持って、その戦争劇の花道に躍り上がって、ただ一人オッペケペを踊って歌い続ける。そして周りの連中に「バカ! 止めろ!」と言われたって続ける

藤井 この時代背景自体はもちろん他の芝居でも描かれていますし、いろいろ演劇を知ってる人間には比較的馴染みやすいところでもあります。逆に言うと、それ以外の人には非常に知識の差があるところかなと思ったんですね。

高田 ああ、そうですね。

藤井 それを今回映像を使って、観客がついて来られるようにしていましたね。しかもその映像が、説明くさくなくて楽しく観られる。踊ったり、歌ったりも含めて、そういうエンターテインメントにするための工夫があって、それが成功していた部分はたくさんあったと思います。はじめに二時間二十五分、休憩なしと聞いた時には、長いなと思って少し怯えたんですけれども(笑)。

 そういう部分とは別に芝居の流れとして楽しく観られた部分は、大きく言えば挫折≠ゥもしれない愛甲の人生みたいなもの。そして最後、太鼓を叩いて、ずっと自分に振り向いてはくれなかった男を応援するという娘おみつ (坂井香奈美) のささやかな恋心だったりとか(笑)……そういうことがうまく出演者の雰囲気と合っていたのではないかなという感じはしました。 あと、今回に向けて台本を書き直しておられるんですよね。私はどのぐらい書き直さたかというのはちょっと分からなかったんですけども「初演の時にこのシーンは批判を受けました」ということをおっしゃっているところがあって、作者″という役に台詞で言わせてるんです。初演の時にこの場面は批判を受けたと、そのことをこういうかたちで新たに組み込んで、何十年か経ってまた同じ作家が書き直して上演したということがこの企画自体の面白さだと私は思いました。

岩波 夫の城山が政府と取引し、節を曲げたと知った時、「なんか、みんな…ぜんぶ……すごく、違っちゃつた……違ってきちゃってるじゃない、おかしいじゃない」 って、投げ銭を拾いながらお芳が呟く。これがこの戯曲の中では非常に有名なんです。藤井さんはこの中の愛甲辰也の心情、行動をどんなふうに受け取られますか?

藤井 そうですね、愛甲と城山の対立というのは、私も含めて、私の身の回りで常々行われていることだと思うんですね。そんなに今は演劇が政治的なことを負わされることによっては成功に直結はしないんです。いわゆる商業的成功と自分自身の「なんで芝居を始めたんだろう」という在り方ということでいうと、日々凄く際どいところをどの人も歩んでいるんですね。だからそのことと重ね合わせてみた時の、ある”いたたまれさな=Aどちらとも言えないんですけども。「違ってきちゃってるじゃない」というあの台詞は私も拾いました。また、あそこで踊って見せてしまいお金を貰うっていう、あれが「踊ってしまう悲しさ」というと変ですけど‥‥

岩波 藤井さんはやはり、流山児★事務所がこれをやった意味はあるんだと。愚かで滑稽だよね、こんなことしてしまって無駄だよね、でも愛甲はやってしまうのね。座長の言うとおりについていけば、歌舞伎座でちゃんといい役がついて、幸せになるだろう。でもそうしない、たった一人でもという純粋さ。一つ加えると、六三年に新人会が初演 すぐ翌年に再演されたわけですけ初日前から切符は売り切れだった

高田 ほう。
岩波 もの凄い。ただ俳優座劇場とか朝日ホールですから狭いんですけど。売り切れなんかほとんどない時に、つまり一九六〇年、安保反対闘争が挫折して、六三年というのは熱気が冷めていって、大衆行動をしたような人がもう忘れたようになってる時期に福田善之は書いたわけです。「違ってきてるじゃない」、そういうものに共感する人たちがいたわけです。だからあなたが言う意味では、政治的な一種のメッセージでもあるけど、同時に観客と舞台が共感し合うものを持っている時代であったと。
 

 

『オッペケペ』               「心に突き刺さる言葉」 映画芸術 421号 伊藤裕作

生身の人間が演じているからだろう。芝居の科白が、グサリと観客であるわたしの心に突き刺さってくることがある。
そんな科白に出くわすと、その芝居の台本が読みたくなり、手に入れて読み、その言葉を何度も何度も咀嚼して、なんとか自分の言葉にしようとしているわたしがいる。

九月七日、ベニサン・ピットで観たのが流山児★事務所公演「オッペケペ」 (作=福田善之 演出=流山児祥)  六〇年安保の余韻がさめやらぬ六三年に書かれた川上音二郎をモデルにしたこ の芝居、民衆と国体の問題を提起してい てとても熱い。そんなこともわからず政治家になっている多くの平成の政治家た ちに、ぜひとも見せたい芝居だと思った。  ラストに明治の物語の中に現行の日本国憲法、前文を力づくで挿入してくるところに演出家流山児祥の志の高さを見て拍手喝釆。  

芝居のメインコピーにもなっている、「心に自由の種をまけ」  オッペケペ節のこの一節。しかと受け止めたい言葉である。

 

『オッペケペ』            「趣向と技巧と思想」 演劇雑誌テアトロ 2007年11月号劇評  水落潔

流山児★事務所が福田善之作、流山児祥演出『オッペケペ』をベニサン・ピットで上演した。1963年の初演を演出した観世榮夫との共同演出の筈だったが、観世が急逝したため、その演出意図を踏まえて単独演出となったそうだ。初演版に作者が手を加えた台本である。

舞台装置(水谷雄司)は客席が平土間の田舎の芝居小屋で、それを使い回して物語が展開する。このアイデアは上手い。題名から分かるとおり川上音二郎をモデルにした壮士演劇座長(河原崎國太郎)と彼を慕って一座に入った愛甲(里美和彦)を軸に、時代とともに変質していく一座の姿をフィクションを交えて綴っていく。63年といえば安保騒動が終わり、日本が政治の時代から経済の時代に大きく変化した時である。作者はそんな時代と音二郎の時代を重ね合わせて、人間の生き方を批評している。この作品も演劇の世界を素材にしていて、作品全体が演劇論、俳優論の側面を持っている。

構成の面白さといい批評性といい、作者の才能が分かる作品で、今もって生命力に溢れた戯曲である。演出は若者の群像劇として捉え、時の流れの中で苦悩しながら生きる若者の姿を多面的な視点で描き出す。そこが優れていた。

座長の妻に町田マリー、貞奴をモデルにした芸者に伊藤弘子、塩野谷正幸、さとうこうじら多彩な役者が出ている。私はプレビューを見たので個々の演技評は差し控えるが、若手の活躍する舞台なので演技力には差が出た。

 

『オッペケペ』             「多義的要素を再認識」 朝日新聞・演劇評  2007年9月7日  大笹吉雄


流山児★事務所が故・観世榮夫企画により、福田善之の「オッペケペ」(流山児祥演出)を再演している。ただし、63年の他の劇団による初演時は3幕15場で上演時間が4時間ほどだったのに対し、作者が改訂した今回は台本では2幕10場、実際は約2時間半の1幕に大幅にカットされている。いわば新装版である。

初演は安保闘争の余熱が残る「政治の季節」のただ中だった。だから、明治期に自由民権運動を経て演劇に 活路を見いだす川上音二郎をモデルにした城山剣龍と、城山に憧れて弟子になる壮士・愛甲辰也の造形を通して、政治と演劇の関係がクローズアップされたように覚えている。
 しかし戯曲はこの問題のみを描いたのではなく、演劇論や俳優論を含む芸術論でもあり、日本の近代論でもあり、ある意味での人生論でもあるという多義的な要素をもっているのを、今回改めて再認識した。一言で言うと、とてもおもしろい。


大詰めで、旅順陥落のニュースが届き、日清戦争劇を上演し大当たりをとっている城山一座は沸き立つ。
その時、自由民権思想の根っこを忘れ、俳優業に専一している城山に、小倉袴に緋の陣羽織というかつての城山そっくりの姿で、愛甲が刀を抜いて「自由すてるも国のため……」 とオッペケペ節を歌い、舞いながら詰め寄る。21世紀の今日、歴史の回転扉はこの場面に新たなアクチュアリティーをもたらす。世界中で戦争が絶えず、そのために「理想」の火が消えかかったり、そのもの自体が顧みられなくなろうとしているからにほかならない。

 が、舞台はこの戯曲のおもしろさを十分に生かし切れていない。原因は俳優の力不足と配役の問題だ。城山を演じる河原崎国太郎は元来が歌舞伎の女形で、清濁あわせ呑むがごとき男くさい城山のキャラクターとは落差が大きい。群集場面は演出の腕で見せるものの、落魄の中年壮士を演じる塩野谷正幸を除けば、それぞれの俳優に魅力は感じられない。

 

『オッペケペ』           産経新聞 2007年9月7日 文化欄「週末魅シュラン」 柳

「観世榮夫『新劇』セレクション」と銘打ち、演出家の流山児祥が44年ぶりに復活させた作品。脚本は福田善之。観世榮夫の演出作を流山児との共同演出、また榮夫の出演などといった形で復活させる計画だったが、榮夫が6月に亡くなったため追悼企画になった。


 明治時代、近代演劇に挑んだ川上音二郎をモデルに展開する群像劇。自由民権を芝居で訴えようとする主人公に劇団前進座の女形、河原崎国太郎が挑み、その妻役を劇団「毛皮族」の町田マリーが好演。初演時は4時間だった大作を2007年版として2時間半に再構成。映像演出や歌が加わり、終始パワーに圧倒された。約120席に設定した空間ではもったいないと思ったが、流山児いわく「だからこそいい」。☆充実度99%☆
   

『オッペケペ』          藤田一樹の観劇レポート    2007/9/9  藤田一樹

 1963年に福田善之さんが書き下ろされた戯曲「オッペケペ」を、福田さん自らが今年改訂されたものを携え、流山児祥さんが演出を手がけるプロダクションです。今回は観世榮夫「新劇」セレクションという名の通り、今年お亡くなりになった観世榮夫さんが企画された公演でもありました。
 ベニサン・ピットという小空間での豪華キャストも魅力的。


約2時間30分をノンストップで駆け抜けながら、まるで大河ドラマのように長い年月を追っていきます。激動の時代背景に翻弄されていく登場人物たち、大きな壁にぶち当たり挫折を経験し、開幕と閉幕では人物像が大きく変化しているのが本当に面白かったです。演劇と政治の関りについての描写、また、登場人物が演劇という表現を模索していく過程も魅力的。そこに男女の愛憎劇も絡んでいきますし、劇中劇などの多重構造を設えた構成も巧妙で、非常に濃厚な作品に仕上がっていました。

 劇場に入場する瞬間から仕掛けがあり、「オッペケペ」の世界に一歩近づいた気がしました。ベニサン・ピットの高い天井をしっかり埋めている舞台美術は、花道も設えてあるため舞台と客席の距離がとても近かったのが印象的。非常に贅沢な空間だと思います。軽快なテンポを刻む場面転換は効果的で、舞台に映像が重なる乱闘場面では鳥肌が立ちました。また、キャスト全員で「オッペケ節」を歌い踊り飛ばしてしまうのが痛快極まりなくて、燃え滾る情熱的な眼差しと冷やかに物事を見つめる冷静な眼差しが混在していて、この作品をより深いものに仕上げていると思いました。

 一座の演目が「壮士劇」から「戦争高揚劇」に相違していくプロセスは、非常に胸に迫ってくるものがあるというか、この作品の真髄のような気がしました。作品全体としてはエンターテイメント趣向でありながらも、今この作品を上演する強い主張を感じ、終演後には強い感動を覚えました。
 確かに2時間30分という長丁場は辛かったのですが、猥雑でエネルギッシュなエネルギーに満ちた世界が作品の面白さに直結していて、最後まで興味深く拝見できました。ですが、もっと上を目指せるんじゃないか、とも思いました。役者さんの演技に若干バラつきを感じたというか、特に若い役者さんとベテランとの差のようなものを感じました。でも、グルーブ感は素晴らしかったです。

 

雑誌「join」「私の選ぶベストワン2007」「演出:流山児祥」:浦崎浩實氏

演劇雑誌「悲劇喜劇」2007年の収穫に選出。 岩佐荘四郎氏・鈴木達男氏・鶴田旭氏

●「シアター・ガイド」あなたが選ぶ2007ベスト・ステージに選出。

●「週刊マガジン:WONDERLAND」 2007ベスト・ワン「振り返る私の2007」に選出。 野原岳人氏・詩森ろば氏


ヘレンの首飾り』   「悲劇喜劇」2007年10月号 「演劇時評」小野正和 酒井洋子

 高田 その次にやりましたのが「ヘレンの首飾り」キャロル・フレシェット作、ジョン・マレル英訳ですね。これはフランス語で書かれてますね。吉原豊司訳、小林七緒演出、シアタ  ー]でやりました。小林七緒は流山児★事務所の女優ですね。
酒井 この方は若手演出家コンクールで優勝した方じゃないかな。気鋭の演出家のようですが。
小野 同じカナダの演劇でも作者の立っている位相が違うと、その世界や表現の仕方が、当然ですが、すっかり変わるなあと。
高田 (笑)そうですね。
小野 どっちがリファインされてるのか一概には言えないですけども、現代との接点という点では「ヘレンの首飾り」のほうが大きいかなと思いました。この芝居を観ながら二つのことを考えていたんですが、一つは作者の世界の見方。今はパレスチナの内部抗争などに反映されてるんでしょうけど……前に「ビアドルローサ」というイギリスの芝居を観たことがありましたけど、それにも共通するところがあるんです。要するに現代社会を苦難の道としてとらえていること。もう一つは演劇的表現、身体的な言語を使って表現するあたりでした。 話は、旅の途中でなくした「空気より軽いプラスチック」の首飾りをなんとしても見つけたいヘレンの思いが全てです。
高田 そうですね。
小野 その探しものの旅の途中、「あんたはここに泣きに来たんだよ」と言う建築現場の男と出会ったり、息子に死なれた母親と出会って「無くしたものは二度と戻って来ないよ」と告げられる。そういう言葉にテーマが現れている芝居でした。
 段差をつけた舞台装置、そこでの群像の動きが特徴的で。言葉だけだとやっぱり単調なんだと思いますが、そこにリズムを与えていたところが良かったと思います。「このままじゃいけない、こんなふうにはもはや暮らせない」というのがキーワードになってましたが。伊藤弘子というヘレン役の役者さんがとても良かつたのではないかと思いました。
高田 舞台はパレスチナが想定されてますね。
小野 あ、そうですね。
高田 ちょっと寓話的な感じがしましたけどね。
小野 そう……。
酒井 おっしゃったように、目も手も足もある幸せをいかしなさい、戦争で失ってしまうから。真珠の首飾りなんかなくしても、自分の体、生きてる命をいかしなさいと、それがモラルですよね。ヘレンは最終的にはいましばし自分の人生の無駄をそぎ落とそうといって中東に留まるという。仲間はみんな帰国してしまうんだけどね。 七緒さんって方は若い演出家らしく発想が自由で、頭から中近東の市場の雑踏を十何人くらいのコロスでワーっと動いて、要するに右に行ったり左へ行ってるあいだに首飾りをなくすんだと。私はしっかり見てたんで、首飾りをどこでとったか分かってたんです。私は女の客だから思うんだけど、冒頭にフワァーと暗いところで雑踏の音がして、彼女だけ真ん中でピンスポットで、首飾りをつけて嬉しそうに街を眺めてる姿を見せといて、それから雑踏に入っていって欲しかったなあ。じゃないと、雑踏の中にヘレンがいるってことが分からなかった。
高田 そうですね。
酒井 最初にあれやって下さると、もっと楽しかったと思うの。パーっと顔だけでいいから浮かんでて、やおら右に左に上手に下手にワーっとあっち行ったりこっち行ったり、それで首飾りがなくなったってやってくれたら、もう一つ楽しかったかななんて思いました。でも、とても自由な発想の演出でね、若い人は違うなあと思って見てました。  

『ヘレンの首飾り』    「テアトロ」2007年9月号 中本信幸

カナダ現代演劇祭の一環として上演された流山児★事務所『ヘレンの首飾り』(作=キャロル・フレシェット、英語版=ジョン・マレル、訳=吉原豊司、演出=小林七緒)は、自分探しの旅に誘う芝居である。女主人公ヘレン(伊藤弘子)が、落とした「空気よりも軽いプラスチック真珠の首飾り」を探して、人種のるつぼと化し、炎夏と混沌で沸き返る異国の都市の雑踏をさまよう。タクシー運転手(里美和彦)、現場監督(水谷ノブ)、浮浪者(甲津拓平)ら異文化の人びとに出会ううちに、なぜここにやってきたのか、まったく価値のない人造真珠の首飾りにこだわるのかが、わからなくなる。繰り返されるヘレンの「このままじゃいけない。こんなふうではいけない」が、痛切味をおび、猥雑な中近東の情景が日本の近未来に思えてくる。群衆の生態を描く身体表現(振付‥北村真実)が効果的だ。シアター]の舞台機構を十分に生かした美術(小林岳郎)をほめたい。貧困、宗教的軋轢などを映し出せば、舞台はもっとふくらむ
 


 

 『THE RETURN』   文藝軌道」2007年10月号  劇評 2007春から夏にかけての舞台  野平昭和

オーストラリア演劇の日本上演は珍しいが、「SpaCe早稲田」 の空間で初めてお目にかかれたのも縁で、何もかもぴつたりという感じを受けた。狭く天井の低いスペースだが、真ん中に電車の車内を設け、対面的に、車輌の両側から、舞台を見ることになり、実際、オーストラリア西部のミッドランドからパースを経由してフリーマントルに至る実在の鉄道車輌に登場人物たちと乗り込んだ客の一人のような気分になつて、劇に巻き込まれることになり、臨場感溢れる舞台だった。

演出家流山児祥の言葉にもある通り、「深夜の最終電車の中で進行するサスペンス・ドラマ=人間ドラマ。基底にべケットの 『ゴドーを待ちながら』 や様々な演劇的知を想像させる若い劇作家ならではの不条理劇風テキスト」 であるが、筆者は同時に、現代オーストラリアの風土のようなものも感じ取って観ていた。オーガトラリアのミステリー作家ケンドールの短編を幾つか訳した時にも感じたことだが、場の設定が、登場人物はこの劇でもニューヨーク下町風のならず者であったり、おせっかいな中年の主婦であったりするのだが、幕切れの場面に見られるような、どこか熱い人間の血が流れているように見える処理が施されているのを見逃せないのだ。ミステリー小説の場合も、上田秋成風だったり、ゴシックロマン風でもあったけれど、生ま身の熱い人間の血のにおいが渉み出ていたことを思い出した。

前科者のもう若くないステイーヴ (千葉哲也) チンピラ風の若い前科者トレヴ (阿川竜一) ある意味で謎の女子学生リサ (大路恵美) 過去ある気のいい中年の主婦モーリーン(北村魚)そして最後まで正体のわからない中年の作家(塩野谷正幸) 五人の織りなす、息も継がせぬ九十分の舞台だった。よくあるカラミの手口でリサに迫るナラズ者二人に、見るに見兼ねて、余計なおせっかいをするモーリーン、危機迫る車内の風景もどこ吹く風とひとり手帖にメモをとり続ける中年男サイモンが、突然、豹変してピストルを突きつけステイーヴに迫り、弟のドミ:クを死に追いやった真相を吐けと迫る運びは、よくあるサスペンスドラマの手法とは言え、役者群の熱演と寸秒も忽せにしない演出の力で、対面舞台の客は、完全に車内の客の一人として劇に参加できた。

美術の塩野谷正幸、照明ROMI、音楽ヤヌー・アリエンドラを評価したい。この劇団の多面的活動は有名だが、「ハイライフ」に続く、この路線の今後に期待したい。

 

 『THE RETURN』  迫力のある演技  「走る列車の中の人間関係」      詩誌「檪(くぬぎ)」39号  鈴木太郎(演劇エッセイスト)

 流山児★事務所の「リターン」は、バースからフリーマントル行きの深夜の最終列車が舞台。スペース早稲田は、けいこ場兼劇場。その小さな空間の中央部分に鉄骨を組み立てて列車のイメージを作る。客席への出入り口を塞ぎ、両端に扉をつけ、「次はウエスト・ミットランド」などと次々に駅名がアナウンスされていくたびに音をたてて開閉する。それがまた効果的だった。客席は対面する形で設定されていた。塩野谷正幸の美術が冴えている。

 登場人物はスティーブ (前科者。四〇代半ば近く=千葉哲也)、トレヴ(前科者、二〇代はじめ=阿川竜一)、リサ(学生。ミドルクラス。二〇代半ば=大路恵美)、モーリン(郊外に住む主婦。四〇代半ば=北村魚)、作家(男。ミドルクラス。三〇代半ば=塩野谷正幸)の五人。
 作家のプロローグではじまる物語は、列車の進行にあわせて展開されていく。刑務所で知り合った前科者の二人が、電車に乗り込んで、わがもの顔で騒ぎたてる。やがて同乗している若い女子大生に絡み始める。そして、主婦と作家も乗り合わせる。一見、関連性がないように見えた登場人物たちが、過去に起きたひとつの事件の真相の解明へと収斂されていく。サスペンスタッチの要素を含みながら、悲劇の実態があきらかにされていく。思いもよらないラストでの急展開は身動きもできないほどに圧巻だった。
 レグ・クリップ作、佐和田敬司翻訳、流山児祥演出。しかし、上演にあたっては翻訳台本を基に英語テキストを役者全員で読み込み、上演台本を作ったという。その関係もあってか、せりふが役者自身の体にしみこませたという雰囲気があり、自然体のなかに迫力があったし、違和感を与えることはなかった。 

演技陣もそれぞれに見応えがあった。とくに千葉哲也は随所にでてくる長いせりふの上に、インディアンの戦の踊りのような激しい動きまでをも楽しむように演じていたのが印象に残った。若い阿川竜一も千葉哲也と絡みながらチンピラ風な役柄をみごとにこなしていた。そして、塩野谷正幸が作家という陰影のある役柄をこなして存在感を示していた。流山児祥の演出はスピード感があり、休む間を与えないし、せりふのかぶせも多用する。

一時間三〇分があっという間に過ぎていく。久々に充足感を味わった舞台であった。

 

 『THE RETURN』   藤田一樹の観劇レポート  2007/4/2  藤田一樹

偶然同じ電車に乗り合わせたと思っていた5人の男女、でもその関係が偶然から必然に変わる瞬間が見所です。無口だった作家(塩野谷正幸)が4人の会話の一部始終を、メモに書き取っていたことが分かったあたりから、どんどん物語の世界へ惹き込まれました。そしてまったくの他人同士だと思っていた作家と、女学生・リサ(大路恵美)は恋人同士だったことが発覚。怒り狂うスティーブ(千葉哲也)とトレブ(阿川竜一)が作家を問い詰めると、彼はスティーブに向かって拳銃を向けました。そこからスティーブが以前起こした傷害事件の謎が浮かび、なぜ作家が彼を追っていたかが発覚していくのです。ポンポンと飛び交うテンポの良い会話を中心としながらも、次々と二転三転していくスリリングな内容のお芝居でした。このあたりから舞台に仕込まれた青い蛍光灯が光を放ったり、登場人物に対してシンプルながらも効果的な演出が観られます。内容はスリリングだといってもシンプルな舞台での会話劇なので、こういう場面を象徴するような演出効果は良かったです。

最後は終着駅であるフリーマントルまで電車が到着したため、5人の乗客たちがそれぞれ電車を立ち去っていきました。しかし車内で起こった事件の一部始終を見つめ続け、夫から逃げてきたモーリーン(北村魚)がただ1人出口の前で立ち止まる。そして電車は折り返し運転を開始していき、文字通り彼女は「リターン」する結果になります。絶望的な生活に嫌気がさして逃げてきたはずなのに、なぜ彼女はこういう結果を選択してしまったのか・・・。濃密で非常に深い余韻を残しながら、徐々に暗転していく舞台に惹かれました。でもただ単に楽しめる「サスペンスドラマ」というだけでなく、今作の舞台となるオーストラリアでの格差問題などの、社会情勢も描かれているんでしょうね。僕は無知なのでそこのところはよく理解できませんでしたが、知っていれば更にこの作品を楽しめるような気もしました。それに流山児さんの演出は、こういうタイプのお芝居にピッタリですね。僕は序盤のダンスシーンなどに必然性をあまり感じなかったものの、全体的にはクールかつシンプルで荒々しい雰囲気のなか進行し、細部ではトリックのように光る演出効果などに魅せられる結果に。

 

 『THE RETURN』  季刊 『シアターアーツ』  2007年夏 31号 江森盛夫

流山児★事務所公演『リターン』(作=レグ・クリップ、演出=流山児祥)Space早稲田。オーストラリアのサスペンス・ドラマ。

郊外電車の深夜の最終電車の車両で中年と若い二人の前科者と、乗ってきた若い女と中年の男(作家)、主婦との終点駅までの時間に起こる恐怖感瀧る物語。暴力の表裏を知悉した流山児が、暴力が愛と真実に帰趨する人間ドラマを見事に展開した。千葉哲也、塩野谷正幸、北村魚が役の底から人間像を立ち上げた。塩野谷の硬質の美術も責献した。この種の芝居は以前の『ハイ・ライフ』と同様、流山児の独占場だ。

また、本多劇場で上演された楽塾十周年記念公演『楽塾歌劇☆真夏の夜の夢』 (作=W・シェイクスピア、翻案=野田秀樹、演出=流山児祥)は大成功だった。

 

『THE RETURN』  「映画芸術」 419号 伊藤裕作

失恋したあとタイトルが「リターン」 だから観るつもりになったわけではない。 愛する人が去る前から、この日この芝居を観に行く予定になっていた。
"ドラマティック・オーストラリア2006-2007参加"の芝居でオーストラリアの若手劇作家の戯曲である。 

客席が対面式に作られた舞台は、フリーマントル行きの最終電車の車両という設定である。  
傷害事件で半年の服役を終えた千葉哲也演じる男と、刑務所で知り合った阿川竜一が演じる若い男が、帰郷のためにそ の電車に乗っている。そこへ法律を勉強している女子学生(大路恵美)と、夫と別れたばかりの主婦(北村魚)、そして作家役の塩野谷正幸が乗ってくる。男たちが女子学生にからみ始める。作家は見て見ぬふりを決め込んでいる。  

やがて、作家と女子学生、そして服役を終えた男との関係が浮かび上がってくる。

男が起こした傷害事件の被害者が作家の弟で、作家は男に復讐を企てていた。  また作家と女子学生は恋人同士である。  さらにいえは、傷害事件を起こした男と作家の弟は男同士で愛し合っていた。  愛する者をめぐって繰り広げられる愛に不器用な者たちの愛憎と裏切りの人間 模様―――

愛する者は、カラダを張ってでも守らなければいけなかった。  この芝居を観ながら、わたしはこのこ とに気づかされる。わたしは息苦しさを おぼえ始めていく。
こんな芝居体験は初めてのことである。  

作家は、弟が男を真に愛していたことを知り、自分勝手な論理で心を弄んだ愛する女子学生とはつらい別れをすることになる。  救いは、この車内の愛憎劇をつぶさに見つめていた主婦が、どうしようもない夫のもとへ"リターン"していくことである。  その決意の場面を観ながらわたしは心の安らぎをおばえてい た。  

わたしの失った愛する者がリターン"するという保障はなにひとつないにもかかわらず……である。

 

『THE RETURN』  「悲劇喜劇」2007年6月号 「演劇時評」 小野正和 ・酒井洋子

―――次へ参りましょうか。「The Return」です。これもオーストラリアの作家です。レグ・クリッブ作、翻訳・佐和田敬司、演出・流山児祥、場所はSpace早稲田。登場人物は5人です。

小野 終電の中のドラマです。サスペンス風というんでしようか、一時間半ぐらいのミステリー仕立てなので、構成は非常に緻密につくられている。語りがついているような…… リターンというのは意図されたリベンジなんでしょうか、スティーヴとトレヴの二人の刑期を終えた出所者がまず乗っていてということなんですが、あの取り合わせが面白かった

高田 千葉哲也と阿川竜一ですね。

小野 そうですね。それとたまたま終電車に乗り合わせるのはアル中の女性と法律を勉強している若い女子学生と作家。先ほども言いましたように密閉状態の中での出来事ですけれども、別にそれぞれが存在感を出しているところはあったと思います。巧んだ演技ということになるのでしょうか。

 あの若者、出所者二人の激しい動きは印象に残りました。

酒井 ミッドランドからフリーマントルの終点までの最終便。しかも警備員がストライキで絶対乗ってない。ある種の究極の危険密室劇なんですね。しかも同時体験劇、つまりその時間時間、駅駅によって人が降りて、ほとんどだれも乗ってこなくて五人だけなんだけれども、その密室でのサスペンスというのがやっぱりうまく書けてますよ。 The Returnというのも、帰りの電車という意味もあるけれども、リベンジというのもありますから、最終的には復讐劇だということがお客様に明らかになるわけだけれども、あの空間をうまく使ってました。パイプを組んで、上、下をドアにして、着くたび機械的に、バッと開いて閉まって、だれも乗ってこない恐ろしい時間をお客さんと共有させる。あれはうまいですよ。とてもいい芝居。よくできていたと思います。

酒井 私は今度観に行ったのは、役者さんがいいなと思って観に行った面もあるんです。千葉哲也さんて、ほかに二人といない俳優だなって思う。

 どういう意味でかというと、よくああいう荒くれとか前科者とかなさるけど、今回女の子に絡んで絡んで、いわゆる今風の言葉でいうと、女の子をいじるといいますか、からかう。いじっていじって、嫌なやつなんですよ、常識的には。だけど最後に、その女が婚約者に裏切られて、男に「こっちこい」っていわれて、抱かれそうになるときがあるでしょう。そのときに私は観てる観客として、普通だったら、冗談じゃないんだけど、「行け、行け、千葉哲也のところに行け!」って思ってましたもの。千葉哲也の胸に飛び込めと思った。

 そんなばかなことを思えるということは、千葉哲也にそういうセクシーな、理屈を超えた魅力があるということ。それを一観客に思わせたということはやっぱりすごい力だと思う。だって、理屈で考えれば、そんな前科者になびくわけないんですよ、法律を勉強している女子学生が。もしそこで関係ができて、恋愛関係になったらもちろん不幸になるんでしょうよ(笑)。

 でもそういうことが起きたとき、なぜって聞かれたときに、それが人生のミステリーで、それなりの何かがあったというのを千葉哲也が体現していた。要するに、言うに言えない闇にあるもの、それを彼が俳優として体現していた。もしかしたら、ああいう瞬間には、女の人がハラッと行っちゃうかもしれないというのを下手に演じていたら絶対だれも信じない。台詞でそうなんだろうなと思うけど、「あれは行っても無理がなかった」って思わせるものを千葉さんは表現していたから、これは大変なことだと思う。

 芸術というのは闇にあって見えないものを見せてくれるというのも大きな力だと思うから、私はそれは千葉という役者さんのすごさだと思う。 みんなよかったですよ。主婦の北村魚もよかったし、いいプロダクションだと私は思いました。

高田 あの狭いスペースで。

酒井 そう、あれは臨場感がありますよね。

高田 目の前で観られているから、下手なことはできませんよね。

酒井 そうですよね。それから、ヤヌー・アリエンドラというインドネシアの方が音楽を担当していらっしゃるんですね。これも効いていたし、ちょっとインディアン的な振りつけもよかった。こういうのもよく効いていました。 作家は愛を失うんだけど、結果的には弟が同性愛者であったという、普通に考えれば一家の恥の真実を知るというところに私には光明が差した。要するに作家でなくても真実を知るということは、闇の中に置かれているよりもいいことでしょう。

 

雑誌「join」「私が選ぶベストワン2007」 「美術:塩野谷正幸」:江森盛夫氏

●演劇雑誌「悲劇喜劇」の「2007年の収穫」に選出される。  酒井洋子氏・中村哮夫氏・佐和田敬司氏


浮世混浴鼠小僧次郎吉』 「 せりふの時代」2007年春号  ごまのはえ

流山児★事務所『浮世混浴鼠小僧次郎吉』を観た。二回も観た。
二回も観たけど、設定もストーリーもまるでわからなかった。せめて設定くらいわかってもいいものだが、舞台は銭湯で、どうやら焼け跡みたいで、流れ星が流れて……くらいしかわからない。タイトルにある鼠小僧次郎吉(五人も出てきた)も芝居の冒頭に出てきたが、自己紹介だけしてさっさと退場。あとは歌って踊ってあめ玉投げて、泣いて抱き合って、気がつけば終わっていた。 
では面白くなかったかと言うと、そうじやない。面白かった。 

作品の奥にいろんな怪物がうずくまってるみたいで、そいつらの姿がたまにチラっと見える。どこの誰かもわからない人物が、誰に向かって言ってるのかもわからないセリフなのに、不思議な化学反応をおこして、ぞっとするイメ−ジがこちらに伝わってくる。役者が齧るカブが空襲で死んだ人の頭に見えたり、舞台に張られた日の丸が射精のしすぎで出た血に見えたり。演じるほうも忙しい舞台だったろうけど、観ているほうも忙しかった。 

特にお芝居の後半。出産後を思わせる姿をした女が「もう男の子なんか産んでやるか!」と叫ぶシーンがあったが、それが僕には、戦時下で国に息子をとられた母親たちの叫びに聞こえた。そして、舞台には空襲の爆音が響き、場面がかわると、アメリカ文化をわざと陳腐に着飾った男が、金髪の女三人と歌いながら客席にあめ玉を投げる。これは戦争、敗戦、占領時代そのままだ。 

芝居ではその先は描かれないが、僕らはこの流れの先に、東京オリンピックがあり、バブルがあり、天皇の崩御があることを知っている。焼け跡に、茫然とした母親たちが再び子供を産み始めた、産みまくったことを知っている。 

そして気持ち悪いものに感じてしまうのだ。焼け跡になるたび繁栄して、規模を拡大して、地方にまで種をばら蒔いて増殖した東京という街が。 

もちろんそこに暮らす人たちにケチをつけるわけではないが、繁栄する東京はまるでネズミみたいだ。焼け跡になった時点で復興などせず、中近東のあたりにある美しい古都のように、訪れる人に偲ばれるような街になっても良かったんじゃないだろうか? 東京の繁栄には呪いすら感じる。呪いの正体は米だ。米文化の呪いだ。米とネズミと正常位はセットになって東京に呪いをかけてるんだ。そんなことまで考えた。 

でもこのお芝居はこれだけ奥行きがありながら、とても単純に見える不思議なお芝居でもあった。何か意味を感じると、すぐにタイトルへ跳ね返されて 『浮世混浴鼠小僧次郎書』は『浮世混浴鼠小僧次郎吉』でしかないってことに帰ってきてしまう。                

まるで、鼠小僧の正体を噂し合う町人に「鼠小僧は鼠小僧だよ」って、ささやくような意地悪さだ。変な言い方だけど、演出家もそう思ってたんじゃないかな。『浮世混浴鼠小僧次郎吉』を『浮世混浴鼠小僧次郎吉』にするぞって。 

実際、そうなってた。『浮世混浴鼠小僧次郎吉』になってた。この着地点はすごい。 でもこれは単純とは言わないな。自明かな?ナンセンスかな?
まぁよくわかりませんが、楽しいお芝居でした。

 

浮世混浴鼠小僧次郎吉』   「文藝軌道」2007年4月号  野平昭和

佐藤信のネズミコゾーを、1970年ではなく、2007年にに、六本木の自由劇場でなく、Space早稲田で観る不思議な感覚をどう扱えばいいのだろう、……と私の頭とか らだは時空を越えて、アングラ古典を噛みし めていた。私ごとを書かせてもらうが、一九七〇年一〇月に一週間、六本木三保ガラス地下 の自由劇場で「劇団地下室」と銘打って自作 を上演したことなどを思い出してしまった)

「今回敢えて改訂を最小限にとどめた」とい う三十六年前に十歳だった演出の天野天街は、 「彼の時代にプチまかれた観念と彼の時代のクーキを呼吸する役者にあてられたコトダマ を」一時間半みっちりと狭いスペース早稲田の空間に充満してくれた。銭湯のペンキ絵と浴槽と柘榴口の前で展開する「ヘヘ」「そそ」 「ぼぼ」「鼠一番、二番、三番、四番、五番」 「門番」「門番A」によって喋り動きまわる群像の奏でる歌声とせりふのぶつかる空間に、 「ジカンのフショクに耐えられるモノと耐えられぬモノがボンヤリみえたらいい」と意図した演出家が、実はあの時の、アングラ演劇発生間もない、「演劇の生き霊」とでも呼ぶしかないものを、時間の腐蝕に耐えて、ずし んと伝えてくれた奇蹟の時間を、どっぷり味わって狭い階段を昇って外へ出ることが出来た。

若い役者とは、十年二十年、いや三十年も違う筈のトシを感じさせない役者、流山児 祥の門番の存在が浮き上がることなく、しっか り舞台に嵌っていたことからも、それは明らかだった。結論めいたことを書けば、アングラだろうが、ウェルメイドプレイだろうが、 「劇」として、いいものはいい、ので、時間 の腐蝕を許さないものと、そうでないものが ある、ということを、あらためて確認した一時間半だった。

『夢の肉弾三勇士』の時も感じた ことだが、今後も、アングラの古典、名作(矛盾した言い方だが)を、あらためて見せても らいたいと思いながらワセダを後にした。

 

浮世混浴鼠小僧次郎吉』 「中日新聞」2007年  2月24日  見せた「身体の力」 安住恭子

 
流山児★事務所の「浮世混浴鼠小僧次郎吉」(佐藤信作、天野天街演出)を見た。三十数年前に「革命の演劇」とされた佐藤の作品が、名古屋の天野の演出で現代にどうよみがえるのかへの興味からだ。
 盛んに劇中歌を歌い、わい雑に絡み合うといった、まさに当時のアングラ劇の作り。その中で描かれるのは、死のうとしても死ねない男女や、食うことに追われる男たち等々だ。ヒロインらしき女が赤と白の着物を着ているように、それらは綿えず日の丸のイメージの中で繰り広げられる。

そこに変わらない日本、変わらない民衆への佐藤の告発が込められているのかもしれない。だがそのことが取り立てて伝わって来るわけではない。天野はその戯曲をそのまま提示しながら、別の手法を加えることで現代との接点を作る。ダンスや映像などいつもの天野の視覚的仕掛けと、身体を駆使する演技だ。


そこから二重の身体性が現れた。一つは肉弾相打つエネルギーであり、もう一つは機械的なダンスによる、その熱を無化する力だ。振付もした夕沈の、どこにも着地しない浮遊する身体がその核になっていた。その結果、言葉や意味は無化され相対化された。それは「革命の演劇」の相対化でもあったと思う。

残ったのは身体の力だ。それこそが佐藤らの世代から天野らに伝えられたものだと思う。(15日、名古屋・七ツ寺共同スタジオ)
    

浮世混浴鼠小僧次郎吉』 「ダンス・マガジン」2007年4月号 魅力あるからくり″劇    扇田昭彦

佐藤信(一九四三年〜)は黒テントに所属する劇作家・演出家で、一九九七年から五年間、世田谷パブリックシターのシアターディレククーも務めた。現在では演出家として見られることが多いが、一九六〇年代から七〇年代にかけての佐藤は、『鼠小僧次郎吉』五連作(六九〜七一年)や、『喜劇昭和の世界』三部作(七二〜七九年)などの作・演出で圧倒的な人気を集め、唐十郎とともに「天才」と呼ばれた書き手だった。

その後は旧作が再演されることも稀になって、いまでは佐藤信の劇作家としての華麗な才能を知らない世代も増えているが、そんな状況のなかで演出家・流山児祥が主宰する流山児★事務所が、佐藤信の戯曲『浮世混浴鼠小僧次郎吉』(一九七〇年、黒テントの前身の演劇センター68/70が初演)を東京・早稲田の小劇場「Space早稲田」で上演した。名古屋の劇団「少年王者館」を率いる天野天街(一九六〇年〜)の演出である。

初演以来、三十七年ぶりの再演だったが、これが目のさめるような優れた舞台だった(二月五日観劇)。才気あふれる佐藤の戯曲と奇抜で視覚性の強い天野の演出が呼応し、じつに刺激的な舞台が生まれたのだ。この舞台成果は間違いなく佐藤信の劇作の再評価につながるだろう。 『浮世混浴鼠小僧次郎吉』は佐藤の『鼠小僧』シリーズの第二作に当たる。劇中歌(今回は荻野清子と珠水が作曲)が多い、音楽劇スタイルの作品だ。 一言で言えば、これは変革を望む日本の民衆と、一向に到来しない革命との関係を、ポップ感覚の重層的な寓話劇として描いた作品である。到来しない革命には、ベケットの『ゴドーを待ちながら』の残響も感じられる。 たとえば、ドブのなかで暮らす五匹のドプ鼠は、鼠であると同時にしがない民衆であり、生活を変えようと流れ星に願いをかけた彼らは体制に敵対する鼠小僧に変身する。盗賊となった鼠たちは日本国家の象徴である「あさばらけの王」を盗もうとするが、いつも奪取の好機−「子の刻」を逸してしまう。鼠たちは特攻隊に員にさせられ、人々の頭上には流れ星ならぬ原爆が落ちてくる。敗戦を経ても根本的な変革は起こらず、「あさぼらけの王」はやすやすと生き延びる……。


この作品が初演された一九七〇年は、人々の間に革命幻想がまだ切実に残っていた時代で、私を含め当時の観客はまるでパズルのようなこの劇の複雑なアレゴリーを読み解こうと懸命になった。

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浮世混浴鼠小僧次郎吉』  「日本経済新聞」 2007-2-1夕刊 ステージ採点 河野孝

いま“アングラしている”のだという熱い舞台。「浮世混浴鼠小僧次郎吉」は黒テントの佐藤信が岸田戯曲賞を受賞した三十七年前の作品だが、天野天街の粘着質な演出で、面白く現代によみがえった。地芝居調で、映像の使い方もうまい。世直しへの幻想をこめた観念的を自棄と、大衆的なわい雑性が絶妙に溶け合っている。

 

浮世混浴鼠小僧次郎吉』  しんぶん赤旗」 2007年 2月5日  「深刻ぶらず軽快に」 北野雅弘(演劇学研究)

小劇場演劇がまだアングラ劇と呼ばれていた頃、演劇センター68/69(現在の黒テント)の佐藤信が七十年に初演し、七一.年に岸田國士戯曲賞を受賞した「鼠 (ねずみ)小僧次郎吉」連作の一つを、流山児★事務所が、少年王者舘を率いる天野天街の演出で上演している。

佐藤と流山児祥が小劇場のそれぞれ第一、第二世代を代表する人物の一人であるのに対し、天野は、ク・ナウカの宮城聰や山の手事情社の安田雅弘などとともに、その現在をリードする一人で、かれらの演劇は概して前の世代よりも視覚的な完成を重視する。天野はこれまでもこの劇団の演出を行っているが、今回は特に小劇場の世代間交流を意識しているようだ。

作品は、鼠小僧によって「時間」を奪われた世界で、「あさぼらけの王」に仕える門番(流山児)が真の銭湯を探し求める、という滑稽(こっけい)で抽象的な枠組みに、遊女のジェニー(伊藤弘子)と農民演劇を志す青年の心中未遂と、飢えた浮浪者たちの話が断片的に組み込まれている。前者にはブレヒトの「異化効果」の演劇の、後者にはベケットの不条理劇の残響を聴き取ることができるが、変化なき世界へのいらだちと漠然たる反逆の肯定が断片的なエピソードを支配している。

テキストは言葉遊びと反復を多用した独特のリズムを持ち、それは作品のテーマともあいまって焦燥感に近い感覚を生み、最後の立ち回りがカタルシス(感情の解放)になる。ミュージカル仕立てで、ダンスにもう少し美しさが欲しいが、音楽は古臭くなく親しみやすい。

上演は当時の熱気を伝えつつ、深刻ぶらず軽快にアングラ劇の古典を復活した。

 

浮世混浴鼠小僧次郎吉』 週刊「マガジン・ワンダーランド」第29-30号     村井華代(西洋演劇理論研究)

◎相対化された「子之刻」=日本の「ゼロ時間」  

今回の流山児★事務所公演は佐藤信の1970年の戯曲『浮世混浴鼠小僧次郎吉』である。演出は流山児★事務所五度目のゲスト演出となる天野天街。社団法人日本劇団協議会の「次世代を担う演劇人育成公演」枠の公演でもあり、事務所のアトリエSpace早稲田開場10周年記念公演第二弾にも当たる。流山児祥によれば、Space早稲田は、この戯曲が初演された「アングラ」発祥の地・六本木アンダーグラウンドシアター自由劇場の当時の空間に「そっくり」なのだそうだ。

▽「あさぼらけの王」とは何か

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