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2007年1、2月 東京〜大阪〜名古屋公演 

浮世混浴鼠小僧次郎吉 
うきよぶろねずみこぞうじろきち

 

【作】佐藤信 16回岸田戯曲賞・第4回紀伊國屋演劇賞 受賞

【演出】天野天街(少年王者舘)

【音楽】荻野清子・珠水 【美術】水谷雄司  【芸術監督】流山児祥

太平の 太平の あっけらかんに 白い血しぶきとばしましょう

子の刻参上! 平民階級きっての手練れ 御存知鼠小僧次郎吉が

ただ一つしかない「革命」の時を求めて めくるめく歴史の迷路を駆け抜ける。

作:佐藤信(黒テント)

演出:天野天街(少年王者舘)

 小僧★劇場中継(Rシネマ)

 

【出演】伊藤弘子 ・夕沈(少年王者舘)/イワヲ ・甲津拓平・小林七緒・里美和彦・平野直美・阪本篤 /李周源(韓国) /流山児祥

 

 

【照明】小木曽千倉   【音響】島猛 齋藤貴博(ステージオフィス)【振付】夕沈   【映像】濱島将裕

【舞台監督】井村昂     【宣伝美術】アマノテンガイ     【制作】流山児★事務所

【大阪公演共催】精華小劇場活用実行委員会・精華演劇祭実行委員会

【大阪公演助成】財団法人地域創造        【大阪公演制作協力】スタッフステーション

【主催】社団法人日本劇団協議会  社団法人日本劇団協議会 次世代を担う演劇人育成公演

平成18年度文化庁芸術団体人材育成支援事業

  

 

劇評


『浮世混浴鼠小僧次郎吉』  「中日新聞」2007年2月24日 安住恭子「舞台プリズム」

 
 流山児★事務所の「浮世混浴鼠小僧次郎吉」(佐藤信作、天野天街演出)を見た。三十数年前に「革命の演劇」とされた佐藤の作品が、名古屋の天野の演出で現代にどうよみがえるのかへの興味からだ。
 盛んに劇中歌を歌い、わい雑に絡み合うといった、まさに当時のアングラ劇の作り。その中で描かれるのは、死のうとしても死ねない男女や、食うことに追われる男たち等々だ。ヒロインらしき女が赤と白の着物を着ているように、それらは綿えず日の丸のイメージの中で繰り広げられる。


 そこに変わらない日本、変わらない民衆への佐藤の告発が込められているのかもしれない。だがそのことが取り立てて伝わって来るわけではない。天野はその戯曲をそのまま提示しながら、別の手法を加えることで現代との接点を作る。ダンスや映像などいつもの天野の視覚的仕掛けと、身体を駆使する演技だ。


 そこから二重の身体性が現れた。一つは肉弾相打つエネルギーであり、もう一つは機械的なダンスによる、その熱を無化する力だ。振付もした夕沈の、どこにも着地しない浮遊する身体がその核になっていた。その結果、言葉や意味は無化され相対化された。それは「革命の演劇」の相対化でもあったと思う。

残ったのは身体の力だ。それこそが佐藤らの世代から天野らに伝えられたものだと思う。(15日、名古屋・七ツ寺共同スタジオ)
    

『浮世混浴鼠小僧次郎吉』  「ダンス・マガジン」2007年4月号 魅力あるからくり″劇    扇田昭彦

 佐藤信(一九四三年〜)は黒テントに所属する劇作家・演出家で、一九九七年から五年間、世田谷パブリックシターのシアターディレククーも務めた。現在では演出家として見られることが多いが、一九六〇年代から七〇年代にかけての佐藤は、『鼠小僧次郎吉』
五連作(六九〜七一年)や、『喜劇昭和の世界』三部作(七二〜七九年)などの作・演出で圧倒的な人気を集め、唐十郎とともに「天才」と呼ばれた書き手だった。
 その後は旧作が再演されることも稀になって、いまでは佐藤信の劇作家としての華麗な才能を知らない世代も増えているが、そんな状況のなかで演出家・流山児祥が主宰する流山児★事務所が、佐藤信の戯曲『浮世混浴鼠小僧次郎吉』(一九七〇年、黒テント
の前身の演劇センター68/70が初演)を東京・早稲田の小劇場「Space早稲田」で上演した。名古屋の劇団「少年王者館」を率いる天野天街(一九六〇年〜)の演出である。
 初演以来、三十七年ぶりの再演だったが、これが目のさめるような優れた舞台だった(二月五日観劇)。才気あふれる佐藤の戯曲と奇抜で視覚性の強い天野の演出が呼応し、じつに刺激的な舞台が生まれたのだ。この舞台成果は間違いなく佐藤信の劇作の再評価につながるだろう。 『浮世混浴鼠小僧次郎吉』は佐藤の『鼠小僧』シリーズの第二作に当たる。劇中歌(今回は荻野清子と珠水が作曲)が多い、音楽劇スタイルの作品だ。 一言で言えば、これは変革を望む日本の民衆と、一向に到来しない革命との関係を、ポップ感覚の重層的な寓話劇として描いた作品である。到来しない革命には、ベケットの『ゴドーを待ちながら』の残響も感じられる。 たとえば、ドブのなかで暮らす五匹のドプ鼠は、鼠であると同時にしがない民衆であり、生活を変えようと流れ星に願いをかけた彼らは体制に敵対する鼠小僧に変身する。盗賊となった鼠たちは日本国家の象徴である「あさばらけの王」を盗もうとするが、いつも奪取の好機−「子の刻」を逸してしまう。鼠たちは特攻隊に員にさせられ、人々の頭上には流れ星ならぬ原爆が落ちてくる。敗戦を経ても根本的な変革は起こらず、「あさぼらけの王」はやすやすと生き延びる……。


 この作品が初演された一九七〇年は、人々の間に革命幻想がまだ切実に残っていた時代で、私を含め当時の観客はまるでパズルのようなこの劇の複雑なアレゴリーを読み解こうと懸命になった。
 三十七年後の現在、革命幻想はすでに跡形もなく、日本の現代劇の構造は全体にきわめて平易になった。いまの若い世代にとって、佐藤信の複雑な知的からくり箱のような劇は一種の異物かもしれない。 だが、演出の天野は彼自身が「からくり」の手法を駆使する鬼才である。彼は佐藤のテキストをほぼそのまま使いながら、随所に痙攣的なリズムと呪術的とも言える音楽、意表をつく映像を持ち込み、劇全体を不気味で誘惑的な悪夢のような世界に仕立てた。佐藤の劇を分かりやすく見せるよりも、魅力ある異物として提示する姿勢で鋭い美意識が支配する舞台作りだが、廃業した銭湯のような舞台装置(水谷雄司)を含め、それはジャンクアートに通じる美意識だ。

 門番役の流山児、女郎「へへ」役の小林七緒、「鼠一番」役のイワヲなど、俳優たちの演技は個性的で活気があったが、同時に彼らの動きは緻密に振付けられ、どこか人形劇風だった。「あさぼらけの王」を物体で表さず(初演では巨大な陽物が登場した)、少女巫
女風の女優・夕沈(少年王者館)が演じたのもユニークだった。
              
 途中で、鼠たちがひとつの蕪をどう分けるかで争う個所を、男優三人(イワヲ、里美和彦、甲津拓平)が猛烈なスピードで際限なく、数十回も繰り返す場面があった。その馬鹿馬鹿しさで観客を笑わせ、呆れさせるシーンだが、この繰り返しは台本にはなく、天野演出のアイデアである。一見ナンセンスに徹した趣向だが、この作品が同じことを繰り返す日本の歴史、つまり時間の循環を居ている描いていることを考えれば、劇の主題に沿った趣向と見ることもできる。 この成果を踏まえ、これからも天野演出で佐藤信の劇を再演してほしいと思う。


 

『浮世混浴鼠小僧次郎吉』    日本経済新聞 2007-2-1夕刊 ステージ採点 河野孝

いま“アングラしている”のだという熱い舞台。「浮世混浴鼠小僧次郎吉」は黒テントの佐藤信が岸田戯曲賞を受賞した三十七年前の作品だが、天野天街の粘着質な演出で、面白く現代によみがえった。地芝居調で、映像の使い方もうまい。世直しへの幻想をこめた観念的を自棄と、大衆的なわい雑性が絶妙に溶け合っている。

 

『浮世混浴鼠小僧次郎吉』  週刊「マガジン・ワンダーランド」第29-30号     村井華代(西洋演劇理論研究)

◎相対化された「子之刻」=日本の「ゼロ時間」  

 今回の流山児★事務所公演は佐藤信の1970年の戯曲『浮世混浴鼠小僧次郎吉』である。演出は流山児★事務所五度目のゲスト演出となる天野天街。社団法人日本劇団協議会の「次世代を担う演劇人育成公演」枠の公演でもあり、事務所のアトリエSpace早稲田開場10周年記念公演第二弾にも当たる。流山児祥によれば、Space早稲田は、この戯曲が初演された「アングラ」発祥の地・六本木アンダーグラウンドシアター自由劇場の当時の空間に「そっくり」なのだそうだ。

▽「あさぼらけの王」とは何か

 さて印象から言えば、個性際立つ役者たちが素晴らしい。映像の使用も巧妙で、音楽(荻野清子、珠水)も耳に残って癖になる。天野演出は初見だが、ノイズ場面の挿入で分断を繰り返しつつテンポを上げてゆく展開は面白い。が、何の話なのだかわからない。戯曲を読んでなかったせいか、それにしても上演が終わっても肝心の劇の筋が皆目つかめないとは…。

 ようやく話の糸口がつかめたのはアフタートークに入ってからだ。佐藤・天野を交えたトークの中で、流山児祥が言った。「初演(演劇センター68/70、佐藤演出)のときは『あさぼらけの王』は180センチくらいある巨大な男根だったんだよね。」ああ、それでは−言うに及ばず、巨大な男根とは巨大な父、一神教的抑圧のシンボルである−今見た舞台は元来、日本の巨大な男根=天皇制をめぐる物語であったのか!

 そうなると、話は一挙にわかりやすくなる。奇妙なのはむしろ、この上演を一見しただけでは、そうした原作のイデオロギーに思い至りさえしなかったということだ。

 なぜそうなったのか確かめるべく、佐藤信の戯曲をまとめ読みしてから二度目を見た。従って今回の記述の視点は、1970年という時代と切り離せない戯曲が2007年の今日演出されるにあたり、どのように捌かれたかに絞られている。なお戯曲テクストは『嗚呼鼠小僧次郎吉』(晶文社、1971)に収録された版に依拠した。

▽「子之刻」の転変

 現代ドイツを代表する演出家クリストフ・マルターラーに、『Stunde Null(シュトゥンデ・ヌル)』という傑作がある。Stunde Null即ち「ゼロ時間」とは、一般には1945年のナチスドイツ崩壊・敗戦によってドイツの歴史が灰燼に帰した瞬間を指す。舞台には、特に筋も人物もない。マイクに向って「これでよかったのだ、よかったのだ」と演説を繰り返す中年男たちがおり、そのうちの一人が「ゼロ時間夫人」と呼ばれる老婦人に「質問してよろしいですか、ゼロ時間夫人?」と話しかけると必ず無言で平手打ちを食らう。バカバカしい笑いの中、ドイツの饒舌な戦後言説に対する手痛い皮肉が見え隠れする。

 全5作からなる佐藤信の『鼠小僧次郎吉』シリーズ(1969-71年)に一貫して登場するキーワード「子之刻」は、まさしく日本の「ゼロ時間」だ。「子之刻」とは伝説の義賊鼠小僧のコードネームだが、時刻としては深夜零時前後の日付の変わり目であり、佐藤作品では原爆の投下、敗戦、玉音放送という日本の“終末”として表象される。

 原作戯曲を一通り浚っておこう。シリーズ第2作『浮世混浴鼠小僧次郎吉』は、第一作『鼠小僧次郎吉』の設定を大体において引き継いでいるが、殊更に強調されているのは“時”だ。ある朝、「針のついていない柱時計」を背負った「門番」が、三人の女と「まったくいつもの朝」の平和な挨拶を交わす。ところが、この女たち(「へへ」「そそ」「ぼぼ」という、いずれも女性器の俗称)が告げるところによれば、夕べ「大きな青い星」が流れて世界は一面焼け野原となった。昨日と同じかに見えた田圃や小川の風景も、今朝となっては実は銭湯のペンキ絵にしか過ぎないマガイ物なのだ。その事実に驚愕する門番の上に、「『あさぼらけの王』とあがめたてまつられる物体」が突如降臨、「王」の命により門番はペンキ絵の中の「真の風呂屋」を探しに出かける。

 一方、件の流れ星に願をかけ、左眼に黒い星の刻印を受けた五人の「鼠」が集結する。「下水道のはずれの四畳半」に溜まり、拾い食いで生きる「戯作者(鼠一番)」「ちゃりんこ(鼠二番)」「浪人(鼠三番)」、農業演劇の理想に挫折した「役者(鼠四番)」、そして男の子が産みたいのに女の子しか産めない紅一点「川底女郎のジェニイ(鼠五番)」。一番は、かの流れ星は鼠小僧次郎吉の化体であり、「希望の明星」であるとして、四人に連帯を呼びかける。かくして鼠族として共闘を始めた彼らは、まず銭湯

を探しにきた門番を騙し、「あさぼらけの王」と共に風呂の下水に流してしまう。ところがその鼠たちに三人の女が忍び寄る。女たちは目隠しで五人の目をふさぐと、得体の知れぬ大釜のスープを食べさせ、彼らが呆けている隙に「子之刻」へのカウントダウンを開始する。目隠しされたままの鼠たちは怯えるが、「子之刻」を過ぎても何も起こらない。

 通常の時間の流れで言えば、 “終末”= 「子之刻」からこの物語は始まったのであるから、この「子之刻」は二度目ということになる。しかし、原爆投下で時計の針が“その時間”に焼きつけられたように、「子之刻」の到来以降、門番の背負う時計の針は失われ、人々は「子之刻」から「子之刻」へと至る宙吊りの時間の中に閉じ込められている。止まった時間の中では、新たに生まれてきた赤ん坊(劇中に何度も現れる蕪は子供の頭の比喩)は片っ端から殺され、大釜に入れられ食われてしまうのだ。鼠たちが口にしたスープの具も、実は五番が生んだばかりの女の子だった。

 少なくとも流れ星は「希望の明星」ではなかったのだ。カタストロフの中、鼠たちは目隠しを裏返して日の丸鉢巻に変え、流れ星への特攻を試みる。「目標は、青空のかなた−きらきら銀いろに光りながら、ゆっくりと弧を描く、あの流れ星!」 だが、特攻するにも遅すぎた。それを嘲笑うように門番が復権のときを迎える。「千人入れるローマ風呂」を目指し熱海へ進軍する門番。その傍らには金髪になってガムをくちゃくちゃいわせる三人の女。「いまこそ与えん」と見栄を切る彼女ら「猫族」と、鼠小僧スタイルに変身し「いまこそ盗まん」とする四人の男鼠が火花を散らす。

 そして女鼠五番の前に現れたのは、復権したと思いきや、血まみれで逆吊りになった門番だった。「あさぼらけの王」を抱いたまま、彼は五番に「おっ母さん」と訴える。  「おろしておくれ−背中の時計。針が焼きついちまってるんだ。時計が重い。……このままじゃ、永久に、もう永久に子の刻−おっ母さん!」  五番は「ためらう−が、決心して門番を突きさす」。そこに鼠一同勢揃いして、テーマ曲を歌う。

   ああ うちたいな うちたいな 天にかわりて 不義うちたいな

 彼らがトレードマークの頬かぶりをとると、その顔に「無残なケロイド」が見える。

▽男性的時間と女性的時間

 見事な佐藤信論を著したグッドマンを借りれば、無印『鼠小僧次郎吉』には、目的と方向性を持つ鼠たちの「男性的な、陰茎的な時間」と、無目的な永続の中にたゆたう三人の女の「女性的な、月経性の時間」が対置されている(グッドマン『富士山見えた─佐藤信における革命の演劇─』白水、1983)。救済を求めた男鼠たちは「王」の退位した新たな時代の到来を待望するが、女たちはその時々の「王」に寄り添うのみである。「この世に男と名のつく突撃棒が何本あるかは知らねえが、その棒の数だけあたしは違った世界を見ることができるわさ」と見栄切る彼女らにしてみれば、世界は常に、多様なだけで均質な、無限の運動にしか過ぎない。どこにもとどまらない彼女らは、二度目の「子之刻」、つまり敗戦以降は金髪のアメリカ人に変身する。恐らく、彼女らは憲法、安全保障から給食の脱脂粉乳、やがてはディズニーワールドに至るまで日本に「与えん」とするのだろう。男鼠たちは、受動的に与えられることを拒み、能動的に(何をかは不明だが)「今こそ盗まん」として戦いを挑む。が、決着はつかない。

 結局、男性的/女性的時間の対立に一つのケリがつけられるのは、母と子という関係においてでしかない。ムッソリーニの如く逆吊りにされ、永遠に「子之刻」の罪科に苛まれようとする門番に対し、単純な死という救済を与えるのは母親である五番だ。大釜=戦争の災禍のそばで、五番は「殺される。みんな殺される。決して−もう、決して、男なんて生むものか。生んでやるものか」と呟く。彼女は戦争で死ぬ全ての男たちの母であり、またその男たちを産む母たちの母でもあり、日本という国家をなす全ての命の源流でもある。殺されるばかりの子供を産み続ける彼女が流れ星にかけた願いは、自分を殺してこの循環を断ち切ってくれる息子を産むことだったが、その息子は逆に彼女に殺されることを哀願するのである。

▽天皇制へのマナザシの差

 さて今回の流山児★事務所公演の天野天街演出に目を移そう。  天野演出は、明らかに戯曲のイデオロギー性よりも、破綻する「時」の描写に重点をおいている。何の脈絡もなく巨大な時計針が突き出してくる、同じ台詞を20回も30回も反復する、原作では「30秒前」から「5,4,3…」と順当に続く「子の刻」へのカウントダウンを、「5秒前」から「25秒前」に、「15秒前」から「16秒前」に差し戻して何度も場面を「巻戻し」して見せる、立ち回りが突然タンゴやワルツに変わる、回る傘にプロジェクトされる無数の時計等々、時間の順当な流れが寸断され反復されるというイメージは何度も登場する。戯曲『浮世混浴…』は、元来が狂った時間のハザマの話なので、こうしたイメージを基調にするのも理解できる。実際、演出は「敢えて改訂を最小限にとどめ」(天野パンフ巻頭言より)、原作の構造を70年当時のまま浮かび上がらせようとしたようだ。

 が、最小限とは言え、「今日的」視点から手を加えることで劇の全体像は随分変化し、原作戯曲の一貫性から天野演出における全く別の一貫性へと完全に移行している。一部箇条書きすると、

★ 原作では門番はただ「門番」で、何の門番なのか示されていない。 → 上演では門番(流山児祥)に「時の門番」と台詞で語らせている。
★ 原作の門番の針は最初から「ついていない」とト書きに指定あり。 → 登場時にあった針は途中で消え、門番が驚く場面が挿入されている。
★ 「子之刻参上」のメッセージは赤子の産着に現れる(子供の大量死の予兆) → 針の消えた時計に「子之刻参上」の貼紙が残されている。つまり針=時の秩序を盗んだのは鼠小僧次郎吉=流れ星。

 いずれも、上演で示された“盗まれた時間の物語”(エンデの『モモ』?)の一貫性を支える、非常に強力な加筆である。が、やはり何より決定的にこの劇の全体的イメージを変貌させているのが「あさぼらけの王」だろう。天野演出の「王」は、振付担当でもある女優・夕沈によって両性具有的な子供として演じられている。時計の針が消えたと同時に登場、あたかも流れ星=原爆によって止まった時間の裂け目から「王」が生まれ、「時の門番」を征圧したかのように見える。

 冒頭で述べたように、佐藤信による初演の「王」は、巨大な男根の偶像=天皇制のシンボルとして登場した。もとより「王」がどのような「物体」なのかは戯曲に指定されていないので、どういう姿にするかは演出家の解釈に委ねられる。しかし、この物語の中枢に天皇制が据えられていることを示すなら、「王」は嫌でもそうした明瞭な象徴物として登場しなければならない(D. グッドマンも「作品の論理からいっても、そうでなければならないのである」と言う)。しかし天野演出における正体不明の子供たる「王」は、それ自体が擬人化した“終末”か、あるいは混乱した時間の中で遊ぶ座敷童子のようだ。そこに日本の天皇制への批判的マナザシは介在する余地がない。

 結果的に、上演ではこの「あさぼらけの王」によって、天皇制や戦後体制への批判という原作戯曲のギラギラしたイデオロギー性は殆ど感じられなくなった。それで筆者も必然的に何の話かわからなかったわけだが、よく見れば、パンフのキャスト表の夕沈の役名は「あさぼらけの王」ではなく「門番2」になっている。「あさぼらけの王なるぞ」と自称したにも拘らず、どうも最初から「王」ですらなかったらしい。36年前から比べると、何という地位の失墜だろうか。その落差はそのまま、36年前の日本における天皇制へのマナザシと、今日のそれとの差でもあろう。

▽上演構造の中心が移動

 しかし、二度目によくよく注意して見たところ、戯曲のト書き通り太平洋戦争開戦のラジオ放送や玉音放送も流れ、原爆投下を含めた第二次大戦中の映像も挿入されている。視覚的演出においても、「あさぼらけの王」が日の丸の旗の中に消えたり、門番が傘を積み上げて作った日の丸の赤い部分から立ち上がったりもしている。つまり、ヒントは多く与えられていたのだ。が、それを劇の中心と捉えるほどには意識できなかった。それだけ上演の構造の中心が、初演時のそれから移動しているのだ。

 太平洋戦争という伏線よりもはるかに印象に残ったのは、無力でも前向きな鼠たちの姿である。原作にあった門番と「王」を下水に流すという彼らの唯一のテロ活動が、天野演出では三人の女によって行なわれてしまったので、結果的に鼠たちはラストの三人の女猫族との立ち回りまで特に行動もないまま過ごしている。その立ち回りでも、一番(イワヲ)は徒手空拳だが、鼠三番(甲津拓平)はこけおどしの竹光、四番(阪本篤)は心中に使ったが死ねなかった(芝居の小道具のような)ドス、二番(里美和彦)は少年の宝物たる小さいナイフと、それぞれ個人的でナイーヴな武器を真面目な顔で振りかざす。それらの武器は、持ち主と同じく、大した力を持たない。しかし天野演出は、無力でも/だからこそ立ち向かうしかない、と訴えているようにも見える。ちなみに立ち回りの音楽は、学生運動を彷彿とさせる『インターナショナル』だ。

 戯曲のラストで鼠たちの顔を覆っていたケロイドも、天野演出ではカットされている。鼠たちは傷ついてもおらず、絶望してもおらず、下半身のみ迷彩服という変則鼠小僧スタイルで、来るべき何かをきりりと見据える。そして原作では血まみれで逆吊りだった門番も、天野演出では傷ついてはいない。ふらりと出てきて、五番(伊藤弘子)に「おっ母さん」と呼びかけるだけだ。戯曲では大きな比重を占める「おろしておくれ−−背中の時計」という叫びも削除され、門番は五番が手にした時計の針に静かに刺されて死ぬ(門番の守っていた古い時間をリセットし、鼠たちが新たな時代を拓くことを意味するのだろうか?)。戯曲では最後まで門番に抱かれていた「あさぼらけの王」も、いつの間にか消えている。何が何やらわからぬうちに、観客は鼠たちが凛と立つカッコよさを呆然と見守る他ない。

▽佐藤信のマナザシの先

 何となく映画『うる星やつら・ビューティフルドリーマー』を思い出す。ラムたちの学園が学園祭前日という“永遠に終わって欲しくない楽しい一日”の中に閉じ込められる。白い服を着た正体不明の少女が現れるたび、その時間の閉鎖を破ろうとする人間が消えてゆくという話だ。コミケや小劇場ブームを生み出した80年代の感性の中では、さほど日本人という国家的アイデンティティに危機を抱くこともなければ、「子之刻」に絶対の根源を見出すこともなかった。そのドラマトゥルギーの中では、災厄を引き起こす原因は、政治や歴史や経済であるよりも、少女の無邪気な夢である確率の方が高かったのだ。

 現在をその80年代の続きと位置づけるならば、天野がパンフレットの巻頭に寄せた、「彼(か)の時代(1970年)にブチまかれた観念と彼(か)の時のクーキを呼吸する役者にあてられたコトダマ」を「『ワタシタチ』に移植する」という試みが一筋縄ではいかないことがわかる。少なくとも天野のマナザシは−この戯曲を選んだのは彼ではないのだから当然だろうが−日本の「子之刻」1945年を射抜いていたというよりは、1970年に向けられていたのではないか。佐藤戯曲の政治性や歴史性を薄めて上演しても、佐藤戯曲を上演し、その「コトダマ」を聞いたことになるのだろうか?

 もちろん、ここでその是非を決めつけるつもりはない。上演に視点を絞れば、天野演出による『浮世混浴…』はそれ自体一貫性とパワーを持つ一個の作品として成立しているのであるから、それ以上に何をか言わんやである。戯曲の伝えるものをそのまま出せばいいというわけでもなければ、特定のカラーがあるから可、ないから不可というわけでもない。重要なのは、今日の上演のために、テクストとどう向き合うかということでしかないのだから。してみれば、天野が「ソノ時もそして今もただ『ソレ』でありつづける『ナンカ』が匂ったらいい」(同上)と言うところの「ナンカ」は、戯曲の内的構造やそれを支える政治性の中にではなく、小さな劇場の中で共有される空気−劇場でなければならない何か−の中に匂っていたのである。或いは、流山児の言う「集団的営為でしかない演劇の『他者性』への『楽しいこだわり』」(パンフレット挨拶文より)の中に。その「ナンカ」は、劇の内的構造云々より、よほど本質的なことかも知れぬ。

 ただし、劇の内的構造における「ナンカ」を追求する演出家、つまり1970年の佐藤信のマナザシの先にあったものを共に見ようとする演出家は、別の道を進まねばならぬ。そうした演出家が、この36年間への批判を含め、2007年の視点で斬る『鼠小僧次郎吉』は、さぞラディカルな、犯罪的な芝居であろう。

 最後に強調しておこう。佐藤信の戯曲は今日こそ上演されるべきである。その形式は全く古びておらず、むしろ今日的禁忌をこそ真っ向から侵犯するものだ。

 筆者もそうだが、後から来た世代は、現在の彼の演出家としての存在感の大きさから劇作家としての功績を見落としがちであるし、読めば読んだでその余りの“ヤバさ”に怖気づいてしまう。しかし、佐藤と同じくブレヒト演劇の落とし子であるハイナー・ミュラーやフランク・カストルフといった現代ドイツの前衛的政治演劇が日本にも多く紹介された今日、佐藤戯曲の上演が持つ可能性は、70年代より大きいかもしれない。佐藤戯曲をいかに上演するかという問いから、日本における政治と演劇の関係を再構築する契機も生まれるのではないか。今回の流山児★事務所の公演は、そうした「今日的」上演の一例として、ジャンプ台にも、議論のタネにもなるはずである。

 


 

 

〔東京公演〕2007年1月24日(水)〜2月5日(月) Space早稲田 

東京 1/24 25 26 27 28 29 30 31 2/1 2 3 4 5
(水) (木) (金) (土) (日) (月) (火) (水) (木) (金) (土) (日) (月)
14:00       終了 終了           終了 終了  
19:00 終了 終了   終了   終了 終了 終了 終了   終了   終了
19:30     終了             終了      

★25日:アフタートーク :佐藤信・天野天街・流山児祥とトーク30分余り。

 

    〔大阪公演〕2007年2月9日(金)〜2月12日(月) 精華小劇場  精華演劇祭 vol.6参加

大阪 2/9 10 11 12
(金) (土) (日) (月)
14:00   終了    終了 終了
19:00     終了    
19:30 終了      

★アフター トーク  ゲスト:10日(土)19:00ごまのはえ 11日(日)14:00わかぎゑふVS流山児祥 )

 

    〔名古屋公演〕2007年2月15日(木)〜2月18日(日) 七ツ寺共同スタジオ 

名古屋 2/15 16 17 18
(木) (金) (土) (日)
14:00    
余裕あり

余裕あり
19:00 終了  
大余裕あり
 
19:30   終了    

★アフタートーク =17日マチネ二村利之(七つ寺共同スタジオ)・井村昂(少年王者舘)VS天野天街&流山児祥70年代アングラ&名古屋小劇場演劇のの歴史と現在jについて。