■劇評■(2009〜)

海外公演劇評はこちら(日本語訳


『西遊記』中国ツアー劇評はこちらより
 


「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」  Takashi Kitamura(赤旗日曜版記者)

清水邦夫が82年に書いた戯曲。
戦争の傷を抱えていきる人々と、戦後の左翼運動で挫折した若者たち へ捧げるオマージュだった。

青春の愚行と情熱のシンボルともいうべき、「ロミオとジュリエット」を、戦争とたたかいに身を投じて夢破れ、寂しく老い た女たちが演じる。見事な換骨奪胎による戦争と戦後の男たちへのエレジーだった。

舞台には本当に30人もの女優があらわれ、圧巻。その最初の勢揃いの場面は、女子校の同窓会さながらの心地よい騒がしさであった。ロミオの登場が二転三転する展開が見事で、とくにかつての男役スター役の伊藤弘子と、その妹(実は…)役の、坂井香奈美が良かった。歌と音楽も劇とピタリあって、一層感動を深めた。

久々に見た骨太にして猥雑、リアルにしてイデアルな芝居だった。

「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」  CORICH舞台芸術の長編劇評 tottory

良い戯曲だと思った。

舞台という魔物、死と亡霊のイメージが『楽屋』に重なる。三十人のジュリエットの登場という所に、蜷川幸雄とのタッグならではの企画性も漂う。事実総勢30名が空襲に追われた難民のように左右から蠢き現われ、照明一転「シャクナゲ歌劇団」メンバー30年振りの再会の喧噪となる場面は迫力で、数の力を実感。その後も続く30名の登場場面は処理も大変そうだが、長いタイトルのこの芝居はそのための芝居だと言っても間違いでなさそうである。

ストーリー的には三十名は補助的なアンサンブルで、意味的には主役のジュリエット役(松本紀保)と重なるし、後半に導入される演出で大勢のロミオが戦場送りとなる場面に類似するが、役柄としては彼女らは女性のみで構成される石楠花(しゃくなげ)少女歌劇団の団員であり、観客の視線はストーリーを追うべく主要登場人物の方に寄る。

舞台には、宝塚にありそうな豪華な幅広の高い階段、舞台両脇に大柱、総じて大理石に見えるセットが組まれ、実はここは百貨店の1階という設定だ。現実の時空ではあるがこの場所は架空の世界を立ち上げるに相応しい舞台空間にも見えており、つねに完璧な衣裳で登場するヒロイン・景子の想念の強さによって「ロミジュリ」の劇世界と、その場を劇場と解釈する二つの次元の行き来を見ている気になる。そこへ介入して来る「現実」の時空は、この劇世界&劇場という次元を否定的に干渉する事はなく、むしろ組み込まれて行き、劇世界が貫徹されるまでが描かれる。この劇で流れた時間は言わば一つの鎮魂のそれで、戦争とそこから離れた歳月を偲ぶ構造を持つ。

30年前結成された歌劇団のヒロイン・景子が記憶を失い、今もジュリエット役の稽古をし続けている背景については最後まで一切語られない。が、「戦争」を思い出させる象徴として十分である。当時の応援団バラ戦士の会の元メンバーで今や町の有力者(龍昇、甲津拓平、井村タカオ、池下重大の取り合わせがまた良し)が、かつてロミオ役で人気を博した俊(しゅん=伊藤弘子)不在のため、男性禁制であるからか唇に紅、アイシャドーを塗ってタキシード姿であたふたと代役を務める。

中心に居る景子は時に激しい発作(自分を百歳のおばあさんのように見るのはやめて!と周囲に罵り狂乱する)をしばしば起こすが、暫くたつと全くしこりを残した風もなく登場し、「さ、稽古やりましょう」となる。リセットの力と主役で舞台をけん引した風格が周囲のモチベーションを引き出している所は強調されていないので記憶に残りづらいが、女優という限りにおいて絶えず前向きな存在を演じる松本女史の貢献は地味に大きい。

そこに舞台があり、そこで演じられる世界が(それが過去の事だったとしても)「ある」と信じる力は、前途ある若者の心を掴み、前を向いて歩ましめた明るい情景をみせたにもかかわらず、俊の登場によって曲りなりにも「ロミオとジュリエット」が終幕に導かれた直後、彼らに内在した「負」に報いるかのように、あれこれ言及する間を与えない「死」という方法で閉じ繰りが付けられる。

そこに物語世界が「ある」と信じさせる使命を果たして死に赴いた二人を、称揚する事が許される気になるのは何故だろう。自己言及式になるが(まあそういう舞台は多いが)演劇が成し得る仕事の貴重さ、大きさ、良さを信じるから、と言うと大仰だが、自分としては殆ど盛っていない。

 

「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」 今村修(演劇評論家)

昨夜は、流山児★事務所「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」(作=清水邦夫、演出=西沢栄治)@座・高円寺1。戦時中に散り散りになってしまった少女歌劇団を、30年余の時を経て再結成しようと夢見るかつてのファンや団員の物語。1982年の蜷川幸雄演出による初演では、宝塚OGを大集結させたことでも話題を呼び、2009年には同じく蜷川演出、鳳蘭、三田和代主演で再演された。

北陸の地方都市でかつて人気を集めた石楠花少女歌劇団。華やかな娘役・風吹景子(松本紀保)とクールな男役・弥生俊(伊藤弘子)のトップコンビは「バラ戦士の会」という熱狂的なファングループを生むほどだったが、慰問に出かけた工場で爆撃に会って、景子は頭に傷を負って時が止まり、他のメンバーもバラバラになって俊は今も行方が知れない。ところが1970年代の大火のショックで景子が目覚めた。バラ戦士の残党、新村(池下重大)、坪田(甲津拓平)、六角(井村タカオ)、畑(龍昇)は、新聞記者の北村(木暮拓矢)とその弟・次郎(照井健仁)を巻き込んで、景子を中心に新作「日本海遥か┄┄新ロミオとジュリエット」の上演を企む。そのために新聞に出した広告を呼んで、紗織(村松恭子)、和美(麻乃佳世)、京子(小林麻子)かつての団員が次々と集まってくる。そしてついに俊も。だが彼女の瞳は光を失っていた。

かつて、挫折感を抱きしめた抒情と情念の闘争劇を次々と生み出した清水・蜷川コンビ。それが蜷川の商業演劇進出を巡って決裂。8年の時を経て、2人が再び手を組んだのが日生劇場を舞台にしたこの作品の初演だった。そのことを私たちは知っている。だから、失われた劇団、かつての情熱を取り戻そうとするこの劇に、景子と俊についつい2人の姿を重ねてしまいたくなる。それは間違いではないだろう。

だが敗戦から70年余、作品の初演からでも35年以上が経った。もはや作品がバックステージストーリーの呪縛から解放されても良い頃だろう。流山児★事務所のこの舞台には、そんな確信的な挑発が込められているように見える。エンターテインメント性を前面に押し出し、身体を信じた疾走感といかがわしさで空間を埋め尽くす。老若30人余のジュリエットたちが舞台端の闇からワラワラと湧き出してくる場面の混沌、それがたちまち、華やかなダンスに転じる驚き。松本と伊藤が華を競い、年齢も体形もバラバラなバラ戦士たちが各人各様の得意技を活かしてドラマを攪乱する。日生劇場、シアターコクーンで初演、再演されたいかにも蜷川好みの設定を、あくまで西沢流に、小劇場流に、客席数230余の座・高円寺で遊んでみせる。そこには蜷川に対する深いオマージュと共に、挑戦者としての意地が込められているようにも見えた。

作品が成立前史の呪縛を離れたように、登場人物たちも過去の栄光、止まってしまった時間から解放される。それは、自らの老いを自覚することであり、世知辛い世間を受け入れることだ。苦く、辛い。それを敢然と拒否する者もいる。だが、多くのバラ戦士の残党や、多くのジュリエットら凡人≠ヘ頭を上げて新しい世界へと歩きだしていく。

クライマックスで突然柱時計の大きな音が響き始める演出に身が震えた。そう、この舞台は追憶の劇ではなく旅立ちの劇だったのだ。次代のロミオともいえる夏子の「動け!動け!そして自分の歌をうたえ」という最後のアジテーションに胸を突かれながら、この劇の作り手たちの確かな意志表示を突き付けられた思いがした。(敬称略)

「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」  しの

流山児★事務所公演 清水邦夫作『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』@座・高円寺 観劇。

蜷川幸雄&清水邦夫が桜社解散後に再びコンビを組んだ82年の初演から30数余年を経ての再々演。
今なお全く色褪せない戯曲、主演の松本紀保さん他役者陣の熱演共に素晴らしく、ラストの踊りと美しい名台詞に涙した。

改めて観ると、初演当時の清水邦夫さんの蜷川さんへの想いが台詞の其処彼処に潜んでいるように思う。

『真情あふるる軽薄さ』中の台詞「生きたマネより死んだマネ」のリフレイン、ロミ・ジュリという題材の選択等紛れもなく完全に演出家への当て書きだったかと。蜷川さん亡き今、現在の演出家の手により新たなテーマで上演される事で「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」は《イマを生きる人々に捧げる愛のスペクタクル》として普遍的命を持って蘇った。《青春の終わりの夜、若者達は何を夢みるのか?》なる蜷川さんの永遠のテーマの呪縛から解き放たれて。そんな事を感じた夜。

清水邦夫の戯曲のスリルと緊張感、は上質の推理小説と相通じる物があるのかもしれない、言った方がいる。推理小説は犯人が分かれば全ての謎が解けて終わる、が、清水戯曲では、謎が暴かれるほどに真実と嘘が混沌し、犯人は闇の中に姿を隠し、あとには苦い悔恨と重い詩が残る、と。言いえて妙。

またこの作品は、久生十蘭の「ハムレット」へのオマージュとも言われる。昔、蜷川との対談で推理小説を書いてみたい気がする、と言った清水さんは、自ら久生十蘭全集を買って愛読していた。十蘭の短編の緻密で上手過ぎる文章・構成の中に「雨の夏〜」のヒントを見出していたのは間違いないだろう。

書き出すと止まらなくなるのは、自分の劇作者への愛ですから、と恥かしげもなく言って一旦ここで止める。それにしても、この透明な叙情溢れる作品を、敢えて今、上演して下さった流山児★事務所にはもう感謝この上ない。


「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」 中西理(演劇舞踊批評)  「中西理の下北沢通信」

『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』は清水邦夫作の舞台作品。蜷川幸雄の演出により1982年に日生劇場、2009年にシアターコクーンで上演された。

清水邦夫の代表作「楽屋」ではチェホフの「かもめ」が引用されるメタシアター構造になっているが、こちらは劇中劇としてシェイクスピア「ロミオとジュリエット」が上演される。

しかもこれは戦前に日本海側にある百貨店の中にある劇場を常打ち小屋としていた少女歌劇団の男役女役のスターについての物語ともなっており、初演時に淡島千景、久慈あさみ、甲にしき、汀夏子が出演、「三十人のジュリエット」の多くを、引退し芸能活動とは無縁だった宝塚歌劇団出身者が演じたように宝塚歌劇団へのオマージュともなっていた。

今回のキャストには宝塚出身者はいないが、流山児★事務所の伊藤弘子らが男役を好演。ヒロイン役の松本紀保も貫禄の演技であった。

ラストシーンで天井から舞い散る赤い花びらは明らかに蜷川幸雄演出が多用するもので、本歌取りとしても面白かった。

 「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」  いっちの舞台大好き

余りにあまりに最高だったので帰り際に物販で戯曲を買って電車の中で読みながら帰ったのですが・・・演出の西沢栄治さんは『喜劇昭和の世界・三部作』(「阿部定の犬」「キネマと怪人」「ブランキ殺し、上海の春」)の時もそうだったけど、今回の『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』でも戯曲を解体することよりまず戯曲を忠実に理解し、その中でどう現代に向けて舞台に表現していくのかということに重きを置いているんだなと感じました。

この戯曲を書かれた清水邦夫さんといえば『楽屋』があまりにも有名で『楽屋』の戯曲は私も読んだことがありますが、今回の『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』は恥ずかしながら今日の舞台を観るまで1度も戯曲を読んだことがありませんでした・・・ですので内容的には1回の観劇だけではちょっと理解しずらいところも多々あり・・・

しかしながら!主役のお二人(伊藤弘子さん&松本紀保さん)の怪演(←もちろんいい意味で!!)にして好演はもちろんのこと、30人のジュリエットが舞い踊る様は圧巻の一言!!
とにかく総勢42名のキャストのみなさまの熱量がマジパネェスゲ━━━ヽ(゚Д゚)ノ━━━!!!!
流山児★事務所の看板女優にして男装の麗人の弘子お姉様、今回もさすがのカッコよさで惚れ惚れしてました・:*:・(*´艸`*)ウットリ・:*:・

さらに流山児★事務所のみなさんはもちろんですが30人のジュリエットの中にシアターRAKUのお姉様達もいらっしゃったし、今回の振付担当で急遽ご出演されることにもなった神在ひろみさんも舞台の中ではキーパーソンを熱演!
まあ、30人のジュリエットさんがいるのでいくつ目があっても足りなかったです(^_^;)。

流山児★事務所『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』は控えめに言ってもめっちゃ最高でした!!

「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」  山田勝仁(演劇ジャーナリスト/日刊ゲンダイ記者)

座・高円寺1で、冬の劇場25 流山児★事務所公演「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」(作=清水邦夫、演出=西沢栄治、芸術監督=流山児祥)を上演中。

舞台は北陸のある町、深夜の百貨店。伝説の少女歌劇スター、弥生俊(伊藤弘子)の帰還を待ち焦がれ、新村久(池下重大)をはじめ、男たち(甲津拓平、井村タカオ、龍昇、木暮拓矢)は今宵もひそかに「ロミオとジュリエット」の稽古を繰り広げていた。彼らはかつて熱狂的な人気を持ちながらも解散してしまった石楠花少女歌劇団のヒロイン・風吹景子(松本紀保)と「バラ戦士の会」のメンバーだ。

太平洋戦争直前、このデパートに少女歌劇団が結成され、ヒロイン・景子と男役・俊が人気を集めていた。しかし、空襲のため団員は半数が死亡、残りもバラバラになってしまった。景子は頭に負った傷のせいで、現実を受け入れられずいまだに「夢」の中を彷徨っている。

ある日、メンバーの元に、俊が生きているという情報がもたらされる。そして俊と妹・理恵(坂井香奈美)が現れるが、俊は盲目となっていた。それを冷ややかに見つめる新村の義妹・加納夏子(神在ひろみ)…。

初演は1982年。演劇を通した激しい政治闘争を繰り広げた櫻社の同志・蜷川幸雄が商業演劇に身を売ったため(1974年、日生劇場公演『ロミオとジュリエット』)に櫻社は解散。蜷川幸雄は仲間の罵声を浴びることになる。

この作品はそれから8年後に蜷川演出で因縁の日生劇場で上演されたもの。

劇中での二人のヒロインの対決は櫻社解散をめぐる骨肉の確執なのか。 失われた政治の季節への追憶の物語。

冒頭、階段舞台に登場するタキシード姿の男優陣のダンスの華やかさにグイッと舞台に引きこまれる。このあたりは演出の西沢栄治の巧みさ。木暮の階段落ちも見事。

景子=松本紀保、俊=伊藤弘子の対決。これはもう貫録芝居。 村松恭子、麻乃佳世、小林麻子、星美咲ら「歌劇団のメンバーの艶麗さの競演も見どころのひとつ。

オーディションで選ばれたシニアを含めて30人のジュリエットたちがピンクのドレスで華麗に舞うスペクタクルは圧巻。
一人ひとりがジュリエットを生きている。

真摯な政治の季節はもはや追憶の中でしかないのか…。

「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」  藤谷浩二(朝日新聞記者)

流山児★事務所「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」(西沢栄治演出)を座・高円寺で。

清水邦夫さんの演じること=生きることをめぐる戯曲のなかでも「タンゴ・冬の終わりに」「楽屋」と並ぶ傑作だと思うが、なにしろ単なるコロスではなく文字通り「三十人のジュリエット」を演じる女優たちが必要ゆえ、上演は簡単ではない作品。

本格的な上演形式では、2009年の蜷川さんによる再演以来の観劇。

松本紀保さんと伊藤弘子さんを中心に、オーディションを勝ち抜いたという女優たちの尋常ならざる熱量が放射される舞台。出演予定者の体調不良による降板を受け、急遽出演にも回ったという振付の神在ひろみさんの存在感が印象的だった。

久しぶりに池下重大さんの舞台姿をみられたのも嬉しい。フレディの映画が流行っているからというわけではないけれど、The show must go onの精神に触れる作品であり、舞台。

「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」  江森盛夫(演劇評論家)の演劇袋

作:清水邦夫、演出:西沢英治、芸術監督:流山児祥

”舞台は北陸、深夜の百貨店。今宵もひそかに「ロミオとジュリエット」の稽古がくりひろげられる。主役を演ずるのは、かって熱狂的な人気を持ちながらも解散してしまった少女歌劇団のヒロイン・風吹景子。しかし、彼女は、戦争中に遭遇した空襲のショックで記憶をなくしていた・・・。はたして歌劇団の仲間はたちはふったび再び終結するのか?そしてロミオはやってくるのだろうか?自分の歌をうたうため、三十人の女優あったちが舞い踊る!”

この芝居は、1982年に蜷川幸雄の演出で日生劇場で上演された。その上演は、清水・蜷川コンビとしては、珍しく不評で、私も観たが面白くなかった。

しかし、今回は西沢栄治の演出が出色で、風吹景子を演じた松本紀保を中心に伊藤弘子以下の女優陣が懸命に演じて、とても精彩に富んだ素敵な舞台ができあがった。男優陣では池下重大が光っていた。

「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」  結城雅秀(演劇評論家)

深夜の百貨店で「ロミオとジュリエット」の稽古。情熱的舞台。

風吹景子(松本紀保=力強い、微笑)、弥生俊(伊藤弘子)の2人のやり合う場面の迫力!弥生理恵(坂井香奈美)直江津沙織(村松恭子)振付師:加納夏子(神在ひろみ)!1982年の熱気!群衆の力!少女歌劇団!

 


「十二夜」 ★台湾藝術雑誌ARTALK BY:鴻鴻 (詩人、作・演出家)  翻訳/陳重穎      

2018年年末、僅か2ヶ月の間に、シェイクスピアのラブ・コメディー『十二夜』をミュージカルに改編された作品が台湾で2回も上演された。10月の淡水雲門劇場(淡水Cloud Gate Theater)での公演は、台南人劇団バージョンで、時代背景は1930年代の上海に設定され、生演奏を伴い、クラブをメイン・ステージに、歌と踊りをショーアップした上に、「人生こそお芝居」というテーマを浮き彫りにした。

一方、12月の国立台北藝術大学演劇学部バージョンは、「日本アングラ演劇の帝王」である流山児祥が客員演出家として演出。注目すべきは、音楽担当は両方とも柯智豪(カー・チーハゥ)だった。彼の豊富な劇場経験によって、伝統音楽を始め、ポップ、ジャズ、テクノ、抜群な取捨選択のセンスで、二つの『十二夜』のカンパニーに招かれたのも偶然ではないかもしれない。

流山児祥は2002年『狂人教育』台湾上演以来、台湾の演劇界を震撼させ続けている。彼の劇団(流山児★事務所)及び、シニア劇団(シアターRAKU)の多数のツアー公演にせよ、OURTHEATERとの二回のコラボである『マクベス』と『嫁妝一牛車』にせよ、鮮明なスタイルは一目瞭然で、今回の北藝大の学生らとコラボした『十二夜』もまた、その流山児スタイルを極致に至るまで発揮した。エネルギー全開のパフォーマンス、千変万化の場面変化、パッと、ビシッと、ズバッと、のリズムで切り替え、いたずらに劇中から抽出して劇場の現場から観る「メタシアター的視点」、そして「脇役=民衆の視点」を際立たせる群集シーン。

これらの特徴はただの芸術的選択ではなく、むしろ流山児祥の世界観に密接に関係している。群集シーンを例として説明すると、シェイクスピアの芝居は、そもそも「多数の脈絡」が織りなされながら、鮮明な個性の持つ脇役も少なくない。流山児祥はこれを使いこなし、モンタージュ手法で「多数の脈絡」を同時に視覚化させた上、役者たちに個々人の差異を帯びた歌舞団に集結させ、時折メインラインの周囲で傍観し、批評、煽動する。同時に、何人かの「庶民=道化」を登場させ、観客に対してツッコんだり、愚痴をこぼしたり、袖のスタッフと対話したりする状況をも配置し、さらに彼らに「途中休憩」の主導権もあたえ、暫くの間、舞台の中心を占拠させて芝居の焦点を移転する傍ら、「庶民=道化」こそが「世界を突き動かす歯車である」ことを指示し、徹底的に観客のココロを揺さぶる。
                 
台南人劇団の『十二夜』カンパニーのような演技力と歌唱力のある役者とは違い北芸大バージョンは表現力に若干優劣があるのは否めない。開演し始めて直に役者の台詞の言い方や歌い方にやや不十分なところがあると感じ取れたが、間もなく、この問題は徐々に重要視されなくなる〜 彼らの集団的エネルギー及び金の含有率の極めて高いパフォーマンスにおける細部のデザインが、繰り返し、繰り返されて観客に感情的共鳴を呼び起こす〜各キャラクターの独特な動きにジャングリング芸人さながらの身体表現がシェイクスピア的ドラマコメディをビジュアル的インパクトの鮮明な個性的演劇に変容させる。なおかつ、ジェンダー、セクシュアリティ、階級意識等を頻繁に芝居に持ち込み、原作の裏に潜む意味を曝きだし、このキャラ的倒錯の芝居を鑑賞する観客の視点を反復に調整している。

『十二夜』のコメディ的核心は、ヴァイオラとセバスチャンの双子の扮装及び勘違い、「ジェンダー的装い」が生じた無力感と錯謬は現代における経験に繋がれやすい。劇中の兄妹を同一人物と見間違われるいきさつは、古典コメディによく使われるネタであるが、今時の演出には往々にして視覚的不合理さがある。シェイクスピアの時代では全ての女性役は男性が演じたが、流山児祥はそれを逆転し、兄弟二人とも女性に演じさせ、二人におけるリアリティのズレを最低限にさせる。そして、観客が全編にわたって妹が男装したことを知った上で、最後に兄役も女性役者が演じるのを見ても違和感すら感じられなかった。一方が「劇の中」のズボン役で、もう一方は「劇の外」のズボン役、さらに、芝居中に入ったり傍観的視点で抽出したりするメタフィクションによって、文脈がより一層整理整頓されたように覚える。   

ヴァイオラとセバスチャンの兄妹再会後に、全役者が客席まで乱入し、劇場全体を巻き込んでダンスすると同時に、スタッフらが舞台をバラし始める。まるで、喜劇のありきたりなハッピーエンドであると思いきや、向かってくるのはそれと違う意味深長なエンディング ― 役者全員が踊り疲れ果て舞台に倒れてしまい、そして、ゆったりと、靴を脱ぎ、劇場外へと立ち去っていく。役者たちの一足一足の靴が舞台上に残され、さながらキャラクターのお面のよう、再び「演じる」というメインテーマを提示し、舞台に湧き溢れた熱狂的リズムの終焉に、悠々たる余韻が流れ始める。

この画面は正しく前半のハイテンションシーンと呼応し合い:ヒロインの執事(マルヴォ―リオ)が「偽」のラブレターを拾った際に、歌い上げた狂気な幻想、このシーンでは役者らは、ほぼ裸で、手に歌詞のカンペを持って下半身を隠しながら、次から次へと執事の後ろを通り過ぎて行き、絶妙なユーモアを引き立てた。恋を謳歌するように見えるこの喜劇中に、脇役(マルヴォ―リオ)の感情が往々にして翻弄され、嘲笑わられたあげく、良い終結を全うすることができない。全編にわたって流山児祥の「真」「偽」の弁証法を通じて、シェイクスピア晩年の鬱憤な世間のしがらみは少しずつ繊細に浮き彫りになる。

近年では国際的コラボレーションが盛んであるが、演出家が言語的隔たりによって情緒や関係性に対する表現の手加減を間違ってしまう問題がよく見える。にもかかわらず、多数のコラボ経験を積み重ねてきた流山児祥の作品には、非の打ち所なく、国際コラボレーションの模範と言っても過言ではない

  


『腰巻お仙 振袖火事の巻』 日本の演劇人を育てるプロジェクト 新進演劇人育成公演俳優部門   今村修(演劇評論家)

初演は1968年1月。新宿西口の新宿中央公園で上演許可が下りないまま、機動隊200人が紅テントを取り囲む中、上演を強行したという伝説の作品。リヤカーに道具を積んだ唐たちが厳戒の都庁職員や警察を引き付ける間に、トラックで乗り込んだ別働隊が瞬く間にテントを建ててしまったというから凄まじい。上演中止を命じる警察のスピーカーの怒号の中で上演を完遂、唐ら3人は逮捕された。それから半世紀、お仙の奏でる笛吹童子の笛の音が、早稲田の地下空間に蘇った。

幼馴染の片桐仙(山丸りな)に思いを寄せる少年・円谷芳一(祁答院雄貴)は、怪しいソロバン塾の先生(伊藤俊彦)から彼女を守れず、自衛隊に志願する。1年後に戻ってきた新宿の町で仙は、ポン引き(眞藤ヒロシ)と組んで客を引いていた。明智小五郎と名乗る堕胎児たち(成田浬、勝俣美秋、佐野陽一)の母と名乗る仙は、いつしかドクター袋小路の精神病院に。一旦は病室を抜け出し芳一に助けを求めるが、袋小路の奸計によって阻まれてしまう。

と、むりくり筋立てを書き連ねてみても、この劇の世界はほとんど伝わらない。唐の初期戯曲にお馴染みの床屋(中原和弘)と永遠の客(山下直哉)や、妖艶な毒花・西口おつた(江口翔平)、仙の育ての親の爺(大久保鷹)ら、いずれ劣らぬ百鬼夜行な人物たちも登場して、難解にしてナンセンス、猥雑にして神聖なドタバタ騒ぎが繰り広げられる。

1969年といえば、5年前に東京五輪があり、翌年には大阪万博を控え、世間は高度経済成長に浮かれ、一方で大学闘争や70年安保闘争で街が沸騰していた時代。戯曲にも随所にその名残が感じられる。お仙が引き連れる堕胎児たちは、経済発展の陰に押しやられ、踏みつけられ、忘れられてきた者たちの怨念なのかもしれない。3幕と4幕の間で演じられる幕前芝居は、紅テントを花園神社から追い出した新宿の街の「浄化運動」に対する痛烈な悪罵だろう。

まるで先の読めない破天荒な物語の進み行きは多様な妄想を掻き立てる。例えば「お仙」とは何者だったのか。初期の唐戯曲に特徴的な登場人物、ジョン・シルバーとお仙をそれぞれ男性原理、女性原理という人間内部の二つの力学の対立・拮抗・円環と読み解いたのは扇田昭彦氏(冬樹社「唐十郎全作品集 第一巻」改題など)だったが、その顰にならって更に妄想を膨らませれば、お仙は革命幻想に読み替えられないだろうか。当時の反体制運動はベトナム反戦などの平和運動に一つの淵源を持ち、男性原理の権化ともいえる社会の権威や秩序に立ち向かった。それを突き動かしたものは、共産主義理論である以上に情念であったようにも見える。だが、終盤堕胎児たちは反逆し、お仙に襲い掛かる。それは、自由、平等を標榜した運動の中に、いつしか権力闘争や支配といった男性原理的なものが忍び込み、母体である運動そのものを食いつぶして行った成り行きに符合する。だとすれば、運動がピークを迎えていた1969年にすでにその行く末を予見していたことになる。血みどろの惨劇で、多くが死に絶えた新宿の荒野に、お仙と芳一は一体何を見たのだろうか? と、妄想はこれくらいにして閑話休題。

演出の小林は、50年後の東京にこの作品を蘇らせるに当たって、初演を復元させる方向は選ばず、2018年の日本を投影する途を選んだようだ。開幕前から舞台幕に投影されている1960〜1970年代のニュース映像は、当時に観客を引き込むというよりも、その後に展開する劇との落差を際立たせる。劇中音楽も、歌詞はそのまま曲はすべて作り変えた(諏訪創)。ヒーロー・芳一は感情の起伏に乏しく、ヒロイン・お仙も溢れかえる情念や男を食い尽くすような剛さは持ち合わせていない。目くるめくような浪漫とカタルシスを期待すると肩透かしを食うかもしれない。かくも体温が低くなってしまった日本社会だが、五輪といい、万博といい時代は奇妙な相似形≠フ様相を呈してきた。いや、権力が理性を失っているだけ、より厄介な時代になっている。2018年の芳一は、この先どこに新たな戦場≠見出すのだろうか。

初演にも出演した大久保鷹が、已むに已まれず今回戯曲に付け加えた唯一の言葉「寒いよ」が、今の風景の荒涼を無惨なまでに言い当てていた。(敬称略)


『腰巻お仙 振袖火事の巻』 山田勝仁(演劇ジャーナリスト)

一昨日夜はSPACE早稲田で日本劇団協議会主催・新進演劇人育成公演「腰巻お仙 振袖火事の巻」(作=唐十郎、演出=小林七緒)

 日本アングラ演劇史における事件は数々あれど、この芝居ほどインパクトのある公演はなかった。

 時は1969年。ベトナム反戦、反安保闘争で学生運動が燎原の火のように全国に燃え広がり、前年の1968年10月21日の国際反戦デーには新宿駅が中核派・ML派・第四インターなどの新左翼セクトと市民、労働者によって占拠。騒擾罪(後の騒乱罪)が適用され、1000人余が逮捕された。そのため、官憲は新宿での「騒乱」を誘発する動きに神経質になっていた。大人数が集まる公園の管理にも目を光らせていた。

 そんな最中、1969年1月3日。世間が正月休みの最後の日を楽しんでいるその夜、東京都の中止勧告を無視し、新宿西口公園に出現したのが唐十郎率いる状況劇場、通称紅(あか)テントだ。

 前の年に新宿・花園神社を追われた紅テントが再来した新宿。

 怪人二十面相世代の唐十郎が仕組んだのは、二十面相がダイヤを盗む予告をしながら、直前に台所にボヤを起こし、監視の目がそこに集中した隙を狙ってダイヤを頂戴するという「陽動作戦」。

 この作戦によって警察が別の場所に注意を向けた隙に、ゲリラ的に紅テントを建てた。
そして200人の機動隊員が包囲する中、公演を敢行。終演後に劇中で自衛隊員の制服を着た唐と李礼仙(当時)、笹原茂朱らが逮捕され連行されるという演劇史上最もスキャンダラスな演劇公演となった。
「脆弱なる市民の夢に ヅカヅカと踏み込んだ幻の機動隊見よ! 
町は振袖火事だ!!」が当時の惹句。

 もちろん、当時は田舎の中学生。血湧き肉躍る伝説として知っているだけ。
 その「腰巻お仙」が49年ぶりに再演されると聞いては期待しないわけにはいかない。
 
「腰巻お仙」はシリーズもので、「百個の恥丘篇」を皮切りに「忘却篇」「義理人情いろはにほへと篇」などがある。

「振袖火事篇」はそれまでの「お仙シリーズ」の集大成的な作品。

 主人公の横笛お仙=片桐仙子(山丸りな)と幼なじみで自衛隊に入る円谷芳一(祁答院雄貴)との恋の行方を主軸に、そろばん塾の謎の教師・ドクター袋小路(伊藤俊彦)、芳一の父で元戦艦大和の乗組員の床屋(中原和宏)、明智小五郎と名乗る堕胎児(成田浬、勝俣美秋、佐野陽一)ら奇体な登場人物が繰り広げる猥雑なロマン。

 終幕、芳一は恋に破れ自ら戦場に志願するのだが、49年前と現在の日本が通底するかのようだ。
 1964年東京五輪、1970年大阪万博、2020年東京五輪、2025年大阪万博。天皇代変わり、自衛隊海外派兵、憲法改正…。

 アフタートークで、お仙の養父役・爺の大久保鷹さんが「初演にはなかった『寒いよ』というセリフを付け加えた。今の日本は『寒く』ないか。50年前に上演されたこの作品が今の日本を問うているんだ」と言っていた。言い変えれば日本は50年前と変わっていないということ。そしてそれは更に引き返せないほどに悪化しているということだ。

 テントのスペクタクル性とはまた違うSPACE早稲田の小空間を縦横に活用した小林七緒の演出。李礼仙のイメージを払拭しての奮戦、美少女・山丸りな。彼女のデビューから見ているが、脇ではなく主役で光るタイプ。今回のお仙は彼女の魅力の一端を引き出すことができた。
 祁答院は湿気の多い唐十郎美少年と対極の無機質な芳一を好演した。
 ほかに、永遠の客(山下直哉)、ポン引き(眞藤ヒロシ)、看護婦・アキ(原田理央)、看護婦マキ(星美咲)、西口おつた(江口翔平)、サラリーマン(森諒介)、エクスポーゼ70号(橋口佳奈)。 1時間45分。


『 わたし、と戦争』 今村修(演劇評論家)

昨夜は、流山児★事務所「わたし、と戦争」(作・演出=瀬戸山美咲、芸術監督=流山児祥)@ザ・スズナリ。戦争を知らない世代が、どうすれば「戦争」の手触りを実感することができるかを模索した野心作。「戦争」という言葉を単なる普通名詞や歴史の知識から、今生きている日常の場に引きずりおろし触ってしまおうという企みが頼もしい。


日本によく似たどこかの国の今。同じ部隊で、ゲリラの村討伐に戦果を挙げたユリ(林田麻里)、リョウジ(五島三四郎)、マキ(町田マリー)が帰還した。百合は姉夫婦(坂井香奈美・上田和弘)と暮らし、ヒサエ(円城寺あや)から社会順応プログラムのカウンセリングを受けながら、スーパーで働いている。時折訪ねてくる戦友のマキとの語らいが何よりの楽しみだ。リョウジは戦地で負傷して下半身不随となり車いす生活。だが母で政治家のカズコ(伊藤弘子)は、そんな彼を「英雄」として売り出すことを目論み、自由人の父・タカヒロ(若杉宏二)と静かに反目している。そんな両家の戦後≠フ風景がスケッチ風に綴られていく。


毎年250人以上が自殺しているといわれる米国のアフガン・イラク戦争からの帰還兵。国民平均から自殺率が突出しているアフガン・イラク帰りの自衛隊員。戦争は戦場の兵士の心に癒しがたい傷を残す。劇はそんな帰還兵を受け入れた家族の物語として展開していく。家族は彼らにどう接すればいいのか。ある者は腫れ物に触るように過敏になり、ある者はその傷を癒そうとことさらに持ち上げようとする。兵士の心の傷は家族に伝染し、家庭もまた戦場のように壊れていく。戦争は戦場で戦った者たちだけのものでなく、銃後≠フ者たちにも共有され彼らを脅かす。こうして戦争は日常の暮らしの中で、ザラザラとした実感を持ち始め、その手触りは観客にもリアルに拡散する。戦場を描かずに戦争を描く。この仕掛けを発見した瀬戸山の眼力、それを見応えのある劇に仕上げた構成力に脱帽する。俳優陣の演技も熱い。


企みに満ちた物語だけに、細部を紹介するのは愚の骨頂だし、賢しらな解釈は百害あって一利なしだろう。ただし、怖い物語だということだけは伝えたい。力のある劇だ。だが、そうであるだけに、ところどころもっと描き切って欲しかったという注文もつい出てしまう。例えば反戦作家・ケイスケ(里美和彦)やリョウジと不思議な出会いをするチハル(佐原由美)をもっと活躍させられなかったか、例えばリョウジの妹・ミサ(竹本優希)の葛藤の実態は何なのか、それは果たして戦争と絡むのか絡まないのか。説明し過ぎることを嫌う作家であるのだろうとは思いつつ、さらにステキに化ける可能性を大いに感じるだけにいささか勿体なさが残った。

鉄パイプ格子状に組んだ荒々しい装置の所々に家庭的意匠を施した美術(杉山至)が暴力性と日常性の危ういバランスを暗示して刺激的だ。(敬称略)

『 わたし、と戦争』 山田勝仁(演劇ジャーナリスト)

このような舞台が現代の日本で違和感もなくリアルに迫ってくる時代に恐怖する。もはや越えてはならない時代の転換点を越えてしまったということか。

 瀬戸山美咲が流山児★事務所に書き下ろした「わたし、と戦争」(演出も瀬戸山美咲=ミナモザ)のこと。
 舞台は近未来の日本。憲法は改正され、自衛隊=日本軍にとって「戦争」はごく普通の日常光景となっている。

 今しもアジア某国での戦闘が終息。戦場から兵士が戻ってくる。いわゆる帰還兵。
 女性兵士・ユリ(林田麻里)もその一人。彼女を待ち受けていた日常。スーパー店員としての平穏さになじめないユリ。彼女が唯一心を許せるのは戦場の同僚・マキ(町田マリー)。

 ユリはヒサエ(円城寺あや)が主宰する帰還兵の心をケアするグループカウンセリングを受けている。そんなユリに"反戦作家"の叔父・ケイスケ(里美和彦)から見合い話が持ち込まれる。相手は兵役拒否のために自傷したタクヤ(甲津拓平)。
 ある日、ユリの体験談が掲載された雑誌を読んだリョウジ(五島三四郎)が訪ねてくる。彼は戦場でユリと同じ部隊の上官。脊髄を負傷し、今は車椅子生活。リョウジはゲリラ討伐の功で家族が誇る英雄。しかし…。

 ユリ、マキ、リョウジーー3人の兵士が見た戦場の真実とは…。

 憲法が改正され自衛隊が「国軍」となり、戦争ができる国になるということは、こういうこと。日常の中に戦争が入り込む。大学では兵器の研究が行われ、戦争に反対することは表立って出来ない。
 そしていざ戦争に参加すると、心身に傷を負うのは生身の人間。戦場で人を殺した帰還兵は日常に戻ることができるだろうか。

 憎しみもない、見知らぬ人を殺した人間はいくら戦争だからといって、そのまま日常に戻れるはずがない。イラク帰還兵の自殺率の高さ。
 まさか帰還兵問題が日本の演劇の中でリアルに立ち上がるとは、20年前までなら思いもしなかった。

戦場還りの女性兵士という、これからの日本で起こりうる問題を女性の視点からリアルに、そしてリリカルに描くのは瀬戸山美咲ならでは。
女性の微妙な心理と時代の空気感が投影されている。

リョウジの父役で若杉宏二が久しぶりの出演。
ほかのキャストは以下の通り。
 坂井香奈美(ユリの姉)、小林あや(ユリの叔母)、上田和弘(サトミの夫)、伊藤弘子(リョウジの母)、竹本優希(リョウジの妹・高校生)、佐原由美(チハル=リョウジが思いを寄せる女子大生)、荒木理恵(ワカコ=ルポライター)。1時間55分。

 

『 わたし、と戦争』 江森盛夫(演劇評論家)

「この芝居では女性も戦場に行く、しかし、戦争そのものを描くのではなく、全編フラグメンタルなシーンが発光するスパークのように進行する劇だ。そのスパークは芝居の内容を云々する余地を踏み越えてゆく、この戦争はタイトルどうり、瀬戸山自身の戦争なのだ。

「凡そ君と」句:”もののふに死相少しく菊人形”、”欲いまだ少なくもなし菊枕”」

 

『 わたし、と戦争』 才目謙二(演出家)

 まるでギリシャ悲劇のようだった。作・演出=瀬戸山美咲さんならではの緊張感あふれる壮絶対話劇『わたし、と戦争』

 観劇してまず思ったことは、本作を「心理劇」の枠でくくったり、主人公たちの葛藤の劇に還元してはならないということである。確かに、劇は、心や身体に傷を負った戦争帰還者を主人公とし、その癒やすべくもないトラウマや、家族・友人・戦友たちとの葛藤を緊迫した対話で描く「心理劇」の体裁をとる。

 しかし、どこの国でどこを敵とする戦争なのか、「戦争」の具体は描かない。しかし、架空の戦争でない。劇作家・演出家は「もし戦争が起こったら(憲法が変えられ日本が戦争に巻き込まれたら)こんな事態になる」と警鐘を鳴らしているのではあるまい。

 観客が持つ人生の様々なトラウマまでも起動させ総動員させた劇的想像力の中に、「今まさに起こっている戦争」を立ち上がらせたかったのではないか。

 今わたしたちはすでに「戦争状態」の中にいる。21世紀、この革命なき世紀において「世界戦争」はすでに起こっているのだ。本作はすでに勃発している21世紀の戦争をある帰還兵の目から描いているのだ。

 対話劇の体裁をとりつつ劇作家・演出家が本作において立ち上がらせた世界観をいかに共有するか、あるいはいかに応答するかが私たちに課せられた重いテーマとなろう。

『 わたし、と戦争』 三原由起子(歌人)
今日はザ・スズナリで瀬戸山美咲さんの新作書き下ろし「わたし、と戦争」を観に行きました。作・演出は瀬戸山美咲さん、芸術監督は流山児祥さんというお世話になっているお二人です✨
作品は現在の日本に徴兵や派兵や帰還兵が存在した場合の世界が描かれていて、今後の日本の現実的な問題として向き合う貴重なものでした。
対テロリストへの派兵とはいえ、戦場では子供を含む一般市民をも巻き込んでしまうことや、どこの誰だかわからない人々を殺してしまうことへの葛藤、帰還兵の不安定な精神状態だけでなく、その家族にもそのしわ寄せが起きること、徴兵されたくないから何度も怪我をして免れた人がいること、戦争に行った人と行っていない人の分断など、たくさんの問いかけがありました。

『 わたし、と戦争』 高取英(作・演出家・月蝕歌劇団主宰)

流山児事務所の「わたしと、戦争」を見てきた。テンポがとても早いから飽きさせない。流山児さんに紹介してもらった作 演出の瀬戸山美咲さんは、さわやかな人だった。役者がみなよかった。甲津拓平で終わるとは思わなかった!

キャラクターは、売春する女子高生のミサとそれを買うが金のない平和作家がよかった。もちろん、甲津拓平の戦争忌避のイルカ好きのキャラもよかった。作家は、魅力的なキャラをたくさん創作する秀れた才能の人だと思う。社会派とかいわれてるらしいが、魅力はこちらにあると思う。

作品は、未来の戦争から帰ってきた三人の物語、うち二人は、女性。なぜか、岡本公三や、内ゲバの過激派のこと考えてて観ていた。

『 わたし、と戦争』 渡辺修(俳優)

実に刺激的で面白かった。役者達が、皆、この芝居のテーマに誠実に向き合い戦っている様子が清々しかった。

芝居は、いわば仮想現実的世界の日本を舞台にした話で、つい最近戦争が終わって戦場から戻ってきた元戦士達と彼等を取り巻く回りの人間達との緊張感が描かれて行く。その緊張感の謎が最後に明かされるわけだが。

僕らの周りの世界では、今も休みなく戦争が続いているし、我が国も安穏としてはいられない状態のこの日本の今、この芝居は戦争が日常の中に入り込んでしまった時の「戦争」という異物とのつきあい方の問題をテーマにしていると言える。

僕ら世代ではベトナム戦争後の帰還兵をテーマにした映画は「ランボー」の第一作、「ディアハンター」「帰郷」「インディアン・ランナー」等が思い出される。
極限を体験してきた者が、帰還後中々日常に戻れなくて苦悩し自殺した数はベトナムで戦死した五万人を上回る十五万人と聞いている。

今や、戦争の形も定義も意義も多様化して、起こりうる事態は複雑多枝に渡り大きな社会問題として肥大化しているだろう。アメリカ製のテレビドラマにはホームレスになった帰還兵が普通に出てくるし。

僕的には、普通の戦争トラウマでも日常に侵入してくる「異物としての戦争の物語」としては充分に成立したのではと思われたのだ。

これから起こるかもしれない戦争への反対の物語ではなく、「起こってしまった戦争後の世界の物語」という新しい視点とテーマの物語は今まで日本には無かったのではないか。そのために作家にも役者にもかなり難しい作業だったと思われる。でも面白かったし、刺激的だった。


『 わたし、と戦争』 谷岡健彦(演劇評論家)

『わたし、と戦争』を観た。主人公の女性帰還兵の人物造型が秀逸。彼女の視点から、絵空事ではない戦争、日常と地続きの戦場を、瀬戸山美咲はリアルに描き出してゆく。近未来の設定だが、イラクに派遣された自衛隊員に多くの自殺者が出ていることを考えれば、もはや架空とは言えない。」

『 わたし、と戦争』 高野しのぶ(演劇ウォッチャー)

瀬戸山美咲さん作・演出、流山児★事務所「わたし、と戦争」女性帰還兵を軸に近未来の戦時下日本を描く。戦場を隠して日常と分断するのは今の日本と同じ(南スーダン日報隠しなど)。風通しの良い牢獄の美術(杉山至)でのシームレスな転換が好み。

『 わたし、と戦争』 馬奈木巌太郎(弁護士)
国も都市も明確ではない近未来の戦争後の帰還兵をめぐる物語。
帰還兵が「公的」にどう扱われ、一方で「私的」にどう疎外され、苦悩するのか。国などのいわば上からの意見の押しつけだけでなく、市民レベルでのいわば下からの空気の醸成と受容という質感が、ぞわぞわとしたものを感じさせます。
視点や観点も、これまでの戦争や戦地を題材としたものとはまた異なって新鮮でした。

 


 『満州戦線』  高橋宏幸(演劇評論家) 図書新聞「2018年演劇回顧」

「植民地化された朝鮮半島で、日本人より日本人らしくなろうとする朝鮮人の悲哀を描く。その演劇的な、余りに演劇的な作品の熱っぽさは、この戯曲の演出と一致した」 

 『満州戦線』  江森盛夫(演劇評論家)

”流山児★事務所が「代代孫孫2016」に続いて放つパグ・グニョンの作品第二弾。 満州という新天地で五族協和を信じ、日本人として生きた朝鮮の人々に迫る、強烈な火花を散らした若者たちの人生とは・・”

スズナリの中央に四角の舞台をつくり、客はそれを両側から見下ろスタイルの芝居だ。主演は、伊藤弘子、清水直子(俳優座)、、みんふぁあ(洪明花)、いわいのふ健(温泉ドラゴン)、カゴシマジロー(TRASHMASTERS)、小暮拓矢の6人。

上演台本を書いたシライは”僕の言葉に置き換えた部分はあるが、脚本の根幹は全く変えていない。「日本人になることを夢見て満州に渡たった朝鮮人」を「日本人が演じる」こと自体が最大な仕掛けだと、思うに至ったからだ。六人の俳優達と共に、この仕掛けに絡めとられそうになりながら、自分を問い直し、他者を問い直し、血脈を遠い直し、演劇を問い直した1か月半の稽古だった」と当日パンフに書いている。

「現在、もっともノリにノッテいる」シライケイタの才気と勢いにのみこまれた1時間40分だった。

『満州戦線』  山田勝仁(演劇ジャーナリスト)

 今、絶好調のシライケイタの安定した演出力と実力ある俳優陣のコラボで間然する所のない舞台だが、見終えてどうにもモヤモヤ感が残る舞台でもある。
 
 舞台は1943年3月、満州の首都・新京。
朝鮮から満州に渡り、実質的な大日本帝国陸軍士官学校といえる満州国陸軍軍官学校を優秀な成績で卒業し、関東軍の将校という朝鮮人として最高の栄誉が待つ飛鳥(カゴシマジロー=TRASHMASTERS)を祝うために、朝鮮人の友人たちが集う。

クリスチャンであり、満州で熱心な布教活動を行おうとする尚美(清水直子)とシュバイツァーに心酔する恋人の木村(いわいのふ健)、そして飛鳥の幼馴染で市役所勤務の芳江(みょんふぁ)。彼らは比較的富裕層の出身で地位もある。満州で働きながら、みな日本名を持ち、その名前で呼び合っている。
 彼らは祖国独立のために戦う抗日ゲリラを匪賊と呼び、憎悪する。

そこに、祖国の母の手紙を携えて飛鳥の妹・慶子(伊藤弘子)が訪ねてくる。

 歓迎する飛鳥だが、妹が持ってきた朝鮮の伝統的味噌壺は匂いがきつく非衛生的だと拒否する。そして日本の有田焼こそが伝統美なのだと賛美する。有田焼が豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に半島から連れられてきた陶工が作ったということには思いが至らないのか。

 日本人以上に日本人になろうともがく飛鳥。そして芳江。
 芳江は日本人上司との不倫が発覚し、上司の妻に罵倒され、上司に捨てられてもなお「立派な日本人の子」を生もうとうする。
 物語の語り部はその赤ん坊の子。つまり、芳江の孫・金田(木暮拓矢)。

 満州という「王道楽土」を信じ、「五族協和」を信じ、日本人になろうとした朝鮮の人々の苦悩。
 「朝鮮人は意思が弱く、怠け者。自分たちの運命を自分のチカラで切り拓いていく事が出来ない」
「いつも誰かに命令されてはじめていやいや動くという悪い習性を持つ奴隷根性が血に流れている」といった自虐的なセリフが飛び交い、その度に背筋がひやりとする。

 作者は朝鮮人作家であり、それを演じるのが日本人と在日三世というアイロニカルな舞台。
 韓国での初演は賛否両論というより非難轟々だったとか。
 それはそうだ。登場人物はひたすら日本人と日本文化を賛美し、同化しようとする「富裕親日派」だ。飛鳥のモデルとされるのは元大統領・朴正煕(パク・チョンヒ)であり、後に次女の朴槿恵(パク・クネ)は18代大統領になる。韓国国民にとっては軍事クーデターで長期にわたる独裁政権を築いた民主化闘争の弾圧者であり、娘もまたセウォル号沈没事故などの不祥事で罷免された無能な卑劣漢なのだ。
言ってみれば、アメリカにひたすら媚びを売り、戦後日本をアメリカの属国にした岸信介を孫の安倍晋三の視点で語っているようなものだ。韓国国民にとって居心地がいいわけがない。

劇中で飛鳥は帝国陸軍で次々と軍功を挙げ、日本敗戦後は韓国で反共活動に血道を挙げ大出世する。

芳江もまた日本人上司が忘れられず、京都を彷徨う。

芝居を客観視する演出を最後に持って来ざるを得ないのは台本のオリジナル性を尊重したのだろう。これは人間喜劇として見るべきなのか。劇中の聖劇がデタラメな「カモメ」という皮肉な笑いがその象徴か。

「日本人になりたい」「日本文化はすばらしい」ーー観る人によっては昨今の来訪外国人の日本礼賛の風潮と混同、勘違いされかねない危うさがある。

皮肉といえば、冒頭での民族自虐「主体性のなさ」などはそっくりそのまま日本人に当てはまる。

創氏改名を強要されなくても自ら進んで欧米人風の名前を付け、先祖が培って来た食べ物を嫌い、これまた欧米料理に舌鼓を打つ。ハロウィンなど欧米の祭や習俗には熱狂するが、日本古来の祭には関心を持たない。
劇中の朝鮮人の特性と同じ。

その意味で、この芝居は日本と日本人を照射した舞台だと言ってもいい。

すっかりコメディリリーフぶりが定着した伊藤弘子の洒脱な芝居、聖劇の場面の軽みのある芝居で新境地開拓の清水直子、難易度の高い役に挑んで成果をあげたみょんふぁ、その誠実な演技が語り部にふさわしい木暮拓矢、端正ながら軽妙な芝居で独自の存在感を持ついわいのふ健。そして舞台の要であり、この芝居のために頭を剃ったというカゴシマジローが飛鳥の抱える複雑な内面をよく演じていた。

『満州戦線』  山下治城

最近、ニュースで朝鮮半島のことが何度も取り上げられている。平昌オリンピックとそれに伴う南北の対話。さらには板門店での南北代表の会談を経て日朝が会談し、そして先日シンガポールで米朝の会談が行われた。

この日は、パク・グニョンさんがいらしたアフタートークがあった。当日券ギリギリで行ったらキャンセル待ち6番!結局11名くらい入れたのでセーフだったが、会場は満員御礼で熱気があふれていた。奥と手前から一番下にある舞台を見るという構造になっている。

四角い12畳くらいだろうか?の少し高くなった場所が様々な場所に変化する。その周囲を移動する場所と規定し、上手には大きなレンガの壁が設置されている。

満州国を建国した時の歌が現在の大韓民国の国歌になっているとアフタートークで伺った。(驚)日本が満州国を建国したのが1932年(昭和7年)のことである。それから終戦の1945年(昭和20年)まで満州国は続く。

現在の北朝鮮と国境を挟んだ北側の中国の一部が満州国である。この新たな土地に新たな国家を建国して!という大きな夢が当時語られていたのだろう!朝鮮半島から何人もの朝鮮人たちがこの国家に自分たちの未来の夢を見てやってきたのだろう!

朝鮮人でありながら相当の努力を重ね、満州国陸軍軍官学校に入って士官候補になった朝鮮人(カゴシマジロー)のお祝いの会からこの舞台は始まる。

この舞台はこの軍人を祖父に持つ現在は韓国で暮らしている青年(解説者)の口から語られるという構造で語られる。
軍服に身を固めゲートルを巻き、日本国(満州国?)のために命を惜しまないで忠誠を尽くした朝鮮人!

そこには、自己矛盾があるのではないか?
と思う方もいるかも知れないが、こうして同化していくことで自らを守り家族を守るということはおおいに納得が出来る。その際たる人物が満州国の朝鮮人の軍人として描かれる。彼は普通に朝鮮半島で暮らしている朝鮮人とは志が違うと馬鹿にし、ここにも同じ民族同士でいがみあう現実が描かれる。満州国に移住してきた朝鮮人たちはこのような意識高い系だったのだろうか?それともこの家族がそう描かれたのか?

パク・グニョンは戯曲を書くにあたって多くの人に取材してこれをお書きになったらしい。

アフタートークで聞いて知ったのだが、ここで描かれていることは過去の韓国の元大統領の独裁政権を批判するような内容も含まれているので、当時、韓国政府から助成金を停止されたり、上演自体が難しくなることなどがあったらしい!

この舞台のラストシーンは衝撃的!!

軍人だった祖父と、彼をめぐる三人の女性の物語を中心に進んでいく。軍人の妻の芳江役のみょんふぁ(洪明花)がいい!彼女が青年(解説者)の祖母である。アフタートークでは彼女が通訳を務めた!現在、演劇界でも南北の合同企画などが草の根で始まっているらしくこうしたことを通じて「統一」に向けての動きが実際に現場レベルで始まっているということを知った。日本のメディアが報じてくれない事実がこうしてあるんですね。

『満州戦線』  高取英(月蝕歌劇団主宰 作演出家)

このような作品があるとは。ぶったまげた。

「満洲國」が舞台だが、そこに登場する朝鮮の人々は、日本に同化しようとする人々なのだ。朝鮮独立のために戦う同胞を匪賊という!

物語は、日本人の妻子ある男と愛しあった女性、演じるのは、みょんふぁ、の悲劇へと至るが、彼女もその身ごもった赤ちゃんも引き受けるという、男、関東軍の将校だが、その申し出を彼女は断る。
理由は、彼が朝鮮人だから!たまげた。

男は、カゴシマジローが演じている。モデルは、朴 正煕とか。
いうまでもなく、大日本帝國統治時代を批判しての作品なのだが、これ、韓国で上演したとき、大丈夫だったのかと思った。やはり、かなり批判の声が上がったという。この人々は、愚かな面もたくさんあるという設定で、笑わせる部分もたくさんある。戯画化されてはいる。しかし、それにしても、ここまで描くのかという驚きだ。ラストも唖然。

伊藤弘子が男の妹で笑わせ、生まれた子供の息子は、木暮拓也で、語りも彼。

伊藤裕作さんらは、新劇だねえ、とそのスタイルに不満のようだった。セリフ劇なので、そういういい方はわかるが、スタイルの問題なんか、超えた作品だ。この作者、凄いと思った

『満州戦線』  今村修(演劇評論家)

作品世界との距離の取り方に何とも戸惑う舞台だ。昨夜は流山児★事務所「満州戦線」(作=パク・グニョン、翻訳=石川樹里、上演台本・演出=シライケイタ、芸術監督=流山児祥)@ザ・スズナリ。「代代孫孫」(2016年)に次ぐ、シライ演出によるパク・グニョン作品。前作では、「日本と朝鮮の立場を入れ替え、『かつて朝鮮に侵略され南北に分断されている現代日本』の話に書き換えた」(パンフレットより)という大胆なアプローチを試みたシライだが、今回は「脚本の根幹は全く変えていない。『日本人になることを夢見て満州に渡った朝鮮人』を『日本人が演じる』こと自体が最大の仕掛けだ、思うに至ったからだ」(同)という。この「最大の仕掛け」が距離の取り方に困る最大の理由≠セ。

1943年の満州首都・新京。満州国陸軍士官学校を卒業した飛鳥(カゴシマジロー)を祝うために幼馴染たちが集まっている。日本名を名乗っているが全員が比較的裕福な朝鮮人だ。木村(いわいのふ健)は日本人が院長の大病院に勤める医師。その婚約者・尚美(清水直子)は教会に奉仕する敬虔なクリスチャンだ。飛鳥が密かに想いを寄せる芳江(みょんふぁ 洪明花)は、男に伍して難関の公務員試験を突破した市役所職員。少し若い金田(木暮拓矢)は文学を志している。飛鳥の妹・慶子(伊藤弘子)も遅れて合流する。すったもんだしながらも宴たけなわになったころ、突然芳江が寝耳に水の話を切り出した。

ちょっとエキセントリックで、滑稽で、ひたむきで、とびきり熱く、そしてやりきれないほど哀しい青春グラフィティ。日帝占領下という閉塞状況の中、飛鳥たちは自分たちを虐げる日本と同化することで、未来に風穴を開け、自己実現を達成しようとする。だがその燃える眼差しの中に朝鮮の庶民は入っていない。民族独立を求めて戦う同胞を「匪賊」と呼び、自らの伝統文化を否定し、日本人目線で自虐的な朝鮮民族像を語る。その言葉の一つ一つが堪らなく痛ましい。聞いていて居たたまれなくなる。何しろ、彼らをそんな風にしてしまったのは誰あろう、私たちの国・日本だからだ。そんな物語を日本の役者たちが日本語で熱く演じている。この果てしないアイロニーを持て余してしまう。

飛鳥たちの行動には満州という場の特殊性も深く関わっている。「五族共和」を謳う新天地。その偽りの解放感が彼らにひとときの夢を見せる。だが、現実は残酷だ。どんなに努力し、時には仲間を裏切ってまで日本人に認められようとしても、その多くは徒労に終わってしまう。それでも、遮眼帯を付けられた競走馬のように飛鳥たちは東の帝国を見つめ続ける。シンボリックな幕切れにドキッとする。

飛鳥のモデルは韓国大統領となり、飛躍的な経済成長を遂げると同時に民主化を激しく弾圧した朴正熙とされ、その娘・朴槿恵政権下で行われたこの作品の初演は、そのショッキングな内容と相まって、大きな物議を醸したという。日本での上演は、そうした直接的な批評性とは切り離されているが、より普遍的な物語となった分、観客一人ひとりの当事者性に鋭い切っ先が突き付けられる。

とはいえ、全体として観れば喜劇性の強い戯曲だ。劇中に差し挟まれる教会での聖劇はシュールなまでに素っ頓狂だし、登場人物たちの性格も思いっきりデフォルメされ戯画化されている。しつこく繰り返される「まずは一献」の儀式もツボにはまる。それなのに、思ったほど笑いが起きないのは、観客一人ひとりが己の内なる加害性の納めどころに戸惑っているからだろう。そして、笑い飛ばしてしまうには、「米国と完全に一体」と言い放ち、ひたすら対米追従を貫き、国民を見捨てて顧みない今のこの国の政の在り方が、飛鳥たちの心性に余りに似すぎていて、思わずゾッとするからに違いない。

勇ましい言葉の端々に愚かしさと哀しさをにじませるカゴシマ、必死になればなるほどおかしみが増す清水をはじめ、俳優たちは強烈なエネルギーでドラマを駆け抜ける。もっとスノッブなタッチの舞台に仕立てる手もあっただろうが、シライは終始ハイテンションの演劇を俳優に要求する。それは、飛鳥たちが満州国という偽りのユートピアに幻視した自由への滾るような渇望を、深く、熱く舞台に刻み込もうという演出の祈りにも見えた。(敬称略)

『満州戦線』  山根由紀子(朝日新聞記者)

「満州戦線」を見ました。みょんふぁさんの熱演、清水直子さんの真面目だけどコミカルさも出した演技など、笑い泣きしながら見ていました。シライケイタさんの上演台本&演出はメリハリがあって飽きさせない。 


『RAKU★歌舞伎 十二夜』  柾木博行(演劇評論家)

「流山児☆事務所のシニア劇団楽塾が塾ではなく独立した劇団シアターRAKUとして再スタート。その最初の公演『RAKU歌舞伎☆十二夜』がとても良かった。

楽塾時代も何度か上演してきた『十二夜』。私も6年前に座・高円寺2で上演されたものを見たが、その時はかなりゆるい感じで、完成度は今ひとつという感じだった。今回も同じ感じだったらどうしようと少し不安をもちつつ、公演会場の早稲田に出かけた。

ところが今回の舞台は同じ作品とは思えぬくらいの完成度。何より役者たちそれぞれの個性が役のキャラクターと上手くハマり、各登場人物が粒だって見えている。かつては高齢者の女性たちが演じている……という感じで、一人ひとりの役者が主張するところまでいかなかったが、今では主役から脇役まで自身を主張し、またそれぞれなりの個性を放って楽しませてくれる。

とりわけ雪姫(シェイクスピアの原作でのヴァイラ)を演じた原きよをはじめ、魔矢役の平山郁子、道化のポンを演じた辻洋子などのこの数年のオーディションで入ってきた若手(シニア劇団なのに!)が入ったことで、役者陣の層に厚みが増してきたことも成功の要因だろう。

もちろん、そこには演出の流山児の果たすところも大きい。よくこのシニアのメンバーを毎年休まず20年も舞台に立たせてきたものだ。

三重の津市、そして台湾の高雄と国境を越えてのツアー。決して楽なことばかりではないだろうが楽しい舞台を世界に届けていってほしい」

『RAKU★歌舞伎 十二夜』  結城雅秀(演劇評論家)
「RAKU「十二夜」流山児祥。実に楽しいミュージカル。乱丸(ヴァイオラ、原きよ=美人)、左大臣を愛す。丸井三太夫(マルヴォーリオ、めぐろあや=快活)金色の冠にウコンの褌。理性と感覚。狂気と恋。言葉は信用できぬ。フェステ(道化)は、3人で「トゥーランドット」風。来る日も来る日も雨は降る。この後、津市、台湾高雄とツアー」

『RAKU★歌舞伎 十二夜』  江森盛夫(演劇評論家)

21年間、流山児祥の指導のもとで続けてきた女性のシニアの集団「楽塾」が、今回「私塾」でなく劇団として再出発した。劇団名は「シアターRAKU」。そのスタートの作品がこの「十二夜」。私は21年間全作品を観てきたが、海外公演などで自信を深めたメンバーが、今回の公演で全員ホントーに楽しそうに演じ、歌い、踊って、実に躍動感に満ちた豊かな舞台だった。

  


『オケハザマ』  藤原央登(劇評家)  長編劇評「天下泰平のという夢の途中」@シアターアーツ

  駿河の戦国大名・今川義元は2万5千人の軍勢を率いて、織田信長が治める尾張に侵攻した。迎え撃つ織田軍は5千人程度で、数の上では圧倒的な差があった。しかし織田軍の奇襲によって、今川軍は返り討ちに遭ってしまう。これが桶狭間の戦い(1560年)である。この戦いで、それまで東海道で広く影響力を及ぼしていた今川氏は凋落し、織田信長にとってはその後の戦国時代で存在感を高める転換点となった。

 本作は漫画家・しりあがり寿の書き下ろし初戯曲である(脚本協力=竹内佑(デス電所))。静岡県出身のしりあがりは、信長に注目されがちな桶狭間の戦いを、同郷の義元の視点から描いた。とはいえシュールなギャグ漫画で知られるしりあがりである。忠実な歴史劇ではない。武将が群雄割拠する戦国時代は、劇半ばからテレビゲームに移行してしまう。これが劇の大枠であり最大のギャグなのだが、ほかにもあちこちに現代の社会・風俗ネタが盛り込まれる。加えて自由な歴史の見方に拍車をかけるのが、流山児祥による演出である(演出協力=林周一(風煉ダンス))。暗転と明転を何度も繰り返して行われるスピーディーな場転、舞台背景全体に投影される暗示的な映像、幾何学的なダンス。天野天街(少年王者舘)の方法にインスパイアされたような演出を駆使して、総勢29名の俳優を整然と動かし、劇にテンポを生み出す。そのような劇世界の中、役柄とコロスを兼ねる俳優たちは、大人数での活劇やダンス、さらには歌まで歌う。劇空間を俳優の数とパワーで埋め尽くす賑やかさで、まさに新春に相応しい娯楽作品に仕立てた。俳優、戯曲、演出が三位一体になって、混沌でかつ奇想天外な劇世界を一気に駆け抜けた。そうでありながらも、本作には劇の骨子がしっかりとある。一見すると史実とは関係のない劇世界は、現代の位置から戦国時代を見ることを強調する。そのことが最終的に、我々が生きる現代を批評する眼となって差し返されるからである。ハチャメチャな中から顕在化する知的な企みが、本作を高みへと押し上げたのである。 義元(井村タカオ)は権力と名誉欲に憑かれ、絶対権力によって天下の統一を目指そうとする人物ではない。天下泰平を夢見る理想主義者として描かれる。しりあがりはそのような人柄の表れを、義元が1554年に甲斐の武田氏、相模の北条氏と結んだ甲相駿三国同盟に見る。この同盟を東海地方全域に広げれば、東海道と中山道をぐるりと輪を描くようにつなぐことができる。劇中で「東海流通共栄圏」と名付けられた広域の経済圏が築かれると、そこをそれぞれの国の特産物や人が自由に往来することが可能となる。一国で経済を完結させようとすれば、天候不順などで作物が不足した場合に立ちゆかなくなる。その打開策として、最悪の場合は隣国との戦争につながる。恒常的に互いが互いの足らざる部分を補い合うことで、流血をもたらす戦を回避できる。まるでTPPのような経済圏を作った義元の狙いはここにあった。義元は「東海流通共栄圏」を完成させるため、尾張を攻略する必要があったのだ。義元が射程におさめる泰平の世は、日本国内のしかも東海地方であった。だが信長(水谷悟)が目指す射程はもっと大きく、世界各国と対等に渡り合うことによる日本全体の泰平を意味していた。この泰平を巡る弐人の認識の差が、本作では重要な意味を持つ。

 義元の天下泰平の夢は、挫折するという悪夢となって彼を悩ませる。義元は連日の悪夢に襲われ、果ては信長に首を討ち取られる予知夢まで見てしまう(劇中、巨大な義元の人形が登場し、首が飛ぶシーンはスペクタクル的だった)。米をたくさん育ててそれを金に代え、そして多くの物品を買って民が豊かになること。武力に頼らない太平の世は、このような人間の在り方を、一国のみならず徐々に拡大させた時に実現される。これが義元の「東海流通共栄圏」思想であった。「文化的」に生きることを民にきちんと理解させ、忠実にその目的にまい進させる。切った張ったの世の中でそれを実現するには、義元自身の名声をより高めて、民から忠誠を尽くされねばならない。義元は「名声レベル」を上げようと努める。その努力はいつしか、ゲームの世界へと接続される。そのゲームは『信長の野望』(1983年〜、コーエーテクモゲームス)ならぬ「義元の野望」。義元はゲーム内でのキャラクターのステータスを上げることに躍起になる。子供の教育方針を巡る場面で義元は、子供に懸命に歌を詠ませ、蹴鞠をさせ、自身の思想に基いて文化レベルを上げようとする。しかし戦国時代を生き抜くには強い身体が必要だと主張する妻・定恵院(坂井香奈美)は、剣術を習わせて武力レベルを上げようとする。手元のコントローラーでボタンを連打する両親に振り回され、子どもがせわしなく道具を持ち代える様子が可笑しい。桶狭間の戦いに備えた軍議においても、敵がこちらに寝返ろうとしている時は指が光るとか、相手のパラメーターが画面の右上に出る、あるいは噴き出しのように内心が頭から出るから、相手の作戦が丸分かりだと義元は発言する。それを聞いた側近たちからは、義元が異常者になったと見られる始末。義元の現実はゲームの世界にすっかり侵食され、それをクリアすることだけに執着してしまうのだ。ここにおいて劇の幕開けが、布団を被ってゲームに没頭する男の光景だったことは意味深である。これは何を意味するのか。まずは、義元がゲームのように戦を考えているということが指摘できよう。戦を嫌う平和主義者の義元が、現代の引きこもりの男と重ね合わされているということだ。1991年の湾岸戦争時、ミサイルが飛び交う戦火の映像が、まるでテレビゲームのようだと指摘されたことを思い出す。見方によれば、ロケット花火が飛んでいるような暗視カメラの映像を受容することは、同時代の世界で今まさに起こっている事柄との距離の遠さを強調する。そのことが、戦争という現実の虚構化や非実在性を抱かせると共に、そのようにしか受容できない身体とは何なのか。身体感覚のリアリティのなさとしても語られたのではなかったか。

 では、本作は戦争のリアリティのなさを現代に重ねて描いた舞台だったのか。もちろんそうではない。むしろ、ゲームのように戦争を捉える感覚を徹底させ、そのまま突っ切ったところにこの舞台の真骨頂がある。そこに、ギャグ漫画家・しりあがり寿の独自性があり、ゲーム=現実世界の不条理なまでの徹底の果てに、現実への批評性が貌を出すのだ。本作を一段押し上げるのは、まさにこの点にある。劇にドライブ感を与えるのは、後半において信長もまたゲームをプレイしているという展開が見えてからだ。しかも信長は、義元よりも最新の攻略法を見出していた。義元は武力ではなく文化レベルを上げることが、この世界=ゲームをクリアする攻略法だと思っていた。しかし信長がプレイする最新の作品では、日本国内の小さな領主争いではなく、世界を視野に収める必要があった。そのことを表現するように、信長の陣にはクレオパトラ(竹本優希)やジャンヌダルク(橋口佳奈)といった世界の著名人と交流するシーンがある。子供の育て方を巡って妻とゲームのアプローチが違ったように、信長は世界を別の角度から捉え、その攻略法を見出していたのだ。義元がそんな信長に勝つためには、より最新の攻略法を見つけなければならない。義元はPCのアプリケーションを最新版にするごとく、ゲームのアップデートを試みる。しかし、99パーセントまではダウンロードできたものの、あと1%のところでフリーズしてしまう。それによって生じたバグの世界に義元は突入してしまう。バグの世界を抜け出そうと試みて、何度も義元は電脳空間からの着地を試みる。ところが突入した世界はことごとく、登場人物や場の状況がおかしな、バグが生じた世界である。パラレルワールドのような世界を、明転と暗転を繰り返しながらテンポ良く次々に切り返して見せるこのシーンは、本作のギャグ要素のハイライトだった。 義元は信長に首をはねられるという敗北の悪夢から何とか逃れようとして、ゲームの最新の攻略法を見出そうと奮闘した。それは、確定した自身の未来を何とか変えようとする必至の足掻きである。客演の井村(オペラシアターこんにゃく座)の演技がそのキャラクターに説得力を持たせる。ソフトながら確かな声量で歌を聞かせる一方で、いかにもお公家然とした優柔不断な義元を見事に造形した。そこからは、非武力による平和主義者として在ろうとする、貴族的な人間の悩みがにじみ出ていた。しかし運命は変えられなかった。先述したように、天下泰平という目指すゴールは同じでも、義元とは別の攻略法で世界を変えようとした信長に敗れる。井村が演じた義元像もあって、信長とラストシーンで対峙した時、私は義元=ハムレット、信長=フォーティンブラスに見えた。王家を巡る復讐譚に巻き込まれて最後に命を落とすハムレットは、ノルウェーの王子・フォーティンブラスに次のデンマーク国王の座を託す。その構図に、戦国時代における主役の交代が重なったからである。加えてこの覇者の交代劇は、現在に至るまで繰り返されてきたことに思い至らされる。時代が経るにつれて、天下泰平に至る攻略法は更新され続けてきた。と同時に、ソフトのインストールはいつも99%のところでフリーズし、失敗し続けてきた歴史でもあった。つまり天下泰平の解は21世紀の現在においても未だ見出せておらず、ソフトをアップデートしている途中なのだ。ここにおいて本作は、世界平和のために繰り返されてきた、攻略法のアップデートと失敗を巡る、人類の歴史を射程に収めることになった。ゲームのような混沌でかつ奇想天外な劇世界にリアリティを付与することで、現代に至るまでの歴史の重層性を想像させた。そして、いかに世界平和が困難であるかを、今を生きる我々を批評すると共に突きつけたのである。

『オケハザマ』  うにたもみいち(演劇ライター)

以前から楽しみにしていたこちらのお芝居『オケハザマ』を観劇。迫力の殺陣と踊りとキレとテンポのいいお芝居…笑って笑って最後しんみりして、考えが残る…戦国鍋TVの超拡大版超豪華編…という感じ。ゲーム世界との融合が、プロジェクションマッピング効果がとてもマッチしていて面白かった!

  

『オケハザマ』  結城雅秀(演劇評論家)

難解なのか?不思議な世界観なのか?舞台演劇の魅力満載。 個人的ですが、小劇場で大人数の演者が所狭しと駆け回る元気な舞台が好きです。あー楽しかった^_^

『オケハザマ』  萩原朔美(萩原朔太郎記念館館長) 現在の出来事も、みんなゲーム化される。て考えると、今の捉え方が変わるよね〜!「オケハザマ」のテーマはそこだね!Ryuzanji演出冴えてる!

『オケハザマ』  山田勝仁(日刊ゲンダイ記者/演劇ジャーナリスト)

流山児★事務所「オケハザマ」しりあがり寿の脚本が面白い。昔、劇団をやっていたというマンガ家・しりあがり寿の初の本格戯曲で「新春公演」らしく、にぎにぎしくもワクワクするスペクタクル音楽劇となった。

 主人公は今川義元(井村タカオ)。桶狭間の戦いで織田信長に敗れた戦国武将として子どもの頃から絵物語や漫画で見てきたが、それは織田信長側から見た史実。実は今川義元のことはほとんど知らなかった。

 今回の舞台では、尾張、三河を篭絡し、東海道、中山道を繋ぐ「東海流通共栄圏」を作り上げて領国の民を豊かにする理想主義者として描かれている。その高邁さは、どこかの国だけが得をするTPPとは大違い。そのためには甲斐の武田、相模の北条と同盟を結び、尾張を攻略することが義元の悲願なのだが…。

 物語は、「桶狭間の合戦」までの義元の心の動きを「予知夢」に託したもので、しりあがりの4コマ漫画のようなハチャメチャでブラックで不条理。

 義元の夢に現れるのは猛母・寿桂尼(山像かおり)と妻・定恵院(坂井香奈美)、そして軍師・雪斎(塩野谷正幸)。 母はマザコンの義元の尻を叩き、気丈な妻は気弱な義元をけしかける。

 本来なら、兄(上田和弘)が家督を継ぐべきを、これを義元が討ったという負い目もある。連夜続く悪夢。この兄の夢は逸話として実際に語り継がれているらしい。

 後半はテレビゲームの「戦国武将の野望」に将来の夢を見る義元を侵犯する現実と仮想世界の「狭間」に軸が移る。 民衆の心を掌握し、国を富ますには「米、カネ、兵」が必要であるとゲームで悟る義元。さらにそこに「名声」が加わる。  

 しかし、義元の熱中するゲームのバージョンは時代遅れ。最新のバージョンをインストールしようとするが、なぜか99%で先に進まない。このイライラ感わかるなあ。パソコンを使っていて、ダウンロードが止まってしまうというあの不快感、不安感。

 さて、義元、それからどうするのか。

 彼の前に立ち現れる黒い影、織田信長はその最新のバージョンを手に入れているらしい。「米、カネ、兵、名声」だけで天下は統一できない。ならば、何が必要とされるのか。そればかりではない、平和を願うという義元が抱える高邁な「メモリ」が足かせになる戦国の世とは…。

 信長という新勢力の前で無力な義元。その価値観の差で負けたともいえる。なにやら「ポスト・トゥルース」の前に負け戦を展開している現代の我々の姿を思ってしまう。

 役者がみなとびっきり溌溂としている。
 義元に付き従う三人衆、朝比奈(成田浬)、岡部(甲津拓平)、飯尾連龍(伊藤弘子)のギャグに大笑い。

 今回は流山児☆事務所の役者たちが総出演。こんなにいい役者が育っていたのかと改めてビックリ。これに、客演の山像かおり、勝俣美秋や、成田浬らを加えて30人近い出演者がスズナリの舞台を駆けまわるのだから、そのスピード感に陶然としててしまう。 歌も群舞、殺陣…その演出の采配が見事。
 林周一の手による巨大人形なども登場。これでもかというサービスぶり。

 天野天街作品でおなじみの、ポップな「雨降り」などの映像は浜嶋将裕。美術、衣装も素晴らしい。 義元役の井村タカオは流山児☆事務所には何度も出演しているが、今回の役の存在感は圧倒的。その歌声も素晴らしいが、その立ち姿のゆるぎなさ。こんなに凄い役者だったのか。

 山像かおりは初参加だが、京都弁のしゃべくりは水を得た魚のよう。”関西おねーちゃんパワー”爆発。定恵院の坂井香奈美のキレのいい芝居、そして、御大、塩野谷正幸が黒白つかない謎めいた雪斎を好演。

漫画家の余技かと思いきや、しりあがり寿の脚本の巧みさに感服した。約2時間、至福の時間。テンポよし、ギャグよし、チャンバラの迫力よし…めっちゃ楽しめること請け合い。

『オケハザマ』  いしかわじゅん(漫画家)

楽しい芝居だったよ。大勢出てきて大騒ぎする芝居は小劇場っぽくていいね。いいお土産も買ったよ。 

『オケハザマ』  バードランド(演劇ブロガー) 

静岡出身の漫画家しりあがり寿さんが、地元の戦国武将で今ひとつ歴史的評価の低い今川義元を再評価すべく書き下ろした戦国ミュージカル「オケハザマ」
しりあがりさんは朝日新聞の連載、「地球防衛家のヒトビト」が有名で、独特なギャグが人気ですが、脚本もギャグ満載で大いに笑えます。

義元の再評価の方は結構真面目な感じに、天下取りは信長と目的は一緒でもアプローチが違い手間がかかるとし、それをテレビゲームの新旧のバージョンくらいスピードも機能も違うと表現するなど独自の評価を与えたのが印象的でした。 


『ブランキ殺し 上海の春』  江森盛夫(演劇評論家)

この作品で佐藤信の70年代の劇団黒テントに書き演出した「喜劇昭和の世界」三部作が完結した。佐藤信はこの上演のために歌詞を書き換え、それを諏訪創が新たに曲をつけた。元の作曲は林光だった。

状況劇場、早稲田小劇場、劇団黒テントとアングラ演劇最盛期に、これらの劇団の芝居を目を輝かして観た世代にとっては、懐かしい限りの舞台だった。

西沢の演出はダイナミックで今の若い世代にふさわしい舞台を創り、俳優ではさとうこうじの演技が舞台を引っ張り盛りたてていた。

どんどん遠くなる昭和が、この舞台で蘇った。  


「OKINAWA1972」  伊達政保(ライター・音楽評論家)  図書新聞No.3281 ・ 2016年12月03日号掲載

「なんと若者達が躍動する沖縄のヤクザ抗争から舞台は始まった」

流山児★事務所の本拠地で行われたSpace早稲田演劇フェスティバル2016で、詩森ろば作・演出「OKINAWA1972」を観た。1972年といや沖縄返還の年。それを今どの様に扱うのかと思っていたが、やった! なんと若者達が躍動する沖縄のヤクザ抗争から舞台は始まったのだ。
 そして沖縄ヤクザの歴史がコミカルに展開される。沖縄には戦前、日本本土の様なヤクザはいなかった。米軍占領下、沖縄の人々は収容所に収容され、若者の一部は生きるため米軍物資を掠め取った。これを戦果アギャーと言い、彼らが沖縄ヤクザの萌芽となる。彼らの中から、後に基地周辺のバー街を米兵の暴力から守る用心棒となり、嘉手納基地のあるコザを中心とした集団を形成、コザ派と称された。また、那覇の路上賭博などの用心棒を空手道場の若者達が担い、那覇派を形成した。この二派が分派抗争を繰り返し、60年代後半に、又吉スター(劇中は知念)を中心とする那覇派と新城ミン夕ミー(劇中は比嘉)を中心とする山原派(元コザ派)に収斂されていった。この辺りオイラ故・竹中労さんから当時聞いてたからワクワクする。
 一方、日本政府の佐藤栄作首相(なんと流山児祥が演じ歌まで歌う)は沖縄返還交渉に若泉特使を派遣、非核三原則を盾に核抜き本土並み返還を求めるが、アメリカに押し切られ、有時の通告による核の持ち込み、返還移転費用の負担を沖縄返還協定の「密約」として結ぶことになる。すなわち返還後も沖縄の基地は米軍が自由に使用できることとなったのだ。返還の時点から沖縄は日本に裏切られていくことになる。
 ヤクザの抗争と沖縄返還交渉、この二つを軸として舞台は緊張感のある展開をしていく。そのバックには同時代のロックやR&Bが随所に流れるのが嬉しい。沖縄返還を前に、本土ヤクザの侵攻を阻止するため、70年12月、那覇派と山原派は合同して旭琉会(舞台では会名決定で昇竜会と墨書されるが、旭琉会と書いて欲しかった)を結成。同月、コザ暴勤。旧山原派はこぞって参加したと伝えられ、舞台でも迫力のあるシーンの一つとなっていた。
 72年5月15日沖縄返還。73年2月コザでジェームス・ブラウン・コンサー卜を労さんたちと行えたのも、旭琉会の安定の故。74年に内部対立で上原(劇中は金城)組脱退、リンチ事件、劇の主人公である日比混血の組員によってミンタミー射殺、翌年スター射殺、旭琉会は二大巨頭を失い、本土山口組を巻き込んで抗争激化。沖縄返還による本土系列化に、最後まで抵抗したのはヤクザだったとさえ言われている。沖縄のヤクザ社会を抜きに沖縄の問題を捉えてはならないのだ。

 

「OKINAWA1972」  田中伸子(ジャパンタイムス演劇担当記者)

早稲田で満員御礼で大好評上演中の「OKINAWA1972」を観た。まずは昨今ご無沙汰していた劇場の活気を体感。開幕を待つ客がまだかまだかと待ちわびる、そんな熱気に劇場が包まれていた。

その熱は劇が始まるとさらにヒートアップ。狭い小劇場の空間をミリ單位で熟知している俳優たちが空間をあますところなく使い、戦後の沖縄ヤクザ抗争、日米の沖繩返還に伴う密約交渉を一人の青年の目を通して描きながら、さらにはその後の日米の不均衡な関係ー脈々と続く圧倒的で一方的な米国の統治関係ーを示唆して幕を閉じる。

前にも書いたが、翻(脚本)、演出、役者、スタッフワーク(テクニカル&人的)、劇場、観客、、、などなどの要素がすべてが合わさってはじき出される総合点が芝居の評価。その良い例が今回の舞台。

また、観客は観劇後に自然とディベートが起こるような社会的な問題を含んだ芝居を望んでいる〜人の心をほっこりさせるような無害なハートウォーミングなものが横行する中〜ということも再確認した。

 

「OKINAWA1972」  金子修介(映画監督)

 先日スペース早稲田で観劇した流山児事務所の『OKINAWA1972』は迫力ある芝居で見応えあった。
 沖縄が返還されるとなると本土のヤクザが入って来 るから、対立抗争していた地元のヤクザ同士が大同団結するという物語は、中島貞夫監督の『沖縄やくざ戦争』を思い出したが、小劇場という空間で暴れまくるヤクザの抗争を見せられると臨場感があってコワい。

 更にそこに流山児祥演じる時の総理大臣佐藤栄作が、外交特使に沖縄返還の 交渉を指示する場面が入り込んで鳥瞰的な視点が獲得されて面白い。
 核兵器を作らない、持たない、持ち込ませない、という被爆国日本の国是「非核三原則」を、アメリカは軽く無視して「有事の際は事前通告無しで核兵器を持ち込める」ことを条件にして沖縄を返してくれた……という事実は国民には 全く知らされずに密約となり、「核抜き本土並み返還」を果たした佐藤栄作はノーベル平和賞を獲るという大欺瞞が後に起きる。
 いちおう佐藤栄作は悩む。もしその通りにしたら「今後百年、日本はアメリカの属国となってしまう」と。悩んだかも知れないが、結局は属国の道を選び、我々は属国で育ったというわけだ。 
ヤクザの方が真実を貫いてるじゃないか、という話である。

 

「OKINAWA1972」  結城雅秀:演劇評論家 
 沖縄裏社会の抗争、返還交渉を絡めて描く。佐藤栄作(流山児祥)、若泉(坂巻誉洋)、繊維と核。事前協議。亨(五島三四郎)と母(村松恭子)。新垣(東谷英人)深い声。海洋博1975。ウチナンチュー。

「OKINAWA1972」  中山壮太郎(寺山修司研究者)
沖縄の裏社会、佐藤栄作(首相)と若泉敬(密使)
を中心に物語は進んでいく。
日本史の中でも近現代史について充分理解している訳ではないが、各々の出来事は知っている。今回の舞台でそれらが繋がった感じである。まさに点から線ヘ、沖縄の歴史〜過去・現在・未来〜についていろいろと考えさせられた。
途中殺陣のシーン、音楽のシーンなども楽しめた。印象的だったのは国際政治学者の若泉敬に出会えたことである。雰囲気、話し方、表情などを酒巻さんはよく掴んでいた気がする。流山児さんを始め、五島さん・栗原さん・甲津さん・伊藤さん・佐原さん・荒木さんなどいつものメンバー、村松さんや新納さんや杉木さんなど全員が役になりきっていて見応えがあった。」

 

「OKINAWA1972」  PANTA(頭脳警察・ミュージシャン)
 流山児祥扮する佐藤栄作をはじめ各演者達がスバラシすぎ、全員オキナワ出身かと後で聞いたら違ってみんな二ヶ月の特訓の成果らしいと知り驚愕。
 知らなかった沖縄の真実、壮大な沖縄の裏面史をひとつの芝居に仕上げたスタッフの叡知とエネルギーに拍手を送りたいと同時に、知らなかった自分を叱責しつつ教えてくれた「OKINAWA1972」に感謝。

  選曲も往年のロックの名曲が轟音を奏でとにかく騒々しい芝居だったが言葉のひとつひとつの重みが日本の、そして沖縄の戦後史の腸(はらわた)を引きずり出したようなものすごい作品だった♪
 

「OKINAWA1972」  柾木博行(演劇評論家)

沖縄の戦後の本土復帰を、沖縄のヤクザ同士の抗争の話と、沖縄復帰の対米交渉について佐藤栄作首相と交渉役となった学者との密談を並行して描き、沖縄復帰とは何だったのかを見つめた意欲作。ペレス元首相の訃報のことと合わせて色々考えさせられた。」

「OKINAWA1972」  佐野バビ市(演出家・東京ミルクホール主宰)

あの狭い空間に迸る役者の言葉と動き。 我々がきちんと思考・意思表示しなければならない「沖縄」を、しっかりと見せてくれるエンターテイメント。 眩しい照明に照らされて、今もあのパワーが脳内をグルングルン。」

「OKINAWA1972」  高木登(劇作家・鵺的主宰)
「『OKINAWA1972』が面白すぎてな。内容もさることながら、演劇を信じている人たちが全力を尽くしているさまが本当に感動的でな。観ることができて良かった。あと流山児さんがいちいち面白くて最高だった。

「OKINAWA1972」  松永玲子(女優・ナイロン100℃)
大変面白かった。
沖縄返還時の密約と、当時の沖縄ヤクザの話で、説明と情報満載の重く深い内容なんだけど、教科書的でもなく、説明書的でもなく、エンターテイメントな見世物になっていたのが、お見事でした。元々、熱量の高い劇団ではあるが、時に軽く、時に静か、そしてあくまで祝祭。俳優陣も観る度に唸るほど上手くなってるし。塩野谷さんも若杉さんも出てないのにこのクオリティとは、凄い劇団。

「OKINAWA1972」  演劇定点◎カメラ:まねきねこ
 舞台。ボックスを組み合わせてテーブルと椅子、部屋平床など種々見立て。
 目まぐるしく転換。転換もショーの一部と見せて楽しいところ。
 お話。沖縄本土返還の顛末を、政治の舞台裏と沖縄裏社会の変遷から描く。

 縛られし人々を縛りのないダイナミックでカラフルな舞台で描く。抗いと煩悶をノンストップの社会派エンタメとして活写。
歴史を数値や文書でなく、個々人の生き様、息づかいから蘇らせてて好感。楽天と痛みの交錯には堪らない気持ちになるねこ。オヤジもニイチャン、ネエチャン、みなかっこよくて魅力的。 鉄砲玉・日島亨役、五島三四郎さん。こんな人居たっけ(失礼)な鮮やかさで印象。

 

「OKINAWA1972」  伊達なつめ(演劇ジャーナリスト)
 基地で働くフィリピン人にレイプされた母を持つヤクザ役五島三四郎は噂に違わず魅力的。でも沖縄返還時のショッキングな交渉・密約問題とヤクザ組織の形成・抗争過程を並列させ、ハイテンションのエンタメ作品に仕上げる詩森ろば(作・演出)の手腕にはさらに惚れ惚れ。
 狭い空間での迅速で妥協無き場面転換(美術/杉山至+鴉屋)にもワクワクし通し。沖縄の空のようにカラッと明るく力強さに溢れた作品だけど、最後は、アメリカにコケにされ、沖縄をコケにする日本という国の矮小さ卑劣さを突きつけられる。

 「OKINAWA1972」  岡崎香(演劇ジャーナリスト)
「面白かったのは流山児★事務所の「OKINAWA1972」@space早稲田。戦後の沖縄裏社会史を描いた詩森ろばさんの脚本と躍動感溢れる演出が、流山児★事務所のカラーにバシッとハマり、どの登場人物も生き生きとして魅力的。今も犠牲を払い続けている沖縄に思いをはせる。」

「OKINAWA1972」  今村修(演劇評論家)「長編劇評」

 沖縄が日本に戻ってきた1972年に向けて、現地の裏社会と、本土の首相官邸では一体何が起きていたのか。汗と怒号が飛び交うバイオレンスアクションと、外交を巡るギリギリの腹の読みあいが続く密室劇が交錯する。馬鹿な男たちの大暴れ隙間を縫って、たくましい女たちの魅力が花開く。流山児★事務所ならではのハードボイルドプレイだ。

 敗戦後の沖縄に任侠ヤクザは存在せず、米軍の倉庫から物資を盗み出し人々に配る「戦果アギャ」と呼ばれたならず者たちが、地域ごとにグループを作って張り合っていた。コザ派は泡瀬派と山原派に分かれ、那覇派からは普天間派が独立し、数次にわたる構想を繰り返してきた。だが、本土復帰が現実味を帯びてくるに連れ、本土ヤクザの進出に対抗するため、沖縄の裏社会も大同団結の必要に迫られる。

 恩義に厚い長老・国仲(新納敏正)、「ミンタミー」の仇名で怖れられる狂犬・比嘉(甲津拓平)、「スタァ」と呼ばれる人気の空手家・知念(杉木隆幸)、風を読む才人・金城(栗原茂)、切れ者の若手・新垣(東谷英人)。大立者5人が集い「昇竜会」が誕生した。

 そんな中、フィリピナー(フィリピン人との混血)で、貧しさから高校進学をあきらめた亨(五島三四郎)は、悪友キャンコロ(眞藤ヒロシ)に誘われ、金城の下に身を寄せる。一方そのころ、遠く離れた東京は永田町の一室では、時の総理・佐藤栄作(流山児祥)が米国への密使・若泉(酒巻誉洋)と2人で、沖縄返還の条件として米側が持ち出してきた理不尽な要求に頭を痛めていた。

 地べたを這いずるような無頼たちの構想と、沖縄を巡る政治のパワーゲーム。劇のフォーカスは極小と極大の間をランダムに行き来する。これまで余り見たことのない斬新な手法に時に頭がクラクラする。沖縄が抱える矛盾の縮図を裏社会に見出した作家の眼力に感心する。やさぐれ男たちはとことん馬鹿で暴力的で愛らしく、そんな彼らを巡る女たち(村松恭子、伊藤弘子、佐原由美、荒木理恵)は、とびっきりしたたかで、艶やかで、柔軟だ。そんな男と女が疾走するドラマは、狭い劇場空間を高い熱量で覆い尽くす。一方、首相官邸の2人も一筋縄ではいかない、首相はいきなり歌い出すし、密使はタップまで踏んでしまう。

 シリアスな題材を扱いながらも、そこは流山児★事務所。エンターテインメントの軸は揺らがない。70年代米国ロックから島唄、ワタブーショーのナンバーまで、全編ほぼ間断なく鳴り響く楽曲が、舞台に時代の風を吹かせる。

 44年前の物語は、軽々と現在にも通底する。ひたすら自らの政治的功績に拘泥する佐藤首相の身勝手さは、同郷の現首相と容易に二重写しになるが、建前だけでも「非核三原則」を重視する姿には、「それでも今よりは数段ましじゃん」と身も蓋もない感慨を抱いてしまう。貧困による進学断念、混血差別などのエピソードも今再び明確なリアリティーを纏ってきた。現政権による「平成の琉球処分」に抗って翁長知事の下に大同団結したオール沖縄の運動は、「第二の昇龍会」と言えないだろうか。
 
 沖縄返還を虫の目線と鳥の目線で立体視する野心作。ただそれだけに欲を言えば、二つのドラマに一瞬でもいいから交わる点が欲しかった。また、結局本土ヤクザはどうなったか。暴力の祭りの後の結末も知りたかった。(敬称略)

 「OKINAWA1972」  小山内伸(演劇評論家) 「産経新聞:鑑賞眼」掲載

返還がなされた1972年前後の沖縄を描く。作・演出の詩森ろばは、激動する時代を、沖縄ヤクザの呉越同舟を通じて鮮烈に映し出す。

 ヤクザ組織のなかった沖縄では戦後、米軍倉庫を狙う義賊からヤクザが生まれ、抗争も起こった。やがて、本土からの組進出に対抗すべく主流派が共闘する。ところが、そのひと組の頭である金城(栗原茂)に仕える、フィリピン人とのハーフ、日島(五島三四郎)が他の組長狙撃事件を起こす。その傍らで、時の佐藤栄作首相(流山児祥(りゅうざんじ・しょう))と、その密使に任じられた若泉敬(酒巻誉洋(たかひろ))との密談を交錯させ、米国との密約が成立する過程をつづる。

 下層の裏社会とトップの裏取引とを重ねることで、今日なお続く基地問題の原点を見据える果敢な試みだ。妥協を探る冷ややかな政治と、白熱するヤクザたちの群像との対比が面白い。

シリアスなテーマながら舞台回しは軽快で、喜劇性も十分。沖縄ヤクザの歴史はショー仕立てで説明し、首相のカラオケ歌唱まで飛び出す。殊に場面転換を逆用した演出が卓抜。キャストによるセット組み換えを当時のアメリカン・ポップスと踊りで彩り、あの時代、あの地の熱狂を醸し出すのだ。地味な小空間を華やかなキャバレーに変える美術(杉山至+鴉屋)も効果的。

 ただし、語り手でもある日島の内面造形が薄い。流山児の首相に、のらりくらりとした味わいがある。

「OKINAWA1972」  江森盛夫(演劇評論家)

 1972年の沖縄の本土復帰とコザ騒動の時代を描いた芝居。沖縄の地元のやくざの動向と、本土復帰への密使若宮敬と時の総理大臣佐藤栄作との、沖縄への核の持ち込みの密約の話、これらをないまぜにして、沖縄の歌と踊りがにぎやかに舞台の覆って、1972年の沖縄が描かれる。

 沖縄やくざの出入りや親分殺しの話と本土復帰の高度に政治的な問題が、うまくリンクしているとは思えない芝居だが、現在の沖縄のことを考えるには、一度は振り返るべき問題がきちんと描かれているとはいえる。
 
現在の日本の究極の問題は、これからの沖縄の動向、沖縄の自立、基地の撤廃、辺野古の基地を作らせないことだ。だから、詩森に沖縄の1972年の芝居を依頼した流山児のアクチュアルな問題意識は舞台に反映されたし、有意義だった。

「OKINAWA1972」  バードランド(演劇ブロガー)

1972年は沖縄が本土に復帰した年だが、沖縄返還をめぐる佐藤栄作首相とアメリカの密約と、沖縄の裏社会の歴史を同時進行的に描く。ふだんは見えない舞台裏で暗躍した人々の群像劇。
 まず、沖縄返還をめぐる密約だが、アメリカが返還に際して提示した条件はふたつあった。ひとつは繊維の貿易水準を引きあげること、もうひとつは、核兵器を「事前通告」で持ち込み可能にすることである。本土と同じ条件での復帰を望む佐藤首相は、若泉敬を政府の密使として派遣し、交渉を重ねる。
 それと同時進行するのは、沖縄の裏社会の歴史。米軍基地に忍び込み物資を盗む「戦果アギャ」がゴザ派になり、米兵が集まるAサインバーの用心棒から那覇派が生まれる。ゴザ派は山原派と泡瀬派に分かれ、那覇派からは普天間派が生まれた。山原派と那覇派と普天間派は三派連合を結成し、泡瀬派と対立。
 だが、沖縄返還が決まると、過去の確執は水に流し、本土のヤクザに一致団結して対抗しようと昇龍会を結成する。沖縄返還に向けて、キッシンジャーと極秘交渉を続ける日本政府の佐藤首相と若泉敬、一方で、いったんは合同団結したものの、再び抗争が激化する沖縄裏社会。激動の沖縄が活写されていく。

 時代の大きな波に翻弄されながらも、基地で働くフィリピン人コックに日本人女性がレイプされて生まれた日島亨の生きかたを通して、沖縄返還を描く。アメリカが日本との密約を盾にして、本当に実現したかった目的とは何か? それは核の持込みではなかった。

流山児★事務所の『OKINAWA1972』(詩森ろば作・演出)を見たあと、さらに検証するように、沖縄返還に関するドキュメンタリー番組をいくつか見てわかったことは、アメリカが沖縄を米軍基地として使用しつづけることこそが、返還時における最優先の条件であり、密約であったということだ。

「OKINAWA1972」  伊藤裕作(ライター・歌人)
 面白い舞台でした。「産経新聞の劇評」興味深く読ませていただきました。ただし、ここだけは違うな、と思ったことがあります。戦後の沖縄でしか生まれてこなかった出自を持ち、成績優秀にもかかわらず上の学校へ行くことを自ら断念、ならず者として生きる道を選び、結局は鉄砲玉になる五島三四郎が演じる日島亨。

「OKINAWA1972」  山田勝仁(日刊ゲンダイ記者・演劇ジャーナリスト) 日刊ゲンダイ演劇えんま帳掲載

 1972とは沖縄がアメリカから返還された年。物語の舞台は1972年だが、現在につながるオキナワの問題がアクチュアルに描かれている。決して過去の物語ではない。
 辺野古移設問題、高江のヘリパッド建設、そして今秘かに進められている宮古島、石垣島への自衛隊配備計画。沖縄返還から44年経った今も沖縄が抱える基地問題の本質は変わらない。それどころか、さらに悪化している。その遠因は1600年代の薩摩藩の琉球支配。中国と冊封関係(形式的な主従関係)を結んでいたから、日中の間の綱引きの道具にされていたともいえるが、独立した国家であったことは確かだ。

 それが1879年の日本による「沖縄処分」というだまし討ち的な併合によって日本に編入されたことで、その独立性は崩壊。1945年の地上戦、敗戦、アメリカ統治を経て、1972年の日本復帰というまさに苦難の道を歩んできたわけだ。

 戦後、基地が押し付けたままの沖縄の痛みの原点が72年の沖縄返還に関する「密約」であることは間違いない。
 佐藤栄作首相とニクソン大統領の間で結ばれた「有事の際の事前協議(当初は事前通告)による核持ち込み」の密約は09年に佐藤栄作邸から機密文書が発見され、翌10年に鳩山内閣が公式にその存在を認めたことで歴史の闇から解放された。
 佐藤栄作の密使として日米間の秘密交渉をまとめたのが在野の学者・若泉敬だ。

 物語は、6次まで続いた沖縄やくざの内部抗争を軸に、佐藤(流山児祥)・若泉(酒巻誉洋)の秘密交渉を往還させながら、今につながる沖縄の闇と真実を描いたもの。

 主人公は日本・フィリピンの混血児・日島亨(五島三四郎)。幼なじみの喜屋武幸星(眞藤ヒロシ)に誘われ、「淡瀬派」の代表・金城雄吉(栗原茂)の舎弟となるが、やがて沖縄の裏社会を震撼させる事件の主役となる。

 この芝居の中で彼だけが現実の事件における実在の人物の名を名乗っている。あとは仮名。名前が出生に関する重要な意味を持つのでこれは作者の意図によるもの。

 さて、戦前の沖縄に「やくざ」は存在せず、戦後、アメリカ軍から物資などを強奪する「戦果アギャー」と呼ばれる無法者が跳梁跋扈し、アシバーとも呼ばれる愚連隊が徒党を組んでAサインバーの用心棒などをし、「那覇派」「コザ派」といった組織を結成。そこから分裂抗争を繰り返し、「泡瀬派」「山原派」などが派生していった。

 物語に出てくるのは実在の人物を模したもので、那覇派のカリスマが知念世和、通称・知念スター(杉木隆幸)。コザ派の代表が国仲善吉(新納敏正)。その部下で狂暴な男がミンタミ(目玉)こと比嘉喜文(甲津拓平)。インテリ崩れの冷徹な新垣清(東谷英人)が次代の新スタイルのやくざを狙っている。

 72年に迫る沖縄返還、そして75年の海洋博の利権を前に本土のやくざが進出。それを牽制し、大同団結、「昇龍会」を結成するのだが、内部抗争が勃発…。

 冒頭、70人も入ればいっぱいのSPACE早稲田の舞台狭しと入り乱れるやくざたちの大立ち回り。これが殺陣も決まり、大迫力。
 「佐藤・若泉」が密会を重ねる首相官邸の応接室のシーンとやくざのたまり場であるキャバレーの場面が鮮やかに転換する。

 「残花」でも舞台美術が大きな要素となったが、今回も静と動を瞬時に切り替える作・演出の詩森ろばの手腕がさえわたる。 沖縄のためによかれと思って密約に手を貸した若泉が、アメリカの真の目的を知り、彼らの手のひらの上で踊らされていたことを知った絶望。酒巻が好演。

 流山児の佐藤栄作とは意外なキャスティングだが、鵺のような権力者の不気味さが出ていた。例によってマイク片手に歌うし(笑い) 内部抗争の果てに死屍累々のやくざたち。その悪夢はやがて来る本土(ヤマトンチュ)による沖縄(ウチナーンチュ)の分断、統治という現実と重なっていく。

 知念の妻を演じた伊藤弘子がキップのいい姉御を、日島の母を演じた村松恭子は無学ながら子を思う母の心情を切々と演じた。売れっ子ホステスで日島の恋人・由理の佐原由美が小悪魔的な魅力を振りまき、同僚のホステスを演じた荒木理恵がコミカルな味を出す。
 日島役の五島三四郎は型破りなスター性があり、これからが楽しみ。
 場面転換で使われるロックの選曲が見事な効果をあげている。これは詩森のセンスだろう。 
 やくざ抗争という小状況と沖縄密約という大状況を絡ませた構成によって、沖縄の過去を描きながら今の沖縄を照射している。 1時間50分という上演時間も嬉しい。 スピーディーで退屈しない。(文中敬称略)   


『代代孫孫2016』  佐々木譲(直木賞作家)

韓国で上演すればこの作品はストレートな「一族の歴史」ものだけれど、シライケイタはこの原作の設定を逆転させ、台詞を完全に日本人のものに置き換えてしまった。すると、この舞台上の日本はかつて韓国の植民地であり、独立したけれども南北に分断され、ベトナム戦争にも参加した歴史を持つ、という国になる。ある種のパラレル・ワールドものという言い方もできるかもしれない。

ところが観ているうちに、この作品はパラレル・ワールドものというよりは、アクチュアルな近未来もののように見えてくる。韓国の近・現代史が、いま予想しうる日本の明日そのものではないかと思えてくるのだ。たとえばアメリカ軍後方支援で外国に派遣され精神を病んだ帰還兵の姿は、いまやけっして他人事ではない。

シライケイタ演出により、おそらくは原作者の意図を超えてヘビーな問いかけを持つことになった舞台。

 


「メカニズム作戦」  齋藤偕子(演劇評論家)
宮本研:作『メカニズム作戦』は、組合運動に引き込まれ、会社との軋轢の中で自己存在証明を求める若者中心に描く。

1962年初演当時は(残念だが観ていない)移入したてのブレヒトの影響もあろう先進的多場面音楽劇で、今回その線は流山児祥の担当した構成・演出により、現代リズムの中で更に前面化。
音楽に迎えた特異な活動歴長い「時々自動」の朝比奈尚行も(構成・音楽、演奏も「時々自動」の一員)ドラマ性含め生かした。

いわゆる職場演劇=働くものの姿を職場という社会集団の中の軋轢と葛藤で描く=出身作者の素材はそのままだが、構造の多面化と音楽性がそれを超えて今日の前衛にも通じてくる。

確かに、職場にセットされた作品として、個々の人間もそのコンテクストで生きてきているが、集団(社会)性を強化するのみでなく、寓話的に生かし得たのは、リズムがドラマに合体していく音楽性と矢継ぎ早の場面転換だ。パースペクティブを与えた効果である。

育成対象者七人が新鮮で元気で、独唱にも合唱にも振りがついてくるので、歌とダンスがいっぱいの舞台になる。この点から、現在では古風と見える争議に関わる人々の努力の仕方も、今日も「未解決のこと」なのだと思い起こさせてくれる。
日本的人間関係、集団描写も万歳だ。

 

「メカニズム作戦」  江森盛夫(演劇評論家)
 この作品は1962年、第8回岸田国士戯曲賞受賞作品。
この芝居は、電電公社のある支局の労使交渉を音楽劇に仕立てたもの、労働組合がいまより社会に力を持ち、社会の動向を左右する力をもっていた・・。私などにはひどく懐かしい存在で、今でもやってはいるが、5月1日のメーデーなど、それは盛大で、労働者は明るい未来を夢み、信じていた時代だ。

今でも組合はあることはあるが、労働者が創る文化などというものはないだろう。宮本も初期はそうだが、職場作家といわれる劇作家がいて、おもしろい作品を書いていた。

 

最近上演した青年劇場の「島」を書いた堀田清美や劇団民芸に言った大橋喜一など力のある作家がいたのだ。この音楽劇仕立ての舞台をみてつくずく感じたのは、あの頃の労働運動には、労働者の文化があったこと・・。さまざまな労働歌があり、昼休みに歌ったものだ・・。
今回の舞台にでている若い俳優たちは、そんなことは知らない世代だが、流山児の今でも違和感がない構成と、朝比奈のジャズやロックを取り入れた音楽で、躍動感あふれる演技で舞台を盛り上げていた。この若い俳優たちの息吹は新春早々新鮮な気分を横溢させてくれた舞台だった。ちなみに演出の流山児のご尊父は、当時の労働者組合の元締めの組織である総評の副議長だった。

 「メカニズム作戦」  バードランド

日本の演劇人を育てるプロジェクトの音楽劇『メカニズム作戦』(宮本研作、流山児祥上演台本・演出)を見る。1962年に発表され、この戯曲で宮本は岸田戯曲賞を受賞した。当時は職場演劇も盛んだった。高度経済成長のなか、労働組合と経営者が年末手当をめぐって闘争する。

音楽劇であることも特色で、同時代の唐十郎、別役実、佐藤信、井上ひさしなども音楽入り戯曲を発表していた。組合はジャズの音楽、歌、踊りで労働運動を盛りあげ、経営者に対抗する。賃上げ、年末手当のアップ、労働時間の短縮が争点であるのも時代を感じさせた。

 「メカニズム作戦」  今村修(演劇評論家) 

 底抜けの明るさだ。昨夜は、日本の演劇人を育てるプロジェクト 新進演劇人育成公演 俳優部門「音楽劇 メカニズム作戦」(作=宮本研、上演台本・構成・演出=流山児祥)@Space早稲田。1962年に青年藝術劇場によって初演された、宮本の岸田戯曲賞受賞作。今はとんとご無沙汰になった職場の組合運動を描いたアナーキーな作品だ。元々4曲のナンバーを仕込んだ音楽劇の試みだったが、流山児はこれを、八方破れの爆走ミュージカル(構成・音楽=朝比奈尚行)に仕立てた。

主人公は、電電公社(NTTの前身)の組合の末端組織である「分会」。年に一度の組合大会を明日に控えて、まだ新執行部が決まらない。苦肉の策のあみだクジ(無作為標本抽出ともいう)による選挙で、分会長・ダークホース(木場允視)、書記長・ロカビリー(白井圭太)、青年婦人部長・ポニー(関谷春子)、組織宣伝部長・あの野郎(五島三四郎)が選ばれるが、組合活動にはずぶの素人。だが、後衛党のいい加減な支部委員長(井村タカオ)や、前衛党出で高圧・教条的な支部書記長(上田和弘)らの指導をはねのけ、大好きなジャズのノリで型破りの活動を展開し人気を集めていく。闘争の山場・就業時間内2時間の職場大会では、破天荒な仕掛けで、会社側の分局長(武田智弘)、庶務課長(浅倉洋介)、庶務主任(山下直哉)らを蹴散らす。だが、祭りの後には理不尽な処分が待っていた。支えを失い、「徹底的な自己批判」の末に4人が出した「Zプラン」とは?

 最近の「連合」の体たらくをみるまでもなく、国民が組合に寄せる関心、信頼は薄れて久しい。だが、「総資本vs総労働の対決」と呼ばれた三井三池争議から2年、この戯曲が書かれた1962年には組合はまだ、労働者の未来を託するに足る信頼を保っていた。勿論様々な問題や矛盾を孕んではいた。前衛党と後衛党の路線対立、幹部の腐敗、一般労働者の関心の薄れ、会社側の卑劣な権謀術数??。劇中でこれらを戯画化し笑い飛ばしていく宮本の筆は、容赦なく手厳しい。この年、宮本研35歳。組織の澱に染まらず、若さゆえの無手勝流でラディカルに突っ走るドラマは見ていて眩しい。その疾走のバイタリティーを通奏低音として支えているのが、宇宙開発へのあふれる夢だ。時あたかも米ソの宇宙開発競争の真っただ中。一足先に宇宙に人類を送り出したソ連の宇宙船「ボストーク」、宇宙飛行士「チトフ」らの名前がこよなく懐かしい。明日は今より良くなると誰もが無邪気に信じていた時代。高度経済成長の成果を労働者に取り戻す組合の役割への期待は大きかった。

 そんな時代の空気を色濃く映した「メカニズム作戦」をそのまま上演すれば、単なる懐古趣味の舞台になりかねない。そこで流山児は、戯曲からとびっきりの明るさを抽出、凝集したミュージカルという鬼策に打って出た。組合用語や時代背景は知らなくても(パンフレットに挟まれていた用語集には隔世の感を抱いた)、この破れかぶれの明るさは、頑張って明日を信じてみることの辛さを楽しさは、音楽を通して体で感じることができる。目を疑うような出来事の連続でへこたれがちな気分に、この明るさは活を入れてくれる。まずは元気を出さなくっちゃね。

 多種多様な楽器を千手観音のように一人で操る鈴木光介の演奏、ダイナミックな神在ひろみの振付、そして小劇場ミュージカルもここまで来たかの思いを強くする俳優たちの歌唱力。とりわけ、ポニーを演じる関谷のソウルフルな歌声は、耳を貫き、終演後も長く頭の中で響いた。半世紀前の戯曲と現代のカブキ者たちの幸福な出会い。ちょいと覗いて元気をもらってみては? 

 「メカニズム作戦」  広田敦郎(翻訳家)

拙訳によるトム・ストッパードの『コースト・オブ・ユートピア』が上演された翌年、宮本研の『美しきものの伝説』を観ていたく興奮しました。蜷川さんのところへうかがうと、「日本にも『コースト〜』があったんだ!」とやはり興奮気味におっしゃっていて、これほど素晴らしい戯曲を知らなかったことを恥ずかしく思いました。最近、ある文章に「アーサー・ミラーは書くことで世界を変えられると本当に思っていた最後の世代の劇作家だった」と書いたのですが、今日『メカニズム作戦』を観て、宮本研もそういうヴィジョンをもつ劇作家だったと改めて思ったのでした。

「メカニズム作戦」  山田勝仁(日刊ゲンダイ記者・演劇ジャーナリスト) 日刊ゲンダイ「演劇えんま帳」掲載) 

青年芸術劇場(青芸)が1962年(7月4日〜10日)に上演した作品。その後、ほとんど上演される機会がなかった。新劇が主流の時代。その後訪れる「アングラの時代」を予感させる作品で、「職場演劇」から頭角を現した宮本研の革命的な舞台といっていい。

 物語は電電公社(現NTT)の組合分会。役員のなり手がなく、アミダクジで選ばれたのが、通称ダークホース(木場允視)、ロカビリー(白井圭太)、あの野郎(五島三四郎)、ポニー(関谷春子)の4人。
 アミダクジだから統計学上の論理でいう「無作為抽出法」による役員決め。組合の平均的な代表執行部というわけだ。言葉を変えれば「民主合議」の上に成立した執行部。
 彼らはそれまでのダラ幹が牛耳る組合運営の常識とはまったく別の流儀で賃上げ、オルグ、年末闘争に挑んでいく。それもジャズとロックに乗せて軽快かつ軽薄に。

 敗北に終わった60年安保で前衛党の裏切りにあった若者たちの、権威と現実に対する叛乱劇。前衛党の政治至上主義と後衛党の経済至上主義の相克に右往左往しながらも自らの主張を敢然と進める若者たち。 舞台下手で生演奏する鈴木光介の音楽が彼らの心象を微細に表現する。

 音楽劇であるから役者たちも、ギター、クラリネットなど手に楽器をもって演奏する。関谷春子が圧倒的な歌唱。ダラ幹が入り浸るバー「ボストーク」のワーシャ(山丸りな)がコケティッシュな魅力。1962年に、宮本研は後のアングラ小劇場の自由奔放さを先取りしていたのだ。

 物語のベースになったのは泉大八の小説「ブレーメン分会」(新日文掲載)。電電公社の社員であり、1959年にアカハタに投稿した「空想党員」でデビュー。1960年に発表した「ブレーメン分会」で泉大八は芥川賞候補になったが、62年に安部公房らと日本共産党中央執行部を批判。党を除名される。68年の退職後は官能小説に転向。宇能鴻一郎、川上宗薫らと並ぶ人気作家になったわけで、一般的には泉大八はエロ小説家として知られるが、元は共産党活動家。「ブレーメン分会」の自由奔放さは前衛党の教条主義とは相容れなかったのだろう。 
 1時間50分の歌と踊りと組合闘争(逃走?)劇。 労働組合が社会を変えると信じた時代は今から見ればなんと牧歌的だったか。 今や、労組は右を向いても左を見ても「闘い」どころか、総御用組合化。戦後最大の戦う労組「国労」が国鉄民営化によって潰されたのが日本労働運動壊滅への序章だった。

 総評亡き後、日本を牛耳る連合は自民党に軸足を移し、いまや労働者の組合なのか経営者の御用聞きなのか右転落状態。福島原発事故があってもまだ「原発推進」という電力総連が幅をきかせているのだから何をかいわんや。若者のエネルギーにあふれた「メカニズム作戦」は70年安保に向けた社会変革の嵐のステップボードともいえる。この時代の落差。

 55年後の「組合運動」不在の今、その息吹がどこまで客席の若い世代に伝わるかはわからないが、いつの時代にも共通する若者たちの「渾沌とした自由への渇望」は十分に伝わった。 ちなみに、この「メカニズム作戦」の前に、宮本研はNHK名古屋放送のために「アウトサイド物語」を書き下ろした。これはNHK組合運動で名古屋に左遷された遠藤利男氏(後のNHKドラマ中興の祖。元NHKエンタープライズ社長)に捧げた作品といわれる。演出は遠藤利男氏。主演は青芸公演と同じ米倉斉加年。つまり「メカニズム作戦」は「アウトサイド物語」をベースにしたものといえる。
 番組は青芸「メカニズム作戦」の初日1週間前にテレビ放送された。

 


劇団ユニットラビッツ&流山児★事務所コラボレーション「幻影城の女たち〜胡蝶の夢編」 井上淳一(映画監督)

 作・共同演出の佐藤茂紀さんは福島県郡山市の高校の先生。前作『あれからのラッキー☆アイランド』は、壁で囲まれ、地図からも消され、陸の孤島となった福島に残された人々の破天荒な闘いの話だったが、今回は福島で演劇をやっているフツーの女子高生の話。しかし、これまたイメージがあちこち乱れ飛び、破天荒不謹慎極まりない。福島で生まれ、福島で育ち、福島で暮らす人だけに許される福島の描き方。

佐藤さんはそれを十二分に武器にして、この国を撃つ。クライマックス、福島と沖縄が出会う予感には思わず涙が零れました。

 

劇団ユニットラビッツ&流山児★事務所コラボレーション「幻影城の女たち〜胡蝶の夢編」 山田勝仁(演劇ジャーナリスト)

 「ラッキー☆アイランド」(2014年)、「あれからのラッキー☆アイランド」(2015年)に続く福島発の「フクシマ」を描く作品3作目。

 タイトルの「幻影城」は江戸川乱歩の探偵小説評論集で、乱歩が戦時中に福島に疎開していたことからつけられた。 物語にも乱歩の世界が登場する。

 サブタイトルの「胡蝶の夢」は、中国戦国時代の思想家・荘周が蝶になった夢をみたが、自分が夢の中で蝶になったのか、それとも夢の中で蝶が自分になったのか、自分と蝶との見定めがつかなくなったという故事によるもの。

 311から5年8カ月。いまだに仮設住宅暮らしを余儀なくされている被災者が岩手・宮城・福島の3県で9万人もいる。それなのに何が五輪だ、何が復興だ、何が帰還だという怨嗟の声があるのは当然のこと。 胡蝶の夢のように、311が夢であり、今の生活は311前の自分が見ている夢に過ぎないという儚い願いが込められているとしたらその哀しみの行方はどこに向かうか。舞台に込められた被災者の複雑な恨み=ルサンチマン。

 開幕前に、「ただちに人体に影響のない飴」を客席に配る女子高生たち。ここは小劇場SPACE福島のこけら落とし。福島県をかたどった巨大なオブジェの前に立つ演劇部顧問の芽衣子先生(鈴木紀子)と、震災時の教え子で今は教師となった波美子(佐原由美)。
「シーベルトとかベクレルとか私たちだって当時初めて聞いた言葉でしたし、でもその数字自体に閾値がないっていうか…。閾値って何かわかりますか?」 と客席に向かって苛立たし気に話しかける芽衣子。 彼女たちが今稽古中なのは「怪人二十面相vsジャパン」なる乱歩のパロディ劇。

 出演するのは霧子(竹本優希)、双葉子(松岡沙也華)、凜子(鹿又由菜)。そして変態3人組、タケ子(山下直哉)、ウメ子(遠藤聖汰)、マツ子(成田浬)。 タケ子が扮するカメは怪人二十面相が化けたもの。 前々作ではゴジラが登場したが、では今回は…。

 奇想の物語は予想もつかない方向に転がっていく。あまりにも荒唐無稽なこの結末を誰が予想しえただろう。 中盤の芽衣子のセリフが胸を打つ。

「もう一度原発事故が起こるとしたら、福島で起きた方がいい。だって、福島の人は経験してるし、勉強もしてるし。初めてだったらこんな辛い思いをするのは耐えられないから。でも一回経験した私たちは耐える。だけど、こんなに早く忘れ去られるなら、『ガメラ行け。東京に。首都に。日本の心臓に。全部ぶち壊して、思い知らせて来い。私たちが味わった苦しみを』って…」 
このセリフで涙腺が決壊してしまった。

 自分の故郷で建設中の大間原発。計画は80年代から。それを知った時から、常に思ってきた。「もし事故が起こったら自分は故郷を失う」と。その不安を福島が引き受けてしまったという申し訳ない気持ち、後ろめたさが常にある。心のどこかで「原発事故が一度日本のどこかで起こればこの先すべての計画はなくなるだろう」という悪魔的な気持ちがあった。 それが福島で起こってしまったことへの罪悪感がある。

 しかし、それでも原発は止まらないどころか、さらに再稼働が進んで行く。なんていう国なのだ。 だから、「最終兵器」ともいうべき、ラストの「反撃」はいくら荒唐無稽であろうとも演劇的リアリティ―を持つ。

 現実社会のリアリティ―と演劇的リアリティ―は違う。 自虐被虐ひっくるめて、胡蝶の夢の結末はこれでいいのだ。 今回、出演者が全員、見事なアンサンブル。芽衣子役の鈴木紀子は現実と虚構のあわいを芝居の中だけでなく現実でも往還している。リアルなセリフはフクシマの彼女ならでは。佐原由美も声を潰しながら、ラブリーな波美子先生を好演。
 成田カイリの女子高生怪演は破壊的。 原発問題を描く舞台でこんなに笑うことができたのは初めて。 現実があまりもにバカバカしく、もはや我々は「哄笑」するしかないから。

 

劇団ユニットラビッツ&流山児★事務所コラボレーション「幻影城の女たち〜胡蝶の夢編」 BY迫 浩司(ライター) 長編劇評

 アナグラへと通じるような仄暗い階段を下りると、いきなり迎え入れられたのは客入れと思われる4〜5人の案内係。劇場内ほぼ中央の桟敷席に腰を降ろし、公演チラシに目を通していると「健康に害のない飴はいかがですか?」と、すっと女子高生風の案内係が近寄ってきて声をかけられた。これは糸引き飴ではないか!水色、紫、赤と色とりどりのなかから赤色の糸つき飴をひとつつまみ上げ、気恥ずかしさと懐かしさに拮抗しながら、すぐ口のなかに放り込む。昭和の香り立つ、着色料塗れの甘味が口一杯に広がっていく。

 ということは、今から糸引き飴を舐めながら観劇することになるのか?! それにしても、おっさんが口から糸を垂らしている、この姿、今、劇場に入ってきたばかりの客には可笑しな光景に映るんだろう。

 少しずつ飴が小さくなり、仕舞いには溶けて糸だけになってしまった。残った糸をどう始末していいものか。もっていたボールペンに巻き付けようと試みるも暗さと焦りから思うように巻けない。それでもなんとか巻きつけることに成功した途端、それまで糸引き飴を配っていた案内係が突然、客席に向かって喋り出していた。

「本日はご来場ありがとうございます」
「スペース福島、本日こけら落としでございます」
「それにしてもスペース早稲田そっくり」
「ですよねえ」

演劇はこの世の写し鏡であるという。世は思いによって変えられるのか?!
じゃ、おまえはどうか? 何を変え、どう生きていこうとしているのか?
感じているかい?
生きているかい?
眠っている心の襞に揺さぶりをかけてくる。

 演目『幻影城の女たち-胡蝶ノ夢編-』の”胡蝶の夢”とは、中国の思想家荘子の説く「斉物論」の”胡蝶の夢”からとったものかと思われる。
ある夜、荘子は自分が蝶になった夢をみた。目を覚ますと、果たして自分が夢のなかで蝶に変身したのか、いま蝶が夢のなかで自分になっているのか、どちらかわからなくなったという話。

一体、この世は?現実か?いや夢の話か?
うつつか、まことか、それとも幻影か?
いや、どうともいえない世界のことか?

腹底からふつふつと立ち上ってくる痺れのような熱さを感じた90分間だった。

 いや、この熱さこそが絶対的にリアルな世界なのだ! と…
現実か、夢か、入れ子構造の劇中劇か、過去と未来とが垣間見れるとされる、合わせ鏡のように、位相の異なるシーンが冒頭からラストまで客を煙に巻くように、まこと、うつつ、幻影が紡がれていく音楽劇。

 虚構と現実を行き来しながら思いと思いが交錯し、肉と肉がぶつかり合いながら、時には破廉恥に時にはシリアスに、性格のまったく異なる登場人物芽衣子(鈴木紀子)と波美子(佐原由美) をメインに描かれていく。明智小五郎役の佇まいと凛々しい声が印象的な鈴木紀子、怒りに燃える波美子役からキュートな小林少女役へ、それぞれの役の魅力をうまく演じきっていた佐原由美も心に残る。

 あるシーンではまことか、うつつか、どちらともつかない世界で芽衣子と波美子が3,11後の福島の現状を悲哀をもって語りあい、あるシーンでは高校の文化祭で上演される芝居の劇中劇シーンさながら、アクション満載のエンターテイメント風に演じられていく。次第にどれが現実で、どれが劇なのか判然としなくなってくる。そんな中、クライマックスへ。

 どのシーンもほとんど動き回っている役者陣たちの奮闘ぶりも楽しめるが、それに負けず劣らず、作者の思いのつまった直球勝負のセリフが胸に突き刺さってくる。

 アフタートークで一人のゲストが話題に挙げていたが、劇中にゲストが登場してくるシーンがあった。おそらく虚構な劇空間にリアルなゲストを登場させ、二項対立的世界をかき混ぜようとした意図であったと推察できるが、個人的には劇(芝居)への集中が途切れ、却って役者の気持ちを慮ってしまい、すぐにトークに集中できなかった。が、こういった浮遊した意識も、すべては虚構だと解釈すれば、楽しめるのだろう。
只、演出と思いのつまったセリフの熱量とのアンバランスさが気になってしまったが、この微妙なアンバランスをどう昇華していけるか、客の力量が問われるのか?!

 しかしながら、なんでもありなエンターテイメントな劇空間は、見るものを飽きさせない。
劇中に通低しているのは、夢と現実、幻影と現実、性(一部女装、同性愛が描かれる)や境界の問題にしろ、二項対立的価値観の向こう側を描いている。どちらともいえない世界の提示だ。それが虚構の演劇を通し、果たしてラストにどういったメッセージを投げつけてくるのか?
波美子「芽衣子先生、報告があるんです。私、教員採用試験受かりました。来年の春から」
芽衣子「波美子。それは夢の話でしょ」
波美子「先生・・・気づいてる・・・・」
敢えて直接には提示せず、われわれに爆弾を投げつけてくるラストに作者の思いが込められているように感じられた。

 劇後、帰途につきながら、ある思いに引っ張れていく。
最近、読了した安藤礼二氏の評論。
鈴木大拙の語る「空」の思想やエックハルトとスウェーデンボルグの語る、「体験」の思想について語っていた。いかに現実に空の思想を体現できるのか?いやひょっとしたら、演劇にもそのような二項対立的価値観の向こうの世界が描けるのではないか?鈴木大拙は「経験」から「純粋経験」へ、そして、”心”に行き着くことになる。自らのなかに映りこんだ、自らの心を見つめている”心自体”だ。今風にいえば、”あるがまま”となるのか。劇中のセリフにも「演劇は自分事なんだって」で語られていたような気がする。
作者は、そういった”あるがまま”の自らの心自体を描きたかったのではないのか? そう思えば思うほど、作者のリアルな焦燥や怒りがストレートに心に突き刺さってくる。

 そう思いながらメモ帳とボールペンを取り出し、今の思いをしたためようとした。その時だ。得たいの知れない欠落感に襲われた。「ない!」「糸がない!」ボールペンに巻きつけていたはずの糸が消えている。どこかに落としたのか? いやそんなはずは。。。と、バックのなかをまさぐるも見つからない。確かに上演前にボールペンに糸を巻きつけた、スペース早稲田の客席で。それが消えている。うつつか、まことか、それとも幻影か?そう思えば思うほど、良い夢を見終えたあとの目覚めのような、すがすがしい思いに全身が満たされていく。駅の改札を抜け、ステーションビル前に数台の消防車が停まっていた。近くの居酒屋でボヤがあったらしい。周囲の建物の壁に点滅している赤色灯の光だけがやけに眩しく映っていた。(敬称略) 

 

劇団ユニットラビッツ&流山児★事務所コラボレーション「幻影城の女たち〜胡蝶の夢編」 今村修(演劇評論家) 

「ラッキー☆アイランド〜のこされ島奇譚」(2014年)、「あれからのラッキー☆アイランド」(2015年)と、原発事故以後のフクシマの風を東京・早稲田に吹き荒れさせて3年目。ストレートな言葉を大胆な奇想に乗せた、熱量の高い舞台となった。

 福島の高校で演劇部の顧問をしている芽衣子(鈴木紀子)は、かつての教え子で今は同僚の波美子(佐原由美)と共に、新作の稽古指導に余念がない。出し物は女子高演劇部が江戸川乱歩のパロディー「怪人二十面相vsジャパン」という、あんまりな作品に挑むというメタシアトリカルな芝居。霧子(竹本優希)、双葉子(松岡沙也華)、凜子(鹿又由菜)の女子部員に、明らかに男子が女装しているとしか見えないタケ子(山下直哉)、ウメ子(遠藤聖汰)、マツ子(成田浬)も加わって、ダラダラ稽古は進んでいく。なぜかカメに化けた二十面相に挑む美少女探偵団と明智探偵、小林少年。ところが、二十面相の野望がどんどんエスカレートし始めたことから、物語全体が制御不能の暴走状態に陥っていく。

 ボーイッシュで意志的な鈴木と、ガーリーで情熱的な佐原という対照的なWヒロインがチャーミング。共に自分との距離が取りにくいセリフが多くタフな役どころだが、それをはっきり意識してえんじている姿勢に共感する。ガタイの良ささえなぜか笑えるOGS(おじさまにしか見えないシンドローム)3人組の破壊力も無敵だ。
ベクレル、シーベルト、嚢胞、甲状腺??。

 舞台には被曝関連の言葉がこれでもかと飛び交う。そして、明確な閾値も示されずなし崩し的に進んでいく復興≠ニいう名の棄民、いともたやすく事故の傷跡を忘れ、オリンピックに血道を上げる度し難いこの国の人々への、やるせない怒り。過去2作を上回るストレートな言葉の思いはそのままに、しかし客席をたじろがせる攻撃性を中和しているのが、二重三重に仕組まれた入れ子構造であり、自分たちさえ笑ってしまおういう貪欲な被曝ギャグであり、ダイナミックにもほどがあるイメージの飛躍であり、執拗に繰り返される夢への言及だ。とにかく笑いのネタは馬に喰わせるほど仕込まれているのだが、題材が題材だけに迂闊に笑っていいのか、という客席の戸惑い感がこれまた面白い。乱歩の「現世は夢、夜の夢こそ真」という至言が作品全体の通奏低音となって、とっちらかりそうな物語をグッと引き締めている。

 歌あり、踊りあり、活劇ありのエンターテインメント。勢いに任せ過ぎたところや、逆にも少し丁寧に扱ってほしいところなど、細部に注文はないではないが、この題材をこうした形で描こうという蛮勇は大いに買いたい。まさにフクシマ発でしか作りえない舞台だ。

 怪獣は登場するもののまだ物語が日常と地続きだった「ラッキー☆アイランド」、日本地図から福島県が消えた、というショッキングな設定で始まる「あれからのラッキー☆アイランド」、そして今回終盤に待ち受ける想定外と、作品を重ねるごとにイメージ仕掛けは大がかりになっている。一方で言葉はよりストレートになり、鬱屈の内圧はどんどん上がっているように見える。

 この5年の越し方がフクシマをどんどん追い詰めている。それを目の当たりにする思いで、舞台を賑やかす笑いの奥の言葉をかみしめた。(敬称略)


『あれからのラッキー☆アイランド』 主催:(公社)日本劇団協議会●文化庁委託事業 平成27年度戦略的芸術文化創造推進事業  BY 船木迫(ジャーナリスト/写真家)

寝る子を叩き起こさず、そっと遠回りし、やりすごすこともできたであろう。
確 信犯的に正面からメンチ(睨んでいる)を切っている。現実を見ろ! 目を覚ませ! 考えろ! そして、行動しろ! と訴えかけてくる。”死”を想って、行 動することを。上っ面なところで生きているものたちの日常と無縁なように、市民側に立ち、敢えて自ら危ない橋を渡ろうとしている。戦うことを良しとし、怒 れ! と連呼するアジテーターとしての使命。

舞台は、福島原発事故から70年後の近未来の日本とフクシマ。ファシズム国家となった政府は、情報操作によって、フクシマが日本地図から消し、原発事故すらなかったことにしようとしている。

荒唐無稽。なんでもあり! 塀に囲まれたフクシマに生き残ったものたちは、『鬼』と呼ばれている。
あ る日、武闘派の若者たちがテロを企てようと画策し、フクシマの復興を進めていこうとする穏健派たちと対立していく。一方、政府はテロを未然に防ぐ為、優生 な種を残していく法律、『新優生法=断種法』を成立させる。棄てた男を追い、全国を旅する女など、男女の情愛と差別問題とが織り込みながら、敵味方入り乱れての闘争劇へと発展していく。

冒頭からラストまで貫かれているのは、愛と暴力、そして、批評精神だ。

これは、現代の アングラ演劇だ!泣く子も卒倒する。愛と暴力の子守唄。100席足らずの客席で。汗と唾液塗れの最前列で。ケツの痛み、薄っぺらいチラシ、隣の鼻息、体感 するものすべてが懐かしい。なぜだか自然と前のめりになっていく。こういうの嫌いじゃないなぁ…自分。理屈なしに。

1960年代中期から1970年代にかけ、日本の演劇界が揺れていた。アングラ演劇の台頭である。 アングラ演劇とは? 地表とは対照的に地下(アンダーグランド)にもぐって、活動する演劇。
つ まり、近代演劇(新劇・商業演劇)に対抗する潮流として、理論武装を厭わぬ、根底には反体制や反商業の思想をもつ、実験的な演劇。劇構造や演技などを変革 しつつ、日本の演劇界に新風を吹き込んできた。今回、演出を担当している流山児祥のサイトにアングラ演劇について触れた箇所があったので、その一部を引用 したい。

・『「己の存在をも解体する」という決意。破壊の後に廃墟しか残らなくとも!という潔さをもつ。
・本来、アングラは市民、大衆の側に立った志高い「反権力」の異議申し立て行為。
・ぺラぺラの地表の人々を「暗いあなぐら」へと引きずり込みながら地表の世界を変える。
とある。戦う男たち、反権力の異議申し立て、市民の側に立った志、すべてがこの舞台上にある。

 ただ、そこに存るのは、60年代のアングラ演劇ではない。今、3.11後のアングラ演劇なのだ。 以前のような破壊後には廃墟のみという潔さから、さらには希望なる光明を描いている。ラスト、ゴンドラの唄の『命短し恋せよ乙女…』の歌詞が群唱される。 そう、人生なんてあっという間、短い。だから、今を生きていく。薄っぺらく、生半可に生きている地表の人たちを引きずり込み、変わることを切望する熱風を 吐きつけてくる。
(後略)

 

『あれからのラッキー☆アイランド』  主催:(公社)日本劇団協議会●文化庁委託事業 平成27年度戦略的芸術文化創造推進事業    BY 神田香織(講談師)

印象に残っているのは、佐藤茂紀:作、流山児祥:演出の「あれからのラッキー☆アイランド」


70年後のフクシマは地図から消され県境は高い壁で覆われ隠れ住む第3世代の子供達はメラニン色素がない白子(しらこ)に。
全国のフクシマ由来の人には断種法「新優生法」が義務化される。それから逃れフクシマに多くの人が戻ろうとするところを、国軍が機銃射撃!
もちろん笑いたっぷりですが、今日の棄民状態の福島、安保法案、軍産複合体への舵切り、マイナンバーなどなど考え併せると荒唐無稽とは言い切れない面白い芝居でした。

 

『あれからのラッキー☆アイランド』  主催:(公社)日本劇団協議会●文化庁委託事業 平成27年度戦略的芸術文化創造推進事業   BY 今村修(演劇評論家)

哄笑の悪夢劇とでも呼んでみようか。

流山児★事務所+劇団ユニットラビッツ「あれからのラッキー☆アイランド」(作=佐藤茂紀、演出=流山児祥) @Space早稲田。

民を棄てて恥じないこの国の在り方を無頼の笑いで挑発する、捨て身のプロテストシアターだ。悲惨すぎてもう笑うしかない、という鬱屈したエネルギーが炸裂する。福島以外の作家が書いたら、殴り倒されるに違いない、過激なネタのオンパレード。舞台を疾駆する俳優とギュウ詰の観客から湧き出し渦巻く熱気に圧倒された。

70年後の福島。国を挙げた情報操作によって、今や日本地図から県ごと消され、塀に囲まれて生きるその地の人々は「鬼」と呼ばれて いる。その一人、武勇に名高いタカ(成田浬)やその片腕サスケ(山下直哉)、福島を出たトモゴロウ(藤井びん)らは復権のための策を探るが、業を煮やし怒りに駆られるオニゴロウ(大久保鷹)、テル(栗原茂)らは塀を超えて出撃しては破壊活動を繰り返している。政府はその脅威を口実に、国に逆らう者たちの 断種≠ノ乗り出す。自分を棄てた男を探して全国を流離う福島弁の女ハトコ(鈴木紀子)、トモゴロウの娘モモコ(佐原由美)、タカらと共に塀を超えたアル ビノの少女カナ(星美咲)、無敵の老婆ツル(めぐろあや)らも巻き込み、敵味方入り乱れた闘争が展開する。

佐藤によると物語のベースに は、現地に伝わる大滝丸伝説があるという。大滝丸は大和朝廷に服さなかったとして、坂上田村麻呂に滅ぼされた蝦夷の長。その腹心の鬼五郎には、心優しい幡五郎という弟がいたという。あぶくま洞や入水鍾乳洞など多くの鍾乳洞が眠る福島の仙台平には、大滝丸らにゆかりの「鬼穴」という名の洞穴もある。

平 安の御代からすでに迫害され、明治維新でも朝敵とされ、貧しいが故に兵隊や娼婦の供給地とされ、戦後も出稼ぎ、過疎と国に翻弄され、今また放射能をまき散らされたまま、忘れられようとしているフクシマ。その積りに積もった暗い情念が、劇を突き動かす。そして、そこで描かれている悪夢は、そのまま今、沖縄・ 辺野古で現実となっている。何が、テロルを生むのか。それを無くすにはどうすればよいのか。答えはきわめて明瞭な形で劇中に示されている。

だから、ラッキー☆アイランドは一人福島の物語なのではなく、沖縄の、パリの、シリアの、アメリカの、そして世界の物語なのだ。定員100人も満たない早稲 田の地下小劇場から放たれた想像力が世界を侵犯していく。粗っぽい部分もないではないが、なまじ形を整えてしまったら、今のこの熱量は大きく減殺されるだろう。

武骨な身体に理性の光を宿す成田、凛々しい立ち姿から芯の強さと愛らしさが匂い立つ鈴木、もはや野放し融通無碍の大久保、藤井┄┄┄┄。劇団の壁も軽々と超えた福島と東京の役者たちが混然となって、訴え、語り、歌い、踊り、走り、闘う。一人ひとりの、また集団の思いが火傷しそうな暑さで、突っ込んでくる。

改めて、演劇の力は信じられる、信じたい、と強く思った。(敬称略)

 

『あれからのラッキー☆アイランド』 主催:(公社)日本劇団協議会●文化庁委託事業 平成27年度戦略的芸術文化創造推進事業    BY バードランド

日本劇団協議会の『あれからのラッキー☆アイランド』(佐藤茂紀:作、流山児祥:演出)を見る。今年は戦後70年にあたるが、さらに70年後の2085年のニッポンが舞台。
ラッキー☆アイランド、すなわちフクシマは日本地図から消されてしまい、存在しない場所とされていた。

演劇評論家の今村修さんによれば、東日本大震災後、まもなく上演された『ラッキー☆アイランド』は、立入禁止区域へ入っていくと、そこにはゴジラがいた。はじめは原爆による突然変異で生まれた恐ろしい存在だったが、次第に愛されるものに変化した過程は、原発や放射能のイメージ変化と重なる。

『あれからのラッキー☆アイランド』はその続篇である。おそらく迫力やメッセージ性は増しているだろう。だが、前作の『ラッキー☆アイランド』が持っていたイメージ操作の部分や負の歴史の部分が薄まってしまったとしたら残念である。弱者による異議申し立ては、より明確になったものと思われる。

壁をめぐらされ、そのなかに閉じ込められてオニと呼ばれるようになった人々が、武装して反乱を始める。桃太郎伝説を下敷きに、坂上田村麻呂が夷狄を討伐するイメージを重ねることで、これからのフクシマについて考える視座を提供する。 

『あれからのラッキー☆アイランド』  主催:(公社)日本劇団協議会●文化庁委託事業 平成27年度戦略的芸術文化創造推進事業   BY 「いっちの演劇大好き」より


衝撃の問題作!流山児★事務所&劇団ユニット・ラビッツ『あれからのラッキー☆アイランド』

知っているようで知らないことが多いという「現実」。
臭いものにはフタをするということがまかり通っている「現実」。

“70年後のフクシマ=ラッキーアイランド”が舞台ではあるけれど、色々なことに相通じる衝撃的な作品でした。
ここだけの話、十数年流山児★事務所の芝居を観続けている私ですが、今回初めて観劇中に涙腺が勝手に切れやがりました(;^_^A。

東日本大震災からもうすぐ5年…東京にいると最近は新聞でもテレビでも震災関連の話題はほとんど聞かれなくなってしまった…ような気がする。でも実際今の福島ってどうなの?…という漠然としたモヤモヤ感が私の中でずっとあって。それをこの作品が一気に解消してくれました。
大切なのは「現実」から目を背けないこと。
「現実」から目を背けず事実を知り、それを受け入れた上で前に進むこと。

『あれからのラッキー☆アイランド』はそんな大切なことを教えてくれ、またたくさんの問題提起をしている、文字通りの“問題作”だと思いました。

東京在住の私でさえものすごく衝撃を受けたぐらいだから全国で上演したらもっともっと衝撃を受ける人が出てくるはずだし、そうであってほしい。
もし、そうならなかったら日本は終わりだな…とフッと思って背筋がゾッとしました。

劇団ユニット・ラビッツ主宰の佐藤茂紀さんと初めてお話させていただきましたが、流山児さんに負けず劣らずの熱血漢な演劇人でした(^^)。

そして生まれ故郷・福島への佐藤さんの熱い想いが、この作品にはギュッギュッギュッと凝縮されていました。佐藤さんみたいな熱いハートを持った演劇人が地方に、それも福島にいらっしゃるということは本当にすごいことだと思います。佐藤さん、これからも観る側に衝撃を与える問題作を福島から作り続けてください!
そして流山児★事務所と劇団ユニット・ラビッツのコラボ、第2弾・第3弾…とこれからも楽しみにしています。

 

『あれからのラッキー☆アイランド』  主催:(公社)日本劇団協議会●文化庁委託事業 平成27年度戦略的芸術文化創造推進事業   BY 横田敦史(カメラマン) 

またスゴイ芝居に。
現代の日本の風潮を「今だけ金だけ自分だけ」と評するけれど、言葉を擬えるならば、まさに「いま」の時代を写した演劇であり、「彼ら」だけにしか書けない本であり、「金」とは無縁な小劇場芝居。

未来のフクシマを舞台にした本。
福島以外の人が書いたら、差別として非難さるような、あまりに先鋭的な内容なだけに、その重みや悲しみが胸に突き刺さる。

描かれる隠蔽や差別や淘汰。
それは単なるフィクションであろうか?
あるいは、フクシマだけの問題なのだろうか?
私には、それは単なる寓意ではなく、多くの予言を含んでいるようにも見えるし、海外から見た日本全体の場の姿に他ならないのだとも思える。
日本人全体がヒバクシャとして、例えば、国際結婚を拒否されるような差別に直面する未来は想像に難くない。

無関心はやがて我が身の上にとはよく言われる。沖縄もフクシマも。例えば、指定廃棄物の処分場をめぐっては、地域住民と政府の軋轢が各地で聞かれる。
政治に無関心でいられても、誰も政治に無関係ではいられないとも言われる。
政治の暴挙に立ち向かうことよりも、世間の無関心に向き合うことの困難さを最近ひしひしと感じる。
作品を自虐とこき下ろすのは容易い。けれど、それ以上に政府の対応に、国民の無関心に虐げられている人びと。その叫びは、まさにわれわれの無関心に向けられたものと心得ねばなるまい。

あらためて演劇表現の可能性を知る。

 

『あれからのラッキー☆アイランド』  主催:(公社)日本劇団協議会●文化庁委託事業 平成27年度戦略的芸術文化創造推進事業   BY  山田勝仁(演劇ジャーナリスト・日刊ゲンダイ 演劇評担当)
SPACE早稲田で劇団ユニット・ラビッツ「あれからのラッキー☆アイランド」  (作=佐藤茂紀、演出=流山児祥)

史上最悪の原発事故から70年後、近未来の日本が舞台。そこではフクシマは地図から抹消され、すべては「なかったこと」にされている。放射能汚染による遺伝子異常のため「新優生法」が施行され、フクシマ出身者は結婚を禁じられている。しかも、2015年の原発再爆発を機に、日本は超管理国家、ファシズム化に突き進んでいる。

壁で遮られた「フクシマ」では、タカ(成田浬)が中央政府への武力反撃の狼煙を上げようとしていた。最強硬派のテル (栗原茂)が目指すのは「世界をヒバクさせればみんな仲良くなれる」というオニゴロウ(大久保鷹)の思想。タカが心を寄せるのはフクシマを出て行方知れずの穏健派・トモゴロウ(藤井びん)。

一方、東京では、男探しをしながら日本全国「46」都道府県をめぐってきたハトコ(鈴木紀子)がティッシュ配り。ひょんなことから祖父のトモゴロウと再会し、自分がフクシマ出身だと気づく…。
坂上田村麻呂の奥州征伐による鬼伝説などを織り込みながら、唄とダンスでフクシマの怒りと祈りを舞台に叩きつける渾身作。

ただ、エンターテインメント仕立てのフィクションではあっても、観客にとってはフィクションとは言い切れない痛みが胸を貫く。
五輪に浮かれ、フクシマをなかったことにしようとする国家の暴虐が続く2015年のニッポン。その構図は辺野古とも通じる。 国家を憎悪する弱者の反撃はテロへと突き進んでいくしかないのか。
赤紙=召集令状=「新優生法」を破り捨てるラストシーンが胸をえぐる。 我々に希望はあるのか。

ベテランのアングラ巨頭二人の存在感に伍して佇む鈴木紀子の麗々しい立ち姿。見違えるような成長ぶりが素晴らしい。



  『あれからのラッキー☆アイランド』   主催:(公社)日本劇団協議会●文化庁委託事業 平成27年度戦略的芸術文化創造推進事業  BY Panta(シンガー : 頭脳警察)

怖ろしい、そして面白い、荒唐無稽ながら、すぐにでもありそうなことだからなおさら怖い、2015年のXXによる2度目の核汚染に見舞われた福島をなかったもの にしようという中央政府の意向により地図上は海となり、人類は生存せず、いるのは鬼と呼ばれる種族だけ、意味深な「L.I.S〜ラッキー・アイランド・シ ンドローム」のゲリラ化、制圧しようと襲いかかる中央政府の特殊部隊、バイオハザード、平将門、ガザ、果ては「阿部一族」などが頭を過るが、終演後の佐藤くんから坂上田村麻呂の名前が出てきて、大いに頭を頷かせてもらった。

自分も初耳学だったのだが、歴史上初めて征夷大将軍の名を冠された坂上田村麻呂の蝦夷征伐の折、朝廷の意にそぐわなかった処へ鬼の名を付した地名をつけていたというのは驚きだった。
中央政府から見放された「フクシマ」、そして200年前の戊辰戦争どころか、千年以上前の平安の初頭からこの平成に至るまで会津は虐げられてきたのだと認識を新たにさせられた。

被爆者として子供を産んではならないという赤紙を破るエンディングは、昔、観た「HAIR」のクロードが召集令状を破れなかったシーンと被り胸が震えた。歌もしっかりと唄ってくれていて歌劇派としては嬉しいかぎり、再演は難しいと思われるので、メディアの無視するこの重要な歌劇を見過ごすことなかれ。

 

  『あれからのラッキー☆アイランド』  主催:(公社)日本劇団協議会●文化庁委託事業 平成27年度戦略的芸術文化創造推進事業   演劇評論家:江森盛夫氏  ブログ「演劇袋」

福島在住の劇団ユニット・ラビッツと流山児★事務所、それに藤井びん、大久保鷹らが加わっての公演。
福島の原発事故からの、地元からならではのイマジネーションの乱反射が、ミュージカル仕立てで展開する。

マンガみたいな、なんでもありの内容で、いまにも、いまでこそ福島は全滅しそうだし、放射能の痕跡はますます蔓延する、というような度を越したいかなるバッドイメージでも、多分、福島の「正味の現実」はびくともしないだろう。もう笑い飛ばすしかほかないような「哄笑」にこそ、最も「アクチュアルな攻勢」がある・・。
ユニット・ラビッツの若手俳優のダイナミックな演舞から、藤井、大久保らベテラン、超ベテランが一丸となって舞台狭しと暴れ回る。


”福島”への、演劇ならではの「果敢な挑戦」で見応えたっぷり。

『あれからのラッキー☆アイランド』   主催:(公社)日本劇団協議会●文化庁委託事業 平成27年度戦略的芸術文化創造推進事業     BY  映画監督:井上淳一
流山児祥演出の『あれからのラッキー☆アイランド』を観る。

原発事故から70年後の日本。軍国主義 化した日本では、汚染が止まらぬ福島全土を壁で多い、地図からも歴史からも完全に消している。さらに新優生法で、福島の遺伝子を持つ者に赤紙を配り、子供 が出来ない手術をさせようとしている。そんな中、壁の中で暮らし続ける人たちは「鬼」と呼ばれ、自らテロリストと化していく。彼からは言う。「全世界がすべて放射能汚染されてこそ、平等になる」と。

作の佐藤茂紀さんは福島県郡山市の高校の先生。福島にとどまり、生きている者だけに赦される 言葉を笑いの中に溶け込ませて吐き続ける。言葉の毒は放射能の毒に対する唯一の対抗手段だとでもいうかのように。伝えるべきことがあるということはこんな にも強いものなのか。
流山児事務所の力のある役者さんに交じって、福島の劇団ユニット・ラビッツの鈴木紀子が郡山弁(福島弁にあらず)で存在感を示す。

 


『西遊記』   中日新聞 2015年11月18日 安住恭子(演劇評論家)

三重・四日市文化会館が、「四日市にもっと『演劇』を!」と始めた「Yonbun Drama Collection 〜四日市演劇化計画〜」その公演の第一弾を見た。本年度は、熱狂的ファンを持つ名古屋の劇作・演出家、天野天街の三作品を上演予定で、まずは流山児★事務所による「西遊記」だ。天野独特の夢幻的世界と、ムーンライダーズの鈴木慶一の音楽がわい雑で美しいアクションミュージカルを繰り広げた。

天野は、せりふやシーンの繰り返し、登場人物の分裂・増殖、映像とダンス等々によって、舞台上に圧倒的なカオスを創りあげる演出に定評がある。今回も繰り返しだ。孫悟空と猪八戒、沙悟浄が三蔵法師とともに天竺に向うエピソードを、一つのパターンとして繰り返すのだ。美しい女に化けた妖怪が三蔵を連れ去り、食おうとする。そこに悟空が現れて助けるが、その彼の暴力を三蔵がしかると、そこにまた美女が現れ・・・という循環だ。

執拗な繰り返しの中で、悟空も猪八戒、沙悟浄も二人、三人と分裂する。しかも彼らはそのことに気づかず,同時に複数で出ていても気にしない。さらに同じ役者が釈迦や妖怪になったりもするから、誰がだれやら何がなにやらだ。そのスピーディかつ絶妙な間合いの繰り返しと混乱が、ユーモラスなリズムを刻み、悟空と妖怪たちの派手なアクションや、鈴木が作曲したロマンティックな歌で、舞台は混沌とした熱気をはらんでいく。だが、そのにぎやかで楽しげな旅は一向に進まない。

そして、時折、少しずらした彼らの姿などの映像が重なる。すると、その繰り返しが相対化される。楽しげな旅の途中が、無自覚な「生の途中」として突きつけられるのだ。自分にも周囲にも無自覚なまま、どこにも行けないではないか、と。

 

 

『西遊記』    BY 演劇定点◎カメラ  ねこ
 「旅する劇場」シリーズ最新。本公演後、アジアツアー。

 舞台。山水画三方。中央に広く開口。
 お話。天竺へいき、仏教経典を持ち帰らんとする玄奘三蔵。お供の孫悟空、
 沙悟浄、猪八戒が妖怪どもを退治して玄奘を助ける活躍ぶりを描くのだが。

 何でもありの「西遊記」。
 力と不死を手に入れ遊ぶはずが、宿命にもてあそばれる感 もある、ブラックコメディ。

 死亡遊戯を変調しながら延々繰り返し。死がないから、生も薄っぺらで、孫悟空の存在、物語の成立も危  ういというダークサイドに没入。
 目的を忘れて、戦う殺すの手段だけが残るという、恐怖も感じさせ。

 うーみ、思いがけず深遠を覗いてしまった感ありねこ。ただ一意ならず、切り貼り、重ねあわせ手法の繰り返しでリズムを醸成して、飽きずノリ良くみることが出来。

 なんかネガティブに書いたけど、そこは流山児事務所。エンタメの志でアクションや歌を案配良く入れてより活性化。とりわけムーンライダーズ鈴木慶一音楽が思った以上にふんだん。いずれも場面によく嵌まって◎。
 なんでもありに悪のりした乱入、外し方がスパイスまた息抜きになって愉快ねこ。


『西遊記』   BY 高取英(月蝕歌劇団主宰劇作・演出家)


「西遊記」子供のとき、好きだった。東映アニメも夢中で見ていたな。流山児事務所の「西遊記」を見た。天野天街 脚本 演出。始まる前に天野氏に聞いた。金角銀角は、出るの?ほんの少し、芭蕉扇は?出ます、馬は?それをいうとー
それで見た。楽しい芝居だった。

金角 銀角は、出るの?ほんの少し、芭蕉扇は?出ます、馬は?それをいうとー
芭蕉扇を使う伊藤弘子がよかった。最初、釈迦で流山児さんが出てくるが、孫悟空が殴り殺す。その後、伊藤弘子が釈迦といって出てくる。これがよい。
金角 銀角は、出るの?ほんの少し、芭蕉扇は?出ます、馬は?それをいうとー

V銀太の三蔵法師は、また、殺したのか?と何度も出てくる。ほとんど裸で。三蔵法師を食べると永遠の命を手にいれられる。だから、妖怪が襲う。その肉を食べた流山児さんが若返りリーゼントで出てきたのは笑った。イワヲは、沙悟浄だが、一角との二役で走り回る。

金角 銀角は、出るの?ほんの少し、芭蕉扇は?出ます、馬は?それをいうとー
天野演出は、リピートの繰り返し、ほとんどビョーキ。ナンセンスを狙う。で、客は、笑う。楽しい芝居だ。PANTA氏が特別ゲストで、真ん中で歌った。

「西遊記」はいつか、やってみたい。前からそう思っている。果たしてやる日がくるのだろうか。
金角 銀角は?もういいか(笑)
注 。ここで、リフレインしているのは、天野演劇がリフレインするから。

 

『西遊記』   BY バードランド

流山児★事務所の『西遊記』(天野天街作・演出)を見る。これは読む『西遊記』、あるいは言葉によって連想する『西遊記』といえばよいのだろうか。読むことや聞くことで『西遊記』の場面を頭のなかに浮かべると、それがそのまま舞台に現出するように展開する。

だ から、同じ章を読むことによって、舞台では、同じ場面がくり返されたり、あるいは、別の人がその章を読むことで、さらにその場面が雰囲気を変えてくり返されていく。それゆえ、ときには同じ登場人物が増殖して登場したり、特定の人物の印象が薄かったりする。『西遊記』の読者論のようで面白い。

天野版『西遊記』は、開演前の注意事項をアナウンスしている途中で、ある言葉から誘発されて、自動的に物語が始まってしまう。物語は寸断されたり、反復したり、脱線したりをくり返しながら進行していくが、開演前のアナウンスを終える前に、終結してしまう。

『西遊記』   BY tottory  CORICH舞台芸術

天野天街(少年王者舘)氏の発案した演出技法は数知れないと言う(地元名古屋出身者からの伝聞)。台詞尻を重ねて元に戻ってくるループ、そのリフレインが活用形として変化し、少しずつしか物語が進まない。と、意表を突いた振り出し戻り(双六かっ!)。

毎度変わらず小気味良い映像・音響を活用した転換、群舞・・これらの表現様式に取り憑かれこれによってしか演劇を紡げないループに自ら陥ったかのような天野天街という人(勝手に言ってすみません)は、様式という「制約」の下、険しい山を登るように物語を織り上げる。度重なる素っ頓狂なリフレインは、あたか も、芝居を背後から動かす「語り部」が吃音者になったかのようで、おかしみが漂う。遊びも多々あった。中盤の極めつけの「遊び」には、腹が痛くて声が出ない程。おかしな事が、それこそリフレインで延々と続くので「笑いおさめ」の声が出せないのだ。

この様式は俳優にも多大なエネルギーと力量を要求する。活動拠点である少年王者館の俳優の完成度に比べ、ナチュラル演技に寄った分「精度」は落ちるとは言え流山児俳優それぞれの持ち味を発揮して遜色なかった(頑張りが見え、それが効奏していた)。

天野天街の「遊び」が続いた最後に、ナチュラルな芝居で気持ちよくまとめる事も可能かと思われるところ、天野的「遊び」は最後まで貫徹される。そのため、観劇の最後には得たいドラマ的なお土産は、持ち帰りそびれる、というのも特徴かも知れない。

昨年、天野作品初観劇(少年王者舘)から、半年程の間に天野演出舞台の観劇が4本続いた。
こたびは前回以来のスズナリで、アングラを継承する(ペーター・ゲスナー談)天野的世界をまた堪能できたが、どうもあの世界はこれからも果てしなく続く実験なのだろう、などと思う。「様式→ドラマ」(通常は「ドラマ→様式」)というアプローチが何を生み落とすのかという・・。
 

この異界、一見の価値有り。

 

『西遊記』   BY 八嶋智人(俳優:カムカムミニキーナ)

流山児事務所「西遊記」@スズナリ観劇で感激。

天野天街さんの怒涛のループと進まない話が、やがて西遊記の持つ永遠と刹那を、宇宙と時間を、混沌を持って現代に叩きつけ、見事に終わらない恐ろしい話を再生の話にしたんだと僕は勝手に思った。
久しぶりに客席でワクワクが止まらなかった。
役者さんもスタッフさんも圧倒的なエネルギーと技術で僕らを楽しく混沌へと引き摺り込んでくれる♪最後のあれをバックにしての躍りは、これを観るためにたくさんのdetailを僕らは重ねてきたのかと圧巻だった、天街さんって、面白いナァ、そして僕はこんなん好きだナァ。
これからアジアの国々にツアーに出るらしい♪どうなるのか楽しみだなぁ♪ そして以前カムカムでも西遊記をベースにしたダルマという作品をやった事を思い出す♪不死は僕が演じた沙悟浄だった♪
輪廻と因果♪やはり西遊記の普遍的な所はそこなんだろうなぁ♪

『西遊記』   BY ケラリーノ・サンドロヴィッチ (作・演出 ナイロン100℃主宰)

流山児事務所、天野天街さんの「西遊記」@ザ・スズナリ。
素晴らしかった。王者館の叙情性がない分、くだらなさと活劇要素で満たされてて満腹。
若い頃から知ってる俳優たち(当然俺も若かった)が見違えるほどカッチリと頼もしい芝居をしていて、驚いたやら嬉しいやら。

『西遊記』   BY しりあがり寿 (漫画家)

流山児祥さんと天野天街さんの西遊記、面白かった。いつもながらのお話のブツ切り丼みたいな賑やかさと寂しさ。手当たり次第にちぎっては貼り付け、重ねては繰り返す。因果の接着剤でなくリズムとコントラスト。他にないよな!

『西遊記』   BY 鈴木慶一(ミュージシャン)

西遊記千秋楽、ゲネと楽日を観るというちょっと不思議な感じ。音響のタイミングの素晴らしさに感動。来年の東アジア公演楽しみです。子供も理解するややこしい分身の術なお芝居でした。それを私はヒップホップ以降の芝居と呼びたい。k1」

 

『西遊記』   BY 岸川 卓巨(舞台監督)

スズナリに流山児★事務所の「西遊記」を観に行ってきました。
例えば、もし『永遠』という事があったとしても、そういうものは、「過去・現在・未来」みたいに切り分けられない。永遠てのはその両端の終わりがない無限のことなので、永遠の過去〜今とか、今〜永遠の未来、なんて観念は成立しようがなく、それが過去・現在・未来のような時系列の中間点に「今」として現前することは不可能な のだ。

だから永遠 = 不死身には −これは確か劇中のセリフにもあったけど・・そして古代インドの聖典バガヴァッド・ギーターにも同じ言葉がある−始まりも無ければ終わりもない。死ぬことも無ければ逆に生まれることもない。
あなたはかつて生まれたこともなければ、これから先死ぬこともない。

簡単に例えるなら、0という数にどんな数字を掛けようとも答えは0にしかならず、どんな数で割ろうともやはり答えは0にしかならない・・0はどんな数に触れようとも、その中からは絶対に0しか出てこないという事と同じ。

もしこの世界に永遠とか不死身というものが存在するとしても、過去現在未来の時系列の中にいる俺たちは、決してそれらに出会うことは出来ないのだ。
それでも、もしも人や妖怪といった有限のものが「不死身」という永遠のものに触れることができたならば・・

この時系列因果関係が解体された極めてトリッキーな物語を「感じるな、考えろ」で受け止めようとするなら、そういう主題を頭の中ででっち上げるしかない。

始まる前、天街さんがスズナリの前をうろついていた。
相変わらずのサイズの合わないルーズすぎるカーゴパンツ(トレードマークなのか?)
「ああくそ、テーパードされたジャストサイズのカーゴパンツをあてがってやりてえ・・」
フリーサイズ過ぎるズボンは人を不安にさせる。常に裾を踏んだり、或いはチンコがまろび出る可能性をも孕んでいる。世界とは、或いは物語とは、人があらゆる関係性の中に最適なものをあてがって安定させていこうと試みるプロセスに他ならない。恋が成就することも願いが叶うことも悪が倒されることも、全てその変奏に他ならない。
思えばここからすでに天野天街の術中にはまっていたのかも知れん。

フリー過ぎるものをただ見つめるモヤモヤ感、それこそが、人が不死身や永遠を思うことの暗喩なのだと言わんばかりに。この演目、なんとバリやジョグジャカルタ、そしてボロブドゥール(!!)に持っていくらしい。
あの寺院を借景にしてこれをやるのか。たまらんものがあるな。。

そしてあっちの神様はなんたって孫悟空の原型となった猿神ハヌマーンだ。現地の人の反応なんかもすげー興味がある。

 

『西遊記』   BY 江森盛夫(演劇評論家)

リピーテイング・エンドレスドラマの雄:天野の「西遊記」。

孫悟空、沙悟 浄、猪八戒、玄奨三蔵ら、西遊記のお馴染みの面々が、シーンの連なりの一部が、急に繰り返しになり、その繰り返しが、まさにエンドレス状態になり、もういい加減にしろという客のガマンの寸前まで繰り返す・・・。それが、なんともいえない天野演劇の極みであり、天野ファンにとってはたまらない・・。

流山児★事務所の役者連にとっては、もう何回もあっているので、もうその流儀を手の内にいれている。今回は、大将の流山児が、いつもの坊主頭にあんちゃんカツラをかぶせて、とんでもない若造りで舞台を仕切りたがって、大ひんしゅくの役まわり。

中でも、この天野ドラマにいつも一番フイットしているのが、釈迦、羅刹役の伊藤弘子で今回も水を得た魚のおようにスイスイ切れのいい芝居と歌舞・・。
それと今回目立ったのが、謎のコドモを演じた坂井香奈美、元気いっぱいの面白さだった。

 

『西遊記』  BY 今村修(演劇評論家)

どうせ一人ぼっちなら、終わらない物語を生きてみようか? 遥か宇宙の彼方のもう一つの地球から、一人生き残った岩猿・悟空のつぶやきが届いた気がした――。

昨夜は、流山児★事務所「西遊記」(作・演出=天野天街)@ザ・スズナリ。ご存じ、三蔵法師と悟空、八戒、沙悟浄の西天取教の物語だが、そこは天街+流山児 流。懐かしさと奇天烈と暴力性と詩情が不思議にすんなりと同居する、宇宙的スケールの怪作となった。役者として久しぶりに暴れ回り、遊び倒す流山児祥の奮闘≠煌yしい。

「開演に先立ちまして」のナレーションの「先立ち」がいきなり「殺気立ち」に転化するところから劇は始まる。殺気立っ た悟空(五島三四郎)に乱暴されている牛魔王(上田和弘)。と、暗転。場面が変わると、なんと悟空が別の役者(谷宗和)に変わっている。どうも、燃え盛る 火焔山を越えられず、羅刹女(伊藤弘子)が持つ芭蕉扇を手に入れようとしているところらしい。だが、物語はちょっと進むとストップがかかる。最初に戻って 反復される。ほんの少しずつ変わりながら何度も何度も。まるで、上から見たら一つの円なのに、横から見たらどんどんと下っているらせん構造のようだ。そこにノイジーな映像、鈴木慶一によるアタッキングな音楽、唐突な歌やダンスが乱入し、永遠を思わせる混乱に物語を陥れる。悟空の数はさらに増え、八戒も2体 (甲津拓平・平野直美)に増殖する。沙悟浄(イワヲ)や釈迦さえ魔物に姿を変える。

二重の登場人物がもつれ合いながら織りなす反復螺旋の 物語。そんな物語のDNAは束の間、辛辣な文明批判を垣間見せたりもする。物語の反復に疲れた悟空たちは時折我に返る。と、そこは紅蓮の炎が燃え盛る火焔山。取り返しのつかないような危機に囲まれていながら、阿呆な日常を延々と繰り返す三蔵一行。それがふっと、今ここにある危機を直視せず、日常が永遠に続 くという錯覚に浸りきっているどこかの国民に見えてしまうのだ。だが、そんな覚醒も長くは続かない。物語は再び反復地獄に陥り、世界は解体、撹拌され、そして突然終わる。と、世界は猛スピードで遠ざかり始める。いや、観客の視点が超高速でフェードアウトされていく。

仕掛けは舞台奥にかかる 青い惑星。その星ではきっと釈迦によって岩に封じられた悟空が一人、終わりのない物語を夢見ているのだろう。混沌の世界と一対一で対峙する孤独と覚悟。諸星大二郎の名作コミック「暗黒神話」のラストシーンを髣髴させる、その宇宙的イメージの広大さ、切なさにしばし茫然とした。 (敬称略)

 

 『西遊記』  BY 小澤俊夫(プロデューサー)

下北沢のザ・スズナリで流山児★事務所「西 遊記」(作・演出:天野天街、音楽:鈴木慶一、企画:流山児祥)を観た。原作は御存知、16世紀に中国で大成した伝奇小説。白馬に乗った三蔵法師が孫悟 空・猪八戒・沙悟浄を従え、妖怪や仙界からの攻撃等の幾多の苦難を乗り越え、取経のために天竺を目指す物語。我が国でも、小説・映画・テレビドラマ・アニメ・漫画・舞台、あらゆるジャンルに派生しているが、今回はアングラ版歌謡冒険活劇・西遊記。

開幕前のアナウンスが突然断ち切られ、暗転と同時に大音響が耳に突き刺さる。目を凝らすと、舞台上で格闘する孫悟空と牛魔王、取り囲む猪八戒と沙悟浄らしき姿が飛び込む。


俺は誰だ、誰だ俺は。俺は誰だ、誰だ俺は。俺は誰だ、誰だ俺は・・・・・。
お前は誰だ、誰だお前は。お前は誰だ、誰だお前は。お前は誰だ、誰だお前は・・・・・。
一人は二人、二人は一人。一人は二人、二人は一人。一人は二人、二人は一人・・・・・。
存在は不存在、不存在は存在。存在は不存在、不存在は存在。存在は不存在、不存在は存在・・・・・。
生きることは死ぬこと、死ぬことは生きること。生きることは死ぬこと、死ぬことは生きること、生きることは死ぬこと、死ぬことは生きること・・。

永遠に続くかと思われる台詞のリフレインと身体のリフレイン。一向に進まぬ物語の展開。いつしか繰り返しにズレが生じ、ノイズとなって観客の目と耳を刺激する。昨今流行りのノイズ・ミュージックならぬ、ノイズ演劇か。

釈迦(流山児祥)によって五行山に閉じ込められたはずだった孫悟空は、逃げ出して釈迦を撲殺。妖怪たちに捕らわれ、露わな姿となった三蔵法師(V.銀太)を 助けた孫悟空は二匹(谷宗和・五島三四郎)。猪八戒(甲津拓平・平野直美)も雌雄二頭となって姿を現す。沙悟浄(イワヲ)は一角にも分裂して妖怪の仲間入り。妖怪たちは、謎の少年(小林七緒)・謎のコドモ(坂井香奈美)・謎の乙女(佐原由美)となって三蔵法師に襲い掛かるが、孫悟空によって蹴散らされる。目指す天竺は、炎を放つ火焔山を乗り越えなければならないが、炎の勢いは止むことがない。牛の妖仙・牛魔王(上田和弘)が現れ、その妻・羅刹(伊東弘子) と共に彼らの前に立ちはだかる。火焔山の炎を消すことが出来る芭蕉扇を持つ羅刹。悟空たちはその扇を羅刹から奪い取ろうとするが、羅刹の首がボトリと落ちて・・・。

それにしてもリフレインの連続やハイテンションの台詞回しに、よく役者が間違わずについて行けるものだと感心。役者だけでなく、観客にも混乱と苦痛を与える作・演出の天野天街は、名古屋随一のサディストに違いない。

芝居の途中で普段着の流山児が「いつまで同じ芝居を繰り返すんだ!」と登場し、ゲストのPANTAを紹介。PANTAの歌は一服の清涼剤。日替わりゲスト が毎回登場し、閑話休題の一時。芝居の後半、流山児がリーゼントスタイルの23才の若かりし姿で登場するのは、何を意味しているのか?時は1970年初 頭、芝居の世界では寺山修司の天井桟敷や唐十郎の状況劇場が若者たちの心を掴み、その若者たちは政治の季節で国家権力に立ち向かっていた。23才の流山児 青年は、そのどちらにも足を突っ込んでいたようだ。あれから45年、国会前ではSEALDsらの若者たちを中心に、「安倍はヤメロ」のシュプレヒコール がラップのリズムに乗ってリフレインされている(戦争法案が強行採決されてからは、毎月19日)。菅孝行の「解体する演劇」(1974)ではないが、流山 児は再度演劇を解体し、新たな世界へと旅立とうとしているのか?「旅する劇場2015/16」の最新作「西遊記」を引っ提げ、流山児の旅はまだまだ続きそうだ。

(文中敬称略)

 

 『西遊記』  BY 吉永美和子(演劇ライター)SPICE「注目の初日レポート」

自他ともに認めるであろう演劇界一の暴れん坊・流山児祥が、スーパーモンキー孫悟空が大暴れする娯楽大作『西遊記』を「流山児★事務所」で舞台化するのは、何とも必然だったという気がする。しかし作・演出が、アクションとは縁遠いイメージがある「少年王者舘」の天野天街という時点で、途端にどんな舞台になるかまったく想像がつかなくなっていた。そして三重・四日市市で幕を開けたその舞台は、まさしく今まで(少なくとも私は)観たことがないような「ダークサイド・オブ・西遊記」という趣の世界だった。
物語は、三蔵法師と孫悟空・猪八戒・沙悟浄の旅の一行が、天竺まで経典を取りに行く旅の真っ最中の所からいきなり始まる。妖怪たちの間で、三蔵法師の肉に不老不死の力があると広まっているため、その旅は様々な妖怪たちを相手にしては殺しの繰り返しだ。やがて一行は、炎が激しく燃え盛る山に行く手を阻まれ、その炎を消せる唯一のアイテム「芭蕉扇」を手に入れようとするのだが、そこでメンタル攻撃と言えるような不可解な出来事が次々に巻き起こっていく。
 

原作は、文庫本で全10巻にもなる大長編だが、本作は「火焔山」の章を基点に、様々なエピソードをつないでは元に戻し、つないでは元に戻しを重ねることで、わずか100分の物語に凝縮させていた。しかも「私はいるのかいないのか=世界とはあるのかないのか」という、天野天街の永遠のテーマともいえる問いを、作品世界からはみ出し過ぎることなく…いやむしろ『西遊記』自体、実は痛快無比な活劇話の裏に、そういう形而上学的な要素が含まれているということに、改めてスポットを当てる形になっていた。その象徴となるのが、なぜか2人いる孫悟空。どっちが本物の悟空なのか、悟空はまだ他にもいるのか、いやそもそもこの旅自体がどちらかの(あるいは両方の)悟空の見ている幻ではないか? などと、観ている側も脳内を滅多打ちにされるような困惑状態に陥っていく。
とはいえ演じるのが「流山児★事務所」なだけあって、観客を楽しませる要素もしっかりと盛り込まれていた。特に音楽は「ムーンライダーズ」の鈴木慶一が、なんと50曲以上のオリジナル楽曲を提供し、物語の不条理な流れをスルリと変化させたり、あるいは増幅させたりする。さらに棒術をフィーチャーした舞踊的なアクションの数々が目を楽しませたかと思えば、流山児が本人役で物語世界に乱入するという演劇ならではのメタ的なシーンも。中でも、登場人物の大半が変化の術を使えるという設定を悪用した、演じる側も混乱しそうな場面では、客席の笑いが止まらないという状態に。これは日本のみならず、今後上演が予定されているアジア各国でも、その愉快さが言葉の壁を越えて伝わることだろう。
 

公演の当日パンフで天野が「孫悟空は死なないのだから困ったものだ」と記していた通り、もう1つ外せないテーマとなっているのは「死ねない」、つまり「永遠に終われない」ことの恐怖と哀愁だ。劇中でも語られるが、孫悟空は不老不死の果物と秘薬を大量に摂取したため、切り刻んでも業火で焼かれても決して死なない身体となった。戦っても自分は死ぬ心配がなく、むしろ死の概念を持たないから、相手が如意棒で無残に頭を砕かれて息絶えようが、その残酷性をどうしても自覚できない。いるかいないかもわからない釈迦如来に言われるがまま、あるかないかもわからない天竺を目指しながら、ルーティンワークのように「防衛」という名の殺戮を繰り返す。私たちは『西遊記』の終わりを知ってるから、その戦いを娯楽として楽しめるが、本人たち…特に「死」という決定的な終焉を、何があっても迎えられない孫悟空にとっては、天竺への苦難の旅よりも、もはやこの世に存在すること自体が真の苦行なのかもしれない。
 

痛快でありながらも、悪夢の万華鏡を覗き込んでいるようでもあり、そしてラストでは私たちも孫悟空たちと一緒に、はるかなる時空へと一気に飛ばされるような仕掛けが待っている本作。三重公演の後は、西の天竺への取経の旅ならぬ、東の東京への公演の旅が続いていく。流山児★事務所×天野天街×鈴木慶一のスピリットと才能が見事に結実したこの舞台は、東京だけでなく海外の観客からも、おそらくこう評されることだろう。「こんな『西遊記』観たことがない!」と。

 


『マクベス』  BY 今村修(演劇評論家/朝日新聞記者)

昨夜は流山児☆事務所「マクベス」(作=W.シェイクスピア、訳=松岡和子、脚本=西沢栄治・流山児祥、構成=西沢 栄治、演出=流山児祥)@座・高円寺の初日。このご時世、しかも流山児が挑むマクベスと来れば、「さぞや」という予感いっぱいで足を運んだのだが、舞台を東南アジアらしい王国に、迷彩服の衣装から時代は現代に写した以外、言葉は基本的に戯曲に基づいている。

冒頭、ノーベル平和賞を受賞したパキスタン少女マララさんのスピーチが語られる。この仕掛けはドラマが進む内につい頭の中から去ってしまうが、ラストに至ってその企みが明らかになる。

今回の上演の最大の特徴は、17人にも膨れあがった魔女たちだ。彼女らは、しきりに舞台に登場してマクベスの運命を操り、破滅へと誘うだけでなく、血塗られた物語で命を落とした人々を弔うコロスともなる。邪と聖の反転と往還。それは一見強引なようだが、「きれいは汚い」というこの作品の世界観から眺めれば、 それもありだなと目ウロコの思いに駆られる。まだ初日なので、ネタバレは避けたいが、キーワードは男性性と女性性。身もふたもないほどシンプルな、しかし 時代への生真面目な思いが、舞台に色濃く漂う。

スピーディーな展開は、さすがに流山児流。40人近い俳優たちが舞台にひしめき、生演奏を背景に疾走する。天井近くのキャットウォークまで、空間を立体的に使った演出も効果的だ。ただ、修辞に満ちたシェイクスピアの言葉と、小劇場的な演技と発 語が馴染まない場面も少なくない。
小者感色濃いマクベス(若杉宏二)はいかにも流山児好み。マクベス夫人(伊藤弘子)は、作りすぎという違和感も持ったが、ラストに至ってその意図も見えた気がした。マグダフ夫人(植野葉子)らも含め、劇中に登場する女性はみな異様に強い。それは、いわば男性の変奏として造形されているからだ。彼女らは悲劇を男として生き、死んでいく。

そして、そのようにした演出の意図は終幕になって明らかになる。戯曲の言葉を大事にしながらも、作り手の思いが濃厚に写し込まれた「マクベス」だ。(敬称略)

 

『マクベス』   BY 江森盛夫(演劇評論家)「演劇袋」


流山児★事務所創立30周年記念公演スペシャル。

1984年創立以来、30年間で全211作品の上演を重ねてきた。その記念公演のファイナル公演だ。

これは211作品のうち最も評価が高く、初めての海外公演・ソウル公演も成功して劇団の代表作になった、塩野谷正幸がマクベスを演じた「流山児マクベス」をピックアップした公演だ。今回は若い西沢栄治と組んで、”アジアのマクベス”というコンセプトで「マクベス」を組立てて、いまの世界のアクチュアリテイを 注入した。

そして、今回のマクベスとマクベス夫人は劇団生え抜きの若杉宏二と伊藤弘子だ。アジアの民衆の息吹をつたえるよう、男女の登場人物も多数出演、事務所傘下の「楽塾」の女優たちも参加して、さらに流山児の得意技の劇の要所を高揚させる音楽劇の楽しみがふんだんに盛られる・・。

  古典劇の要所の命題である王位簒奪や復讐や裏切りを演じる強度は、そのことのさじ加減の難しさは、古典の現代化につきまとう難題だが、若杉、伊藤は善戦していて、権力の虚しさを充分に感じさせた。ほかに、客演陣ではマクダフの伊達暁、マクダフ夫人の植野葉子も際立ち、オペラシアターこんにゃく座の井村タカオの本格歌唱 が舞台を締めて、ひさしぶりに梅津義孝の健在ぶりを観られたのも嬉しく、記念公演シリーズのファイナルらしい満足感はもたらされたのだ。
 そして「マクベス」の知られた名台詞”消えろ、消えろ、束の間の灯火!人生はたかが歩く影、哀れな役者だ。” が、歳をとるとことさらに身にしみる!・・・。

 

 『マクベス』   BY tomtom poem&theater

終盤でのチェロの独奏(坂本弘道)と直後の火花に度肝を抜かれた。ドルサイナ(諏訪創)の音色も響いた。激しい雑音を交えた音響も効果を上げていた。照明も魅せた。照明と音響のスクランブル!! とりわけ、マクベスのパーティでの、客席の壁に 映った窓!そこには亡霊や魔女たちが同席していた。その、スペクタクル世界。 

冒頭、マララが登場し、生命をかけても平和をつくるという メッセージを告げた後、アジアと思われる戦場で兵士たちが死んでいくシーンがあって、魔女たちが登場する。魔女のコロスはこの芝居の特筆すべきことの一番であろう。魔女は17人もいて、老いた魔女、若い魔女、男の魔女をまじえて劇を主導していく。 

2回ほど、目頭がじーんと来そうになった シーンがあった。ひとつはマクベスのラストのシーンであった。何だろう、人間の弱さが悲劇的に露呈したところだったろうか。演劇評論家の今村修氏は、「修辞に満ちたシェイクスピアの言葉と、小劇場的な演技と発語が馴染まない場面も少なくない。」と言っているが、私は、緊張感に満ちたセリフを言ったのち、ふと”小劇場的”な役者の“素”のような“日常会話的”な言い方で何回かしゃべる時間は、けっこうおもしろく幸せであった。 

今村氏はまた 「小者感色濃いマクベス(若杉宏二)はいかにも流山児好み」と言っている。確かにそう言われるとこのマクベスには何か大物らしからぬ違和感があった。そう、それは「小物」として描かれているからだとわかった。しかし、「小物」とは時の権力者Aなどとはちがって、“人間味”あふれる人物と言ってもいいのかもしれない。

2時間10分、一度も目をそらすことなく、集中して魅入った舞台であった。 ああ、もうひとつ、楽塾の皆さんがダンスに歌唱に奮闘していたが、彼女たちはその舞台を観るたびに元気に若返ってきている。まさしく美魔女たち!!と思ったのでした。

最近観た芝居で、”もじゃもじゃ頭とへらへら眼鏡”の「天麩羅男と茶舞屋女」がある。この劇評はブログでも書き、詩誌「山脈」の次号にも書いたのだが、氷川丸で横浜に来たチャップリンを引き合いに出し、いまの政権と状況に対する批判と危惧が描かれていた。流山児「マクベス」にも同じ空気があるが、芝居のおも しろさという点ではスケールがまったく違う。やっぱり、エンターテインメントとしてもめっちゃおもしろいのである。 
まず、役者が突っ走っている。この疾走感が、初期の吉増剛造の詩篇とはちょっとちがうかもしれないが、とにかくエネルギッシュで元気をもらえるのである。

 

『マクベス』   小澤俊夫(プロデューサー)

チラシを見ると1988〜1991年で3本の「流山児マクベス」が上演されているが、他の舞台や映画の「マクベス」は優に10本以上は観ているが、流山児版は今回初めて。流山児が余りにも有名なこの戯曲をどう料理するか、期待に胸が膨らむ。
冒頭、一人の少 女(廣田裕美)が登場し語り始める。タリバンに銃撃されたが一命を取り留め、女性の教育の必要性や平和を訴える少女は、昨年ノーベル平和賞を受賞したパキ スタンの少女・マララそのものだ。授賞式のスピーチの一節か、「私たちで終わらせましょう、この終わりを始めましょう」と訴える少女の声はかき消され、そこは中東当たりの戦場と化す。

死屍累々となった荒野に魔女たちが登場。しかし本来は3人の魔女だが、流山児版では魔女の女王であるヘカテ (有希九美)と17人の魔女たち(井村タカオ・梅津義孝・眞藤ヒロシ・神在ひろみ・洪明花・佐原由美・荒木理恵・竹本優希・星美咲・橋口佳奈・めぐろあ や・阪口美由紀・高野あっこ・内藤美津枝・みかわななえ・河内千春・廣田裕美)。流山児が1997年に立ち上げ、今年18年目を迎えたシニア劇団「楽塾」からも6人が参加している。お馴染みの魔女たちの台詞「きれいは、きたない。きたないは、きれい」が、「集団的自衛権は、積極的平和主義。積極的平和主義 は、集団的自衛権」と繰り返す安倍晋三の言葉に重なる。

魔女たちはコロスと化し、後半も要所要所で登場。井戸端で魔女たちが女から取り上げた赤子は誰か?ひょっとして、母親の腹を破って出て来たマクダフか?ここまでの息もつかせぬ展開で、流山児版「マクベス」の斬新さと大胆さに鷲掴みにされる。「マクベス」の時代は11世紀から現代に設定され、台詞はほぼ原作の訳通りだが違和感は全くない。劇中で死刑執行人(柏倉太郎・渡辺修)が歌う曲に は安倍政権を批判する文言が散りばめられ、サブタイトルになっている「Paint it Black!」(黒く塗れ!)は、言わずと知れたベトナム反戦を歌ったローリングストーンズの曲。暴君マクベスを演ずる若杉宏二は独断専行で小心者の安倍晋三の姿に重なり、マクベス夫人を演ずる伊藤弘子は夫を陰で操る似非家庭内野党の安倍昭恵の姿に重なる。二人の滑稽な様は、まさに哀れで悲しき安倍夫妻そのもの。

以下、原作のあらすじを裏目読み。中東での戦争に大勝利したとの報を使者(藤田佳昭?)から受ける某国の王ダンカン(栗原茂)。 将軍マクベスとバンクォー(石橋祐)は、マクベスの片腕シートン(上田和弘)と戦争に参加した腹心のロス(小川輝晃)・アンガス(清水圭吾)・レノックス (武田智弘)・メンティス(森田祐哩)・ケイネス(辻京太)らと共に凱旋し、ダンカン王らに迎えられる。

しかし権力の野望に燃えたマクベ スはダンカン王を暗殺。ダンカン王を我が国の政界に例えるなら差し詰め小沢一郎、息子のマルカム(今村洋一)とドナルベイン(谷宗和)は山本太郎と護憲派 議員か。国王になったマクベスだが、バンクォーの存在と彼の息子フリーアンス(森諒介)が王になると言う魔女の予言を恐れ、暗殺者(近藤弐吉・栗原茂・谷 宗和)を送る。暗殺されたバンクォーはマスコミ報道、逃げ延びたフリーアンスは平和憲法。暗殺者は安倍晋三の親衛隊であるネトウヨと在特会等のレイシスト 集団。暗殺者に妻(植野葉子)と息子(山丸莉菜)の命を奪われたマクダフ(伊達暁)は、マルカム王子にマクベス討伐を訴える。夢遊病に冒されたマクベス夫 人は、ダンカン王暗殺、バンクォーやマクダフ夫人殺害の悪夢に魘される日々が続く。マクベスの城に、マルカム率いる某国の兵が攻めてくる。「バーナムの森 が動かない限り安泰だ」「女の股から生まれた者はマクベスを倒せない」という魔女たちの言葉を信じたマクベスは、城に立て籠る。

しかしマ クベス夫人の死と共に、バーナムの森が動いたとの報が入る。押し寄せるバーナムの森はSEALDsやOLDsやMIDLLEs、そして声を挙げ始めた多く の市民の姿に重なる。ついにマクダフと対峙したマクベスは「女の股から生まれた者には殺されない」と告げるが、マクダフは「私は母の腹を破って出て来た」 と答え、マクベスを切り倒す。マルカムがマクベスに代わって王に迎えられて芝居は終わるはずだったが・・・。
冒頭のマララの言葉が蘇る。「私たちで終わらせましょう、この『終わり』を始めましょう。今、ここから、ともに『終わり』を始めましょう」。

70回目の敗戦の日を迎えた今日、安倍晋三は全国戦没者追悼式で、3年続けてアジア諸国に対する「加害と反省」の言葉を盛り込まなかった。昨日の曖昧で不誠実な70年談話しかり。流山児マクベスのラストでコロスたちが唄う「鳥になる夢を」?が心に響く。「どんなに長くても、夜は必ず明ける」(マルカムの台詞)。権力に立ち向かう流山児祥の不屈なる闘争心、今だ健在なり!(文中敬称略)

 

『マクベス』   BY ねこ「演劇定点☆カメラ」
30周年記念公演ファイナル。

91年再演から3回目のマクベスは俊英・西沢栄治とのタッグで「アジア」がコンセプト。

 【舞台】
削がれてシンプル。白の一面、真四角の平台中央に丸い井戸。後方階段を 上がって、幕が掛かったステージ。

どこか神殿彷彿。天井近くにバルコニーまで 空間活用
【お話】
武将マクベス。魔女にそそのかされて、王と盟友の武将を殺し、王位を我が ものに。しかし、王の遺児に討たれてしまう。
高揚感溢れるポップな舞台、しかし、決して軽くはない。
大人数のモブ、女性達がわんさか、シニア劇団楽塾まで多彩に出演。

枯れたヨーロッパではないアジアのムードを醸し。劇中歌もふんだんに、暗く湿りがちな原作を上昇気流に乗せて熱く心地良く魅せ。権力闘争の源である欲望と恐れ、終の虚しさを劇団はえぬきの若杉宏二、伊藤弘子の好演で、存分に見せつけ。現代化 の要素もちりばめ、日常感覚で体感できるものとして判りやすいマクベスとし。
 客演もまた存分。伊達暁、植野葉子の際立つ存在感。井村タカオの朗々とした歌唱が素敵。
久々にみた海津義孝の変わらずの演技を嬉しくみるねこ。

 

 『マクベス』   BY 高取英 (月蝕歌劇団主宰・劇作家)

流山児★事務所の「マクベス」は、運びがテンポよく、歌と群舞とチャンバラがあり、飽きさせない。

マクベスの若杉宏ニもマクベス夫人の伊藤弘子もよい。バンクォーの石橋祐も。前半、井村タカオの魔女が快調。前半というのは、真ん中で少し出番が少なくなる。もう少し見たかった。

舞台セットも、中央の井戸、階段、二階などがよかった。 つまり、面白かった。
現代のアジアを舞台にかえている。そのチャンバラが、日本刀というのもいい。物語はシェイクスピアに忠実だ。やはり、シェイクスピアの言葉の力もある。私は、 シェイクスピアでは、この作品が一番好きだ。上演を考えたこともある。今回、特に、集団の動きがとても工夫されていた。それが楽しみを倍加させた。悪徳と破滅、それに戦争の愚かさを加えていた。


 『マクベス』    BY 山田勝仁(演劇ジャーナリスト・日刊ゲンダイ演劇評担当)

座・高円寺1で流山児★事務所創立30周年記念公演「マクベス」(構成・脚本=西沢栄治。脚本・演出=流山児祥)を観る。記念すべき221本目は1988年に本多劇場で塩野谷正幸+一色彩子で上演された「マクベス」以来、何度か形を変えて上演されてきた「流山児マクベス」。

今回は構成=西沢栄治ということで、かなり大胆にカットしてコンパクトな芝居になるのかと思いきや、ほぼ原作通り。ただし、舞台をアジアの架空の国に設定したことで、今の政治状況を照射したアクチュアルな「マクベス」となった。出演者が40人、坂本弘道グループによる生演奏など、疾走感と猥雑性と祝祭性に満ちた舞台はいかにも流山児★事務所らしいにぎにぎしさ。

冒頭、女性が教育を受ける権利を訴えてタリバンに銃撃された15歳のパキスタン少女マララさんのノーベル平和賞受賞のスピーチから始まる。「男の権力闘争の物語」になぜこのスピーチなのか。それはこの舞台に通底するテーマと重なっていく。 そして、マクベスの誕生シーンへ。母親(伊藤弘子?=マクベス夫人)の苦悶の末に生まれたマクベス。このシーンを見る限りではマクベスは女から生まれた男のようだ。「女から生まれなかった」マクダフとの運命を暗示するのか。

言わずもがな、「マクベス」という物語は、魔女の甘言にたぶらかされ、権力欲に取りつかれた男の転落の物語だ。
流山児マクベスはその悲劇性に「女性性」と「男性性」という対立要素を織り込んだ。

マクベスを殺すことができるのは、女から生まれなかった男マクダフ。帝王切開で生まれたということは、当時の医療技術からすれば、当然母親は死んでいる。 つまり母の身体を食い破って生まれたのがマクダフだ。母の命と引き換えに誕生した者。死者から生まれた男がマクダフ。 つまり「女性性」を否定した男がマクダフだといえるのではないか。対するマクベスは難産であろうと母親の産道を通って生まれた。母という「女性性」を帯びている。
女性性を否定したマクダフに殺されるというのはいかにも象徴的だ。
しかし、そのマクダフも最後は…。

もうひとつ、牽強付会を承知で言えば、祖父・岸信介の亡霊に取りつかれた安倍晋三が権力の階段を駆け上がっていく物語とも読める。しかし、決定的に違うの は、若杉宏二のマクベスは小心なチンピラで、絶えず内心の葛藤があるのに、我が国の首相の辞書には「葛藤」という二文字がない。
のんしゃらんと祖父の亡霊の指示に従うだけ。もっとも、祖父の亡霊を操るのはアメリカという魔女なわけだが。

素と演技を往還する伊藤弘子マクベス夫人の意図は終盤になって得心がいく。 久しぶりの若杉宏二も小心男マクベスを好演。急階段の上り下りは大変そうだが、最後の激しい殺陣など獅子奮迅の動き。
怜悧一徹なマクダフの伊達暁もいい。魔女の一人はこんにゃく座の井村タカオ。さすがの歌唱力に舞台が締まる。植野葉子の艶麗な歌唱、ヘカテの有希九美、バ ンクォーの石橋祐、ダンカンの栗原茂、久々の小川輝晃、近童弐吉、渡辺修。そして海津義孝の健在ぶりを見たのも嬉しい。
 

白を基調とした舞台美術も美しい。

 

『マクベス』     BY 野田学(演劇評論家/明治大学教授)

創立30周年記念、1988年以来の舞台が「豪華な名作」に仕上がった。主人公演じる若杉宏二の情けなくもニヒルなチンピラ・カッコ良さが見事。これまで何本も『マクベス』は観てきたが、主人公が死に際で見せるどん底、失意からヤケッパチ勇気への転換にここまで納得させられたのは初めてだ。もうカミュ的実存(それともジュネか)が一番輝いていた時って、こんな感じだったのかなとさえ思ってしまう。

他の演技陣も隙がない(特にマクベス夫人とバンクォーには注目!)。ライブ音楽で展開する歌とラップ入りの群舞をやっても間断ない。そして場面転換。暗転をタダではやらない所など、教科書に使ってほしい。それほど演出が繊細なのだ。その上、流山児らしい劇画風味も存分に味わえる。殺陣たっぷり結末(マクベス強いぞぉ)の艶やかな悲惨さはいかにも(かなり蜷川入っているけど)。

安保関連法案が山場を迎える中、マララ氏のノーベル賞演説を冒頭で引用するなど、「今」への配慮がちゃんとある舞台だった。
しかし、私にいわせてみれば、この舞台は、生真面目なまでにしっかり「原作」に向かい合ったものだったのだ。英国の演出家ならカットしそうなシーンもちゃんとやる。こういう姿勢だからこそ、テキレジでツボをおさえられる。マルカムとドナルベインの長幼をわざとひっくり返した所など、芸が細かい。

原作を知っている人なら、あれ、なにをするつもりだろうといぶかるだろう。大丈夫。それに見合った結末が待ってますから。  流山児★事務所の好調は、これからも続きそうだ。

 

『マクベス』        BY いっちの舞台大好き

『マクベス』の冒頭。
去年史上最年少でノーベル平和賞を受賞したマララさんの命をかけた平和への演説から始まり、マクベス夫人からマクベスが誕生する。それを取り囲むのは17人の魔女達。

今回全編を通して私が観ていて感じたのは「女って強い生き物」なんだなぁ。
魔女達の言葉に翻弄され、マクベス夫人の言葉に乗せられ悪事に手を染めていく…
魔女達やマクベス夫人が強ければ強いほど、マクベスの小心者(小者)ぶりが際立って見えたような。
幕開きでマララを演じた廣田裕美さん!マクベスの若杉宏二さん!マクベス夫人の伊藤弘子さん!そして17人の魔女のみなさん!みなさん、最高にブラボーでした!

おそらくマクベスは、根はいい人。
だけど人間というのは欲深いものだから、欲しいものがあれば悪に手を染めてまでも手に入れる。
それゆえにいつも何かに怯えていて、そこの核心を突くかのような魔女達の言葉がマクベスを追い詰めていく。まさに『キレイはキタナイ、キタナイはキレイ』最後はバットエンドでもハッピーエンドでもなく、なんだか「日本の今」をも暗示しているような気がして…それがかえって衝撃的でした。

私が思うに…今でこそシェイクスピアは古典として扱われていますが、シェイクスピアが生きていた頃は日本のアングラ演劇みたいな最新・最先端をいく芝居だったんだろうなと思うのです。
だから流山児★事務所みたいなアングラ劇団がシェイクスピアを上演するのは至極自然なことだし、意味のあることなんじゃないかと思うわけで。随所に今の日本を象徴するようなシーンや仕掛けも散りばめられていて… 流山児★事務所の劇団力をまざまざと見せつけられた今回の『マクベス』2時間ちょっとの上演時間があっという間でした!

今年はなぜかマクベスがあちこちで上演されている“マクベスイヤー”ですが…流山児さんだから、流山児★事務所だからこそできるアングラマクベス…ボキャ貧で申し訳ないですが、日本で不穏な動きがある「今だから」こそ観れてよかったと心底思えました!

 


『新・殺人狂時代』  演劇雑誌「テアトロ」2015年9月号 「私が選ぶ今月のベストスリー」   林あまり(歌人・演劇評論家)

鐘下辰男の久々の新作を劇団チョコレートケーキの日澤雄介が演出した「新・殺人狂時代」。
男たちの手に汗にぎる攻防が、まったくゆるみなく観られた。

あの大震災のまさにそのとき、地下の作業場に閉じ込められた男たち、観ているうちにだんだん観客は、そこが福島の原子力発電所だとわかってくる。男たちにはそれぞれの立場、人生の背景、性格があり、脱出しようとする者、救助を待とうとするも者と、考え方がくい違い、争いばかり起こる。

明らかにムダとわかっていることをして時間をやりすごそうとするリーダーには日本人が陥りがちな「とにかく動けばなんとかなる、考えるな」といった姿がよく表れている。鐘下の視線はさすがだ。イワヲ、岡本篤、塩野谷正幸ら好演。 

『新・殺人狂時代』   演劇雑誌「悲劇喜劇」2015年9月号 2015年上半期演劇界の収穫 〜歴史の中に鮮烈に浮かび上がる人の真情〜 山本健一(演劇評論家、元朝日新聞編集委員)

日澤は流山児★事務所公演の鐘下辰男の新作「新・殺人狂時代」(6月、ザ・スズナリ)で、演劇の直接性を生かした迫力ある演出を見せた。3・11物だが、 地震と津波のため地下の原発作業所に閉じ込められた十三人の男たちの物語。レジナルド・ローズの「十二人の怒れる男」を土台にした。荒っぽい男たちのサ バイバルをめぐる「討論劇」の様相がある。
孫請けらしい十三人の作業員たちが、地元組と流れ組に分かれて抗争する。閉じ込められた場所の直下に原発格納室がある極限状況。外部からの流れ者を装うフリージャーナリストの男1サトウ(木暮拓矢)は、事態を直視しようとする。少年の無実をはらすローズ版の陪審員8号か。これに対立する地元組のやくざである男8ナカムラは、ファナティックな陪審員3号か。がなりたてるせりふはややうるさいが、対立と人物の性格はくっきり出ている・

暗闇の中、時折舞台を照らす照明(朝日一真)が、迫りくる放射能汚染を表現して恐怖を次第に強める。最後、脱出路を探しに格納室へ全員が降りて行く。照明が、つまり放射能が強烈に荒ぶる男たちを浮かび上がらせる。
       
この無残な終末表現には、現代を映してのっぴきならない迫力がある。

 

『新・殺人狂時代』  小澤俊夫(プロデューサー)

下北沢のザ・スズナリで流山児★事務所創立30周年記念第4弾「新・殺人狂時代」(作:鐘下辰男、演出:日澤雄介)を観た。レジナルド・ローズの「12人の怒れる男」をモチーフにした前作「殺人狂時代」(2002年、演出:流山児祥)は見ていないが、チラシによると「傭兵たちの叛乱の物語」を討論劇スタイルで上演したそうだ。今回の「新・殺人狂時代」は中味も形式もがらりと?変わり、3・11福島原発事故を背景に、原子炉建屋内?に閉じ込められた作業員たちの話。前作が「傭兵たちの叛乱の物語」ならば、本作は「国家により抹殺される人々の物語」。

幕が上がると漆黒の闇。 どこかから男たちの声が聞こえてくる。どうやら何かの事故が起きたようだ。やかて、懐中電灯の明かりが点り、お互いの無事を確かめ合う。瓦礫に埋もれた場所 は密室と化し、他の場所に移動する術もない。配管を叩いて外と連絡を取ろうにも反応がない。と、壁を破って数人の男たちが合流する。別の場所で作業をしていた連中だ。密室の中は、総勢13名。そこに轟音と共に津波が押し寄せるが、彼らの場所は浸水から免れる。(このあたりから原発事故で電源喪失した建屋内に 閉じ込められた作業員と判る)。作業員たちは救助を待つが、管理事務所では彼らが閉じ込められている事を知っているにも関わらず、一向に救助の手が差し伸べられない。喉が渇いても、放射能で汚染されているであろう溜まった水を飲むものはいない。彼らのいらだちも募り、些細なことで喧嘩が始まる。地元の作業 員対下請け作業員。その中には肩に入れ墨のあるヤクザや、作業員として潜入したフリーのルポライターの姿もあった。喧嘩が収まると、彼らは何故救助が来な いか疑い出す。もしかして電力会社や国は、俺たちを見殺しにしようとしているのではないのか!ルポライターが持っていた録音機に、遺言を吹き込む一同。だ が・・・。

冒頭5分近くが漆黒の闇で、その後15分位が照明は懐中電灯1本。目が慣れてくるのと同時に照明も徐々に足しているので、後半はおぼろげながら役者たちの表情も分かるのだが、何か所かで客席に向かって照明による目くらましをするのであれば、1回目の目くらまし以降は照明をもう少し足してほしかった。演出家の狙いは判るが、後ろの席に座った客には役者の表情をつまびらかに読み取ることが出来ない。役者たちもそれぞれ頑張っているの だが、左記の理由で誰が誰だか判らぬ始末ではあったが、ヤクザの加藤を演じた温泉ドラゴンの白井圭太の演技が光る。気弱な作業員を演じた塩野谷の演技も臭いを放つ。導入部とラストにはノイズのような音楽?が用いられるが、劇中は無音。時々聞こえる水の垂れる音は効果的。原発の作業員だったら防護服を着て線量計を付けているはずだが、普通の作業着で放射能の話をするのは?外部と連絡が取れないというが、携帯録音機は持っていても連絡用無線や携帯電話を誰一人 持って行いないのは?そんな疑問を抱かせる部分はあったが、福島原発事故が何も収束していない現在、この作品を世に問う事には大いに意義がある。昨今、何 を言いたいのかさっぱりわからぬ芝居も多くなってきた中で、常に反権力の立場を貫き通す流山児★事務所の公演にはいつもながら溜飲が下がる。

 

『新・殺人狂時代』   詩誌「太郎の部屋」 NO.34 芝居の日  2015年7月15日号     鈴木太郎(演劇評論家/詩人)

流山児★事務所『新・殺人狂時代』(@下北沢ザ・スズナリ)作=鐘下辰男 演出=日澤雄介 企画=流山児祥

鐘下辰男の新作書き下ろしである。かつて 『殺人狂時代』として2作品が書かれているが、それは「戦争とニッポン」を描くアクション討論劇であった。
 

今回の新作は、地震と津波で崩壊した原発建屋の地下に閉じ込められた13人の男たちの格闘を描いている。いま、この時代の現実を鋭く告発する重厚な作品で あった。鐘下作品はもともと暗いテーマを構築しているが、今回も暗い。が、さすがだと唸らされてしまう。場面転換も巧みな照明で処理してゆく。緊迫感を持続させてゆく小気味のいい演出が際立つ。
 
男たちは原発の作業員である。しかも地元組とジプシー組に分かれている。壊された建屋からの脱出をめぐって意見が対立してくる。サトウ(木暮拓矢)が冷静に判断しようとするが、救援隊の来る見込みがなくなる中では、男たちそれぞれの確執がせめぎあってくる。 俳優陣もエネルギーを爆発させていた。イワヲ(男8)や白井圭太(男10)が荒々しさを好演、対照的に塩野谷正幸(男11)の冷静さもまた印象的であった。

閉じ込められた男たちは救われるのか?極限状態のなかで、客席にも息の詰まる思いが伝わってくる。たしかにこのような状況の下では助かる見込みはない。そ して、ドラマの世界が事実だとしてもそれは政府と会社によって無視されるのは明らかだ。まさに原発こそ 「殺人狂時代」の産物といえることを証明した舞台だった。

 


『チャンバラ    藤原央登  シアターアーツ 長編劇評

アングラを殺す!?

山元清多によって執筆され、1970年に演劇センター68/71(現黒テント)で初演された『チャンバラ〜楽劇天保水滸伝〜』。これを鄭義信が構成・演出し、創立30周年を迎える流山児★事務所の記念公演第2弾として上演した。記念公演であると同時に、山元と俳優・斎藤晴彦のメモリアル公演でもある。斎藤は本作の出演を予定していたものの、急逝したからだ。市井に生きる民衆に、現実に差し迫った問題への気付きを促すこと。本作はそのことを描いた。と同時に、その喚起が失敗せざるを得ないことも描く。

流山児祥の巧みなプロデュース力により、★流山児★事務所、黒テント、オペラシアターこんにゃく座、結城座など多彩な出自の俳優が出演し、津軽三味線とドルサイナの演奏が楽劇らしく舞台を盛り上げる。

本作のキーワードであるニセモノ性を逆手に取った、お時と勢力富五郎を共に演じる塩野谷正幸の早変わりは、いささか冗長に感じられる舞台に笑いを生み出すアクセントとなっていた。役柄の非固定化は、演じる俳優の役と心理を一体にする近代演劇の制度を突き崩すものであるだけに、当時の小劇場運動の一端をうかがわせる。また、猿の伝次と洲の崎の政吉が互いが互いを追うシーンでは、俳優がたっぷり疲労するまで舞台を上へ下へと駆け回る。身体の疲弊は、ゼロ年代以降の演劇シーンにおいて、演劇の一回性を担保する芸術的特性の側面から論じられてきた。ここにはそのような理屈を度外視した、ただ単純に観客を楽しませるための思い切りの良さがある。このように、舞台には芸能と娯楽要素がふんだんに盛り込まれている。にもかかわらず、その底には暗くて重いトーンが流れているのだ。

時代は天保。場所は下総の飯岡および笹川。笹川には、江戸へ物資を運ぶ利根川沿いの輸送ルートを取り仕切る笹川繁三(蔵)がいた。飯岡には九十九里浜の漁業の元締めであり、関東取締出役より出役の道案内を任されて十手を預かる飯岡助五郎がいた。共に渡世家業の親分として一家を率い、それぞれの縄張りを治める人物だ。両者の間に生じた小さな争いごとがしだいに激しくなり、天保15年の大利根河原の決闘で笹川側が敗北する。飯岡と笹川の対立と趨勢を基にした講談が『天保水滸伝』である。本作は、大利根河原の決闘後がモチーフとなっている。笹川に勝利した飯岡は、関東取締出役より治水工事を請け負った。下総での勢力がますます拡大しつつある飯岡側は、その威信を披露するための花会を開こうとしている。このような状況の中、決闘に敗れ放浪の旅に出た笹川繁三が再び笹川に戻ってくる…。舞台は果たすことができなかった笹川による飯岡への勝利を、史実−戻った繁三が飯岡側に召し捕られ命を落とす。その敵討ちに乗り出した笹川一の子分、勢力富五郎らの行動も失敗し、金比羅山中で自害−を織り込みつつフィクショナルに描く。幻想を伴って繰り返される挑戦と失敗が、とりあえずの作品の骨子となる。

とはいえ、肝心の笹川繁三と飯岡助五郎は直接には関わらない。繁三は後述するようにニセモノであるし、飯岡助五郎は櫓の上で悠然と陣取っているらしいとは語られるが、一度も姿を見せないのだ。となると、対決は頭の意志を継いだ子分達の代理戦争とならざるを得ない。それを背負うのは、笹川側は繁三の用心棒である元浪士の平手酒造であり、飯岡側は史実で笹川繁三を殺害した成田甚三である。この2人の攻防を中心にして、櫓の上に笹川、飯岡どちらの吹き流しを翩翻とさせるのか、つまり地域を締めるのはどちらの勢力なのかが展開される。大利根河原の決闘で殺害されたはずの平手造酒は、本作ではカビ臭い押入れに幽閉された精神疾患者である。白襦袢という平手のイメージを拡大し、単衣はおろか頭からつま先まで真っ白の白子である。

お時をはじめとする遊女たちにザラメを要求し、すぐに姿をくらませてしまう酒造が人斬りへと覚醒する点が本作のハイライトだろう。ひ弱さから力強さへ、一気に針を振りきる演技が要求されるこの役。初演では清水紘治が演じたが、今回はこんにゃく座の井村タカオが演じた。お時が流す血が白子の体に生気を駆け巡らせることになり、造酒は打倒甚三のために動くことになる。史実においてはついぞ達成することが叶わなかった、笹川勝利の夢。劇中、狂言回しの役割を担う三人の厄払いの手助けを借りながら、歴史をひっくり返そうとする闘いが繰り広げられるのだが、結局は関東取締出役の銃弾に倒れる。まぼろしに終わった笹川勝利の夢をいつまでも抱え、老齢になっても笹川側が一家の吹き流しを幻視する。これが山元の手による戯曲である。鄭義信は、そこにヤクザの権力闘争では終わらない現代の闘いを強く込めた。それが、勢力富五郎が自害する際に挿入された、三里塚闘争の映像であり、人形を使った劇の大枠であり、ラストシーンの不穏な気配なのである。

ヘルメットを被ってツルハシを持った勢力富五郎は、飯岡側による治水工事を阻止するべく動く。治水工事=成田国際空港の建設を推し進める飯岡助五郎が関東取締出役の道案内を務めることから、笹岡と飯岡の対立は民衆と官憲のそれに見立てられていることが分かる。そして三里塚闘争の挿入は、現在の沖縄の基地闘争に見られるように、過去から現在まで続く官憲と民衆との闘争が存在することを示唆している。成田甚三に向かう平手造酒が白子だったように、人種的マイノリティの問題も含んでもいよう。しかし、1960年代から70年代半ばに渡った三里塚闘争で住民が挫折したように、そして後に述べる劇の帰結が描く通り、民衆側の闘いはいつも挫折に終わることを予感させられるのだ。

造酒の闘いがマボロシに終わったことは、先に記した繁三のニセモノ性とも関わってくる。史実通り、劇の前半で繁三は故郷に帰ってくるが、天保13年に花会を開いた「十一屋」を訪れると、そこには既に繁三の面を被った三人もの繁三がいることになっている。またその後、甚三によって飯岡側の矢切の庄太に「おめぇは繁三だ」と名指し、繁三に仕立てるシーンがある。元に戻ろうとする庄太の願いは聞き入れられず、繁三の末路通りに甚三らによって殺害されてしまうのだ。姿を見せない助五郎とニセモノの繁三。対立のための対立という内向きのベクトルは、もはや内ゲバの様相を呈している。物語の夢まぼろし性は劇の構造的なものなのだ。だからこそ、鄭義信が取り入れた現代性にも、その末路の悲劇性を予感させられてしまう。

では、劇の要所要所で差し挟まれる、結城孫三郎と岡泉名による人形劇はどうか。ここでは現代を思わせる母子風景が描かれる。母子はオトキとミキオと呼ばれることからも明らかなように、お時と酒造に対応している。ミキオは典型的な引きこもりであり、母に暴力を振るうドラ息子である。そんなミキオに手を焼く母は、包丁で刺して殺してしまう。ここで重要なのは、霊媒師に息子の相談を持ちかける点である。霊媒師はミキオの素行の悪さの原因に、水子の霊が憑いていることを告げる。水子には果たせなかった企図の意味もある。これはすなわち、笹川の想いがミキオに憑いたということではないか。すると、厄払いの三人が天宝の時代で造酒を援助するのは、ミキオの更正、すなわち除霊の意味につながってゆく。つまり、オトキとミキオの世界が天保の時代で起こることの大枠となっていることが了解される。しかし、ミキオのあがきと疼きが突き動かす家庭内暴力を、ほかならぬ母親が殺人によって抑えてしまうのだ。ここでも、いつの世になっても飯岡側を倒して官権力に勝利することは不可能であるということを強く印象付けることになる。甚三が矢切の庄太を繁三に仕立て上げ、身内の中で事を終わらせたように、子供を育てる立場である母親が、自ら子殺しをしてしまうこともまた、飯岡の内ゲバにも似た回収行為に過ぎないからだ。そもそも、笹川と飯岡は同じヤクザではあるが、助五郎は関東取締出役という官憲側の人間でもあるという「二足のわらじ」の存在である。そんな彼が姿を見せず、超越的な視点を有してる以上、始めから本丸を攻めることはできない。劇はどこまでいっても、内から外部へと向かう契機を欠いているのだ。

三里塚闘争の映像を挿入したり、現代の親子関係を描いて劇を二重へと向かう契機を欠いているのだ。三里塚闘争の映像を挿入したり、現代の親子関係を描いて劇を二重化したところで、すべては官憲の手のひらの上で踊ることに過ぎない。子の運命を母親が握っているという劇の大枠がそのことを示している。

笹岡側と飯岡側の闘争とそれを内包する母子関係は鏡像関係をなしており、その意味で両者は決して内と外ではない。それ故の出口のなさは、舞台ラストにおいても同様だ。現代を思わせるシーン。白いシーツの洗濯物を掛ける妊婦姿の女優たち。そこに、白いジャージ姿の男優たちがぞろぞろと這い出てくる。純粋無垢な白いイメージは何者にも汚されないものの象徴だ。そこに、上空に飛び交う飛行機の音と爆撃音が響く中、俳優たちはしだいに倒れてゆく。白が鮮血で染まるイメージは、造酒の身体に血気盛んな正気を取り戻させたこととつながる。そのことを思う時、我々は純粋無垢に平和を謳歌していられない今という時を自覚させられはする。だが、造酒が笹川勝利の実を手にできなかったように、そして舞台上の人物が銃撃で倒れたように、その立ち上がった思いは果たすことなく挫折するのではないか。最後まで、そのような過酷な思いを抱かされてしまう。

民衆への放棄を促すことは60年代演劇の重要な理念であった。それは、近代というイデオロギー制度との対峙とあいまったものである。冒頭でも記したように役柄が固定されていないことや楽劇であることは、近代的な演劇制度から逸脱しようとした山元の想いの顕著な例であろう。それを維持しながら、鄭義信は現代に通じる問題へと仕立て上げようとした。が、これまで論じてきたように楽劇の根底には暗いトーンが流れている。ここを何とか打破する契機はないのか。そう考えた時に、私は造酒が甚三と対峙するシーンに注目した。造酒が発した「アングラ」という言葉に、甚三がビビッドに反応する。「アングラ?軽々しく口にすんじゃねぇ、若僧が。アングラのなんたるかがわかってるのか、おまえ?」。アングラの定義を問う甚三に向かって、雄たけびを上げながら造酒が斬りかかる。甚三を演じるのは黒テントの前進である演劇センター68/71の頃から所属する服部吉次である。彼に若手俳優が叫びながら切り込むことに、仮想的を設定するのではなく、真正面から立ち向かう世代を離れた人間の対峙を見た。物語上、造酒の蜂起は失敗するのだが、少なくとも繁三を捏造して殺害するような空しい内ゲバの論理とは別の、外へ回路が一瞬でも開いたような気がしたのだ。アングラ第二世代である流山児祥と、状況劇場(現唐組)を受け継ぐ直系の劇団・新宿梁山泊の座付き作家だった鄭義信。世代は違えどもアングラの当事者である彼らがアングラを殺そうとするシーンは、現代の問題を考えるアングラ・小劇場運動それ自体を、今一度吟味しようとしたのではないか。そこに、現状に風開けようとするために成せる彼らのギリギリの態度を私は見たのである。

アングラ演劇によって本格的に始まる現代演劇であるが、その理念は今日いかに息づいているのだろうか。アングラは確かに下半身、肉体、情念というタームによって語られてはいるが、それは言葉に対する肉体の優位という固定された二分法で語られがちになっている。言葉か肉体かではなく、我々民衆をあらゆる方策で懐柔し取り込む近代化されたイデオロギーへの対峙が、アングラの方法論だったはずだ。そのイデオロギーの象徴が、合理と規制の権化としての「言葉」だった。そういう意味では、アングラ演劇の革命性は「言葉」そのものの革新でもあった。そのことは現代演劇の基点を考える上で忘れてはならないことだろう。小劇場運動の開始点をどこに据えるかは議論があるだろうが、1967年に状況劇場が花園神社に『腰巻お仙義理人情いろはにほへと篇』で紅テントを張ってから、もうすぐ半世紀を迎える。今こそ、伝説や神話としてのアングラの精神イメージではないところで、現実問題と切り込んだ文化運動としての小劇場の見直しが要請されている。アングラと新劇の区別が溶解しつつある今、あらためて60年代演劇が成そうとしたことを検証し、演劇の社会的な役割を思索する必要性を、造酒が甚三に立ち向かったシーンから感得させられた。本作は、早稲田大学による「国際研究集会60年代演劇再考」(2008年)に代表される、現代演劇の基点を学術的に検証する動きに対応する、実践的な側面からの試みだったと位置づけられよう。(作=山元清多、演出=鄭義信、企画=流山児祥、2015年1月23日マチネ、下北沢ザ・スズナリ)

藤原央登(ふじわらひさと)劇評家。31歳。

『チャンバラ        BY 山田勝仁(演劇ジャーナリスト/日刊ゲンダイ 演劇評担当)


期せずして60年代から70年代初頭のアングラ芝居が同時期に上演され、主題にも共通項があるという因縁めいた舞台が下北沢と池袋で展開中だ。ひとつはスズナリで上演中の流山児★事務所「楽劇天保水滸伝 チャンバラ」。
「山元清多・斎藤晴彦メモリアル」と題して、5年前に亡くなった劇作家・脚本家の山元清多と昨年急逝した俳優・斎藤晴彦の追悼公演としている。演出は黒テント出身で山元清多の愛弟子・鄭義信、企画は流山児祥。


物語は笹川繁蔵と飯岡助五郎、房州の2人のヤクザの大利根河原での決闘に材をとったもので、講談でおなじみの助っ人・平手造酒(井村タカオ)も不敵なニヒリストとして登場する。大利根河原の決闘で勝利した笹川一派だが、助五郎は十手持ち。権力の手下でもある。お上の威光には繁蔵もそれ以上歯向かえない。繁蔵の子分は散り散りに。
 

それから数年、飯岡一派が関八州大目付から任された利根川の治水と花会の準備を進めているところへ、 繁蔵が戻ってくるという噂が広まる。 それを聞いた助五郎の子分、成田の甚三(服部吉次)が策謀をめぐらし、繁蔵一家の根絶やしを狙う。 この主旋律と、糸あやつり人形座の結城孫三郎と岡泉名が演じる現代の親子の愛憎物語が並行して描かれる。勢力の富五郎(塩野谷正幸)のプロレスシーンから。富五郎は繁蔵の一の子分。繁蔵を殺され、助五郎への復讐を誓っている。迎え撃つ甚三。 ヤクザ両派が相打つ復讐戦の行方は……。と、まあ表向きはヤクザ同士の争いを戯画化したもので、ストーリーも展開も不条理でよくわからない。
 

黒テントで初演されたのは1972年。 前年には千葉・三里塚で第二次強制代執行が行われ、死者・負傷者が多数出ている。またこの年2月には連合赤軍によるリンチ殺人という凄惨な事件が発覚している。この戯曲もその影響を受けていることは確かだろう。

舞台装置の櫓(やぐら)は三里塚の農民・学生の砦とも見えるし、若者たちが血を流すのをほくそ笑んで見ている成田甚三は公権力の親玉とも見える。さらに甚三を前面に出し、自分は決して姿を見せない飯岡助五郎は日本の無責任体制の象徴ともいえるある人物を想起させる。
 

この作品の初演の翌年にはヤクザたちの抗争に名を借りて「天皇の戦争責任」をも射程に入れた映画「仁義なき戦い」が封切られる。次々に死んで(殺されて) いく若者たちを尻目に、責任を回避し、卑怯未練に君臨し続ける山守親分は昭和天皇の戯画であることは、天皇の戦争責任を追及し続けた深作欣二、笠原和夫と いう反権力の闘士の共同作業であることから見ても容易に理解できる。その「仁義なき戦い」の前年にすでに山元清多は舞台で天皇の戦争責任を問うていたのだ。山元の戯曲を解体・再構築した鄭義信はさらに3・11後の日本をも投影する。舞台背景のオブジェは第五福竜丸が被爆した事件をモチーフにした岡本太郎の「明日の神話」の色使いと酷似している。311直後、原発爆発の絵を貼り付けられた「明日の神話」。 秘密保護法、集団的自衛権、憲法9条改悪……。
 

絶望的とも思える日本にいくばくかの希望はあるのか。あるとしたらそれは何か。不吉な爆音が不安の象徴ならば、希望の象徴は…。
狂言回しは、雲水姿の坊主に身をやつした三人の六蔵(イワヲ、宮崎恵治、里見和彦)。歌、客いじりは鄭義信得意の観客サービス。塩野谷正幸が富五郎と女形 お時の二役を演じて相変わらずパワー全開。お由を演じた坂井香奈美、お鶴を演じた阿萬由美ら流山児★事務所生え抜きの女優がぐんぐん力をつけて舞台を引っ張っている。次代のスター・五島三四郎の清新な演技もいい。阪本篤(温泉ドラゴン)は古巣に客演、のびのびと演じていた。
 

いかにもアングラ劇らしく、肉弾相打ち、パワフルで不条理で笑いに満ちた舞台。

 

『チャンバラ      BY  今村修(演劇評論家・朝日新聞記者)

学生の叛乱がドロ沼に嵌っていった1972年のアングラ劇が、逆コースが露わになったポスト3.11の風をまとって再生した。流山児事務所創立30周年記念公演第2弾「楽劇天保水滸伝 チャンバラ」(作=山元清多、演出=鄭義信、企画=流山児祥)@ザ・スズナリ。

アングラ演劇の読み直しを進めている流山児が、親交深かった山元の初期作品の演出を黒テントで山元の愛弟子だった鄭に依頼、流山児★事務所のほか、山元が 関係した黒テント、江戸糸あやつり人形劇団結城座、オペラシアターこんにゃく座の俳優が集った。初演にも出演、今回も出演を快諾していた斎藤晴彦が昨年急逝したため、「山元清多・斎藤晴彦メモリアル」と銘打たれた。

物語は講談でおなじみの「天保水滸伝」、ご存じ、飯岡助五郎一家と笹川繁 蔵一家による利根川の出入りの後日談。出入りでは勝利したものの、十手を預りお上の威を借る助五郎に抗すべくもなく、散り散りとなった繁蔵一家。繁蔵本人 も、助五郎の子分・成田甚三(服部吉次)らによって闇討ちに遭う。そんなある日、盛大な花会の準備に余念がない甚三たちの前に繁蔵(阪本篤)が帰ってくる。この繁蔵は果たして本物か? 腑抜けになった平手造酒(井村タカオ)と愛人お時(塩野谷正幸)の恋の行方は? 櫓の上に陣取ったまま姿を見せない助五郎の正体は? 3人の厄払い坊主(里美和彦、イワヲ、宮崎恵治)と小野越郎の津軽三味線、諏訪創のドルサイナ(スペインの民族楽器)を物語の道案内に、血 で血を洗う大活劇と歌え踊れの大騒ぎの中をヤクザたちと女郎たちが疾走する。

今回の上演に当たり、鄭は初演の戯曲にかなり手を入れた。 櫓(やぐら)という上下の動きでヒエラルキーを視覚化する装置に天皇性を重ねた初演の戯曲に対し、今回は焦点をより分散化し、目眩ましを増やした。塩野谷 によるお時と繁蔵一の子分・勢力富五郎との二役早変わり、厄払い坊主による客いじりなどで笑いの要素を増幅させ、本編と平行して結城孫三郎と岡泉名が操る人形が演じる家庭内暴力のドラマを加えて、物語を現在につなげた。書き加えた冨五郎が籠城するシーンは連合赤軍の浅間山荘事件を彷彿させ、時代性にも目を配っている。ただ、その過程で「笹川の花会」というミステリアスな仕掛けが見えにくくなった。死に体の笹川が催す大花会、それを飯岡一派が準備しているの はなぜか? 初演戯曲ではその謎解きがあったことを戯曲を読んでようやく分かった。

多分、様々な読み込み、読み解きができる舞台だろう。 だが、ここでは強引に「物語についての物語」として読んでみることにした。人には物語が必要だ。それが生きる原動力になることもあり、逆に悲惨な真相から目を背け、自らを守る盾ともなる。この作品の下敷きになった「天保水滸伝」も物語だ。血塗られたヤクザ同士の暴力を、平手造酒というヒーローをこしらえ、 善悪を単純化することで娯楽にし、消費した。
 
1960〜70年代のアングラ演劇も様々なラディカルな物語を紡ぎ出し、叛乱の時代≠フ観客に熱く指示された。だが、それは諸刃の剣でもある。物語を意図的に操ろうとする者が現れたとき、それはやすやすと人々の間に感染していくかもしれない。 櫓の上から姿を現さない助五郎はまさに、そうした危険なゴドーなのではないか。人形の母親の物語を無害に作り替えて微笑む女たちの背後から無言で立ち現れた白ずくめの男たちに姿に、この国の不幸な未来が一瞬重なって見えた気がして背筋が寒くなった。(敬称略)

 

『チャンバラ』       BY 大衆文化評論家:指田文夫の「さすらい日乗」

流山児★事務所30周年記念の公演で、黒テントの作家で2010年に亡くなった山元清多と、昨年亡くなった斎藤晴彦の追悼公演で山元作の『チャンバラ』が行われた。
演出は、黒テントにいたこともある鄭義信で、テントからは服部吉次、木野本啓、宮崎恵治、結城座から結城孫三郎、オペラシアターこんにゃく座から井村タカオ、そして流山児★事務所からは塩野谷正幸、坂井香奈美など。

話は、天保水滸伝の笹川繁蔵と飯岡助五郎との利根川河原での出入の後日談である。
元は1971年の公演で、私は見ていないが、当時黒テントは、多くの役者、スタッフがいて最盛期の1974年の『阿部定の犬』を作る前夜の作品であり、齋藤をはじめ多彩な役者が出たと思う。
今回の再演で窺えるのは、時代劇のチャンバラ、通俗劇的構造、ダンス、楽器演奏など、その後の黒テント、さらに斎藤憐の『上海バンスキング』につながる一種の「ごった煮路線」が、この辺ですでに確立していたらしいと言うことだ。

今回の公演がどこまで山元の原作に忠実なのかはよくわからないが、かなり変えていると思われる。現在、流行の「静かな演劇」がいかにつまらないものであるかを見せてくれただけでも、この公演の意義は大きいと思われた。

 

『チャンバラ』       BY 高取英(月蝕歌劇団主宰・劇作演出家)

流山児事務所の「チャンバラ」を見た。楽劇 天保水滸伝 とサブタイトルにある。歌、踊り、ギャグありで楽しかった。
小野越郎の津軽三味線がよかった。飯岡助五郎と笹川繁蔵一家の出入りの後の話。塩野谷正幸のお時と富五郎の二役の慌てぶりが笑わせる。エノケンの芝居でもあった例の慌てぶり。

富五郎は、後半、連合赤軍みたいに暴れる。お時は、平手造酒の恋人で、その死体を背負って平手がラスト、悪い成田甚三(服部吉次が演じた)ら、をやっつけるのも笑わせる。

天保水滸伝で有名な二つのヤクザの話を展開したのだ。このヤクザの対決は、「座頭市物語」でも有名。だからか、座頭市風の三人の座頭が現れ、これも笑わせる。
坂井香奈美が、繁蔵の女房を熱演。結城座の人形芝居もはさまれる。


テラヤマプロジェクト・ファイナル 『青ひげ公の城』 

演劇雑誌テアトロ2月号(900号)「今月選んだベストスリー」に『青ひげ公の城』が選ばれている。演劇評論家・歌人の林あまり氏の劇評である。「今回のパワーは圧倒的だった」「美加理の透明感、毬谷友子の歌と演技に見惚れるばかり」

テラヤマプロジェクト・ファイナル 『青ひげ公の城』  柾木博行(演劇評論家:シアターアーツ編集部)
 流山児☆事務所のミュージカル『青ひげ公の城』、ちょっと予想していたのとは桁違いの面白さで、本当に素晴らしかった。

やはり、主演の三人ー河原崎國太郎、毬谷友子、美加理の魅力を十分に引き出しているのが成功の要因ではあるが、終幕になると単なるメタシアターということを超えて、西武劇場での初演からこの作品に関わってきた美加理の個人史と溶け合い繋がり始める。ついつい、美加理=宮城聰というイメージで考えがちだが、実はク・ナウカ以前の演劇活動が11年もある。この女優にとって10代後半からの11年の演劇活動 は、その人生に大きな影響を与えていたに違いなく、その時に刻まれたものは今もその身体の芯に残っているのだろう。

それを時々引き出して、若い頃に感じて いた初心で演劇に向き合う手助けを時々流山児がやっているのかも。 そういうことを気づかせてくれたという点では流山児氏にも大感謝です。


テラヤマプロジェクト・ファイナル 『青ひげ公の城』  山田勝仁(演劇評論家・日刊ゲンダイ)
豊島区テラヤマプロジェクト「青ひげ公の城」 (作=寺山修司、演出=流山児祥、音楽=宇崎竜童) 18時45分。豊島公会堂前の小公園で豊島区テラヤマプロジェクト「青ひげ公の城」(作=寺山修司、演出=流山児祥、音楽=宇崎竜童)のミニ野外劇。 流山児、岡島コンビに大久保鷹も加わり寸劇。劇中の台詞を集まった参加者が読み上げる。それだけでもなんだかジーンとくる。19時開演。

一言でいえば「リスペクト」の舞台だった。  

作者へのリスペクト、俳優へのリスペクト、豊島公会堂という劇場へのリスペクト。そして「演劇」へのリスペクト。 たった一度しか観る機会を持てなかったが、この舞台を観た記憶は永遠に残るだろう。
 初演の「青ひげ公の城」を観たのは79年。雨の日だった。その雨の滴に塗れたパンフレットは今も田舎の部屋にある。寺山修司の舞台を観たのは「身毒丸」「観客席」につづく三作目。それだけに思い入れはある。  青ひげの第七の妻になるために劇場を訪れた少女ユディット。舞台監督に言われるまま、楽屋にいざなわれるが、台本は奪われ、抱えていたトランクもどこかへ消えてしまう。劇場と言う名の迷宮に放り出された少女の地獄めぐりの旅が始まる。  彼女の前に入れ替わり立ち現れるのは6人の妻たち。彼女たちが死ななければ少女は第七の妻にはなれない。 狂気と幻想、虚と実。やがて、少女の探し求めるものがこの劇場で行方不明になった兄だと分かるのだが……。

 まず、キャスティングが絶妙。  第一の妻=伊藤弘子(流山児☆事務所)。第二の妻=河原崎國太郎(前進座)、第三の妻=山崎美貴(文学座)、第四の妻=関谷春子。第五の妻=毬谷友子、第 六の妻=風間水希(元SKD)。衣裳係=蘭妖子、にんじん=福士惠二は元天井桟敷。舞台監督は大久保鷹。大久保鷹の起用、そして「少女仮面」の歌は寺山修 司をリスペクトし続けた唐十郎への愛の返歌でもある。

 ここ数年で大化けした伊藤弘子が狂熱と哄笑の花を咲かせ、風間水希はSKD時代を 髣髴とさせる華やかなダンスで魅せる。生涯に一度、ブランチとジャンヌ・ダルクを演じたいという毬谷友子は大願成就、まさしく舞台に狂気艶麗の大輪が開 く。山崎美貴は慎ましく健気なもの狂いの演技、関谷は美しさと艶っぽさ全開。國太郎の女形もあでやかで鮮烈な印象を残す。

 初演のタイトルは「魔術音楽劇」だったが、今回はイリュージョンもあり、それがまた素晴らしい出来。人間消失から空中浮遊まで、タネも仕掛けも分からない極上マジック。イリュージョンはV・銀太。これは特筆もの。 竹内陽子の衣裳も華やかでセクシー。関根麻帆ら、踊り子たちがまたキュート。  福士惠二の天井桟敷仕込みの身体表現を観られたことも僥倖。コッペリウスの塩野谷正幸のニヒルさ、不可解さの演技もゾクゾク。  しかし、なんといってもこの舞台最大のリスペクトは美加理の「復活」だ。  美加理は一時期、「セリフ」に自信を失い、「ことば」から遠ざかった。91年頃、美加理は「3年くらい前から、上演中の舞台で急にセリフを言ってる自分が恥ずかしくなり逃げ出したくなる衝動と不安にかられるようになった」と語ったことがある。 それ以降、美加理はセリフから距離を置き、言葉のないパフォーマンスへと向かった。 その美加理が因縁の「青ひげ公の城」で少女を演じ、10分以上にも及ぶ長台詞で舞台を締めくくった。 これを感動といわず何を感動というか。

  「青ひげ公の城」はメタシアター、バックステージの変種でもあるが、演劇をめぐる演劇で一人の女優の20数年の軌跡が舞台に投影されたともいえる。これこ そ、寺山修司の壮大な仕掛けとはいえないか。美加理のデビューは初演「青ひげ公の城」のアリスとテレスだ。35年後に寺山修司の虚構の城に少女として帰 還。なんとドラマチックな!今回の舞台は蘭さんが所持している上演台本に基づくもので、寺山著作集の戯曲とはだいぶ違っている。

観ている最中から万感胸に迫るものがあり、心の震えを抑えることができなかったが、実験性と娯楽性を兼ね備えたこの壮大な「演劇をめぐる演劇」をまとめあげた流山児祥もまた寺山リスペクトの最大の演劇人といえる。  
 

テラヤマプロジェクト・ファイナル 『青ひげ公の城』  演劇定点◎カメラ  BYねこ
 「豊島公会堂閉館に伴う上演プロジェクト シリーズ最終。  【舞台】 一段高く、中央後方に重厚ドアのみとインパクト。 上手端、ドア装置を隔てた仕事場に作家常駐。  【お話」劇場。青ひげの七番目の妻を演じる少女が、行方不明の兄を捜す。 兄は実は殺されていて、その犯人は。
  エンタメと現実の鮮やかな対比が堪らない、醒めた夢幻劇。  ミュージカル仕立てで華やかにショーアップ。  女優達の生活と孤独を併行して、虚構に生きる業の深さを くっきりとよく描き。  月より遠いと望む気持ちを共感できるものとし。  狂っても冷静、「寺山修司」を一歩引いてみる視点を感じ。  ムードに流されない、実のある虚構性(表現変か?)は客席に及ぶ、虚実が一体となるラストに活き。   そしてなによりは輝く女優陣。中でも第一の妻・伊藤弘子の闊達、第五の妻、毬谷友子。  ベテランの自由さと変わらない愛らしさ。第二の妻、河原崎国太郎の妖しさは濃くてご飯が欲しくなるほど。 なんと初演以来の美加理。変わらない彼女こそ夢のよう、「演劇の永遠性」と喜悦するねこ。
 

テラヤマプロジェクト・ファイナル 『青ひげ公の城』  今村修(演劇評論家:朝日新聞記者)
演技に言葉に歌に踊りに音楽……。まさに総力戦。豊島区テラヤマプロジェクトファイナル「ミュージカル 青ひげ公の城」(作=寺山修司、演出=流山児祥)@豊島区公会堂は、解体を待つこの古い劇場の、末期を看取るにふさわしいシュールで猥雑な祭りとなった。

 青ひげ公の第七の妻ユディットを演じるはずの少女(美加理)が劇場にやってくる。一癖ある舞台監督(大久保鷹)に楽屋に案内されるが、次々に怪しい人々や出 来事が現れ、大事な台本とトランクを奪われてしまう。台本はこれから先の水先案内人。荷物が詰まったトランクは元の世界に戻るためのアンカー。その両方を なくした少女は、不在の青ひげ公と自らの出番を求めて、劇場という名のニセモノ地獄をさまよい始める。

彼女の前に次々と現れるのは第一か ら第六の妻。前進座の河原崎國太郎、一人芝居「弥々」の毬谷友子、文学座の山崎美貴、元SKDトップスター・風間水希、ミュージカルの新星・関谷春子、流 山児★事務所の看板女優・伊藤弘子といった曲者・個性派ぞろいの配役が豪華だ。困惑し、翻弄される迷宮の旅の中から、次第にある事件が浮かび上がり、虚実 はいよいよ混沌の様相を深めていく。

 閉ざされた廃墟で繰り広げられる異形たちの饗宴。虚構と現実の混乱と逆転。そして中心の不在。後期寺 山演劇のエッセンスが詰まった作品だ。一歩間違えば、観念に陥ってしまいがちな題材だが、流山児はこれを敢えて娯楽に徹した仕掛けで料理した。宇崎竜童の 音楽は心地良く耳に残り、前田清美の振付は、シャープでコケティッシュでダイナミックだ。出演者も歌える役者を揃えた。大久保の味のありすぎる歌は別格と しても、小劇場ミュージカルの歌唱もここまで来たかと感心する。特に伊藤と男優役の麻田キョウヤの歌の迫力には驚嘆した。人体消失など随所に仕込まれた、 魔術的な演出にも目を見張る。

 流山児は戯曲の改変にもためらわない。「レミング」や「奴婢訓」など、他の寺山作品の要素を引用し、戯曲に ない出番やソングも盛り込む。改めて戯曲を読んでみたが、それらのサービス精神の発露が過剰感をもたらし、最後のモノローグへと転がっていくシンプルなダ イナミズムを損なっている感もある。だが、そこは確信犯なのだろう。 ラスト近くでは、明らかに戯曲の指定を逸脱する演出も敢行した。虚構の迷宮が崩壊し、少女が新たな旅立ちをする重要な場面。それにより、場面のメリハリは後退した。だが、現実と虚構はもはやメリハリやドラマチックを許さないほど互いを浸食し合い、溶け合っている。

そんな時代のあられもなさを映す大胆なチャレンジとして、これは「あり」だと思った。(敬称略)


テラヤマプロジェクト・ファイナル 『青ひげ公の城』  高取英(月蝕歌劇団・劇作家・演出家・大正大学教授)
「青ひげ公の城を見た。流山児事務所。美加理が主演。彼女は、この芝居でデビューした。寺山修司さんの演出で。三十年以上の歳月が。

 ラストの長ゼリフを流山児事務所としては、初めてちゃんと語らせていた。前も主演はあったが、よく聞こえない演出だった。この長ゼリフは、寺山修司演出のとき、山本百合子が語り、寺山さんがほめていた。懐かしくも思い出す。
 大久保鷹さんが舞台監督の役。塩野谷正幸さんが、寺山修司というか、作家の役。これは、もとにはない。これが深みを出していた。前進座の、河原崎國太郎さんや、毬谷友子さん、伊藤弘子さん、龍昇さんなど、いろんな役者がでていて、紅白歌合戦のような気もした(笑)。 状況劇場、天井桟敷、クナウカ、演劇団、前進座などなどだから。蘭妖子さんもでていた。流山児さんも出ればよかったかと。まとまっていて、楽しい。宇崎竜童さんの音楽もいい。欲をいえば、敵役の第二の妻にもっと、邪悪さが欲しかったかな。
                                  

テラヤマプロジェクト・ファイナル 『青ひげ公の城』  高橋咲(作家・元天井桟敷)
 流山児氏の「青ひげ公の城」観てきた。わたし芝居観るの、結構苦手なんだけど、おもしろかったなあ。蘭さんも益々、蘭妖子極めているし、妻たちもみんないい んだよね。中でも4番目の妻、彼女本当に艶っぽい。珍しいね、今、時代を超えた色っぽさ出せる人。そういえば森崎偏陸、歌上手いんだよね、思い出した。 偏陸がオペラ歌手になって、舞台で歌っている夢みちゃったよ。正夢かな。武医道で丹田鍛えているし。今度はオペラ歌手か。  4番目の妻:関谷春子さん、ほんと良かったよ。塩野谷さん、落ち着いた役者さんになられてました。これからが楽しみですね。結構引手あると思いますよ。流山児流寺山演劇おもしろいわ。
 

テラヤマプロジェクト・ファイナル 『青ひげ公の城』  「月ヲ見テ君ヲ想ウ」 BYジン・ジャン
 豊島公会堂にて「ミュージカル青ひげ公の城」を観た。 豊島区テラヤマプロジェクトとして3年連続で行われたこの企画も、とうとう今回が最後。 『地球☆空洞説』「無頼漢」と3本全てを観る事が出来たけれど、来年はもう観られない のかと思うとかなり寂しい・・・。
今年もまた中池袋公演での野外劇からのスタート。流山児祥さん今回も吠えてた!

この野外劇から始まってそのまま劇場へ・・・という流れが、新鮮で面白かった。 この作品自体は戯曲も読んでるし他の劇団でも観た事があるのに、演出によって全く 違った顔を見せてくれるという事を今回も再認識。 劇中劇で展開して行くお話で、どこまでが現実でどこからが芝居なのかわからなくなる。 気付けば観客席も巻き込まれ「ここはどこ?私は誰?」といったパラレルワールドに。

 1番目の妻の伊藤弘子さんは今回も見事な姐御っぷり。彼女のあの気っ風の良さがすごく好き。 歌声も素晴らしくて聞き惚れた。毬谷友子さんの5番目の妻はキレた女優が嵌り役。本当に色っぽくてコケティッシュなお方。ヒロインの美加理さんの可憐な中に秘めた力強さと、衣装係蘭妖子さんの妖しい魅力!2番目の妻の河原崎國太郎さんの暗黒的な存在感と、にんじん&コッペリウス役の福士惠二さん のクセ者感。醜女のマリーも観られて嬉しい。そしてリアルな舞台監督の大久保鷹さん、今回も渋さが光ってた塩野谷正幸さん等々・・。出演者が豪華で人数も多いので、公会堂狭しと駆け巡る役者達の熱気に圧倒された。

 ラストの「月よりも、もっと遠い場所、それは・・劇!」の台詞は自分の中では「劇場っ!!」 と叫ぶイメージが強かったのだけれど、今回は淡々と静かに吐き出されそのまま夜の闇へと
消えていったのが、また逆に不思議な余韻が残った。
 

テラヤマプロジェクト・ファイナル 『青ひげ公の城』  小澤俊夫(プロデューサー・演出家)
 池袋の豊島公会堂で豊島区テラヤマプロジェクト・ファイナル「青ひげ公の城」(作:寺山修司、音楽:宇崎竜童、振付:前田清実、演出:流山児祥)のプレビュー公演を観た。タイトルにファイナルとあるように、豊島区と流山児事務所が連携して2012年から始めた寺山修司作品の上演は、豊島公会堂が 2016年に解体工事に入るため、「地球空洞説」「無頼漢」を経て「青ひげ公の城」で最終章を迎える。流山児★事務所として「青ひげ公の城」は4回目の上演となるそうだが、十数年程前にパルコ劇場で上演された作品は見ていたが、流山児事務所の公演は今回が初めて。

 オープニングは公会堂前の公園から始まった。芝居に出演する青ひげ公と少女をオーディションするという設定で、手渡された台詞のコピーを観客が読み合わせ。そこに鼻の下を青く塗っ た男(大久保鷹)が乱入し、何やら叫んでいる。鼻の下を青く塗ったメイクは、言わずと知れた状況劇場時代の大久保鷹のトレードマーク。男が立ち去ると、観客は公会堂へと誘導された。

 舞台が暗くなると、懐中電灯の光が闇を切る。舞台上手に書斎があり、この脚本を書いたであろう男(塩野谷正 幸)がいる。寺山の分身だろう。オーディションで選ばれたという少女(美加理)が劇場にやって来ると、舞台監督(大久保鷹)が少女に部屋の鍵を渡す。そこ には7つの部屋があり、それぞれが女優の部屋になっているが、そこはまた、青ひげ公の城の居室という入れ子構造を取っている。酒浸りの女優(毬谷友子)の 洗礼を受け、第二の妻(河原崎国太郎)が「青ひげ公」と呼ばれる城の主、ジル・ド・レイを語る。好奇心にそそられた少女は他の部屋を覗く。第一の妻(伊藤 弘子)は、浴槽に浸かって付き人(福士恵二)にわき毛を剃らせている。第三の妻(山崎美貴)は、青ひげ公との間に出来た子を乳母車に乗せてあやしている が、その赤ん坊は・・・。アリス(坂井香奈美)とテレス(平野直美)は城に紛れ込んだ近所の子。彼女たちもまた、セロリをかじりながら城を探検している。 衣装係(蘭妖子)が縫い上げた青ひげ公のローブを、男優(麻田キョウヤ)が身にまとい、主役の座を夢見る。第四の妻(関谷春子)はジル・ド・レイとの関係を 語る。衣装係が縫い上げた第七の妻の衣装をまとった少女は、第五の妻(毬谷友子)の映画撮影に立ち会う。第六の妻(風間水希)は自動人形。その人形を操る 人形師コッペリウス(塩野谷正幸)に再び命を与えられる。そこは、死んだ者が生き、生きた者が死んだ世界。そこにセーラー服姿の第八の妻(三ツ矢雄二・日 替わりゲスト)が登場し、第七の妻が死なないと「登場」できないと少女を脅す・・・。

 物語は、「青ひげ公の城」の芝居を上演するためのも のだが、青ひげ公は舞台に登場せず、さらに少女は劇場内で消えた照明係の兄を捜しにやって来たというのだが、第二の妻から兄は劇を生きることが出来なかっ たので、劇の中で死んだと告げられる。衣装係は現実の事件だと主張するが、果たして兄は・・・。書斎で原稿を燃やす男が印象的だ。
 ラスト、誰もいなくなった空間(劇場)で少女は、劇とは他人から借りて来た台詞を語る事でも、他人の人生を生きることでもない。劇とは世界を映す事ではなく、想像力を働かせて世界を再構築する事だと語って、客席を去る。  

現実と虚構が織りなす魔術的な空間に、有名戯曲の台詞がコラージュされ、不思議な世界に誘わせる。それはまた、虚構に彩られた現実世界をあざ笑うかのようで もある。                                                                                                                                          「想像の翼」を羽ばたたせることが観客に求められる事であり、それはまた現実世界に生きることにおいても、自分の頭で考えて行動せよと呼びかけ る。
 ところで、青ひげ公のモデルとなったジル・ド・レイを知ったのは、学生時代に読んだ澁澤龍彦・著「異端の肖像」。ジャンヌ・ダルクに 協力した「救国の英雄」が、実は少年への凌辱と虐殺に性的興奮を覚える変質者であり、犠牲となった少年は150人から1500人とも言われている。劇中、 少女が探し求める兄は青ひげ公の性的対象者として虐殺されたのか?昔観た時も感じた事だが、寺山戯曲にはその辺が不明確であり、それはまた、「想像の翼」 を羽ばたたかせよと寺山に問いかけられているようだ。  

何はともあれ、歯切れ良い演出と適材適所の俳優陣。そして見事なまでの振り付けに応ずる踊り子たちと素敵なミュージカル音楽の数々。美術と衣装等も素晴らしく、堪能させられたテラヤマワールドの2時間15分。(敬称略)

テラヤマプロジェクト・ファイナル 『青ひげ公の城』  演劇評論家:江森盛夫 「演劇袋」
  昭和27年に開設され、62年間豊島区の文化活動を支えてきた豊島公会堂が、新ホールへと生まれ変わる。その最後を記念して、2012年年から始まった流 山児★事務所と提携した企画、豊島区テラヤマプロジェクト。「地球空洞説」「無頼漢」を上演して、今回がファイナル公演「青ひげ公の城」

 まずは恒例になった幕前劇は、公会堂前の中池袋公園公から始まる。公園の広場に「青ひげ公の城」主役オーデイションという設定で、集まった客に台本の冒頭を書いた紙を渡して、男女別に台詞を読ませる。  ”ユデイット:きこえるわ、ため息が・・・、青ひげ公の城の方から、まるで、死人の髪の毛を吹き分けてくる風のようなため息が・・・ああ、あれは城のため息なんだわ。  青ひげ:そんな恐ろしいところに、どうして嫁いできたのだね、ユデイット。  ユデイット:あなたの腕の中で、花嫁衣装を着たいからです。” そして、集まった全員で、豊島公会堂を指さし、”あれが青いげ公の城だ!”と叫ぶ・・。 そして公会堂へなだれ込む・・。

 この1979年PARCO劇場で初演された魔術ミュージカルの今回は「7人の妻」は、異色豪華キャスト。 第 一の妻が、流山事務所のトップ女優伊藤弘子、第二に妻が前進座の立女形の河原崎国太郎、第三の妻が文学座の美形女優山崎美貴、第四の妻がミュージカル界の 新星関谷春子、第五の妻が宝塚歌劇出身のベテラン毬谷友子、第六の妻が元SKDのトップスター風間水希、そして、第七の妻になる、第六までの妻が死ぬこと を心待ちにしている少女が、なんとSPACの美加理。彼女は初演の時、初舞台を踏んだのだ。ほかに元天井桟敷の蘭妖子、福士恵二。このほか含めて総勢36 人のキャストがこのファイナル公演をひたすら盛り上げて、テラヤマワールドの絢爛と底知れぬ暗部の輝きを放ったのだ。  寺山は、演劇の役とは、演じる俳優とは、その俳優の生活とは、その事実と虚構の狭間で生きる人間への問いを、その問いそのものを演劇にしたのだ・・。そして、その問自体は永遠に新しい・・。

 流山児はそのことをしかと体感させるミュージカルを創り上げて、この豊島区テラヤマプロジェクト ファイナルを、貫徹させた。 
 


 『どんぶりの底』 演劇雑誌「悲劇喜劇」2015年1月号演劇時評  演劇評論家:みなもとごろう×七字英輔
七字 「どんぶりの底」はゴーリキーの「どん底」にインスパイアされたそうですね。日本に翻案して小空間の中にまとめています。

 みなもと やっぱり中心になるのは木賃宿の女将さんの恋愛事件ですね。書き換えものは「もとはあれで、今度はこうなっている」という差異を楽しむ楽しみ方があると思う。出てくる人もかつて様々なアンウラの集団にいた人たちで、それなりの芝居を見せるんです。

 七字 舞台のうしろのほうに崖下の家の梁があり、壁をずっとヘラクレスのように支えている壁男もいる。あれが最後についに手を離してしまう。屋台崩しですが、アングラ劇のちょっとしたパロディめいた場面でした。

みなもと かつての小劇場やアングラを観た人には、役者も含めて懐かしい雰囲気があるんだろうと思います。

 『どんぶりの底』 演劇雑誌「テアトロ」12月号劇評 演劇評論家:丸田真悟
 流山児★事務所「どんぶりの底」(作/戌井昭人 演出:流山児祥)は、もちろんゴーリキーの「どん底」を下敷きにした作品。1902年の圧倒的悲劇が2014年に裏返って絶望の喜劇に仕立て直された。

  近未来のどこか、吹きだまりのような宿でチンチロリンに興ずる男たち。泥棒やアル中、木工職人など、ここに屯する人々はしかし暗さはない。いずれも「どん 底」の運命的なものはすべてはぎ取られ、些細な不満はあってもこの世界を日常として受け入れている人間たち。彼らに外の世界へ出てゆく力はない。それはど んぶりの中に投げ込まれるサイコロのようなもの。ある意味、究極の平等からは希望が失われているだけではなく、絶望する力さえも奪われているようだ。  しかし、そんな中、ただ一人、この世界を支え続けているのは崩れ落ちそうな壁を支え続ける壁男だ、その壁男がここから出てゆく時、建物は崩れ落ちてしまう が、それでもこのどんぶりの底の住人たちは変わらない。

いったん、外に開きかけた世界は再び閉じられ、緩やかにどんぶりの底へと沈んでゆくことになる。戌井は現実に対峙する力の可能性を見ている。個性的な役者揃いの中、大久保鷹がひときわ異彩を放っていた。
 

 『どんぶりの底』 albinstig日記
 最前列。人見知りの心の蓋がゆっくり閉じるのを感じるくらい舞台に近い。近すぎる。最前列で芝居を観たのは何十年も前、状況劇場だったなあと思いだす。同時に、流山児祥の芝居を観たのも、そのくらい昔だ。深浦加奈子がめっちゃきれいで、炎の中を車が走りまわっていた。

 『どんぶりの底』見ながら既視感でいっぱい。その筈だ。この話はゴーリキーの『どん底』を基にしている。しかし、同じようでも全然違うことは、劇場に入ればすぐにわかる。
  開場した舞台セットの中に、人間(木暮拓矢)が組み込まれているのだ。登場人物たちが暮らす汚れた布一枚で戸を仕切ったボロ屋の壁を、上半身裸の男が支え ている。暗がりに浮かぶ半身、地鳴りのような音がして、壁が細かく揺れる。男は時々長く息を吐く。プロメテウスのように繋がれているようでもあり、アトラ スのように辛抱強くも見える。なぜみんなぶたいをみないんだあ!お喋りしたり、チラシを見たり、なぜできる。結局壁男は一時間くらいずーっと壁を支えてい るのだが、その間集中を切らすことはなかった。
 芝居の中に、現代生活から締め出されているものがたくさん登場する。立ちション、青痰、一度口に入れたご飯粒、その他。出てくる人々が世界から零れ落ちてしまっている、その境遇に復讐するようにえぐい。存在するのに、無いことにされているものたち。それは壁男も同じだ。

 この世界は、無いことにされているものたちによって支えられている。えぐいものの扱いに勢いが欲しい。アングラの最前列に座る私が求めていたのは、えぐいもの汚れたものが反転し輝く瞬間だったと思うけど。もっときつい時代になっているのか。  とりあえず、壁男、よかったね。

 『どんぶりの底』 週刊金曜日 2014年10月31日号 BY山岡淳一郎(ルポライター) 
「舞台は、「貧民窟」である。  昭和恐慌化の侘しさと、近未来の空虚さが入り混じった空間で、役者たちが躍動している。 博士役の大久保鷹はエネルギッシュに台詞のやり取りをした後、悠然とニンジンかじりながら消えてゆく。 状 況劇場の看板役者だった大久保は71歳。変幻自在な怪優ぶりは健在だ。はたまた豊満な女優が、失恋の悔しさで博士の発明品を床に投げ捨て、その上にダイ ブ。全体重で押し潰す。とうに退場しているはずの男優が舞台の隅の電信柱に登っている・・・・これらの表現は台本に一行たりとも書かれていない。

それぞれの役者が台詞の行間を読み、想像して獲得した動きだ。役者は自らの身体を使って懸命に「物語」を描く。  いま、ここでの一瞬の生の燃焼に観客はふと気付く。「貧民窟」は、現在の日本そのものだ、と。
 

『どんぶりの底』 山岡淳一郎 「見果てぬ夢」劇評。
下北沢ザ・スズナリで、演出家・流山児祥さん率いる流山児★事務所の公演「どんぶりの底(作・戌井昭人)」を観ました。取材の一環だったのですが、役 者さんたちのエネルギッシュで奔放な躍動ぶりがとても新鮮でした。とくに博士役を演じた大久保鷹さん(元状況劇場)の変幻自在な動きには目を奪われまし た。

 この作品はゴーリキーの「どん底」を下敷きにしていますが、舞台は「現在」そのものに置き換えられます。ゴーリキーが「どん底」を 書いたのは1902年。帝政ロシアが崩壊に向かう過程でした。2年後には日露戦争がはじまり、1905年に「血の日曜日」。軍隊と農民の暴動から革命へと つながります。  その過程で、「ポグロム(ユダヤ系住民の虐殺)」も頻発し、イスラエル建国の「シオニズム運動」に拍車がかかります。 ゴーリキーの「どん底」から110年余り。ロシアはクリミアを併合してウクライナに「長い手」を伸ばしています。1948年に建国したイスラエルは、パレ スチナ西岸・ガザ地区を荒らし続けています。

 「どんぶりの底」が描き出す、不条理や人間の業に脳髄をピリピリ刺激されながら、こう自問しました。  近代って、何だろう? 恥ずかしながら、小劇場の芝居を観たのは20数年ぶりでした。現代劇の分野にも、確実に時間の木の葉が降り積もり、熟成しています。一人でも多くの方に観てほしい演劇です。

 

 『どんぶりの底』 「六号通り診療所所長のブログ」 BY石原
 アングラの最初期から既に、第一線で活躍をされている流山児祥さん率いる流山児★事務所の創 立30周年記念公演第1弾として、戌井昭人作・流山児祥演出による、「どんぶりの底」の舞台が、下北沢のザ・スズナリで、先日まで上演されました。流山児さんの演劇歴はとても30年ではないのですが、これは流山児★事務所という形態を取ってから、という意味合いです。  最初はあまり観るつもりはなかったのですが、観た方の感想は良いものでしたし、大久保鷹さんが出演されていて、感想など読む限りは、それなりの出番が用意されていて、役柄もイ ンチキマッドサイエンティストという、鷹さんの怪演が期待出来る感じだったので、今や絶滅危惧種の1つと言って良い、アングラ役者をこよなく愛好する立場 から、急遽参戦することにしました。(中略)

 ただ、流山児さんの芝居としては、その長いキャリアが滲み出る感じの舞台作りで、そ のキャストの多彩さと充実感も、流山児さんの人徳あらばこそ、という感じですし、僕が小劇場を観始めた頃には、状況劇場も天井桟敷も健在で、黒テントも元 気でしたし、早稲田小劇場も疾走していましたから、その他大勢のような感じがあったのですが、今ではアングラ小劇場の唯一の生存者のような立ち位置で、そ の責任感もあるのでしょうが、腰の据わった重みのある芝居を続けているので、僕はあまり良い観客ではありませんが、それでも時々は足を運びたいと思いまし た。

以下、ネタばれを含む感想です。  作品はゴーリキーの「どん底」を元にしていて、それを近未来の日本で、どうやら原発事故的なものが起こった後の、誰も住まなくなった土地に、非合法的に住み着いた人々の、おんぼろ長屋的な場所での生活に、 翻案されている、といった印象です。フィーリング的には北村想の「寿歌」みたいなスタンスで、背景となる世界を、明らかにしようという手つきはありません。  色々 な人がその「どんぶりの底」で悲喜劇を演じ、そこから去って行く、というドラマが、並行的に進行して行きます。原典の「どん底」にある三角関係からの悲劇 は、ほぼそのままに再現されていますが、それが物語の中心として成立している、という感じでもありません。敢くまでエピソードの1つという位置付けです。  オンボロ長屋は1人の男が、交代で柱代わりに支えている、という設定なのですが、長屋の大家が殺され、 柱男の1人が逃げると、油断から長屋は倒壊し、その背後には、絶望したかつての役者の首吊り死体などの点景と共に、象徴的な闇が広がっているばかり、というのがラストになります。 キャストは流山児★事務所のベテランと中堅を主体に、元宝塚の月船さくらさん、キャラメルボックスから大内厚雄さん、そして大久保鷹さんと、元黒テントの根本和史さん、元早稲田小劇場の土井通肇さん、というアングラ第一世代の超ベテランが参戦します。 (中略)

 僕自身の眼目の大久保鷹さんは、インチキ発明でどん底の住人を煙に巻く、正体不明の「博士」を演じていて、流山児さんの演出も鷹さんのサポートに、抜群の奉仕をしているので、その場面は文句なく楽しめました。  出番はそう多くないのも良くて、長い台詞は忘れてしまわれますし、声もすぐに出なくなってしまうので、 このくらいの出番の鷹さんが最強なのです。他の役者さんも皆好演でしたし、流山児さんの演出も老練で安定感がありました。地味で暗い芝居ではありますが、急遽観ることを決めて、少し得をした思いで劇場を後にすることが出来たのです。これからもこの勢いで、瀕死のこの日本に、風穴を開けるような「アングラ」芝居を打ち続けて下さい!


 『どんぶりの底』 演劇時評「楽座風餐」 第31回  どんぶりの底   2014年 9月 28日 〔観劇者〕 府川雅明×林日出民

 「全体印象」
府川 「どんぶりの底」は、ザ・スズナリという芝居小屋の広さ、高さ、客席との距離を知悉したパフォーマンスでした。こじゃれた劇場や大劇場では決して成立しえない舞台を堪能しました。ザ・スズナリへのオマージュとも受け止めました。  林 まさに下北沢の小屋という感じ。気持ち良く見た。必要最小限の舞台作り。狭い空間の中、ごちゃごちゃとしたアジア的住居の感じが、今日のテーマにフィットしていた。スズナリという小屋は役者の匂いが染み付いている。  府川 丸2時間、18人が出たり入ったり、駆け回ったり倒れたりと見飽きませんでした。住まいとする蟻の穴というか鳥の巣のような出入り口から顔を出しては引っ込ませる役者たちの姿に動物一般の世界を重ね合わせて見る錯覚すらも感じ、何か本能レベルでくすぐられましたね。     林 貧乏人の中では見入りの良い泥棒だけが梯子を上った二階に住まいがあるというのも、人間のどうしようもない階級構造のメタファーだし、何か、動物界にも同じようなことありそう だ。    府川 とにかく演出が効いている芝居でした。役者の意欲をうまく引き出して世界を創り出していることが随所のディティールの描写から浮き彫りになっていました。   役者もそれに応えていた。演技の破綻もなく、わざとらしさ、不自然さもなく、ドタバタ劇になりがちな設定の中で、一番避けなければならない楽屋落ち的ノリは全く見られなかった。役者陣のキャラクターが重なることなく、個々に力を発揮していた。   府川 また、それが可能な人選、配役に成功していましたね。  林 ゴーリキイの「どん底」から想を得た内容で、原作自体も一人一人のキャラクターが立っているが、そもそも人間は不幸であるほうが個性的になり、表現のバリエーションが豊かになるもの。幸福やパラダイスは似た風景になってしまう。  府川 願人坊主が劇中にいみじくも広げた地獄図絵よろしくね。天国は退屈ですが、地獄は飽きない。  林 悲惨さを大安売りしているわけではなく、逆に笑いの要素を取り込んでいるあたり、大変な力量を感じた。  府 川 三十周年記念書き下ろし作ということですが、周年は執念とも言い換えられます。劇団のこれまでの表現の歴史の中に、唐十郎や寺山修司、つかこうへい、 野田秀樹、転形劇場、民芸、シェイクスピア、不条理劇、アジアの民俗演劇といったテイストがもろもろ溶け込んで豊饒さを醸し出している感じ。走馬灯のよう にこの3、40年間の日本の現代演劇の断片がインサートされている気もして何作品も見た重量感がある。豪奢です。  林 うまいブレンドの味わい。しかも一人一人が際立って、ひとつのシーンが終わると、次にパッと切り替わって、また新たなエピソードが始まる清々しさが連続して、あっという間に2時間が過ぎた。これが全体印象ですね。

 「柱を支え続ける上半身裸の男」
府 川 舞台右端に水飲み場があって、入れ代わり立ち代わり役者たちが蛇口をひねって、水を飲んだり、手や顔を洗ったりする。この水の使用も懐かしい。また、 やたらと役者たちが痰を吐く。この生活感というか肉体感覚、不潔さ。これが良かった。つまりものを食い、排泄し、動き、眠る、そういう人間の基本的活動が 過不足なく表現されて、観念性に偏らないバランスを感じました。  林 博士が鼻の穴に洗濯バサミのようなものを入れて、世界中の人間と交信するという装置の発想は笑劇風だが、肉体から発した地続き感が出ている。  府川 状況をクールに見れば、生活破綻者たちの芝居であり、悲惨そのものですが、博士のような非現実的な人物を設定することで、現実の底が抜けたような印象を与えるのが面白い。   林 設定が過去ではなくて近未来ですね。地下資源が枯渇するから汚水をエネルギーにするという件も飛び出すが、実現可能というより荒唐無稽だ。  府川 原発問題とか異常気象といった問題と直接結びつくものはほとんど出てこない。しかし、パンフレットの文面から明らかなように、制作する側は日本の現在の閉塞した状況を十分わかっている。それでもなお、具体的なものを出さない分、象徴性、普遍性が高くなっている。   林 欲張っていない。作る側の性としては構想を練るうちにいろんな調味料を加えていき、やたらに社会的記号を入れて、結局は他者の観念に取り込まれて自分を見失って、破綻しがちなものだが、作りはシンプルでいいんですよ。ほんの2時間の虚構世界なんだから。その意味で非常にすっきりしていた。 府川 直接的に社会を想起させる役は、警察官くらいですね。あとは皆、地下人間というか、地下生物のように蠢く存在と言っていい。  林 私が感心したのは背景を支えている男の存在。空間のあやうさを出すのに効果的と思った。支えるというだけで舞台に緊張感を与えていた。大げさにいえば、世界を支えるアトラスの神話性も感じた。あの一つの行為だけで、全体に重層感が生まれた。 府 川 人間の社会を本当に支えているのは、今でいえば、原発の汚水を毎日、必死に処理している人たちです。そういう視点をきっちり捉えている点が鋭い。結 局、柱を支えていた男の口に、泥棒が盗んだダイヤモンドを隠して、泥棒はその後死んでしまい、ダイヤモンドがあれば生活の資を得ることができるから、もは や小銭稼ぎで柱を支える必要もなくなる。男が柱を支えるのをやめた瞬間、地下世界が崩壊する。心憎いほどにうまいプロットですね。  林 し かし、全体は崩壊せずに背景だけがだらしなく剥げて、アル中男の首つり死体が現れるという。今回、最後に何かドンデン返しがあるだろうとは予想していました。ゴーリキイの「どん底」も、最下層から這い上がる希望の光が見えて、しかし最終的にはそれが挫折して、さらに深い絶望の中に落ち込みますから。今日の芝居では、その陰の世界を陽の世界に転換させている。首つり死体を見た掃除女が、『また掃除が大変になっちゃう。』とあきれ顔をする。

 「身体的了解事項」
府川  爽快さの余韻は一体どこから来るのかを考えてみると、どん底の状況にもかかわらず、演者が見る側にエネルギーを放出し続けると、そこに幸福感すら漂ってくるんです。   林 何だかんだいっても日本は安全だし、豊かだし、でも充足感に乏しい。そういう日本人への痛切な皮肉が感じられて面白かった。  府 川 アメリカ人のごく一部の大富豪は金で欲望を満たせる。そんな人間のすることは自家用飛行機でアフリカの最貧層の地域に行って、どん底生活を経験するこ とだと聞きました。日本にはそこまで虚無的な金持ちはいないでしょう。小金持ちが自分の財産を失いはしないかと疑心暗鬼になってびくびくしているのが現状ではないのか。今日の芝居は、作者も演者も演出家も、困窮状態の中でもたくましく生きるという実体験を共有しているかのような皮膚感覚的な連帯感が伝わってきた。  林 推測するに、今日のお芝居の表現に関わった多くの人は肌身で感じてきたことなんですね。幼少期の原体験としては決して世界が豊かではなかった。しかし、精神的には不幸ではなかった。  府川 逆に、今の若者は生まれてから今に至るまでだんだん追いつめられて来ています。今日は貧しいが、明日は豊かになるというのとは逆コースの心理状況で生きているんでしょう。となると、若者はこうした芝居をどう見るのか知りたい。  林  ノスタルジー。往時、楽しく生きていたわけじゃないが、あくまで今から振り返ってみたときの感慨にすぎないが、昨今の日本人は金を失うだけでものすごく 不幸な状態に陥ってしまう感じだ。最初からモノが与えられていると失うことの恐怖感が生まれる。金がない。落ち込む。孤立する。人間の関係性を見失う。結局のところ、人間の肌と肌、言葉と言葉のぶつかりあいがたたれてしまうといかんでしょう。  府川 人間と人間との関係性の取り結び方という ことでいえば、ゴーリキイの「どん底」も今日の「どんぶりの底」も、インターネットといった情報端末が登場しないという点では、同じパラダイムの作品とし て括れる気はしました。僕はインターネットによるコミュニケーションは、大人になってから、それも中年になってから始まったことなので、どこかに不自然さ や違和感を抱き、不適応感がある。ゆえにこそ、「どんぶりの底」に見られるダイレクトな人間関係のあり方に郷愁を強く感じるという心の反動があります。ですから、林さんが指摘する孤独感というのは、若い世代はどう捉えているのか興味がある。直接的な肉体交渉を避けて、童貞や処女が増えているという統計も出ています。

 「エロス」  
府川 木彫りの男根を富裕な未亡人から依頼されて、磨き上げるように製作に勤しむ職人の姿は、レトロかもしれないが、金じゃなくて仕事に生きがいを持つ職人の気概を感じた。この方向性は富の欲望ではなくて、充実感ですね。 セクシュアルなものが出てきたのがとてもよかった。男女が抱き合ったり、男同士のプロレスまがいの肉体のぶつかり合いがあった。  林  大家の奥さんと浴衣の女が色っぽくてね。こうしたエロスは芝居には絶対に欠かせない要素だと思う。この二人がセックスレスな感じだと駄目なんです。たち まち安っぽくなる。3、000円、4、000円台の演劇にこのあたりをおとなしく妥協するものが多い。その点、今日は特段に見ごたえがあった。  府川  それは大きな分岐点ですね。やはり、今日のような濡れ場の世界を設けてきたからこその30周年なんだと僕は思います。 林  役者のほうも演出家の誘導に乗って次々と嬉々として肌を脱いでいく。 府川 演出家の才能は役者のいい意味の暴走を許容し、促す度量に表われる。また、常連らしき観客の反応も、そのあたりを十分に心得て芝居を楽しんでいる風情がありました。 林 これは元締めの才覚のなせる業。役者の男女比の構成がほぼ2対1になっているのは、ちょうどバランスが良いと思う。女性のほうが生活力があってパワフルだから、貧困状況の舞台で1対1にすると男性が押される感じになる。 府川 しかし、こうして気持ち良く話していて、一面、危険を感じるのは、世代的な共感や郷愁に自分が乗っかりすぎていないか。例えば、今の二十代には受け入れられるものなのかは気になる。

 「ミュージカル」
 いわゆるミュージカルというほど大げさではないが、ところどころ歌を入れている。このことの効果を今日は感じられた。西洋風ミュージカルには個人的には 薄気味悪さを感じるタイプだが、素のセリフに節やメロディーを加えて歌にするという効果は明らかと思う。西洋のミュージカルで、喧嘩している恋仲の男女 が、歌を一曲終わるころには、すっかり仲直りしているなんていうシチュエーションがある。ところが、これは西洋だけの専売特許じゃなくて、日本にも昔から存在する。典型的なのが和歌。歌物語。いい歌を詠むことで状況が好転してハッピーエンドを導くというのが大半のパターンです。まともに言ったら伝わらない 気障な告白も歌にすれば場が和み、問題が解決する。今日の芝居で言えば、われわれが陽の感情を抱くのは、即興的な歌の効果によるところが大きい。 府川 と同時に、歌を歌わずともセリフ自体、歌を歌うように話す役者がいる。今日で言えば、大久保鷹さんですね。ミュージカルは歌芝居ですから歌うのは当然 として、セリフの中で歌えない役者にとって、ミュージカル仕立ては表現の助けをする。しかし、それを必要としない演者もいる。  泉鏡花なんてセリフ自体が歌になってしまうからね。 府川 泉鏡花のようなお芝居においても歌えない役者がいるのは困ったものだ。  ただセリフを丸暗記して吐き出すのなら学芸会だ。覚えたこと自体に合格点を与えるものだから。しかし、演劇はそうではない。例えば、今日、車椅子に引か れたままの病身の女が突然元気になって長いセリフを噴出させるシーンがありますが、あれはただ暗記したものの発表じゃなくて、自分の身体から出てくる迫力 があった。   府川 僕はあのシーンは懐かしく見ました。かつての、つかこうへいの芝居における脇役の長台詞の饗宴のような感じ。メインの曲のラインを切り離した、ジャスでいうドラムソロの時間のようなもの。その間、舞台上の回りの役者は動かずに、じっとその様子を見守っていましたね。あの感じ を僕は愛します。  林 うんうん。暗記したものをがんばって言い切りましたという芝居には、本当にいい加減にしろといつも思う。演者の身体を通じて言葉が出てくるとき、演劇を見るという経験が始まる。

「どんぶりの底  タイトルの妙」
府 川 とにかく、タイトルのセンスは絶妙だと思います。「どん底」そのままだとゴーリキイのエピゴーネンになる。そこで、「どん底」のふりをしたお芝居、 「どん底」にはなりきれない日本の「どん底」状態というパロディーのテイストを加えました。つまり、どん底ぶり ということ。これによって、自由な解釈の地平が開かれるわけですね。   林 どんぶり自体、日本的だし、いろいろなものが混沌と入り混じっているイメージも含まれている。  府 川 そうですね。少し理屈を言わせてもらいたいです。ロシアの最下層で喘ぐ人たちは、ゴーリキイの手によってキリスト教の倫理にがんじがらめで不器用に描 かれますが、日本の最下層は抽象観念が乏しいのか必要ないのか、器用に具体的生活に慰安を見出します。その対照性が興味深い。こうして見ると日本にはまだキリスト教が本当に内面には入って来ていないのかもしれないし、永遠に受けつけないのかもしれない。キリストの精神よりも、キリストの像の美しさに惹かれる民族なのかとも思う。 ロシアの貧民層は、キリストが馬小屋で大工の子として生まれ、ローマ帝国の支配者によって磔にされたことの根源の革命性に気づいた。つまり、外見の出自は人間の精神の器量とは無関係という、身分制を逸脱した倫理観ですね。この自覚に至れば、自分の裸に気づいたアダム とイブのように、どん底に住まう自分を運命として盲目的に受け入れるのではなく、反省的に境遇改善の意思を抱く。そこに激しい自己葛藤が生じます。一方、 「どんぶりの底」には、時代の相違もあって啓蒙的な姿勢がない。だから、基本構造は日本的喜劇なんですね。

 「饅頭売り」
府川 ゴーリキイの「どん底」にも出てくる饅頭売りですが、林さんはこの役をどう見ましたか。  林 人間の食の部分を象徴していた。当然のこと、人はパンなしには生きられない。それを出すことは全うなことです。  府川 舞台で身体を動かせば腹が減るんだから、役者は演技中に観客の前で饅頭食ってもいいとすら思います。  林  それから、この若い女の饅頭売りは、パンツというかズボンから饅頭を出して一個ずつ売る。この演出が秀逸。頭の上に載っているはずの饅頭は無意味という ことになる。ある男には熱すぎて食べれないが、別の男は何でもないというのも非常に面白い。これは男女間のいろいろな意味の相性とか関係性を暗示している。勿論、単純に一人の男だけ偶然、猫舌であってもいいけれど。  府川 以前に、林さんと韓国ソウルの街を歩いている時に、ホース売りを見かけました。ただ肩からホースをかけて歩いている。もうかなり昔の話ですが。  林 アジアのいろいろな町、それも生活臭の濃い場所に行くと、例えば、プノンペンとかの街角でも、饅頭売りというのは必ず目にする。貧乏人は小銭で当座の食 欲を満たせるから。生命をつなぐ使者として饅頭売りは欠かせない。食べるという行為は人間の原点だけど、例えば、ザ・スズナリのような小屋に人間の肉体が 放り込まれたら、何かしゃべり出さないといけない。これは演劇の原点という感じがする。

 「懐かしさ」
府川 そ うそう、とにかく何かをとりあえずは始めないといけないんです。鼻の穴と装置とを線でつないで話すとインターネットのように世界中の人間とつながるなどと いうのは、一見馬鹿馬鹿しいお笑いネタのように感じるかもしれないが、僕は敗戦直後の日本を連想しましたね。物資が欠乏した中で、人間は腹をすかせて、空 想、奇想を羽ばたかせる。例えば、僕の住む家の一本西の通りには、昔、小さな町工場がありました。それが今や電卓で有名な国際企業のカシオ計算機ですよ。 僕なんか、その道を通って珠算塾に通ってましたからねえ、名刺サイズの小型電卓なんて誰が想像しましたか(笑)。  林 僕がアジアの貧しい 場所を訪れる理由は、今の日本では決して見られない文物に出会うから。例えば、台湾でしたか。雨が多い地域なので、傘の先にチューブ状のものがついてい る。傘をたたんでこれを引っ張ると表面についていた雨水がいっぺんに取れる。もっともどう見てもドンくさい。しかし雨降りのときには重宝する。何か創造と いうのは、土台として満たされていないことが大事なんじゃないかと思う。そんなことを今日の芝居で再確認した。  府川 何か懐かしさが充満 していて、とても深い満足感があるんだけれども、さらに大家の役を演じた黒テントの根本さんを見て、その思いはさらに募りました。僕が中学のときに、すぐ近くの空き地で黒テントの芝居を見たとき、根本さんが「百連発」という一人芝居で、上半身裸のまま、板氷を抱えて演技していたのを思い出した。そのとき、 勿論、根本さんは若く、ギラギラしていた。今も変わりないでしょうが。

 「アングラ=地の底」
府川 
地面の底。 アンダーグラウンド。略してアングラです。アングラなものと創造性なんて今さら言い古されているかもしれないが、地面の上は、もう本当に煮詰まって動かな い。今度の東京オリンピックは、前回のときのような地上の改造、書きかえは期待できませんね。勢い地下のほうに創造のベクトルが行く。一方で地下はネガティブに言えば、脱落した生者が最終的に行き着く場所でもある。これはアンビバレンツですよ。そのアンビバレンツさが混沌を生み、またエネルギーも生む。 いやあ、今日の芝居はこの両方が交錯して、本当に面白かったなあ。  林 地底人とか、地下王国とかね。天は神が統べる世界。一方、地下は恐 ろしくも魅惑的な場所。フロイトじゃないが、何かわれわれ人間の潜在的な欲望が地下世界のイメージと通底しているのかな。人間のその隠れた欲望は、普段の 生活の中では見て見ぬふりをしているが、どんぶりの底によって解放される。そのどんぶりの底を今日は図らずも覗いてしまった。

 「シンクロニシティ」
府 川 いい役者はその人固有とも言えるリズム感があると僕は思います。それが観客と同期するとき、深いカタルシスが生まれる。今日の舞台はおそらく演出の力 で、各役者が観客とのシンクロニシティを得やすいような引き出しを作っていたという気がしてなりません。演出者というのは教育者ですね。いわゆる勉強を教 える先生という意味ではなくて、エデュケート(能力を引き出す)する人。それから、役者の出入りのテンポがとても良かった。舞台の転換に照明や音響の力を 借りるのではなく、役者同士でのコンビネーションがうまく働いていました。  林 身体が覚えている。何かのきっかけでというよりも、演者自身が自ら動いて結果として、全体としてもスムーズな流れを作っていたのが印象的だ。そこまで演技に身が入っていたのだと思う。こうした芝居に出る若い役者は幸運だろう。かけがえのない経験をするのだから。  府川 ともすればテキストの発話にばかりとらわれて、全体のリズム感が悪く、観客を疲れさせる舞台もある中、今日は先ほど言ったシンクロの効果が効いて疲れを覚えませんでした。  林 我々自身がふだん経験していることだが、身体の反応がまずあって、それにともなって言葉が出てくる。言葉が先に出てくるわけじゃない。場合によっては言 葉にできない表現もある。もちろん、言葉は大事なものだけれど、言葉では伝えられない気持ちが残ることがある。そういう思いを役者が互いにつなぎとめるこ とが、いわば演技上のきっかけ、合図になるんだろう。そのあたりを演出家は冷静な観客の眼で見抜くんだろうね。これには人間知が必要だ。  府 川 僕が良く知る役者は、とにかく自分に与えられたセリフや動きを完璧に構築することに情熱を傾けていますけど、そういう完璧さってどうなんだろうと思い ます。観客の側と同期できなければ意味がないのではないかと言ったことがあります。演技の完成は、果たして演者の側だけでできうるものか。  林  演劇を見る喜びは、まさに肉体を見る喜びと同じ。声と動きだけを見たいのなら、DVDで十分だから。今日の芝居の中で良い意味で気になったことは、役者 がセリフをかみそうだったところが2、3ヶ所あって、次のセリフが出てこないで、半分笑いかけていた。そのとき、見る側のこちらは不快どころか、逆に、一緒 に笑いそうになった。これは実に大事なポイントだと思う。 府川 佐藤B作さんの芝居のときにも遭遇しました。   そう。彼の凄さは、そうした失敗も含めての演技の幅だから。  府川 つまり、観客と完全にシンクロしている。  林 だから、セリフが抜けてしまっても面白い。  府川 反対にシンクロしていないと、ちょっと言い間違えただけで、とたんに場がしらける。舞台がこわれる感じになります。そういう観客の生理はいわば、自分がどれくらい舞台と一体化しているかのリトマス試験紙だと思います。  林 セリフを忘れたときにあせる役者というのは、学芸会の発表で暗記したものを完全に再現できずに失敗した生徒に似ている。しかし、間違っても、お金を取る舞台は学芸会とは違う。   府 川 現実にはありえないことも、舞台上では成立してしまうのは、演者と観客との間でリアリティーが共有できているからで、それを促すのに演出の技量が関係 してくる。演劇の創り出す世界って見えないものだし、演技者だけの視点では完成しえないから、どうしても第三者としての演出の眼が必要になります。だけ ど、それが節穴だったら無残な芝居になる。  林 少なくも今までの「楽座風餐」の観劇体験の中で面白かった芝居は、すべてリアリティーの共有が実現されていた。
 

 「補記」
府川 これだけ多くの多彩なキャストを集めて、高いシンクロニシティを実現させたというのは素晴らしい。他の劇団じゃ絶対できないことを思いっきりできたという役者もいたに違いない。例えが悪いかもしれませんが、自由に回遊できる池に放流された魚のような感じ。  林 とにかく、現場の匂いがあって、その同じ現場に立ち会えるということ。これを抜きにして演劇は絶対に生きられないと思う。「どんぶりの底」はその匂いに満ち溢れていた。

 

『どんぶりの底』   「役者の身体ができている」BY姫神連太郎 CORICH舞台芸術 ☆☆☆☆☆
 流山児★事務所創立30周年記念公演第一弾、ということで、スズナリでのザ・アングラとでもいうべき舞台。 パワフルで、迫力に満ちた役者の熱演が心地よいです。  

30周年記念、ということもあるのでしょうが、大久保鷹さん(状況劇場)、根本和史さん(黒テント)、土井通肇さん(早稲田小劇場)そして、もちろん、流山児事務所の塩野谷正幸さんと、往年のアングラ劇団の古参(失礼!)の役者さん達がそろい踏み。中でも、大久保鷹さんは存在感抜群で、ひとりで持って行きます(笑)。  役者の身体ができている芝居が、おもしろくないわけがない、という見本のような舞台でした。
 

 『どんぶりの底』 「若い人に観てもらいたい」 BY akisan  CORICH舞台芸術 ☆☆☆☆☆
 流山児★事務所30周年記念公演ということで期待して観に行きましたが、期待以上に面白かった。特に各役者さんが全員個性的で本当に演じている。

最近は素の 状態で個性=演技みたいな役者さんも多いが、流山児★事務所の公演では、毎度違うキャラを演じているので、やっぱり役者さん達が上手いんだと思う。

とにかく、若手の役者さんとかに是非、見てもらいたい。
 

 『どんぶりの底』 演劇◎定点カメラ    ねこ
初の長編戯曲とか、意外に感じるねこ。ゴーリキー「どん底」がもととか。 

舞台。崩壊寸前な壁装置。出入り口や窓は傾いでさあ大変。際に壁残骸の体で白い  切片が積もり。上手電信柱に給水タンク、下に金たらい。下手に木彫りの作業場所。
お話。日本崩壊後のスラム。底辺にもヒエラルキー。羽振りのいい泥棒は危ない  不倫。逆転をねらう野心家は自称元軍部研究所の博士、そのSF発明に執心。  彼らと諦めた人の間には博打と歌だけを糧に生きるものがいる。
 原作の三角関係を主に、キャラ(泥棒、饅頭売り、巡礼…)を重ねてみるのも一興。  

陰惨なリアルを反転、からっと軽く仕上げた逆転どん底。面白楽しいなあねこ。ディストピアな未来世界も庶民は変わりなし。ステレオタイプな愛憎のもつれ話とともに、マジックリアリズム?なエピソードもある不思議。粒立ちの良い役者の味わいが、屋台おでんが如く染みわたるベテランと、サラダ感覚の中堅が混合して奇妙で愉快。

散りばめた歌はパワフルで逞しく、またひょうきんにして心弾ませ。哀切と狂騒のいずれも振り切ることはせず、エンタメの心忘れないさじ加減がさすがと思うねこ。
 

 『どんぶりの底』 小澤俊夫(プロデューサー・演出家)
下北沢ザ・スズナリで、流山児事務所創立30周年記念公演第一弾「どんぶりの底」(作:戌井昭人、演出:流山児祥)を観た。  そのチラシのレイアウトからして、言わずと知れたゴーリキーの「どん底」を底本にしている事が判るが、我が国に於ける「どん底」の上演記録を調べてみる と、1928年に築地小劇場が「夜の宿」というタイトルで上演しており、以降多くの劇団によって上演され続け、最近では椿組の「椿版・どん底」(2012)、Pカンパニーの「どん底」(2013)などがある。

上演記録で目についたのがムーラン・ルージュ新宿座で、1937年に「チンど ん底」と題されて上演している事だ。当時の座員は水島道太郎、左卜全、有島一郎、明日待子、望月優子ら。森繁久彌は戦後1949年入団。タイトルの「チン どん底」の「チン」は「珍」を意味するのか、それとも「チンドン屋」に掛けたか「チンチロリン」に掛けたか判らないが、当時の新宿座文芸部にはダダイスト 詩人で小説家の吉行エイスケ氏がおり、ひょっとしたら吉行氏の企画とタイトルだったかもしれない(後日ムーラン・ルージュ新宿座史を調べてみよう)。

  黒沢明の映画「どん底」(1957)は舞台を日本の江戸時代に置き換え、貧しい長屋に住む 人々を描いたものだったが、戌井の「どんぶりの底」は時代も場所も定かではない。それはまた、この不安定な現代日本の終末を予測しているのかもしれない。

 どこかの谷間の底だろうか、舞台中央で昼間から仕事もせずにチンチロリンをしている男たち、男1(大内厚雄)、アル中男2(塩野谷正幸)、男3(冨沢力)。奥には上半身裸の男(木暮拓矢)が必死に何かを支えている。   音楽が鳴り、出演者一同が登場して歌い踊る。オープニングが終わると、廃墟の一廓に降り積もったゴミを掃除する知恵遅れの女(坂井香奈美)。彼女は木工職 人(里美和彦)の病気の妻(佐藤華子)の面倒を見る心優しき一面を持つ。まるでマイフェアレディーのイライザのようだ。一見ヤクザかと見まがう大家(根本和史)の妻(伊藤弘子)は、原作と同じく夫から自由になる事を泥棒の情夫(若杉宏二)と画策する。階段を登って男の部屋に向かう女の腰つきが 艶かしい。(黒沢映画では、大家は中村鴈治郎、その妻は山田五十鈴、泥棒は三船敏郎)。廃墟のアパートの住人達は警官(武田智弘)の監視対象であり、時々 饅頭売りの女(桐原三枝)が商売にやって来る。マン処から取り出される饅頭の味は、  さて?廃墟の一室を借りにやって来た生臭坊主(土井通肇)は、家賃の前払いを要求する大家と一悶着。しかし金がないという坊主の袈裟袋の中は、お札がびっしり。   そんな中、幹事長と呼ばれる住人(栗原茂)は、昔この場所にあった研究所で瞬間移動装置を発明した博士(大久保鷹)を連れてくる。男1・2・3たちは、瞬間移動装置があったら去って行った妻をここに移動させるなどとその利用法で盛り上がるが、博士は瞬間移動装置よりももっと価値のある、電波ジャックが出来る装置を大根の入った買い物籠から取り出す。あらゆる電波をジャックして情報操作で世界を支配するのが博士の夢らしい。まるでキューブリックの映画「博士の異常な愛情」出てくるストレンジラブ博士のように怪しげだ。幹事長がその装置に向かって「淋しい」と叫ぶと、その声に導かれたかのように暗い感じの女 (平野直美)がやって来て幹事長に求婚する。  一方、貧民窟ではもう一つの恋が芽生えていた。泥棒の情夫は売春を生業とする美貌の女(月船さらら)の色香に惑わされ、女の部屋に入り浸る。年増の女より若い女の方に向かうのは、男の常。やがて大家の妻に発覚されると・・・。

  流山児事務所の役者たちと70年前後のアングラ劇団で活躍していた大久保鷹(劇団状況劇場・通称紅テント)、根本和史(68/71黒色テント・通称黒テン ト)、土井通肇(早稲田小劇場)との競演はそれだけで観るに値する。どんなに素晴らしい脚本でもそれを誰が演じるかによってその中身は大きく異なるが、このアングラトリオの存在感は只者ではない。彼らが舞台に登場するだけで期待と不安と笑いを抱かせ、まさに唐十郎が言う「特権的肉体」がそこにある。 加えて元宝塚男役トップスター・月船さららの歌と踊りはさすが。宝塚のモットーである「清く・正しく・美しく」と大いにかけ離れた小劇場の芝居に果敢に挑戦する姿は、観ていて清々しい。 何年か経ったら唐十郎の戯曲、「少女仮面」の春日野八千代を演じて欲しいものだ。

脚本の戌井昭人氏は文学座の御大・故戌井市郎氏のお孫さんだそうだが、今年「すっぽん心中」で第40回川端康成文学賞を受賞し、本年度の芥川賞にもノミネートされた実力者。 流山児祥の演出も冴え渡り、芝居の醍醐味を感じさせる作品となっている。


 『どんぶりの底』 演劇評論家:江森盛夫  「演劇袋」
創立30周年記念公演第一弾@ザ・スズナリ 『どんぶりの底』作:戌井昭人、演出:流山児祥、美術:島次郎。 作者:戌井昭人は祖父が文学座の名演出家戌井市郎、その戌井市郎を流山児が爆笑老人演劇ユニット「オールド・バンチ」のメンバーとして参加してもらい、数々の「名舞台」を作った・・。その縁で戌井昭人に台本を依頼した。 戌井は自ら演劇集団「鉄割アルバトロスケット」を主宰するが、すでに何回も芥川賞候補になっているほどの一家をなしている小説家でもある。わたしは熱烈な愛読者だ。その戌井の芝居を流山児が演出、それに以前は流山児と組んでいた美術の島次郎が美術を担当する。それに60年代アングラ御三家:早稲田小劇場の土井通肇、状況劇場の大久保鷹、黒テントの根本和史、それにキャラメルボックスの大内厚雄が客演という異色キャストが連なる話題豊富な座組み・・。 もともと、戌井の作風は芝居も小説も変テコの魅力だ・・。

《流山児は「変テコでも構わない」「メチャクチャなの書いちゃって」ということになったのだが、あまりメチャクチャでもということで、ゴリキーの「どん底」を 下敷きにするということになった。ですから「どん族」を、どんどん、無意味にしていくような感じで書きました。そして、演出の流山児さん、役者の皆さん で、ちょっと意味を持たせ、最後は、良い意味で、なんだか、わけのわからないものに仕上げてくださることを期待して、楽しみにしております》(戌井昭 人)と、いうことに・・。

年寄りは、もとの原作「どん底」の人物と、この舞台での人物を、比べたり、思い出したりでわくわくするが、アングラ御三家の役者の濃い芝居と、泥棒(ペペル)役の若杉宏二以下、月船さららなどの若いメンバーの薄くて軽妙な芝居のせめぎあいが、絶妙な効果を醸して、 なんだかわからないが面白い舞台になっていて、それに流山児得意のミュージカルシーンが要所できちんと決まり、見事に、ショーアップされていたのだ。あと「楽塾」の桐原三枝が、饅頭売り役で出ていたのも嬉しかった。
 

 『どんぶりの底』 今村修(演劇評論家・朝日新聞記者)劇評
  何とも奇っ態、いたって破天荒−−。昨夜初日の流山児★事務所創立30周年記念公演第1弾「どんぶりの底」(作=戌井昭人、演出=流山児祥)は、魑魅魍魎のような貧民たちが、色と欲むき出しで脳天気に暮らすアングラ版「どん底」だった。
 長編戯曲初挑戦の戌井がゴーリキーの「どん底」を下敷きに思う存分遊び倒した作品だが、その新劇的なものとの切れっぷりがいっそ清々しい。呆れ笑いも含め 「どん底」でここまで笑えるとは思わなかった。これが本来の「どん底」の姿なのではないか。オールド新劇ファンからみれば名作の冒涜≠ゥも知れない が、そんなこと気にした気配はみじんもない。それでいて、筋立てはしっかり「どん底」なのだから恐れ入る。

 舞台は過去か未来かも分からな い、多分日本らしい。登場人物たちの会話から察すると北海道はもう無くなってしまったらしい(その理由は何一つ語られない)。傾きかけた長屋は、修辞では なくホントに傾きかけていて、シジュフォスもどきの壁男(木暮拓矢)の双肩によって支えられている。若い泥棒(若杉宏二)と大家の妻(伊藤弘子)が通じて いて、それを察した因業大家(根本和史)が探しに来る……といった、大筋は原作通りだが、ディテールは自由奔放。原作には対応するキャラが見当たらない マッドサイエンティスト(大久保鷹)や暗い感じの女(平野直美)ら、勝手な人物も登場する。  これら人物のキャラクターがどれもこれも面妖 で、まさにアングラ小劇場の面目躍如。伊藤と、浴衣の女を演じる月船さららの、共にやさぐれてはいるが前者は爛熟した、後者は熟成一歩手前の色っぽさ、流 山児事務所生え抜きの若杉や塩野谷正幸の憎めないチンピラっぽさ。そして、根本(演劇センター68/71)、大久保(状況劇場)に、願人坊主を演じる土井 通肇(早稲田小劇場)を加えた、アングラ第一世代の3怪人の、出てくるだけで目が離せない「佇まいの魅力」。3人とも70代。「特権的肉体」という言葉を 今さらながらに噛みしめる。

流山児演出は、これら百鬼夜行のような役者陣をほとんど野放しに遊ばせる。劇作や演出の意図といった賢しらを離れ、俳優の輝き で見せていく企みのようだ。  狭い空から終始降ってくる白い何か、長屋に広がる病といったほのめかしを挟みながら、劇は一切それを説明しない。もう少しヒントがあっても という観客としての思いがないではないが、あからさまになり過ぎては芝居が台無しになる。そこは観客の想像力にお任せ、ということだろう。

 それにしても、原作から引き継がれた閉塞感の薄気味悪さはどうだ。かつては、100年前のお話として「鑑賞」の対象だったこの閉塞感が、ここにきて俄に現実 のものとなってきた。「どん底」で笑えない日が再び来るんじゃなかろうか。舞台の上の怪演・快演を堪能しながら、ふと、そんな空恐ろしさが頭を過ぎった。 (敬称略)
 

 『どんぶりの底』 いっちの「舞台大好き」劇評
最近、クスッと笑える舞台を観ることか多かったんだけど、今回の【どんぶりの底】は久しぶりにお腹の底から大爆笑できました。戌井昭人さん、ホントに初めての戯曲なんですか?って、いうくらい創立30周年の流山児★事務所にぴったり!!諏訪創さんの音楽も素敵な新しいアングラ劇の生み出された瞬間に立ち会えて、私が今の流山児★事務所で観たいことが全部観れて…ホントに幸せでした!

 演劇界希代のアングラ俳優お三方(大久保鷹さん・土井通肇さん・根本和史さん)は、三者三様ものすごくいい味を出されていで、特に大久保鷹さんはその存在だけ でも面白いのに、しゃべるセリフももういちいち面白い(←もちろん褒め言葉!)実は私、鷹さんが【地球空洞説】に学者先生役で出られた時にファンになり、 今回もめっちゃ楽しみにしてたんです。鷹さん、今回も期待を裏切らないどころかそれ以上に楽しくて、楽しくて!しかも、鷹さんも土井さんも、そして根本さんも全員70代だっていうんだからホントにすごい…脱帽。
 そして流山児★事務所を長年支えてきた3枚看板の塩野谷正幸さん・若杉宏二さん・伊藤弘子さんが久しぶりに同じ舞台に立っているのを観れたのは、長く流山児★事務所ファンをやっている私としては感無量でした。そこに元宝塚の月船さららさんが加わるっていうのはもう贅沢の極み!と言っても過言ではないです。実は私が宝塚をよく観ていた頃、月船さんは月組の新進気鋭の男役スターさんでした…なので大好きな流山児★事務所の役者さん達と月船さんの共演は、盆暮れ正月クリスマスまでいっぺんに来た!というくらいすごくてうれしかったんです。

 その月船さん、始まる前は元タカラジェンヌがアングラ劇に初挑戦!とか新聞に書かれていたみたいですが、元宝塚の肩書きがいらないくらいのアングラ女優ぶりでした!いい意味で、ぶっ飛んでて壊れてる!それでいてとってもチャーミングな浴衣のゆかちゃんでしたよ。いやー、とにかくなんというかもうすごい!今や流山児★事務所の客演レギュラー(?)の大内厚雄さん(演劇集団キャラメルボックス)や流山児★事務所の3枚看板以外の役者さん達、ある意味キーマン的存在(?)の佐藤華子さんのことなども書きたいのですが…なにしろあっという間の2時間弱だったので、いっぺんに観きれませんでした。これはねー、アングラ劇を敬遠しがちな演劇ファンに観てもらいたいなぁ。ホンモノのアングラ劇が観られますよ。
 


『義賊☆鼠小僧次郎吉』                   演劇感想文リンク BY#10
 れっきとした歌舞伎作品を小劇場でアングラっぽく演出。本物の歌舞伎を劇場で見たことがないのでどこまで本気なのかは判断できないが、流山児事務所のことだから、そうそういい加減な作り方はしてないであろうと信頼している。突然、流山児祥がジャケット姿で現 れて人形劇が始まった時はさすがに歌舞伎じゃないと思ったが。

 今でこそ歌舞伎は立派な文化人しか観ない“格調高い文化”といったジャンルになっているが、本来は大衆向けのエンターテイメントだ。そのため内容は単純で通俗的。しかもひどく御都合主義で、最近で言ったら韓流ドラマのようにクライマックスシーンが続く。
 しかしエンターテイメントってのはそれでいいのかもしれない。人間心理の奥深くの微妙な所をほじくり返すような描写より、こっちを好む方が普通なのだと思われる。観ていて楽しいですよ、確かに。


「阿部定の犬」                 今村修(朝日新聞記者:演劇評論家)
 天皇という存在について考え込んでしまった。

  日本の演劇人を育てるプロジェクト新進演劇人育成公演俳優部門「音楽劇『阿部定の犬』〜喜劇昭和の世界〜」(作=佐藤信、演出=西沢栄治)@Space早稲田。   「キネマと怪人」「ブランキ殺し上海の春」と続く三部作の第一作。1975年に演劇センター68/71(現黒テント)によって初演された。「キネマ」と 「ブランキ」はリアルタイムで観たが、この作品だけは見逃していて、戯曲と劇中歌を収めたLPだけで想像していた、幻≠フ舞台だった。

  時は「概ね昭和十一年」。2.26事件で戒厳令が敷かれた帝都に、不逞の女が出没する。情事の果てに情人の局部を切り取って逃亡した阿部定らしき「あた し」(山崎薫)だ。近寄る男を次々と虜にし「犬」に仕立て上げていく「あたし」。現人神の衣をはぎ取られた天皇のようにも見える写真師(谷宗和)は、巷に はびこる「犬」どもを「犬兵」として調教し、「あたし」も手中に収めようとするが……。

 寓意や比喩、異化効果がテンコ盛りの戯曲は安易 な理解を拒む。背景には雪の2.26がありながら、進行するドラマは概ね夏のようだ。しかも「新嘉坡では夏でも雪が降ります」なんてセリフがあってますま す面食らう。「犬」にしたって、写真師の下では従順に飼いならされた暴力装置だが、「あたし」の手にかかるとアナーキーな不服従の存在に変わってしまう。 「犬」とは何か?  天皇制の下で滅ぼされ、支配されてきた「まつろわぬ者たち」「荒ぶる神」「荒魂」の比喩なのではないかと妄想してみた りする。大嘗祭の秘儀によって制御されているはずのそれら、こともあろうに淫婦の姿をまとって帝都を揺るがす。卑による聖の侵犯、放埒による秩序の紊乱。 それが天皇の昭和という時代を根底から揺るがす……。そんな小理屈をこねてみても、劇の全体が分かったわけではさらさらない。

  「アングラ」と一からげに括られながらも佐藤戯曲は多くのそれとはいささか趣を異にしている。エモーショナルに回収されることがない。カタルシスという逃げ場もな い。シンボルに満ちた物語はパズルのように複雑に組み合わされ、迷宮化される。演出家はそれを一つ一つ丁寧に分解していかなければならない。それと、70 年代の叛乱の時代精神。多分当時の上演では、観客の中にストーリーは明瞭に了解できなくても、心の深いところで共感しシンクロするものがあったのだろう。  

  だが、時代は変わった。当時は全ての差別の根源と見なされていた天皇性への批判的な眼差しは弱まり、天皇はむしろ政権の暴走に抗う、民主主義、立憲主義の 防波堤とも一部で期待される存在となっている。そんな中での初演から約40年目の上演。2.26も戒厳令も阿部定も今舞台に立つ若い俳優たちにはむしろ フィクションに近い出来事だろう。歴史を理解し、難解な戯曲を腑分けし、自分の体の中に入れる。時代精神という援護もない。極めて困難だが、また極めて貴 重な体験だったに違いない。   

 若手育成の名の下、敢えてこの難物に立ち向かった蛮勇に拍手を贈りたい。耳を虜にしたクルト・ワイルや林光の曲が使われなかったのは残念だが、敢えてオリジナルで挑んだというのも、覚悟の現れだろう。それにしても、と思う。かつて、写真師=天皇に向けられた「あたし」の銃口は、今、誰に向けられているのだろうか?(敬称略)


「阿部定の犬」                 江森盛夫(演劇評論家) 「演劇袋」。
 文化庁・日本劇団協議会主催の新進演劇人育成公演だが、上演主体はほとんど流山児★事務所のメンバー。この「阿部定の犬」は1975年に上演した黒テントの佐藤信の喜劇・昭和の世界の第一作だ。   

  この作品を西沢・諏訪が、まったく新しい全編音楽が渦まく音楽劇に仕立て上げた。オールドファンには、開幕の舞台の立て看板には”世界は概ね昭和十一年だった”と黒々と大書されているが、その十一年生まれのオールドファンには、初演の「あたし」役の新井純の輝かしさと、佐藤の作詞につけた林光の音楽が忘れがたいのは、仕方がない・・が、この舞台も若いメンバーの一糸乱れぬ熱のこもったシテージで、なかに、年かさの流山児や龍昇も渾身の汗を流し助力した・・・。  

  テーマは天皇制とエロス・・。流山児は書く、”日本人のカラダに染み込んでいる天皇制国家と切り結んだ阿部定=不服従のエロス。ファシズム=戦争する国家のへの足音が聞こえる<現在>わたしたちは「不服従の犬」である”  言わずもがだが、阿部定は愛人を熱愛するあまり、愛人のオチンチンを切って愛蔵した昭和の烈女である。

 

 「阿部定の犬」  山田勝仁(演劇評論家・日刊ゲンダイ)
 Space早稲田で公益社団法人日本劇団協議会・日本の演劇人を育てるプロジェクト・新進演劇人育成公演・俳優部門「音楽劇 阿部定の犬 〜喜劇昭和の世界〜」(作=佐藤信、演出=西沢栄治)を観た。
 いわずと知れた68/71黒色テントの「喜劇昭和の世界」三部作の第1作で、75年の初演。全国オルグ公演で北海道から九州まで回り、短期間の動員数でも「最長不倒」記録を残し、今もそれは破られていないといわれる傑作中の傑作。  この頃の黒テント人気は紅テントのそれとはまた違う熱気が渦巻いていた。公演は俳優、スタッフが全国に散らばり、地元の若者を巻き込んでの「オルグ」によって実現された。 北海道公演では地元興行師にショバ代を要求され、劇団員が拉致されたとか、九州公演では銭湯に現れた役者集団にクリカラモンモンのはぐれヤクザが恐れをなし、「組があるやつはいいよなあ」とうそぶいたとか、その手のエピソードには枚挙のいとまがない。

 残念ながら私が黒テントを初めて観たのは三部作3作目の「ブランキ殺し上海の春」だった。噂に聞いた清水紘治と新井純の艶姿を初めて目にした衝撃は昨日のことのように思い出される。「阿部定の犬」は82年の再演(加藤直・佐藤信共同演出)を俳優座劇場で見ている。  さて、「阿部定の犬」は2・26事件と同じ年に起こった猟奇事件、酌婦・阿部定が起こした情夫・吉蔵の性器切り取り事件をモチーフにした作品。  Space早稲田の狭い舞台の上手に、台本通り、「腕木にブリキの三日月を吊り下げた電信柱が一本」立っている。ここは架空の町「東京市日本晴れ区安全剃刀町オペラ通り一丁目一番地」。下手から首にカメラをぶら下げ、客席をなめ回すように登場する男。 やがて、ひととおり客席を巡ると、舞台に進み寄り、「鳩が出ますよ!」と一声。暗転。 「戒厳令」「施行中であったにもかかわらず」「帝都では、女たちがつぎからつぎへと妊娠していた」というナレーション。

 灯りがつくと、舞台には妊娠中の女たちが身もだえしている。産まれた子が男なら30円、女なら160円。この時代、男は兵隊にしかならないが、女は子を産み、娼婦にもなる。女の方の価値が高いのだ……。
 82年に上演された舞台を見ているのに、ほとんど内容を思い出せないというのは、アングラ演劇は「物語」ではなく「情念」だったからで、当時の観客も「意味は全然分からないんだけれど、見終わったあとにわけもなく興奮する」というのが正しいアングラ劇の観方だった。 上演時間1時間45分。「あたし」=阿部定(山崎薫)と彼女を取り巻く娼婦と男たち、堕胎を逃れて母の胎内から出てきた「万歳」、操り人形のような「死 体」、「先生」と呼ばれる男たちの、にぎにぎしくも猥雑な物語が音楽(黒テントは三文オペラのクルト・ワイル、今回は1曲をのぞき諏訪創のオリジナル)と 歌とともに展開する。「死体」の扱われ方は、つげ義春の「通夜」と似ているが、つげ作品は70年。もしかしたらどこかでイメージが重なってるかも。

  全編に貫かれる「性」と「政治」の対立。最後に「権力の象徴」を撃ち抜くのは阿部定が懐に隠し持った、切り取られた男性器。それは銃に変容しているのだ!  阿部定という「エロス」が天皇制国家主義という大量の死を内包する制度を撃つ。まさにエロスとタナトスの相克。その革命幻想がこの作品に通底する意志と 思想なのか。  というような、難しいことを抜きにしてもこの芝居は面白い。  舞台下手奥に鎮座する軍服姿の昭和天皇のパネル。若手の役者の多くはこれが誰だかわからないとか。「昭和」が終わって25年。まあ、そんなものか。
 その「昭和」が終わる15年前に、すでに「昭和」の終焉を舞台で見せた「阿部定の犬」。しかし、それは武力によるものではなく、いわば自然死に過ぎないのだが。 このあたりが「風の旅団」の反天皇劇との違いか。 演出の西沢栄治は07年の「罪と罰」あたりから見始めて、そのスピーディーで切れのいい、センスフルな演出のファンになった。今回もこの難物を手際よく演出、原作のエッセンスを伝えていた。役者陣も山崎をはじめ、谷宗和、五島三四郎、神在ひろみ、小林七緒などひとクセもふたクセもある顔ぶれ。鶴蔵役で龍昇が久しぶりに流山児祥と共演。春野役 は野口和彦。先生に流山児祥。老いも若きもみんなが70年代演劇の金字塔たる作品を生き生きと楽しんでいた。
 

「阿部定の犬」  佐藤茂紀(劇団ユニットラビッツ・劇作家・演出家)
「6月6日夕刻6時の金曜日、豪雨。 Spase早稲田では「阿部定の犬」のゲネプロ、小さな劇場空間が大きな緊張感で満ちていた。
舞台には「世界は概ね昭和十一年であった。」と殴り書かれた白い敷布が下がっている。そして電柱。ブリキの三日月。街頭写真師、首っ玉にぶら下げた旧式の携帯写真機。 「戒厳令」 「施行中であったにもかかわらず」 「帝都では、女たちがつぎからつぎへと妊娠していた」 「阿部定の犬」が始まった。 2・26事件のあった昭和11年。鬱屈した世相の中で、不条理満ちた世界の中で、それでも人は生き抜こうともがく。そして死に向かうにも真剣だ。 劇が終盤に差し掛かろうという頃、僕は気づいた。どうやら、今も「概ね昭和十一年なのだ」と。なにもかわっちゃいないのさ。面白い作品だ。   

「阿部定の犬」  前川麻子(小説家・劇作家・女優・演出家)
スペース早稲田にて明日の初日に先駆けて「阿部定の犬」を拝見、女優がみんな素晴らしい。 定、エロくて可憐で歌声涼やか、喋らない場面でも情が立ち昇る。

「阿部定の犬」が、一番阿部定リアリティーからは遠いはずなのに、そこにいたのはやっぱり定だった。 顔の造りとかもかなり似てるけど、佇まいとか男に向ける視線とかが、「定だ!」と感じられるような、定イズムで惚れ惚れ。見事だったなあ。  「阿部定の犬」では、役者・流山児祥が観られる。個性を押し出して俺様顔じゃない、謙虚で誠実な役者の顔をしてる。若手がそれを支え、目一杯突っ張って前に出てくる。リアルだとかナチュラルだとかに縛られない、 パワーとしての圧倒的な存在が物語に溢れる。  

 見事だなあと感心したのは、演出の西沢さんが、政治的なことや思想的なことを無視するわけはいかない佐藤信戯曲を、するりと、軽やかに、戯曲まんまに今の「背負えなさ」で乗り切ったこと。


楽塾 寺山修司の『女の平和』〜不思議な国のエロス〜           今村修(演劇評論家:朝日新聞記者)

 Space早稲田で 流山児★事務所+楽塾「寺山修司の女の平和 不思議な国のエロス」(作=寺山修司、原案=アリストパネス、構成・演出=流山児祥)。

長引くペロポネソス戦争に愛想を尽かした、アテネ、スパルタ、同盟国の女性たちが、平和を実現するためにセックス・ストライキを敢行するという、痛快なギリシャ喜劇を寺山が一 流の言葉のセンスとアイロニーで音楽劇に潤色、それをさらに流山児が時代劇に仕立て上げた。寺山版は1965年、演出家・浅利慶太の依頼を受けて日生劇場のために書かれた戯曲だが「オンディーヌ」がロングランしたあおりを受けて上演されぬままお蔵入りした、寺山自筆の作品ノート(「寺山修司の戯曲」第4巻 思潮社)にある。

 流山児はさらに、舞台を戦国時代の山城国に移し、黒沢映画「七人の侍」などの風味も取り入れながら、楽塾の熟女たちと流山児事務所の男優たちの対決という構図にした。これがなかなか、うまく行っている。カタカナ名前が飛び交う寺山版に比べて、流山児版は取つきやすく、きわどい言葉も連発されるお話だけに、役が想定する年齢と演じる女優たちとの年齢のギャップが、奇妙な距離感となって無用の生臭さを消している。

   実は恥ずかしながら楽塾は初めて。高齢者劇団という触れ込みに、それなりの想像をして行ったのだが、滑舌と口跡の良さに驚いた。ただ、それにしては寺山の機知やアイロニー、言葉の面白さが伝わってこないのは、勢い優先の舞台運びのせいか。確かに少しとっちらかったところのある戯曲ではあるが、流石と思わせる表現は随所にある。勢いは大事だが、そこらをもっと丁寧に見せ、聞かせる場面も欲しかった。

 これを書き始めた途中に飛び込んできた、寺山元夫人で、戸籍上は妹でもある九條今日子さんの訃報。あまりにも突然すぎる死に、気持ちがまだ付いていかない。この舞台、九條さんは見たのかな? 見たらきっと気に入って豪快に笑うだろうな……。そんな思いがグルグルして止まらない。(一部敬称略)

 


楽塾 寺山修司の『女の平和』〜不思議な国のエロス〜           演劇◎定点カメラ BYねこ

 恒例シニア劇団GW上演。浅利慶太依頼 京マチコ主演日生劇場上演へ書き下ろすも未上演。そんな曰わく因縁の29歳時の作品がベースとか。  

舞台:糸を縦横に張った格子戸を壁に見立てたり、組み合わせて使用。紙の月ロマンティックはお約束。  

お話:長らく続く戦争をセックス・ストライキで打破したアリストパネス「女の平和」  これを日本の戦国内戦に置き換え、現代にも繋げて反戦劇として翻案。  

愉快痛快、なかなか骨太に迫る妙ージカル。バカな男達のしゃれにならん戦争に見事に一矢報い。楽天にも悲恋、ブラックでシニカル世界の毒気を欠かさず物語。手痛い内容を交えても停滞させやしない熟女パワー。 劇団に一人いれば十分なベテランがわんさか個性と意気地を発揮して圧倒、ていうか愛らしくて魅了して、自然と笑みこぼれ。 男性陣はベテランとイケメン若手の混成でいい案配。 後藤英樹さんに、ほよよ、東京で活動してるのね。        

なによりは,てんこ盛りのミュージカルシーン。歌謡ロック、ポップス、ジャズ、クラシック…、なんでも消化して歌い踊る連綿。20名勢揃いだと大迫力。

演劇、歌の力、楽しさ、世にはびこるヘタレや理不尽を吹っ飛ばす気概と活気に触れて、心が晴れる思いがするねこ。

 


楽塾 寺山修司の『女の平和』〜不思議な国のエロス〜           江森盛夫(演劇評論家)  「演劇袋」

寺山修司の「女の平和☆不思議な国のエロス」作:寺山修司、原案:アリストパネス、翻案・台本・演出:流山児祥、 流山児★事務所+楽塾、@Space早稲田

 この作品は寺山が29歳の時、劇団四季の浅利慶太の依頼で日生劇場公演のため書き下ろした合唱劇「不思議な国のエロス」だが、公演自体は諸般の事情で未上演になったもの。   いつ終わるともしれない戦争に男どもは、家庭も女房もおろそかにして戦場へ行ってしまう・・。我慢も限界で、女たちは敵味方合致して、男どもにセックスを拒否することを決定する。ついでに戦費の所蔵場所も占拠してしまう。女たちの中には、我慢ができず脱落者もでるが、男どもは、はたして困り抜く・・・。

 よく上演される奇想天外の名作だが、流山児はこれを得意のミュージカル、流山児レビューに仕立て上げて、あれよあれよという間に終わる楽しい一夜だった。
楽塾は最年少56歳、最年長が72歳、平均年齢62歳のシニア劇団だが、今回は流山児★事務所の若手男優との共演。 したくてしょうがない男を拒むのだから、楽塾の熟女たちも精一杯色っぽく、きわどいそぶりもがんばって男どもをなぶる・・。

山形治江の名著「ギリシャ劇大全」のよれば、この芝居ができたころのギリシャは、戦争で疲弊しつくし、絶望的な状況で、この芝居ものんきなファンタジーではないと書いているが、この流山児の翻案では、女たちのセックスストライキが功を奏して和睦したが、その瞬間に両者が破滅する。  集団的自衛権・積極的平和主義の愚かな結末だと流山児らしく骨っぽく明示するのだ。

 楽塾も5年前から観客動員数1000人を超えたそうだ・・。私は創立初演から皆勤である。年をかさねても彼女たちは全然すれない、初演の時と同じ初々しさを保っている・・。                                                                                

今後もがんばって、熟女の輝きをますます見せてほしい。

 


楽塾 寺山修司の『女の平和』〜不思議な国のエロス〜           飯塚友子(産経新聞文化部)産経新聞5月3日文化欄「鑑賞眼」掲載。

 ●未上演作品を大胆に再構成

中高年の演劇集団は珍しくなくなったが、先駆けは流山児祥(りゅうざんじ・しょう)率いるこの楽塾。 その創立17周年記念公演。  

古代ギリシャの喜劇作者アリストファネスの「女の平和」を、寺山修司が29歳の時にアレンジし、書き下ろした未上演作品を、流山児が時代劇ミュージカルと して大胆に再構成。                                                                         
長引く2国の戦乱にウンザリした女性が、セックス・ストライキで反戦平和を求める物語は、日本の山城国の東西2国に置き換えられる。                                                                                               

平均年齢62歳のオバチャン女優(56〜72歳)と、若手男性俳優が、互いの性欲をめぐりガチンコ勝負する様が実におかしい。通常、物語の焦点となるのは男性の性欲だが、楽塾では男女反転する面白さがある。  

 ここでは自身の欲望を隠さない熟女らが、煩悶(はんもん)の末に“拒絶”を決意。その過程を「♪透き通る襦袢(じゅばん)の下を丸見えにして(中略)ところがどっこい身をかわしするりするりと逃げまわる」などと歌い、錠前付きの下着姿に着替え踊る。

笑いと驚愕(きょうがく)の熟女絵巻に、呆然(ぼうぜん)とさせられる。  しかし舞台は、キワモノ劇では終わらない。女性たちの戦略が奏功し、2国には平和が訪れるが、戦のない世の中で女性に愛 されるのは、編み物や料理ができる男性だ。この下りは寺山の原作通りで、「不思議の国」として描かれた国はいまや“普通の国”。だが平和を謳歌(おうか) して踊り狂う男女に、突如爆音が訪れる。危うさと背中合わせの平穏に、流山児が現代の観客に発したメッセージを感じた。

 


楽塾 寺山修司の『女の平和』〜不思議な国のエロス〜           BY「ちょっとピンボケ」

楽塾、3度目になる。平均年齢61歳の女性のみの演劇集団、それに流山児祥という大ベテランが指導・演出・脚本を担当、実績のある劇団に成長した。  

今回の演目は、世界史でも習ったことのあるギリシャ時代の劇作家の作品(アリストパネス)を原作にし、寺山修司が手を加え、今回は流山児祥が楽塾のために書き下ろした作品。

原作は、戦争好きの男たちを女達がセックス拒否で諫めるというお話。紀元前500年頃、この作品ができ、下ネタ満載だったらしい。発想は今風の作品と何も変わっていない。今回も、遠慮無く下ネタ満載、演技している人たちも楽しそうだった。

また、音楽劇で、有名の曲の替え歌が、楽しめた。劇団のおばさんパワー満載のステージだった。


「田園に死す」     BY いくたまさと         
 今回初めて舞台上の「田園に死す」を鑑賞し、堪能しました。 今回の演出では原作を舞台上で新たに解釈するだけでなく、寺山の全活動・全芸術を芝居の中に盛り込み、さらに寺山の死後の世界までも舞台に反映させるという、大変に欲張りな演出でした。

  田舎の狭小世界から脱皮して「自分探し」に出かけようとするポット出の少年が中年にさしかかる(すでにさしかかった?)頃までを主に描いて、原作(の映 画)にある哀愁・郷愁・土俗・呪術の雰囲気を無国籍・ポスト)モダン・アナーキーなアドヴェンチャーワールドに変えてしまっているような印象を受けまし た。

 むちゃくちゃで破れかぶれの演出は、出演者全員のこれまたむちゃくちゃで、破れかぶれの、過剰極まるエネルギーとの相乗効果で、こ れまた私のむちゃくちゃな鑑賞眼から全部をド〜ンと眺めると、成功とか失敗したとかの次元をはるかに超えて、快演・怪演(出)の連続で、大いに私たち観客 を楽しませてくれました。

 真面目なほうのテーマとしては、人間とはいくら年をとっても自分の本性を突き止めようとし、世界を少しなりと も理解しょうとしないではおれない生き物だということが舞台よりこちらによく伝わった芝居だと思います。 シーザーの音楽は昔のものを流すところはそのま まウェットに新しいものではドライな今日風の雰囲気が醸し出されていて、これも面白いコントラストだと思いました。  そのほか灰皿で役者の頭をたたきまわる蜷川おじさんなども登場し、アングラ劇発展史のパロディーまでも盛り込まれたいるので、まだ見ていない人には再演必見!のおススメ作品。


「田園に死す」    演劇定点◎カメラ BYねこ
 「2年振り3演。何度みても新鮮な驚きを感じる舞台、今回も体験できて嬉しいねこ。  
 舞台、お話。初演と同じ。畳部屋、調度は故障した柱時計のみ。止まった時間は寺山修司の臨終が時。マッチをするつかの間に取り残された寺山修司、のぞき屋が 追想、妄想する世界。
 寺山、天野の両奇想が競いあう猛烈、2人の破天荒な勝負に物言いをつける流山児。  よくわからないけど、妙な三者均衡の中、寺山生涯と作品の妄想リミックス版が
 展開。単品でもすごいのに相乗の見事なこと。今回最終、別の機会のセッションにぜひ、立ち会いたいねこ。

                 
「田園に死す」    演劇感想文リンク   清角克由
 寺山修司の映画の世界にとどまらず、詩や小説、舞台から彼の人生そのものまであらゆる「寺山モノ」を集大成した荘厳とさえいえるアングラ舞台。自分自身が一時期傾倒していたがゆえもあると思うが、舞台の場面場面からさまざまなものを連想し、芝居としてダイナミズムを感じて終わった後ちょっと言葉が出なかったほどの舞台でした。

物語≫
青 森、下北半島の田舎に生まれたシンジは、戦争で父をなくして母親とふたりきりの生活。田舎に嫌気が差し、逃げ出したいと思うごくありふれた思春期の少年 だった。近所の本家には遠くから来た若妻がいて、彼に駆け落ちをそそのかす。近所には、日本全国を回っている見世物小屋が興行をしようとしているが、彼ら は「人攫(さら)い」だという噂がながれる。

≪感想≫                                                                                                                                                        27年前、18歳の時、友達の家でこの「田園に死す」を見ました。演劇部 にいて、どんな芝居を作っていくかということに悩み議論をしていくなかで、先輩に貸してもらってみたはずです。ものすごく印象に残ったものの、それと同じ ようなものを目指すのはなんか違うと思いながら、4年間芝居をやって卒業しました。 「田園に死す」の舞台を見る前に記憶の中に残っていたの、ざっくりとしたあらすじと印象的なラストシーンだけのつもりでした。始まってみると、そんなことはないということがよくわかりました。「田園に死す」で最初に触れていたものは、思った以上に僕の脳に侵食し、根を張り巡らし ていたのです。学生時代に何度か脚本を書こうとして断念したことがありましたが、そのいくつかの本のシーンは、「田園に死す」の焼き直しでしかなかった事 に気づきました。(書き終わんなくてよかった)

田園に死す [HDニューマスター版] [DVD] posted with amazlet at 14.03.09キングレコード (2013-04-24)売り上げランキング: 25,037 Amazon.co.jpで詳細を見るまた、そうしたシーンを改めて、この舞台で見ることにより、意味が読み解けた部分も多数ありました(つうか、18歳 の時に見た時には、それをまったく意識していなかったんだなぁと思い知りました)

 例えば、明智小五郎青年は、「大義」の為に女を捨てるところは、その捨てられる女の立場から見れば、「女一人を幸せにできない男が、何を国家か」と罵倒されるに値する残酷さを秘めています。  この元となった映画が制作された時期を考えれば、このシーンは、三島由紀夫的な国家観(あるいは、父を戦争に駆り出した国家そのもの)へのアンチテーゼとしての女の立場からの国家観/幸福論であったんだなぁと気づきました。
 また、映画見た時は単に面白いなぁとは思ったもののその意味がまったくわかっていなかった空気女のところも、主人公が空気ポンプで空気を入れることでお腹 が膨らむ(映画ではお腹だけではなかった気がするが)シーンも、セックスのメタファーだったということにようやく気づいた。  家にたった一つの柱時計を据えた青森の田舎に育つシンジが、一人ひとりが腕時計をしている都会から来た見世物小屋の人たちから受けるショックも、家父長制から個人主義に移行してきた当時の現実世界のメタファーとして語られていたのです。

この舞台は、そういう事を改めて感じ取れるほどに忠実に映画版を再現し、その劇世界に没頭できるほど演出が見事にされていました。舞台装置から、細々とし た小道具に至るまで実にきっちりと作りこまれ、手品のような完璧さで、場面転換が行われ、知らぬ間に本物の小道具が手に握られています。

 歌、朗読、ダンス(?)等の役者の肉体を極限まで使い尽くした上に、照明、音響そして何よりも映像効果の利用により、舞台上の物語に幾層もの物語が上書きされていく感じで、クラクラするほどの臨場感がありました。アングラ演劇の凄みを改めて実感しました。
映画では、最後のシーンで壮絶な(と18歳の僕は思った)舞台崩しをやるので、そのシーンをどうやるのかなぁと思いながら終盤は、ワクワクしていました。 あまりにも終盤が長い(一度終わったと思って拍手しちゃったし)ので、途中で飽きかけたのですが、まさかスズナリの中にスズナリを作るとは思いませんでし た。意表を突かれました。  

「田園に死す」    高野しのぶ(演劇ジャーナリスト)「演劇レビュー」。
田園に死す 流山児★事務所の『田園に死す』は天野天街さんが寺山修司作品を脚色・構成・演出した作 品で、2009年に初演され、流山児★事務所はその年の紀伊國屋演劇賞団体賞を受賞しました。2011年に再演がありましたが、私は今年の最終公演(再々 演)で初めて拝見しました。上演時間は約2時間10分休憩なし。


 寺山修司の自伝的映画『田園に死す』をもとにしたメタ構造のお芝居で、短いシーンを積み重ねて寺山修司というアーティストの10〜40代の人生と、彼の作品(詩、演劇、映画)を立体化していきます。このお芝居自体が“寺山修 司”そのものであり、同時に“天野天街”でもあるように感じました。  


テラヤマプロジェクトvol.2 『無頼漢-ならずもの-』 〜流されてゆく「日本の現状」を映し出す〜 

演劇雑誌「悲劇喜劇」2014年2月号演劇時評   宮内淳子(日本近代文学)


宮内 この舞台を観るには、まず中池袋公園に集まること、という指示があります。時間が来ると夜の公園がライトで照らされ、「ミズノニクシ」(水野憎し)の旗を掲げた芝居者たちや、それを追い掛ける捕り手たちが登場。水野忠邦の「天保の改革」によって抑圧された者たちの反抗と、それを取り締まる者たちなんですが、まあ、「ミズノニクシ」は、どうみても「アベノミクス」のもじりですね。帰宅途中のサラリーマンたちが、不思議そうに横眼で見ながら、駅へ向ってそそくさと歩いてゆきます。寺山が持っていた劇場外の空間へのこだわりを、ここで再現したものでしょう。しばらく追いかけっこがあってのち、公園の公衆トイレの屋根でうたう座頭たちに見送られ、公園前の豊島公会堂へ入ってゆくと、ほどなく芝居が再開されます。

「無頼漢」は、1970年に篠田正浩監督が寺山修司脚本で撮った映画で、今回はそれをもとに中津留章仁が脚本を書き、流山児祥演出で舞台となりました。河竹黙阿弥「天衣紛上野初花」をもとに、天保六花撰と呼ばれた河内山宗俊、片岡直次郎、金子市之丞、暗闇の丑松、森田屋清蔵、花魁の三千蔵が登場しますが、寺山は、それぞれの人物に独自の解釈をしています。たとえば映画の直次郎は仲代達夫が演じているのですから、黙阿弥の直次郎のような優男ではありません。遊び人にしても、もっと骨太です。そのくせ、同居する母親の愛情過多に悩まされるという、さながら寺山その人のような面を見せ、三千歳との間に割り込んでくる母をもてあまし、2回も捨てにいったりします。「どこに捨てられても、またきっと帰ってくるよ」と言う母親を映画では市川翠扇が演じていて、今は亡き名優の演技を映像でも見られる幸福を感じますが、舞台で母親を演じた三ツ矢雄二も、美声はもとより存在感があって引き付けられました。

映画の河内山は丹波哲郎です。黙阿弥の河内山は、例の松江邸での「悪に強きは善にもと」という名セリフで大名をやっつけ、高笑いをしつつ花道を引っこむところが有名です。映画の河内山は世直しの想いを秘め、最後は水野に迫って行く。
同じ時、宗俊と呼応するように、一揆の集団が江戸の町を駆け抜け、ご禁制だった花火が打ち上げられる。寺山の「無頼漢」において反権力がこんなかたちで出て来るのは、70年安保が背景にあるからでしょう。しかし、宗俊は殺され、水野は「一揆で権力は倒せない。権力は交代するだけだ」と言います。冷徹な現状認識ですね。でも虚無ではない。舞台では宗俊を山本亨が演じていて、松江邸で正体がバレると無謀にも切って出て、たくさんの仲間とともに切り死にしてしまう。山本亨は、殺陣で魅せました。

映画で絵金の極彩色の残酷絵が目立っていましたが、舞台でも浮世絵が装置にありました。また、映画で効果的に使われていた死神の面も、舞台に引き継がれました。映画で上がった花火は現状を破ろうとする庶民の心意気でしょうが、豊島公会堂での映像の花火は、映像のせいもあって色が薄かった。危機的な時代ながら反権力へ向けてのエネルギーは感じられず、不満をくすぶらせつつ、流されてゆく「日本の現状」が写されているような気がしました。でも、そんな時代だからこそ、寺山の芝居が観たいし、今回の舞台も観られて良かった。

演出の流山児祥は状況劇場や早稲田小劇場に在籍したことがあり、1970年に自ら「演劇団」を創設した年に寺山と会い、交流が始まる ---という、アングラ演劇を肌で知り、現在も疾走中の演劇人です。                                          今回の公演は豊島区テラヤマプロジェクトによるもので、これは豊島公会堂で寺山の作品を上演する企画です。昨年は「地球☆空洞説」を上演し、来年は「青ひげ公の城」が予定されています。

 

テラヤマプロジェクトvol.2 『無頼漢-ならずもの-』 〜劇的時空のたくらみ〜

 演劇雑誌「テアトロ」2014年2月号劇評   演劇評論家:中本信幸 

テラヤマ☆歌舞伎『無頼漢』(原作=寺山修司、脚本=中津留章仁、演出=流山児祥、音楽=上妻宏光) は、豊島区制施行80周年記念事業の一環として3年連続で 「テラヤマ演劇を上演する企画」 の第2弾である。昨年、『地球☆空洞説』が上演されている。第3も期待される。11月29日には豊島区長高野之夫も特別ゲスト出演した。 「開演時刻の30分前までに、本会場の豊島公会堂から小道を隔てた中池袋公園に来たれ!」と事前に広報されていた。開演のほぼ1時間前に公園にいたが、幸い快晴に恵まれ、数名の出演者らしき人物が点在したり徘徊したりしていた。やがて観客たちは、本会場の豊島公会堂に案内された。テラヤマ歌舞伎へのたくみな誘導である。ストリップ小屋や野外劇、街頭演劇に携わった評者の青春の血が騒ぐ。
演出の流山児祥が猥雑で破天荒なテラヤマ歌舞伎の神髄を示現した。

1970年に寺山修司と篠田正浩監督が映画化した『無頼漢』の原作シナリオをもとに中津留章仁が「不服従の意思(=革命=)」と無惨な結末を描く猥雑で破天荒な群集劇で、現在を照射する。時代背景と現代を、映像などで紹介するほうがいい。 

天保13年、水野忠邦の天保の改革によって庶民が不満、苦悶が充満する。役者志望の遊び人・片岡直次郎(五島三四郎)が、大口屋の美しい花魁三千歳(田川可奈美)を知り、彼女との結婚を反対した母親のおくま(三ツ失雄二)を川に捨てる。
無頼漢で知られる茶坊主・河内山相俊(山本亨)が、弱いものをいじめるやつらに戦いを挑む(無頼漢たちが一揆を企てる。中津留章仁作詞の「水野憎ス」の紙の銘板と唄が、ひときわ目を引く。時代背景と現代とを対比する工夫がほしい。

100人のオーディションで選抜された田川可奈美が、美しい花魁三千歳役で晴れのデビューを飾った。五島三四郎、外波山文明、谷宗和、さとうこうじら多数の適材適所の人材を集めた流山児★事務所の機動力には感服する。                                  中池袋公園と屋内劇空間の豊島公会堂の機構をたくみに使っている。(豊島公会堂、12月1日)。

 

テラヤマプロジェクトvol.2 『無頼漢-ならずもの-』  〜時代表現者たちの思いを結集 〜  

「公明新聞」2013年12月13日    演劇評論家:今野裕一  

東京・豊島区のテラヤマプロジェクト第2弾は、流山児祥演出の「無頼漢」。1970年、篠田正浩の映画「無頼漢」の脚本を寺山修司が担当した。その脚本を中津留章仁が戯曲に書き起こした。寺山修司の脚本「無頼漢」は、もともとは河竹黙阿弥の歌舞伎「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」を下敷きにしたものだ。流山児祥は、複層する経歴をもつ戯曲を、非常に分かりやすく見やすくストレートに、巧みに纏め上げて演出した。
 
「天衣紛上野初花」は、河内山宗俊が大名に一泡吹かせるという、お上に反発する庶民感覚が元になっている。背景には、酒落本、歌舞伎、花火が抑圧された水野忠邦の天保の改革がある。そして70年代、寺山修司たちのアングラはやはりマスコミに叩かれ、逆に体制に叛旗を翻したりしていた。そして今、いろいろな意味で表現が抑圧されている。
 
流山児祥は、その三つの時代の表現する人たちの思いをこの芝居に結集している。寺山修司は、演劇で社会革命が起こせると語っていた。人の心を変えられると思っていた。流山児祥は、その寺山修司の志をもってテラヤマプロジェクトを遂行している。
今回は、特にダイレクトにそのメッセージが伝えられている。
 
オーディション・ワークショップで集った40人近いシニアの役者たち、オーディションで抜擢された田川可奈美(三千歳)そして新人の五島三四郎(直次郎)。周囲を固めるのは、山本亨(河内山宗俊)、三ツ矢雄二(おくま)、外波山文明(鵙市)など広く集められた新旧の役者たち。舞台上でキャリアの異なる役者たちが見事に融合している。
 
気持ちや情熱を全面に出させて演じさせる流山児祥の演出ゆえだろう。庶民のパワーがひしひしと舞台から伝わってくる。

 

テラヤマプロジェクトvol.2 『無頼漢-ならずもの-』 〜因果応報、極彩色の時代絵巻。圧倒的な大立ち回り!〜 演劇評論家:山田勝仁(日刊ゲンダイ)

池袋・豊島公会堂で「テラヤマ☆歌舞伎 無頼漢(ならずもの)」。小公園での前口上(写真)から始まり、公会堂に移動しての本編。

「アベノミクス」ならぬ「ミズノニクシ(水野憎し)」の幟(のぼり)が翻る江戸。水野忠邦の「天保の改革」によって庶民は自由を圧殺されている。
 役者志願の直次郎(五島三四郎)は美しい花魁・三千歳(田川可奈美)に懸想するも、結婚を反対する母親・おくま(三ツ矢雄二)を川に捨てる。一方、悪漢・河内山宗俊(山本亨)は、上州屋の一人娘・浪路が松江出雲守にめかけ...になれと無理難題を押しつけられているのを聞き、浪路を取り返すことを請け合うが…。
 遠山の金さん(さとうこうじ)、水野越前守(塩野谷正幸)、浪人・金子市之丞(若杉浩二)、座頭の鵙市(外波山文明)、暗闇の丑松(甲津拓平)らひとくせもふたくせもある登場人物が織り成す因果応報、極彩色の時代絵巻。

 河竹黙阿弥の歌舞伎「天衣紛上野初花」を下敷きにした映画「無頼漢」をもとに、トラッシュマスターズの中津留章仁が脚色。いかにも中津留得意の粒立ちのある人間模様とスピーディーな展開。公会堂の通路を花道として多用した疾走感とケレン味たっぷりの演出は流山児祥。上妻宏光の音楽も素晴らしい。

 映画公開は1970年。70年安保の余燼くすぶる叛乱の時代。43年を経た今、かの時代よりに比べものにならなくらい社会の管理化が進み、さらに安倍内閣の反動政治の極みともいうべき「特定秘密保護法」が上程され、国民窒息の暗黒時代がすぐ目の前。「安倍ノ憎し」の怨嗟の声は巷に満ちてはいるが、60年安保、70年安保ほどの勢いはない。豊島公会堂に打ち上げられる「大花火」に映る寺山修司が幻視した大衆蜂起の叛乱の残像よ。アッという間の2時間5分。ラスト15分のくんずほぐれつの大立ち回りの痛快なこと。
時代劇はやっぱりチャンバラだ。役者では母親を演じた三ツ矢雄二が声といい色香といい圧倒的な存在感。  (11月24日)

 

テラヤマプロジェクトvol.2 『無頼漢-ならずもの-』  〜熱いものがこみ上げてくる舞台〜ALLABOUT 注目!の ミュージカル」 BY松島 まり乃(ミュージカルライター)

6月の舞台『アトミック☆ストーム』で、原発をミュージカルで真正面から取り上げた流山児 ★事務所の新作。今回は歌舞伎『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』をもとに寺山修司が70年の映画『無頼漢』のために書いた脚本を、さらに新進劇作家の中津留章仁がアレンジ。三味線プレーヤーの上妻宏光が、音楽を担当します。

『天衣〜』の舞台である幕末の不穏な空気、寺山が脚本を書いた当時の学生運動の残り香、そして再び「抑圧の時代」を迎えつつある“今”……。そのすべてを内包する、ダイナミックな“不服従の人間ドラマ”。

築61年のレトロな会場、豊島公会堂には提灯や幟が並び、ちょっとしたタイムスリップ気分。決して座り心地がいいとは言えず、舞台も通常の劇場より高く、首が疲れる……なんていうことは、ドラマに引き込まれるうち、どうでもよくなってきます。
大筋は歌舞伎版と同じで、悪事が露見した河内山の台詞では、演じる山本亨さんが歌舞伎とはまた違った「名調子」を聞かせます。その一方では、「権力」を代表する水野忠邦に、政治を行う側の「正義」を語らせ、民衆の「道理」と対立させている点に“今”ならではの説得力が。
また、寺山修司の作品にしばしば登場する「母子」「仲間外れ」モチーフが本作にも挿入され、独特の郷愁とアクの強さを添えます。上妻さんによる歌は数曲ながら、耳なじみがよく、今後ぜひ本格的ミュージカルを手掛けて欲しいところ。
抵抗の物語と言うとたいてい民衆が打ちのめされて終わりますが、今回は「芝居」というメディアに僅かな希望が残される結末。片岡直次郎役の五島三四郎さんを始め、出演者たちも溌剌として、熱いものがこみ上げてくる舞台です。


 

テラヤマプロジェクトvol.2 『無頼漢-ならずもの-』 〜役者の息遣いと熱気をそこここで感じる群像劇〜 BY 「芸能ニュースラウンジ 」

豊島区テラヤマプロジェクト第2弾 テラヤマ☆歌舞伎『無頼漢〜ならずもの〜』(演出:流山児祥)21(木)初日を迎えた。

 2013年に没後30年を迎える現代演劇の巨人・寺山修司作品を2012年〜14年の3年間、毎年11月、豊島公会堂において連続上演するというもの。第1弾の昨年は『地球☆空洞説』を上演。中池袋公園から劇が始まり、ラストには豊島公会堂上空に大気球を上げる異色ミュージカルを制作し、今回も演出に期待がかかる作品だ。

 今回は公会堂の目の前にある中池袋公園の殺陣シーンという劇場外から始まり、公会堂へなだれ込むという、劇場に限定しない、あらゆる場を劇場化する同劇団ならではの演出からスタートする。

 舞台は40人を超えるキャストの若いエネルギーにあふれる。息をつくひまもない展開もさることながら、舞台だけではなく、通路も舞台の一部として多用され、役者の息遣いと熱気をそこここで感じる群像劇。その勢いに合わせるかのように、直次郎の母・おくま役の三ツ矢雄二も体を張っており、スマキにされて担ぎ上げられてしまうということも。
 終盤の主人公らの斬り合いは見応えのある壮絶さ。その志を成し遂げようと奮闘する主人公らに観客も胸が熱くなるものが残るという仕上がり。


テラヤマプロジェクトvol.2 『無頼漢-ならずもの-』  優れて現在的な舞台〜 演劇評論家:江森盛夫 BY 「演劇袋」

「無頼漢 ならずもの」(原作:寺山修司、脚本:中津留章仁、音楽:上妻宏光、演出:流山児祥) −豊島区テラヤマプロジェクト第2弾寺山修司没30年記念認定事業。
大元は河竹黙阿弥の歌舞伎台本、それを映画化した寺山のシナリオを中津留章仁が舞台台本にした。第一弾「地球☆空洞説」と同じく公会堂前の中池袋公園で始まる・・。

水野忠邦の庶民の暮らしと文化を弾圧した天保の改革に抵抗する民衆を山本亨が演じる河内山宗俊、直次郎らの無頼漢を先頭にして戦い抜く・・。
波乱万丈、勧善懲悪、外道の醜悪、てんこ盛りの物語を上妻の音楽にのって流山児が50人近い男女入り乱れる役者群を率いて、舞台、劇場全体を使って展開する・・。
水野の悪政は、今の安倍の悪政を撃つインパクトを持った、優れて現在的な舞台だ・・。(11月26日)

 

テラヤマプロジェクトvol.2 『無頼漢-ならずもの-』 〜民の気持ちの分からぬご政道、金が敵の世の中を、意地と機転でひっくり返す〜 演劇評論家:今村修(朝日新聞)

昨夜は豊島区テラヤマプロジェクト第2弾 テラヤマ歌舞伎「無頼漢 ならずもの」(原作=寺山修司、脚本=中津留章仁、音楽=上妻宏光、演出=流山児祥)@豊島公会堂。50人近い出演者が舞台を、客席通路を所狭しと全力で駆け抜ける。池袋の闇の中からまつろわぬ魑魅魍魎たちが立ち現れ、うたかたの叛乱の祭りを繰り広げた。

原作は、歌舞伎の「天衣紛上野初花」(講談では「天保六花撰」)を下敷きにした、篠田正浩監督の映画「無頼漢(ぶらいかん)」の脚本。水野忠邦による天保の改革、相次ぐ風俗取り締まりで息を詰まらせた、直次郎(五島三四郎)、河内山宗俊(山本亨)、金子市之丞(若杉宏二)、暗闇の丑松(甲津拓平)ら、稀代の歌舞伎者たちが大江戸の空に解放の花火を打ち上げる。権力に対して想像力で立ち向かう寺山らしいピカレスクロマンだ。

流山児は2006年にも佃典彦脚色で「無頼漢」を舞台化・演出している(流山児★事務所「BU・RAI・KAN」)。この時の舞台は、しょせん徒花で終わった直次郎らの叛乱に、自己満足で終わっていった全共闘運動に対するポスト全共闘世代=佃の批判を読み取り、全共闘世代の流山児があえてそんな舞台を作ったことに感心した。関心はそっちにあった。

だが、時は流れて7年後。今回の上演では、主人公らの企みに対するシンパシー、切実さが格段に増した。このとんでもない政治状況の下、表現者として黙っては居られない。原作にもある劇中の「今が地獄」というセリフが強烈なリアリティーで耳に残る。バカ騒ぎ大いに結構。後先考えずに、状況に風穴を開けたい。花火を上げたい。走りたい。そんな切羽詰まった思いを、体で代弁してくれる、ステキにふざけた奴らがここには居た。我妻宏光の三味線がその熱を煽った。
心意気に激しく共感した。

家にあった「寺山修司シナリオ集」(映人社)に「無頼漢」が収められていたので、比べて読んでみた。
劇画的な社会派作品に定評のある中津留の脚色は、芝居者を前面に出し、表現と権力との対決の構図を鮮明にする。さらに、水野を追い詰めるスキャンダルや、権力と歌舞伎ものたちの間をつなぐ遠山(さとうこうじ)を登場させ、森田屋(栗原茂)を徹底した悪人に仕立てて、「経済」の代弁者とするなど、ストーリーの現代的なリアリティーを補強する。だが、時にそれが説明的に見えて、大江戸の空に炸裂する幻視の花火へとなだれ込んでいくはずのドラマのダイナミズムが滞る場面があるのが残念だ。

「特定秘密保護法案」は怒号の中衆院特別委を通過した。外交も、原発政策も、沖縄の基地問題も、国民の思いを公然と無視する政治がまかり通っている。
この池袋の熱気を今度こそ一発の徒花にせず、想像力を権力に向ける武器とするにはどうしたらいいのか、しかし、そんなことは可能なのか。そんな思いが頭の中をぐるぐる回り続けた。(敬称略) (11月27日)

 

テラヤマプロジェクトvol.2 『無頼漢-ならずもの-』 〜演劇の力で世直しを〜 小澤俊夫(プロデューサー・演出家)

「特定秘密保護法案」が衆議院を通過した昨日(11月26日)、池袋の豊島公会堂で流山児事務所公演「テラヤマ☆歌舞伎 無頼漢(ならずもの)」(原作・寺山修司、脚本・中津留章仁、音楽・上妻宏光、演出・流山児祥)を観た。
昨年の「地球☆空洞説」同様、芝居は中池袋公園で始まった。

江戸の町衆が集まり、「水野憎ス」(アベノミクスの捩りだろう)の筵旗を掲げ、幕政に対して不満を述べている。そこに追手がやってきて、逃げ惑う町衆たちに交じって観客たちも公会堂へと向かった。

時は天保年間。全国的な凶作により米の値段や物価が高騰し、百姓一揆や打ち壊しが各地で多発していた。そんな折、将軍コ川家慶は幕政改革の上意を伝え、老中・水野忠邦は幕府各所に綱紀粛清と奢侈禁止を命じた。改革は江戸町奉行・遠山景元により江戸市内にも布告され、芝居小屋の江戸郊外への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加え、歌舞伎役者の7代目市川団十郎などが江戸から追放された。
水野忠邦(塩野谷正幸)の圧政に、江戸庶民の不満は爆発寸前。役者を目指す遊び人の直次郎(五島三四郎)は、美しい花魁の三千歳(田川可奈美)を知る。直次郎と母親・おくま(三ツ矢雄二)の住む長屋は、スリやかっぱらい、めくらの集団・鵙市(外波山文明)、お市(伊藤弘子)、笛市(今村洋一)、葛市(イワヲ)等、魑魅魍魎が住む犯罪長屋。1年ぶりに帰ってきた丑松(甲津拓平)だが、女房子供は姿を消していた。芝居小屋の前で「水野体制批判」をして役人に追われた三文小僧(谷宗和)は茶坊主・河内山宗俊(山本亨)に救われる。

直次郎は花魁の三千歳(田川可奈美)と恋に堕ちるが、三千歳を直次郎と張り合う森田屋(栗原茂)は、御家人くずれの金子市之丞(若杉宏二)に直次郎殺しを依頼する。
母親・おくまの猛反対を受けた直次郎は、おくまを簀巻きにして大川に放り込む。森田屋に手籠めにされ、松江出羽守(上田和弘)に賄賂として差し出された三千歳だが、屋敷を脱出して大川に身を投じようとする。その時おくまが流れ着き、彼女を助け出す。
河内山宗俊は、上州屋(木下藤二郎)の一人娘・浪路(滝香織)が出羽守に妾になれと屋敷に軟禁されていることを知り、500両で浪路を取り戻す事を請け負う。河内山の命を掛けた大仕事を知り、直次郎も仲間に加わった。

松江家では相変わらず出羽守が浪路を追い回していたが、家老の北村大膳(後藤英樹)はこのご乱行が外に漏れるのを恐れ、浪路と近習頭・宮崎数馬(木暮拓矢)が不義の仲だとでっち上げた。そこへ河内山宗俊扮する御使僧が現われ、大芝居を打つ。
出雲守から浪路を奪い返したまでは良かったが、家老の大膳に見破られ、繰り広げられる壮絶な戦い。
チャンチャンバラバラ、見事な殺陣に息をのむ。死闘の果て、河内山は壮絶な最後を遂げる。終盤、お市と森田屋の間に出来た子が三千歳であり、眼が見えないので子育ても出来ず、やむなく娘を手放した事を知る。
直次郎は邪魔者おくまを今度は山に捨てようと家を出たが、夜空に大輪の花が咲くのを見た。それは黒船来襲を告げる大砲の音だった。(後略)

猥雑で、所狭しと駆け巡る役者たちのパワーに圧倒され、それぞれが持ち場を見せる劇作術に感心し、今に警鐘を鳴らすその内容に胸が熱くなる。演劇の力で世直しを!

 

テラヤマプロジェクトvol.2 『無頼漢-ならずもの-』  〜河原でやっていた頃の芝居=原点へのオマージュ〜 「CORICH 舞台芸術 」   BY うさぎライター

江戸後期、老中水野忠邦の過激な改革のせいで庶民の暮らしは窮屈になる一方だ。
歌舞伎は取り締まられ、花火も禁止、女どもは商売が出来なくなった。
遊び人の直次郎(五島三四郎)は、世の中を変える芝居がしたいと役者を志願する男。
美しい花魁の三千歳(田川可奈美)と恋に落ち、悪徳商人森田屋に身受けされそうな三千歳を守ろうとする。
三千歳は生き別れた母を探しており、人斬りになった兄を憂いていた。

一方、権力者水野(塩野谷正幸)の近くにいながら、体制に批判的で“不良”オヤジの茶坊主河内山宗俊(山本亨)は松江出雲守の妾にされそうな上州屋の一人娘を五百両で取り戻す事を請け合う。
お上に抗う歌舞伎者たちは河内山と共に出雲守の屋敷へ乗り込み、上州屋の娘と、やはり餌食にされようとしている三千歳を救うため死闘を繰り広げる。
そしてついに江戸の町に火が放たれ、禁じられていた五尺玉の花火が上がる。河内山は二人を救い出せるのか、三千歳の母親は、直次郎の恋の行方は…?

久しぶりに“暮れの12時間時代劇”を観たような気分。
時代劇の楽しさ満載でわくわくした。強請集り(ゆすりたかり)で名を馳せた河内山宗俊の台詞もケレン味たっぷりで心地よく悪い奴ながら庶民の味方をする男は山本亨さんにぴったり。
対する水野忠邦の端正なたたずまいは正統派時代劇風だ。
塩野谷さんの権力の頂点に君臨する侍ぶりが素晴らしい。
普通に脚立を担いで出てきた時は「電球でも取り換えるのか」と思ったがするする登ると仁王立ちで演説、侍の所作も美しく、鍛えられた動きにほれぼれした。

直次郎役の五島三四郎さん、直情型の遊び人を粋な江戸っ子らしく演じとても良かった。谷宗和さん、水野の不正を暴こうと一座に紛れて機会を狙う元武士の役で「花札伝綺」に続いて拝見したが、とても“無頼”の似合う役者さんだと思う。
現代の問題を論理的に追及しつつエンタメに展開するというのが中津留さんのスタイルだと思うが今回は逆だ。エンタメの中に社会問題を巧みに織り込んだ感じ。芝居がかった河内山の台詞など歌舞伎ベースでありながら台詞が柔軟で随所に現代的な笑いもあった。

時代劇ファンとしては、リアルでない歌舞伎っぽいチャンバラも様式やお約束も、猥雑さも楽しかった。
それに何と言ってもあのエネルギー、体制に反発し束縛を憎む精神が息づいている。
オープニングを野外で行うという、いわば「河原でやっていた頃の芝居」の
再現を宣言するような始まり方も、原点へのオマージュを感じさせる。
あー、やっぱり悪漢が魅力的だと面白い。


 


アトミック☆ストーム - The musical -    〜2013年の春から夏の舞台〜   野平昭和(演劇評論家》   雑誌「文藝軌道」 2013年10月号 
 

恐怖の中味なのに、口当りのいいタイトルだな、と妙に感心しながら、筆者が観たのは、記録によれば、一九九六年の「明石スタジオ」だということがわかったが、初演は一九九二年二八歳の佃典彦が別の題名で上演したものを、流山児祥演出で、1992年の横浜相鉄本多劇場から1999年まで四回上演したとのことだから、二昔も前のことになる。
チェルノブイリの原発事故が四分の一世紀を越える昔となり、その直後は、グーバレフの「石棺」も世界中で上演され、原発事故に対する恐怖と人類の未来に対する絶望が地球を覆っていたにもかかわらず、その恐怖を忘却の彼方に押しやって、一昨年の3・11まで、日本人はもちろん、全人類が、すべてを忘却した世界で、日常生活を営んでいたことを、改めて知って、憤然とするばかりだ。


 佃典彦はその事実にも、しっかり向かい合って、あらためて観客に突きつけたのが、今回の上演であり、奇しくも企画したのも同じ流山児祥だったことの意義は大きい。演出に29歳の中屋敷法仁を起用して、観客に突きつけたのも単なるリニューアルであることを免れていた。
 座・高円寺の三方に設置された客席から観る舞台に展開する舞台は、特別シュールで、奇を街ったものではなくて、この2年半の問、耳に肺胞が出来るほど、繰り返して論じられてきたテーマを、……原発、原爆、放射能、放射性廃棄物、人類文明の行方等を、あらためて場割りして、ある時はシュールに、またある時はシリアスに、見せてくれただけでなく、観客の意識を否応なしに引きずり込んで行くのに成功していた。


 第一部が小学校の二年生の集団で、玄海先生 (龍昇) を囲んで、原子力の平和利用のような大問題でも、放射能のような恐ろしい問題でも、簡単に話し合われて、言葉の上で次々に処理されて行ってしまう。
あたかも次々に現われては消えて行くテレビの画面のようでもある。この間にも、地震が起ったりしているのだ。
しかも、 この学校は地下にあるのだ。 続いて巨大な防波堤の上に並んでいる上条教授(塩野谷正幸)は原子力安全基準委員長で、部下達を前に巨大防波堤を誇って、日本中に張り巡らしたから安全だと叫ぶ足元から、巨大地震、巨大津波が襲って来て、部下達が扱われて 行く。 防波堤が開くと石原都知事(伊藤弘子) が怪しい衣装で現われ、意味不明の歌を歌う。
橋下、松井、平沼等、今、テレビ、新聞を騒がせてい る政界をウロチョロしている人物と同じ姓の連中が登場して、放射能除けのクリームを宣伝販売したりする。
東京中央電力と協力して福島沿岸に巨大メガゴジランド建設の話が出る。
原発百基日は東京に作る、と上条教授が言う。そこへ、ショウ (今村洋一)とリキ (五島三四郎)が二人で一人の姿で現われる。
腕は三本、足は四本、一つの体に頭は二つの畸形である。そこへ巨大な寝袋のようなものを担いで、東電の元社員の沢田(甲津拓平)が現われる。福島の貯蔵プールから使用済み核燃料棒を持ち出した、と言っているのだそうだ。
そして、津波で流された息子を待っている老婆の舟虫 (阿萬由美)が、巨大なキューリがテトラポットに引っ掛った、と叫ぶ。かなりハチャメチャな展開だが、テレビ新聞で誰でも知っている事実が背景にあるので、わかりやすい第一部なのだ。


 第二部は、がらりと変って月面の話になるが、それは人間が勝手に、月を核のゴミ処理場に決めてしまったからである。
昔から月には、かぐや (野口和彦)とウサギ、と決っているが、今では、いずれも核のゴミのせいか、怪物となり、特にウサギは人を襲って食べてしまう。核のゴミ運搬士で、ニッポン原燃下請け係長の田中(麻田キョウヤ) 同じくニッポン原燃下請け社員の服部(佐原由美)、孫請け会社のバイト加藤(山下直哉)、同じく鈴木(富沢力)、ジェームス(三木崇史)、カトリーヌ (菓丸あすか) は、順次、ウサギに襲われる。オーリガ(平野直美)、マーシャ (山崎薫)、イリーナ(大浦千住)は核のゴミ月面管理センター職員で、チェホフの劇の人物と同じ名前の女で姉妹的存在で、男の職員と恋愛関係になつたりする者も出てくる。


 第三部は、しめくくりのシーンが重なるが、進行につれて細部が明らかになつてくる。地下陽明小学校では沢田が倒れている。
沢田は起き上がって、陽明小学校は自分の母校だと言う。昔の場所にもはや陽明小学校はない、と沢田は玄海先生に言い、日本には九九基もの原発があると言う。
上条に仇を討とうと寝袋を抱えてうろつく沢田を、ジロウ、ジロウと自分の息子の名前を呼びながら、舟虫は沢田に近ずく。
傍にいた東山(武田智弘)が発砲して殺してしまう。石原は胸の中の小型原子炉が破裂すると、上条に介抱されながら、熱い熱い、と言って死んでしまう。


シェイクスピア劇の幕切れに似た大団円だが、破滅と死の原因が原発だというところが、大きな違いなのである。
 

アトミック☆ストーム - The musical -    平早  勉(写真家・ジャーナリスト)            シティマガジン「街から」2013年8月号 

 怖い芝居であった。あまりにもドキュメントタッチでリアル。劇場の外に出ると、青空が眩しく新鮮で愛おしくさえ思えた。僕は水の惑星、地球星の恩恵に感謝し、思い切り深呼吸した。

原発がアジアや世界中で稼働し、地上では殆ど人が住めなくなった未来の地球。SFストーリーが超リアル。

 日本列島には99基の原発が稼働中。百基目の原発設置を計画している時の権力者に刃向かうのは、使用済核燃料棒を担いだ流れ者、「元東京中央電力社員沢田」役の甲津拓平。
原発推進派に一失報うべき、その思い詰めた眼光鋭さに思わず吸い込まれる

 原発予定地に住む老婆、「船虫」(阿萬由美)も白髪振り乱し鬼気迫る。
鉄砲を手にして抵抗する様はさながら、あの三里塚闘争で自分の敷地の柵に、自身の身体をチェーンで巻いて空港用地収容に抵抗した農民大木よね婆さんを想い出させた。 船虫婆さんと共に闘うは、シャム双生児のショウとリキ。
ベトナム戦争の枯れ葉剤の影響で生まれたベト・ドク兄弟を取材撮影し写真週刊誌に報道したことのある当方にとって、あまりにも現実と虚構が綯い交ぜになった、流山児祥の企画である。

一言付け加えるなら、シャム双生児の多くは死産となりその一部は戦争犯罪の証拠として、ホーチミン市(旧サイゴン) の博物館でホルマリン漬け保管されている。当方は撮影済みだが未発表である。

 原発推進派の「石原東京都知事」役の伊藤弘子がまた素晴らしい。真紅のドレスで唄う様は真に美の女帝。長期独裁政権のマルコス王朝イメルダ夫人を彷彿させる。推進派の「原子力安全基準委員長上条教授」役の塩野谷正幸と息のあったヒール役を演じる。
 三方が客席の舞台は、生演奏をバック に美しい歌声と見事な踊りのアンサンブル。

『アトミック・ストーム』は流山児ミュージカルの真骨頂であった。 東京キッドブラザーズを率いた東由多加(元、寺山修司の天井桟敷に在籍)は七〇年代の公演直後に、「『ヘアー』を乗 り越えるミュージカルは盲かなか)創れない」と、自嘲気味に僕に語ったことがある。
『ヘアー』はベトナム反戦を訴えたミュージカル。流山児祥が世界中の若者を熱狂させた『ヘアー』を超える社会派ミュージカル作品創出に、果敢に挑戦したのが本作品なのかも知れない。

 それにしても、遥か一万年前の縄文時代より、麗しき山河を誇る日本列島に、自然摂理に反する原発が稼働し、果たして日本の子僕たちの未来に明るい希望は抱けるのだろうか?地球星は大丈夫だろうか!?

 

アトミック☆ストーム - The musical -       杉山弘(読売新聞)×河野孝(日本経済新聞)        演劇雑誌「悲劇喜劇」13年9月号

杉山:佃典彦さんが1992年年、28歳の時にストレートプレイとして発表した戯曲をミュージカルに書き換え、柿喰う客の中屋敷法仁さんが演出しました。
音楽は斎藤ネコさん、振付は北村真実さん。物語は東日本大震災から数十年後と思われる日本の小さな港町です。

深く掘り進めたとみられる地下壕には、2011年の被災から時間が止まったかのように、年齢も重ねないで暮らす小学校教師:玄海先生(龍昇)と9人の小学二年生がいる。
一方、原子力安全委貞長の上条教授(塩野谷正幸)の采配のもと、日本で百基目となる原子力発電所の建設工事が始まっている。
またオーリガ(平野直美)、マーシャ(山崎薫)、イリーナ(大浦千住)の三人姉妹が職員として働く月面管理センターでは、増え続ける使用済み核燃料を廃棄するための作業が進められている。
大量の放射能を浴びた月のうさぎは、『竹取物語』のかぐや姫(野口和彦)の姿となり、管理センター職員を次々と殺す化け物になっていました。
電力会社の研究室には体がくっついてしまっている双生児が軟禁され、オンボロの貨物船に住み着いた老女船虫(阿萬由美)は、津波で流された息子の帰りを待ち、息子が育てていたきゆうりと思い込んで核燃料棒を手にしてしまう。

地上では暮らせをくなって海上や地下壕、月面へと進出していった人類の姿から、悲惨な事故に遭いながら原発に依拠して暮らしている人類を措いた近未来のダークファンタジーです。

正方形の舞台の周りに、掘割のような通路を設け、舞台面から通路へ、通路から舞台面へと、39人の出演者がダイナミックに動きまわる。客席は舞台を囲むように三方向に設置されていました。

反原発をテーマに、喉元過ぎれば熱さを忘れる日本人に向けて、怒りと悲しみをパワフルに舞台に乗せています。
混沌とした世界を走り抜けるエネルギーと姿は、アングラ劇の集大成のような音楽劇に映りました。

河野:現代の政治をパロディ化した部分や、「三人姉妹」から持ってきたものなどがごちゃまぜになって、現状批判的なダイナミズムを作っていました。

少しハチャメチャ感はあるんだけど、それがブラックなアイロニーとして効いていたんじゃないでしょうか。
オリジナルミュージカルとしては音楽のメロディが良かった。
そして一風変わった振付けが、台本とうまく合っていました。
ただ、いろんなものが入りすぎて分かりにくくなっている面もありました。

今の政治家をモロに舞台に乗せて笑い飛ばすような毒もあり、流山児★事務所らしい企画で、これがアングラ的な香りとして残ってます。
これからも社会に刺激を与えるものを作って欲しいと思います。

 

アトミック☆ストーム - The musical -       今村修(朝日新聞) 

そりゃぁもう、大騒ぎ。悲惨すぎて笑ってしまうしかない日本の未来を、グロテスクに描き出し掟無用の暴走ミュージカルだ。
映画「太陽を盗んだ男」に触発された佃によって、1992年に流山児★事務所に書き下ろされ、その後「もんじゅ」事故など現実の取り入れながら99年まで、4回にわたって改訂上演された。

今回の舞台は、3.11が遠い記憶となった日本。
年齢不詳の石原都知事(伊藤弘子)、マッドサイエンティスト・上条原子力安全基準委員長(塩野谷正幸)の主導で原発は次々と増設され、もうじき100基目が完成しようとしている。
そんなある日、上条の下に元電力会社社員・沢田(甲津拓平)からリベンジ予告が届く。永遠の小学2年生たちが避難を続ける地下、放射能のゴミ捨て場を化した月とも往還しながらドラマは、賑やかに絶望的にカタストロフへとなだれ込んでいく。


ミュージカルとしての構成が整っていることに驚く。小劇場系のとりわけ流山児★事務所系の音楽劇では、がなり声のために歌詞が聞き取れないことが多かったが、今回は、どのナンバーも実にクリア−に聞き取れる。歌唱力重視のキャスティングなのか、歌のレベルも高い。40人近い出演者を中屋敷は鮮やかに出入りさせ、テンポ良く場面を進めていく。空間の垂直軸を活かした演出が面白い。

アジプロ、罰当たり。いずれもギリギリの線をついて、怒りのドラマは進んでいくが、強引にミュージカルに仕立てたせいか、ストーリーの綻びや飛躍のしすぎも少なくない。特に、どらまの牽引軸となる沢田と上条の確執はもう少し書き込んで欲しい。またシュールとしかいいようのないクライマックスに起きる東京都庁の破局も、観劇後戯曲を読んでようやく理解できた。
とはいえ、この舞台にこもる熱気は貴重だ。

国会を6万人もの国民が包囲しても、原発問題が来たる参院選挙の争点にすらならない。それを良いことに政権与党は「再稼働」「新設」と言いたい放題。電力会社もタカをくくって、電力料金値上げで国民を恫喝しつつ、徒に時間を稼ぐ。

そんな現状に風穴を開けるには、こんな無鉄砲な熱こそが必要と思うからだ。(敬称略)

 

アトミック☆ストーム - The musical -        山田勝仁(日刊ゲンダイ)

 時は20××年。舞台は3・11から数十年後の日本。あれほどの甚大な被害と犠牲者を出しながら、何事もなかったかのように「地上」では強権的な政府が人々を支配している。そして、いまだに収束の見通しも立たず、廃炉工程の途上にある原発を見てみぬフリする国民は99基の原発を造り続けている。今また「記念」すべき100基目の原発計画が発表され、建設予定地は「お台場」に。一方、地下では原発震災を逃れ、地上生活を諦めた小学生と引率の教師・玄海先生(龍昇)が今も暗闇の中で避難生活をおくっている。小学生たちはすでに中年世代のはずだが、「永遠の小学生」を生き続けている。もうひとつの舞台は「月」。月面のクレーターに地球で処理できない放射性廃棄物を投棄するためのプロジェクトが進行し、オーリガ、マーシャ、イリーナの三人姉妹がその任に当たっている。そしてもう1人。「かぐや」と名乗る異形の者(野口和彦)が……。

 この三箇所を往還しながら、ラストの破局へと物語は突き進む。

 地上で権力をふるうのは原子力安全基準委員長の上条教授(塩野谷正幸)と都政を牛耳る石原都知事(伊藤弘子)。彼らを執拗に狙うのは元原発ジプシーの沢田(甲津拓平)。そして打ち上げられた廃船を棲み家にし、海から還らぬ息子を待ち続ける母親・舟虫(阿萬由美)。流山児ミュージカルも回を重ね、ありがちな、なんちゃってミュージカルとは一味違う「正統派」に進化。生バンド(時々演技もして笑いを取っていた)の演奏と役者の歌唱もきっちり仕上がっている。特に舟虫役の阿萬は坂井香奈美のケガ降板による急な代役にも関わらずまるで当て書きされたかのような好演。歌唱力も抜群。

 三方をフェンスで囲んだ舞台で展開する物語は演出の中屋敷得意のスピード感あふれる演出と「軽さ」が相まって、物語のダークさをほどよく中和する。初演作は沢田研二の「太陽を盗んだ男」にインスパイアされたものだったが、今回も「太陽」を抱えた男・沢田の明るい虚無がラストシーンに炸裂する。

 流山児祥は、なんとおそらく役者人生で初めて(?)の着ぐるみで登場。しかも、それが史上最悪のとある物質なのだから、その迫力たるやケタ違い。さらに、伊藤弘子に至っては都知事役といいながら、実態は扇子で絶えず風を送らなければ「大魔神」に変身してしまうという、これまたとある「原子力の中枢部位」なのだ。野口「やぐや」和彦も月のとある伝説の生き物が放射能でミュータント化したものというグロテスク 、かつ哀愁を帯びた設定。

 荒唐無稽といいながら、まさに今の異常としか思えない「原子力帝国化」の一途をたどるニッポンの未来を予見するかのような舞台。 笑いと戦慄と絶望とかすかな希望の2時間。

 

アトミック☆ストーム - The musical -             塩崎淳一郎(読売新聞) 読売新聞 2013年6月5日 

 東日本大震災からわずか2年余りというのに、夜も光があふれる中で暮らしている。記憶は日々薄らいでいく。政治経済の視点で原発事故を考える言説は大事だが、演劇という市井の文化活動を通して地に足を付けて問い直す努力もまた、「考える葦である」人間の義務だろう。

 佃典彦が1992年に書いた戯曲を今回、大震災を受けてミュージカル色を前面に出して改稿。若手の中屋敷法仁が演出を行い、今という時代を切り取る作品として提示する。反原発の主張は鮮明だが、整然とした踊りや歌というエンターテインメント性の追求は怠らない。

 舞台は三つの世界で成り立つ。原発推進の政治の現場、津波から逃れたまま時間が停止した小学生の集団、地球の動きを見つめる月面世界。震災から数十年を経ても帰らぬ息子を待つ老いた母、廃炉現場の欺瞞を告発する作業員の男が絡む。

 課題は3点。時空間の自在な移動が物語の重層性を与える一方、複雑に入り組んですんなり流れに乗れなもどかしさがある。また、約40人の俳優による群像劇の活力を感じつつも登場人物が記号的に映る。そして主義主張を鮮明にする意志が強すぎて洗練さに欠けて、完成度に不満が残り、消化不良の気味がある。

 だが、原子力専門家をユーモラスに演じる塩野谷正幸、息子を思う歌で聴かせる老女役の阿萬由美ら個性ある俳優の存在感は魅力的で、斎藤ネコの音楽、北村真実の振り付け、音楽の生演奏と、裏方の仕事は水準が高い。そこに可能性は感じられるので、練り直しての再演を望みたい。

 

アトミック☆ストーム - The musical -           演劇評論家:江森盛夫  BY「演劇袋」

  佃典彦が20代でチェルノブイリの原発事故の後に書き、流山児★事務所が上演されたものを、今回の福島の原発事故を受けて全面改稿した作品だ。 客は鉄柵で囲まれた舞台を三方から観る

 開幕、事故で行方の知れない息子への老女の絶唱、多数の登場人物の区分は、事故のとき地下に潜って奇跡的に生き残った2年三組が暮らす「地下小学校の人々」、活断層が何本あろうがびくともしない最高に強靭化した国土を謳い安全神話を復活させ、原子力ルネッサンスを謳歌する学者(塩野谷正幸)と女性東京都知事:石原ウラン(伊藤弘子)が先頭の「推進派」、放射能で二体繋がってしまった男二人と、それを操る男の「流れ者」、老女の「ボロ船の住人」、いまや高レベル放射性廃棄物、核のゴミを捨てる場所はなんと月!
 
 その「核のゴミ運転士」、「核のゴミ月面管理センター」このセンターのメンバーはオーリガ、マーシャ、イリーナの「三人姉妹」なのも意表を衝く・・・・、その月には性別不明の恐ろしげなモノローグを発する怪物がいる「月に住むモノ」・・・、それと流山児祥が扮する”使用済み核燃料棒”が、まだ使用中だが彼の半生を象徴するような異様な存在感を放射して・・・。

 それら「区分」の人物群を、佃のテキスト、斉藤の音楽、振付の北村の三位一体を溶融させて、中屋敷が見事なダイナミテイでシーン、シーンを流麗に拮抗させミュージカルとして生動させ、日本の滅亡の前夜を描き出した・・・・。

 ラストのイリーナの「やがて時がくれば・・・どうしてこんなことがあるのか・・・これ以上、何のために繁栄を求めるのか、みんな判るのよ・・働かなきゃ、働かなきゃって・・何のために」という台詞が胸にひびく舞台だった・・・・。

 だが、ダ−クファンタジーに塗りこまれた舞台ではない、そこはサブカルの名手:中屋敷法仁は、ミュージカルの展開そのものの面白さで、生きることの喜びと希望を充分、感じさせたのだ。

 

 アトミック☆ストーム - The musical           演劇ジャーナリスト:高野しのぶ by「しのぶの演劇レビュー」

 東日本大震災、東電福島第一原発事故から数十年後の日本には、100基目の原発が建とうとしていた…。近未来を舞台に、いわゆる原発推進派と反対派の対立という“今”の問題を皮肉たっぷりに風刺します。政治家と電力会社社員、マスコミ、津波の被害者とその遺族、原発作業員、放射性廃棄物処理係など、あらゆる立場の人々の声を、威勢よく踊り歌って届ける社会派ミュージカルでした。

 辛辣な表現や心の傷に直接触れるようなセリフもありますが、フィクションの力で生々しい現実から大いに飛躍していくのが痛快です。そして、その飛距離がとても、とても長い。たとえば舞台が地底世界や宇宙に輝く月へと移り、おとぎ話や古典戯曲の人物が登場します。複数の場所での出来事が1つの時に混ざり合うカオティックな場面は、中屋敷さんの構成で生まれたようです。

 高レベル放射性廃棄物は、10万年という単位で放射線を放出し続けます。その殺傷能力の寿命は、人間の人生と比べれば「永遠」と呼んでもいい長さです。「永遠」というフィクションが、ノンフィクションのごとく組み入れられているのが、今、私たちが生きている現実社会なんですよね。『アトミック☆ストーム』は奇想天外なアイデアを含むフィクションの中に、実在の人物や歴史的事実などの明らかなノンフィクションを混ぜ込んでいます。現実と虚構が背中あわせに鏡映するようでした。

 津波に流された息子を、母親は何十年もボロ船で待ち続けます。震災で日本は滅びたと信じて地下にもぐった小学2年生たちは、永遠に10歳のまま。『三人姉妹』のオーリャ、マーシャ、イリーナは月で放射性廃棄物の管理をしています。「地球に帰りたい」と切望しながら。大量の放射線をあびた月の兎は『竹取物語』のかぐや姫の姿の化け物になり、触れた者を瞬間的に殺してしまいます。東京で生まれた双生児はベトちゃんドクちゃんのように体がくっついていて、電力会社の研究室に軟禁されていました。原発作業員は、東電福島第一原発から取りだされた使用済み燃料棒を武器に、テロを企てます。

 ボロ船を占拠する母親が見つけた「使用済み燃料棒」が、劇団主宰者の流山児祥さんだったのには驚きました。流山児さんという演劇人に「永遠」と「猛毒性」を象徴する燃料棒役を演じさせることで、何があっても人間は生きていかなければいけないこと、人間が演劇を続ける限り演劇は永遠であること、そして流山児さんは死ぬまで今の生き方を貫いていくだろうことを、示したのではないかと考えました。

 

アトミック☆ストーム - The musical -            演劇◎定点カメラ   ねこ

92年初演、改訂再演を続けてきた舞台最新。 舞台。巨大施設内部。四隅と中央が隆起したコンクリートの島舞台。客席との隙間 からわらわらと俳優が沸き上がり。正面に巨大なダクト2本、脇に燃料集合体っぽい オブジェ。背面2Fにバンド常駐。

 お話。3ステージ併走、絶対安全という原発の建設を推進する国家当局、大津波から 地下に逃れたままで時を止めた小学生達、核のゴミ処理場がある月面施設と人類を 見守る一族。これに震災後行方不明の息子を待つ老婆と、電力会社を告発する 作業員が絡み、重層する。
 混とんに現実、風刺とユーモアに真情を映す。独裁的な都知事が原発のメタファーで あったりと強烈な反骨・反原発姿勢がキャラ毎反映。進歩は科学でなく、人の心へと 願うメッセージを忍ばせつつ、歌とダンスは盛りだくさんでエンタメの志はきちんと貫き。ニヤニヤ笑いながら、体ワクワクと楽しむねこ。

 

アトミック☆ストーム - The musical -         CORICH舞台芸術劇評  TETORAPACK

  チェルノブイリ原発事故後に佃典彦が書いた初演脚本を、東日本大震災を受けて全面改稿し、中屋敷法仁の演出で送る流山児カンパニーのパワフルミュージカル。「原発」を強く意識させられながらも、重々しくなく、社会の愚かさや人間の強さ、弱さなどを、いかにも流山児カンパニー風味で楽しめた。

  中央に仕立てられた舞台を3方向から取り囲む客席配置。その舞台を縦横無尽に出演陣が駆け抜け、踊る躍動感たっぷりの舞台。なんか、座・高円寺こけら落とし公演の流山児★事務所による「ユーリンタウン」を思い出してしまった。
 あのときも躍動感が凄かったが、それともう一つ、女優陣がセクシーで魅惑的だったが、それは今回も同じで、サービス精神も行き届いていた感じ。

 斎藤ネコによる音楽も大きな魅力だった。歌詞も分かりやすくて、聞き取りやすいし、一緒にハミングしたくなっちゃう感じ。 流山児★事務所のベテラン・伊藤弘子のぶっ飛んだ石原都知事ぶりも面白かった。2011年の再演「ユーリンタウン」で素晴らしい歌声を聴かせてくれた今村洋一君が流れ者役で出演してが、彼の歌声をもっと聴きたかった。 そんな印象を感じた本作だが、原発のことについては、観客もそれぞれ思いを巡らせることができた作品だったと思う。

 

アトミック☆ストーム - The musical -           田中伸子(ジャパンン・タイムス) BY「芝居漬け」

3/11の震災に関わる戯曲のお芝居を観た。「アトミック・ストーム」は流山児事務所がスマッシュヒット舞台「ユーリンタウン」に次いで座・高円寺で上演する大所帯ミュージカル。

チェルノブイリ原発事故を受けて当時28歳の佃典彦が92年に書いた戯曲を改訂を重ね、さらに今回、3/11を経た2013年バージョンへとアップデイトした作品。

流山児事務所の人脈を総動員した年齢層に幅のあるキャストで、さらには若手きっての多忙演劇人、柿喰う客主宰の中屋敷法仁が演出を担当し、御大流山児氏もまさに「核」となる役で顔をみせてのにぎやかなミュージカル舞台。


アトミック☆ストーム - The musical -           ALLABOUT [注目のミュージカルレビュー]  松島 まり乃

「ミュージカルってこういうもの」。そんな既成概念を打ち破る作品との出会いは、いつも心浮き立つものです。これまでも「猫しか登場しない、筋らしい筋のない」『キャッツ』や「歌のない」『コンタクト』など、様々な作品が人々の常識に挑み、ミュージカルの可能性を広げてきました。今回登場した流山児★事務所の『アトミック☆ストーム』は、これまでに無いテーマという点で画期的。おそらくミュージカル史上初の、「原発」を真正面から扱った作品です。
果たして、本作はミュージカルの新たな地平を拓くのでしょうか?

【奇想天外なキャラクターたちが混沌と交り合う】

 暗闇の中で響くピアノの低音。それが大きくなるにつれ、髪振り乱した女性が現れ、主題歌『アトミック・ストーム』を歌い始めます。「嵐が来るぞぉ……怒りを込めた拳をあげろ……」。
こぶしを効かせ、びんびんと響く民謡風の発声(演じる阿萬由美)。日本製ミュージカルならではの音楽的な心地よさに浸っている間もなく、舞台には大勢の人々が登場し、嵐の訪れを暗示するかのように混沌と交りあい、散っていきます。

 不穏な幕開けが過ぎると、そこには体操着姿の小学生と教師の姿が。でも、何かがおかしい。子供たちの無邪気な台詞とは裏腹に、姿かたちはどう見ても立派な大人です。実は彼らは3.11以来数十年間、放射能汚染を恐れて地下で生活。外界にさらされていないため、姿は大人でも内面は素直な子供のままなのです。そんな彼らと先生のやりとりの後、場面は「原子力安全基準委員会」や政治家たちの世界へ。

 そう、本作は「3.11から数十年後の世界」が舞台のファンタジーなのです。
 ファンタジーだからとばかりに、出てくる人々は誰も彼も破天荒。安全基準委員長はどこかの国の独裁者のように強引かつ滑稽だし、都知事ときたら、歌手でヒップホップブランドのディレクターでもあるという設定。かつて津波に襲われた地方では、銃を片手に生き別れの息子を待つ老女と、ある復讐に燃える男の運命が交錯します。

 さらに月面上の核廃棄物管理センターでは、チェーホフの『三人姉妹』をパロディ化した三姉妹はじめ、各国から来た人々が脳天気に廃棄作業に励んでいる……。地下と地上と月、それぞれの世界で人々が歌い踊るうち、月ではある異変が。物語は一気に、ホラーじみた展開を始めます。

【人気戯曲をミュージカル化した理由】

 誇張だらけの物語ではありますが、不気味なのは、それが完全に「奇想天外」だとは言い切れない点。その「ありえない」結末も、日々のニュースの断片を繋ぎ合わせれば、「数十年後にはひょっとしたら?」と思えなくもありません。
 というのも、本作のインスピレーションは86年のチェルノブイリ原発事故。作者の佃典彦さんは21年前、この事故に触発されて同名戯曲を書いたのだそうです。今回のミュージカル版は「状況を俯瞰しようと」これに地下と月のシーンを加筆したものですが、小学生による幕切れの台詞などは、最初からあったのでは?と思われるくらい、びしっと決まっています。(中略)
 
 原発がテーマ、というとその重さにひるんでしまいがちですが、舞台はあくまでからりと明るく、エネルギッシュなエンターテインメント。蛍光色があしらわれた舞台衣装もポップだし、出演者も若手が大半です。日本のミュージカル界に現れた、異色の社会派ミュージカル。もしかして、エイズを扱った『RENT』のような名作に大化けするかも?などと期待しつつ。

 アトミック☆ストーム - The musical -            毎日新聞 2013年6月13日 

 原発建設をめぐる人々の葛藤を描いたミュージカル「アトミック☆ストーム」が杉並区高円寺北2の「座・高円寺」で上演されている。 

劇作家の佃典彦さん(49)が、原発のある町を舞台にして1992年に書き下ろした同名の作品を下敷きに、つくり変えた。 「今度の物語は、原発事故の『その後』に視点を当てた」と企画した俳優、演出家の流山児祥(りゅうざんじしょう)さん(65)は説明する。海岸線には原発が建ち並び、核のごみも増え続ける。「そんな近未来の姿をミュージカルで提示し、より多くの人に原発問題を考えてもらうきっかけをつくろうと思った」と話す。

 


義賊☆鼠小僧次郎吉            今村修 (朝日新聞) 

「傾奇(かぶき)」の心意気が、ごろんと、裸で転がっているようだった。
河竹黙阿弥の「鼠小紋東君新形」を西沢栄治が大胆にカット。流山児祥が、荒削りで遊び心まみれのパワフルな舞台に仕立てた。

心優しい幸蔵(上田和弘)が人助けと思ってしでかした盗みが、綾なす糸の因果に絡め取られて縁の人々を次々に難儀に陥れていく。腹をくくった幸蔵の自首で、もつれた事件の糸はほぐれ、虎口逃れた幸蔵は「義賊」として生きることを誓う。

 歌、踊り、チャンバラ、人形劇……と文字通り何でもあり。ハイテンション、テンパリ状態で疾走した末の、救いのある結末に爽快感が漂う。

長大な物語を2時間弱で見せるのだから、ストーリーはほとんどダイジェストだし、黙阿弥の言葉をもっと大事に、聞かせて欲しい、等々注文したいところも少なくない。だが、1人最高4役で江戸のドラマを走りきる12人の役者たちの汗と激しい息づかい、黙阿弥ならではの強引な色と悪の因果模様、揚げ幕と花道まで作り、中華料理店地下の小さな空間を江戸の悪場所に変えてしまったスタッフの過剰な情熱の前には、それも霞んでしまう。

無頼と誠実をまとった上田和弘、あくの強さが魅力の甲津拓平、艶やかな神在ひろみ、変幻自在の佐藤華子ら、役者陣も健闘。これからに期待を感じさせる新人、五島三四郎、阿萬由美との出会いも収穫だった。 洗練などくそ食らえとばかり、混沌とパッションでひた走る、この黙阿弥。

何より、登場人物が誰一人立派でないのが良い。これで、黙阿弥の言葉を遊べるようになれば、もっともっと傾いた舞台になることだろう。「それにしても流山児★事務所にはピカレスク(悪漢)、それもチンピラの物語がよく似合う」と妙に感心した。

義賊☆鼠小僧次郎吉           山田勝仁 (日刊ゲンダイ) 

 安政の大地震から2年後に上演されたという江戸民衆のヒーローの虚実皮膜のドラマ。そのまま上演すれば8時間に及ぶという黙阿弥の大作を西沢栄治が大胆にカット。流山児祥の演出で1時間45分の濃密なドラマに仕上げた。

盗人・月の輪のお熊に育てられた捨て子の与吉は後に稲葉幸蔵と名を改め、豪商から金銭を盗み貧者に分け与える義賊に。 ある日、悪人に金を盗まれ悲嘆にくれる刀屋新助と愛人おもとの難儀を救うため、稲毛の屋敷から百両盗むが辻番・与惣兵衛に見とがめられる。そこで与惣兵衛こそ実の父であることに気づくのだが……。

 「歌舞伎への異常な愛情 与吉、あるいは稲葉幸蔵はいかにして、ケチな盗人から足を洗い、豪商相手の義賊・鼠小僧となったか」といったところ。 狭いスペース早稲田の空間を縦横無尽に活用し、花道までしつらえた歌入り歌舞伎。男はより男くさく、女はより女っぽく。上田和弘、イワヲ、谷宗和、甲津拓平、柏倉太郎、阿萬由美、山下直哉、山丸莉菜、そして流山児祥。ゲストの神在ひろみの艶っぽさ、佐藤華子の可憐さ。新進の五島三四郎に次代の流山児★事務所を背負うスターの予感。

一人数役の早変わり、スピーディーな展開のジェットコースター歌舞伎。

義賊☆鼠小僧次郎吉             演劇評論家:江森盛夫  BY「演劇袋」

  原作は膨大で全五幕、本読みだけで2日かかったそうだ。その河竹黙阿弥の原作を、椿組の花園神社野外公演の「椿版・天保十二年のシェイクスピア」を巧みに脚色した西沢栄治が、原文そのままで、2時間弱の四幕ものにしたカット版に見事に仕上げた。それに、流山児のオハコの、原作では浄瑠璃だが、それを今風の歌に仕立て直して、「歌入り流山児レビュー」に構成した。その歌を作曲したのは、劇団員の諏訪創で、なかなか芝居にマッチした素敵な歌だった。流山児祥自身も役者で医者の役で出て、売っている薬が、「ミュージカル湯(とう)」というドラッグで、その薬を飲むと、たちまち唄い出すという妙薬で、珍趣向の面白さ、お茶にまぜて呑まされて唄いだす人物たちが続出。

若手、中堅の劇団員たちは、歌舞伎脚本を演じるなんて初めてで、まあ無手勝流のランボー歌舞伎だが、中堅のイワヲや甲津拓平が中心にがんばって、初々しい、一気呵成のスピーデイな“黙阿弥 没後百二十年 祝祭歌舞伎”が、賑々しく出来あがった。狭いスペースをちゃんとした「歌舞伎舞台」にしたてての上演。

義賊☆鼠小僧次郎吉            演劇評論家:柾木博行 (シアターアーツ編集長)

 流山児★事務所の『義賊★鼠小僧次郎吉』、何しろ黙阿弥の作品を2時間でやるので、多少駆け足になってしまうところはあるが、本や演出よりも役者たちがイキイキと芝居していることが楽しい。

『イロシマ』でも目を奪われた佐藤華子にまたも注目。男の子から傾城までどれも自分のものにしていて素晴らしい。

 

義賊☆鼠小僧次郎吉            田中伸子 (ジャパンタイムス) BY「芝居漬け」

 全編を上演したら8時間超えるという黙阿弥の歌舞伎台本を2時間弱にギュぎゅっと凝縮。

時間の都合でのすっ飛ばしについて、つっこませる隙を与えないほどのエンタメ(歌、殺陣、群舞、そしてキッチュな人形劇(!)と歌舞伎テイストの花道使いに早変わり)演出で観客のアドレナリンを刺激する。前回の「地球☆空洞説」同様、観客みんなに劇を観に行く楽しみをしっかりと与えてくれる、客引きの文句ではないが「見て絶対に損はない」お芝居。

流山児事務所ならではの良い意味でデコボコ(役者のコマが豊富だから出来ること)のキャスティングも魅力。

元気で弾けている女性陣とシブい男性陣ー主役の次郎吉役、上田和弘氏の誠実なキャラがぴったりーのコントラストもなんとも今風でグッド!

  
義賊☆鼠小僧次郎吉          林英樹 (演出家)

  今回の舞台は「画期」的な舞台だと思った。何が「画期」か、を書きだすと、かなり長くなるので、改めてその「画期」の意味を書きたいが、一言だけ添えると、これは現代化が不可能と思えた歌舞伎を見事に現在の演劇として復活し、かつ誰が観ても楽しめるだけでなく、歌舞伎の起源からその根源にある民衆のヒーローとしての「傾き者(反権力、反体制の象徴)の発見」いうその原点を鮮明に表出させた舞台である、ということだ。

 江戸歌舞伎、明治の演劇改良とその挫折を経て古典化した「近代歌舞伎」の中に埋没したその「傾き者」の復権、まさに「画期」を示す舞台と言っていいだろう。小生は学生時代に武智鉄二氏に薫陶を受ける機会があったが、氏も能や狂言は現代劇化されているが歌舞伎だけは不可能、と言っておられた。

が、その説を見事に覆した舞台であった。ここまでに来る長いプロセスがあり、今の舞台がある。 大歌舞伎とは違い、まさに「99%」の人々のための劇である。


義賊☆鼠小僧次郎吉              小畑精和 (明治大学教授)

 河竹黙阿弥没後120年祝祭歌舞伎とうたうだけあって、十分楽しめた。しかし、シリアスと遊び、伝統と現代など既成の二分法をぶっとばすエネルギーが流山児演劇の魅力だと思ってきたが、原作を重視したせいか、ちょっと社会性に乏しい印象をもった。

アフタートークを聞いて納得。原作『鼠小紋東君新形』(ねずみこもんはるのしんがた)は安政の大地震(1855年)の二年後に初演。金持ちから盗むという「格差」問題よりも、離散した「家族の再会」がテーマになっている。

義賊☆鼠小僧次郎吉               #10の演劇インプレッション   

 れっきとした歌舞伎作品を小劇場でアングラっぽく演出。本物の歌舞伎を劇場で見たことがないのでどこまで本気なのかは判断できないが、流山児事務所のことだから、そうそういい加減な作り方はしてないであろうと信頼している。突然流山児祥がジャケット姿で現れて人形劇が始まった時はさすがに歌舞伎じゃないと思ったが。
 今でこそ歌舞伎は立派な文化人しか観ない“格調高い文化”といったジャンルになっているが、本来は大衆向けのエンターテイメントだ。そのため内容は単純で通俗的。しかもひどく御都合主義で、最近で言ったら韓流ドラマのようにクライマックスシーンが続く。
 しかしエンターテイメントってのはそれでいいのかもしれない。人間心理の奥深くの微妙な所をほじくり返すような描写より、こっちを好む方が普通なのだと思われる。観ていて楽しいですよ確かに。
 

義賊☆鼠小僧次郎吉            浦崎浩實(演劇評論家) 演劇雑誌「テアトロ」2013年5月号

流山児★事務所『義賊☆鼠小僧次郎吉』は河竹黙阿弥『鼠小紋東君新形』(ねずみこもん はるのしんがた)のほぼ”通し”。序幕その他、適宜つまんであるが、台詞も原曲に忠実のようで、チョボの部分も役者たちが旋律に乗せて歌い踊る(音楽作曲:諏訪創)。

古風な台詞が速射砲のように、かつ明快に語られ、客席も舞台に組み込まれて狭い空間をぐるぐる、流汗リンリと奮闘する役者たち、アッというまの1時間45分。芝居の不思議さ。
 

義賊☆鼠小僧次郎吉             「小劇場レビューマガジンWONDERLAND」 長編劇評2013年4月17日


               ◎だれが日本を盗むのか 〜 鼠小僧が消えた闇の今〜 演劇評論家:新野守広

流山児★事務所が『義賊☆鼠小僧次郎吉』を上演した。安政の大地震からわずか1年2ヵ月ほど後の1857年、江戸市村座の正月興行で上演された河竹黙阿弥の『鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)』が原作である。

東日本大震災から2年が経ったこの時期に江戸末期の泥棒芝居が選ばれた背景には、崩壊する幕藩体制と現在の日本社会の混迷を重ねる意図があったと思う。

公演会場は流山児★事務所の拠点、Space早稲田。地下空間の北と東の壁際に椅子席を並べ、南と西が正方形の舞台の二辺になるように演技の場が設えられている。さらに椅子席の列の間にも俳優が通る通路があり、俳優たちは縦横に走り回る。劇団ホームページには90uと示されているが、この狭い空間にこれだけの客席と演技スペースをつくりあげた情熱に感嘆。

登場する12人の俳優が演じる役は、解説役も入れると28役。一人二役や三役は当たり前。密集と離散を繰り返す俳優たちのスピード感溢れる動きがリズムを生む。

舞台の特徴は、誇張とデフォルメの大胆さにある。黙阿弥の原作を丁寧に上演すると、半日はかかるに違いない。その一大長編を1時間50分におさめてしまった(脚本:西沢栄治)。台詞は大胆にカットされ、物語の主筋からはずれる脇筋には削られたものもある。鼠小僧が盗みに入る場面は、速攻の人形劇である。原作の床浄瑠璃は、ロック調やポップス調の曲に作り直され、合唱、独唱、二重唱で歌い出される(音楽:諏訪創)。江戸時代の町人社会の義理や人情をしみじみと描いた世話物の世界から、現代の大衆社会にかなう表現を生み出す工夫だろう。

 台詞を口語調に直し、浄瑠璃を現代風の音楽に置き換える演出は、宇崎竜堂が音楽を担当し自らも出演した映画『曽根崎心中』(1978年。監督:増村保造)など例がある。『花札伝綺』や『ユーリンタウン』をはじめとして、数々の音楽劇を手掛けてきた流山児★事務所にとって、黙阿弥の『鼠小紋東君新形』を音楽劇仕立てで上演するのは自然な流れだったに違いない。

 大胆に改変された流山児版『鼠小僧』は、黙阿弥の『鼠小紋』に立ち戻ろうとするものではない。むしろ黙阿弥の意図を斟酌しながら、黙阿弥から遠く離れた今を撃てるか、その可能性に賭けた舞台だと感じた。

1.   現代化された音楽劇

 捨て子の生い立ちを陰ある表情に垣間見せる稲葉幸蔵(上田和弘)、悪と強欲の権化が一転情けある心根をさとらすお熊(甲津拓平)、一分の隙も見せない気丈な後家お高(神在ひろみ)、軽薄な悪役に徹するイワヲの平岡権内など、狭い空間に溢れる個性的な俳優たちは、いくつもの役を掛け持ちする。全体に誇張された劇画的な印象があるが、これは俳優たちが広い劇場でも十分通用する声量と所作にもかかわらず、客の目と鼻の先で演じているためかもしれない。劇団主宰の流山児祥も登場し、いつもながらの落ち着いた存在感と軽妙なとぼけ味で解説役と薬売り山井養仙役を好演した。

 流山児版『鼠小僧』では、すべての台詞が口語に書き直されているわけではない。黙阿弥の文語調の言葉を生かしながら、全体として耳で聞いてわかる程度に口語調に直しているに過ぎない。ただその結果、舞台で交わされる会話は江戸時代のものでもなく、かといって現代のものでもない曖昧なものになった。この曖昧さは舞台の疾走感の源でもあるが、黙阿弥の世話物が描いた江戸町人社会の情感が無情にも切り捨てられてしまったと嘆く観客もいてもおかしくはない。

 その一方、全体が休憩なしの2時間弱で一気に見られたため、稲葉幸蔵、すなわち盗賊鼠小僧の周囲の人間関係を細い糸でつなぐ黙阿弥の才気が鮮やかに伝わった。幸蔵の育ての母であるお熊が計画した百両の騙りに引っかかった新助とお元。二人が心中するところへ通りがかった幸蔵が情けで盗んだ百両には極印があり、新助とお元は捕えられる。一方、百両を盗まれた屋敷の辻番與惣兵衛は捕えられ、息子與之助は父のため百両の盗みに入った両替商若菜屋で捕えられる。さらに與之助を守るため嘘をついた若菜屋の後家お高も捕えられる。すべてを知った幸蔵は皆を救うため自ら問注所に名乗り出て裁きを受ける。善意から出た百両の盗みが、幸蔵と彼を取り巻く人々の本当の関係を明らかにするのだが、実にこれら主な登場人物たちは、たった一つの家族とその親戚一同なのだ。

 渡辺保は次のように書いている。

…幸蔵を包囲した人々の関係は、すでにふれた通り全員一つの「家族」であり、幸蔵の犯罪は、その「家族」を助けるたの善意から出ているのである。 黙阿弥は、この事実こそ書きたかったに違いないのであり、本来の悪とは無縁なのである。幸蔵の周囲に集まった人々、幸蔵を責めたてる人々の存在は、ひたすら幸蔵の悪を際立たせるのではなく、幸蔵における悪の欠如を際立たせるためにのみ存在している。(渡辺保『黙阿弥と明治維新』岩波現代文庫160頁)

このような「義賊」のテーマは興味深い。盗賊鼠小僧次郎吉が義賊であるのは、なにも裕福な大名屋敷を専門にする盗人であるからだけではない。鼠小僧はむしろ善意の人であり、善意から行なう行為が「悪」を生み出し、彼の周囲の人々を犯罪に巻き込んでしまうのだ。

渡辺保はこれを、「現実的な『悪』の空洞化、すなわち『悪』の境界のあいまいさ」と呼び、このあいまいさこそが、江戸末期の人々の倫理観であり、秩序の崩壊を示していると結論づけている。


2、闇に生まれる義賊:だれが日本を盗むのか

  舞台の最後の場面に注目してみよう。黙阿弥の原作では、問注所に出頭した幸蔵が縄を抜け、追っ手を振り切り逃亡するところへ早瀬彌十郎という善玉の役人が現れ、雪洞(ぼんぼり)を掲げながら幸蔵の姿を透かし見る。そして「落ち行く影は、取逃せしか。」と語りかけ、雪洞を吹き消して幸蔵を逃がす。幸蔵は「かたじけない」と彌十郎に手を合わせる。ここでおそらく舞台は闇になり、幸蔵は降りしきる雪と闇に溶け込むように逃げていくという設定である。

 流山児版『鼠小僧』は、この闇に言葉を与えて、次のようにメッセージ性を持たせている。

   早瀬  鼠、これからどこへゆく?(ト雪洞を上げる)
幸蔵  あの大江戸の闇の闇!
早瀬  幕末の世を揺るがす「義賊☆鼠小僧」を、早瀬彌十郎、取逃せしか、ふ、は、は、は、は。(ト雪洞を吹き消す)
幸蔵  義賊?そうか、おれは、これから「義賊」になるのか。そいつぁおもしれえや。む、ははははは!                       
(流山児★事務所『義賊☆鼠小僧次郎吉』上演台本より)

 流山児版では、幸蔵の消えた先は崩壊する秩序の闇そのものであることが明確に語られる。しかも幸蔵の台詞は、秩序の崩壊から義賊が生まれるというメッセージになっている。このメッセージを伝えるところに、流山児版『鼠小僧』の可能性が賭けられているのだ。

 実際の舞台では、この台詞の直後、俳優たちは衣装を脱ぎ、Tシャツ姿になると一斉に舞台上に立ち、客席をきっと見据えて、騒然としたノイズと「ええじゃないか」の掛け声が響くなか、次の台詞を和した。

    子の刻参上! 盗みはすれど仁義を守り、富めるを貪り、貧しきを救うは、天の道なり! 

   いまこそ盗まん、いまこそぬすまーん。(同上)

 すなわち、舞台上に立つ俳優たちこそが「義賊」である。俳優たちは3.11を体験した現在の日本社会の崩れゆく秩序のただなかに立ち、義賊として活動を始めるのだ。義賊の宣言である。観客を見据えて「いまこそ盗まん、いまこそ、ぬすまーん」と宣言する彼らは、これから日本を舞台に白昼堂々と始まるであろう大窃盗劇を予言している。


 3、だれが何をどのように盗むというのか。

渡辺保は黙阿弥の『鼠小紋』について、「『日本』を盗むものは、外国だろうか、西国大名だろうか、天皇だろうか」(『黙阿弥と明治維新』167頁)と書いた。すでに西国大名と天皇は日本を盗んでしまった。外国もしかりだが、まだ半ば盗みの途上にある。今後、外国が日本を盗む事態が完成する。TPP、原発再稼働……。  流山児★事務所の『義賊☆鼠小僧次郎吉』は、これから私たちの身に降りかかる不幸な未来の闇をあぶり出したのではないか。


【著者履歴】新野守広(にいの・もりひろ)1958年神奈川県生まれ。東京大学文学部卒。立教大学教授。現代ドイツ演劇専攻。「シアターアーツ」編集委員。  主な著書「演劇都市ベルリン」主な訳書「ポストドラマ演劇」「火の顔」「餌食としての都市」「崩れたバランス」「最後の炎」など。

 


地球☆空洞説          文藝雑誌「文藝軌道」2013年4月号 劇評:2012秋から冬の舞台 。演劇評論家:野平昭和

寺山修司没後30年を迎え、豊島区と未来文化財団との共催で流山児★事務所が、テラヤマプロジェクトという形で区制80周年記念事業として来年11月まで計3回の上演計画展開の第1回である。
 もともとテラヤマ芝居は俗な意味でのストーリー展開を拒否するところがあり、更に言えば夢(多くの場合、悪夢だが) に似ており、芸術ジャンルの中で敢えて仕分けすれば、「詩」である。
 1973年に市街劇として上演されたものを装いをあらたにイマ風に仕立て直し、却って寺山劇の神髄に迫ったものにさえ思えたのだ。

 中池袋公園に集められた観客は、大久保鷹、流山児祥というアングラ劇の元祖のような2人の口上と、多勢の出演者の歌の案内で、今ではクラツシックな建築の豊島公会堂に入ることになる。

空洞学者2人 (流山児祥、大久保鷹) の珍妙な問答の中に登場した男 (塩野谷正幸) が、銭湯から自分の住んでいるアパートへ戻ってみると、自分の室には見知らぬ人々がいてセンベイを齧ったりテレビを見たりしているのだった。
よく見れば自分が住んでいた15号室さえどこにも無いのだ。仕方がないからアスコへ行くしかないと、さ迷い出した男の行く先が舞台に展開して行くことになる。

そこは「亜細亜の曙」の歌われる曲馬団の世界であり、工場であり、夕暮れの公園であり、非現実の記憶の世界であり、地球上のどこかであり、どこでもないところなのだ。

「地球はもうじきおしまいだ」 の歌が繰り返され、「裸銭湯桶ダンス」 に象徴される、思考停止の、巨大群衆 (実際でも50人を越える) の男女が、足踏みならし、声をからして歌い踊るシーンが繰り返し、増幅される中を、呪文のように、「地球の中味はカラッポだ」と鋭い刃物の言葉が打ち込まれ 「オマエはオレダ」と迫られ、ふらふらになった観客に、「地球はもうじきおしまいだ」 の大合唱轟く中を、場外に退去した客の上空に、気球がゆっくりと浮かび上がるという仕掛けである。

 敗戟後まで東北の僻地などに残存していた土俗的なにおいを故意に舞台に展開してみせながら、日本を、世界を、ヒトを、地球を問い続けた寺山が、土俗の匂いを消して無機質でピカピカの、50人を越える役者群のセリフに、踊りに、歌に、ヒロシマ、ナガサキではなく、自らの手で原子の火を放ち、ヒト、生物、地球絶滅の放射能を撒き散らしてしまった大震災後の世界を、青森から三沢から東京から、三十年の時空を越えて、「地球はもうじきおしまいだ」と唇を歪めながら皮肉な薄笑いを浮かべて、一緒に気球を見上げてさえいる姿を重ねて、池袋を後にした。

 

地球☆空洞説             演劇雑誌「テアトロ」 2013年2月号劇評  丸田真悟

 豊島区テラヤマプロジェクト実行委員会は、二〇一三年に没後三十年を迎える寺山修司の作品を二〇一四年までの三年間、毎年十一月に連続上演するという。その第一弾としてテラヤマ見世物ミュージカル「地球☆空洞説」(原作/寺山修司、構成・脚色・演出/天野天街・村井雄・流山児祥)が上演された。

 会場前の公園に集められた観客は流山児祥と大久保鷹の口上と、出演者の歌に導かれて会場へと入っていく。そこでは銭湯帰りの男(塩野谷正幸)が自分のアパートからあふれ出してしまうという物語を軸に、舞台を埋め尽くす総勢五十名を越える役者たちによって、次から次へと奇妙な物語が展開していく。

 そこで繰り返される「地球はもうじきおしまいだ」という歌声。寺山の「地球は空っぽだ。私たちは空っぽだ」というメッセージは今なお新鮮だ。その空っぽに私たちは何を吹き込むのか。希望か夢か、それとも虚構か、あるいはもはや吹き込むべきものなど持たないのか。猥雑な昭和の香りを漂わせながら、人間の欲望と虚無感が曝(さら)け出される。

 生身の役者に絡む映像と、どこか懐かしい振り付けのダンスと音楽が奇妙な世界を支える。そして流山児と大久保が物語の世界に現実から闖入し、引っ掻き回して、覚醒させる役目を担っている。ただ、他の役者たちは作品の中に納まっている印象があり、そこにはもはや「見世物」のおどろおどろしさはない。

 終演後、会場上空に浮かんだ気球は、孤高を保ち、悠然と街を見下ろしているのか、それとも儚げに風に揺られているだけなのだろうか。 

 

地球☆空洞説              演劇雑誌「悲劇喜劇」2013年2月号演劇時評 小山内伸(朝日新聞)
小山内 最初は街頭、池袋・豊島公会堂前の中池袋公園で始まります。男が一人、空気入れで地面に空気を吹き込んでいる。そこに女子高生たちが集まって、「おじさん何してるの」と聞くと、実は地球は空っぽだから、しぼまないために空気を吹き込んでいるのだと説明する。それを聞いた女子高生たちは、だったら私たちは気球に乗って脱出するんだと言います。これが全体を貫くイメージですね。このあと「地球はもうじきおしまいだ」という曲に迎えられながら、観客は公園から豊島公会堂の客席に入ります。
岩佐 野外劇としてやるんですか。
小山内 冒頭の場面、十分間だけです。サーカス音楽のような、もの悲しさを漂わせた音楽が寺山修司の世界を再現していました。物語の中心は、銭湯から戻った男がアパートに帰ろうとすると、自分の部屋がなくなっていたという話です。人間が蒸発したのとは逆に、人間が出現したのだと受け止められます。余分な男の生成をめぐる物語ですね。そこに妹と母親と称する女たちが出てきて「お兄さん」と言うのですが、男は相手を全く知らない。そうすると妹と母親は、それぞれ三人ずつに増えるんですね。人間が出現するのが一段階目で、次に人間が増殖していくのが二段階目です。そのあと一九七三年に戻る暦が出てきたり、自分は気球だという太った妻にやはり空気を吹き込む話が出てきたりと奇譚を挿入しながら、やがてある少年が 銭湯に行く途中にいなくなった話に導かれていきます。つまり銭湯に向かった少年が、銭湯帰りに出現したその男なんですね。さらに妹や母親、父親まで出てきて、「俺」も増殖して家中が満員になる。「自分」や「時間」がどんどん拡散していくイメージと、地球が空洞になっていくイメージを対称的に描いたものです。歌もふんだんにあり、ダンスも前田清美さんが振り付けているので洗練されていて、躍動的な舞台でした。

 

地球☆空洞説           「公明新聞」 2012年12月7日    今野裕一(演劇評論家)

寺山修司の周辺には何人かの寺山好きな演劇人がいて、寺山修司の作品を寺山とは別の形で上演し続けてきた。
その一人が『演劇団』の流山児祥。流山児祥はかつての寺山演劇のもっていた力を信じそれを継承し今の時代に見せつけようとしている。

寺山修司は見世物的な芝居の力をもって天井桟敷を立ち上げた。そして海外公演で前衛演劇に出会う度に、演劇のスタイルを変えていった。流山児祥は特に寺山修司の初期の仕事に注目している。会場の豊島公会堂の向いの公園で、男が空気入れの チューブを公園の地面につきたて、ポンプを押し続けている。空洞な地球に空気を入れているのだ。と、公衆トイレの屋根で「地球はもうじきおしまいだ」と絶叫する男がいる。 流山児祥、舞台上にべテラン俳優を含む59人もの役者を登場させ、寺山修司原作の『地球・空洞説』を見世物オペラとして再現した当本人だ。      

今回の上演には、演出に天野天街が加わって、かなり少年王者舘的なトーンになっている。少年王者舘の踊りで作りあげたと言えば分かりやすいだろうか。天野天街は、寺山修司から少し離れたところで「夢みるような懐かしい世界」を作り 続けてきた。その天野天街が参加したことで、寺山修司の『地球空洞説』は、また別の側面を見せている。音楽はJ・Aシーザーに坂本弘道を加え、これまた寺山修司の演劇にはない音の魅力を加えた。寺山に寄り添うように生きてきた流山児祥やシーザーと、坂本、天野の新味が実にバランス良く合わさって、かつての寺山修司の見世物そのままに、そして今に寺山を活(い)かしたらこうなる……その両方を感じさせる舞台となった。

寺山修司を愛する演劇人たちの力ある限り、寺山修司は、まだまだ健在である。  

 

地球☆空洞説          「週刊金曜日」 2012年11月30日号  迫眞一(ライター)

 夜の帳がおりる頃、公園の片隅で空気入れの先っぽを地面に突き刺した男が、ひたすらピストン運動を繰り返している。その奇異な動きに吸い寄せられるかのように人だかりができる頃、公衆トイレの屋根にいたフロックコート姿の男たちが歌い踊り、どこからともなくセーラー服姿の女子高生たちが駆け寄ってくる。すると、突然男が夜空に向かって絶叫する。「地球はもうじきおしまいだぁ!」

 現代演劇の巨人、寺山修司の真骨頂ともいえる街頭劇から始まる。地球の中味は空洞になっているという物語軸に、銭湯帰りの冴えない男が、アパートから突如出現した。さまざまな奇想天外な人物たちが新しいテラヤマワールドをうみだしていく。「これでもかぁ!」と暴力的なまでに畳みかけてくるようなマシンガン演出が炸裂する。天野天街の映像世界と坂本弘道のアレンジした生演奏による呪術的ロックがコラボし、総勢五九人の役者陣による熱唱やダンスパフォーマンスとともに二時間ノンストップで連射しつづける。  

 “見られるもの”が“見るもの”との境界を軽々と飛び越え、役者たちが縦横無尽に劇場内を疾走していくと、ドーランの灰かな香りとともに“いまここ”の偶然性が立ち上ってくる。昨今、もてはやされている参加型アートなんていう甘っちょろいものでもなければ、生ぬるく、予定調和な物語を手繰っていくような商業演劇でもない。架空のものを現実へと転換する逆ドキュメンタリー演劇。
 さらなる自由を追い求め、池袋の夜空に夢の大気球が舞い上がる。

 

地球☆空洞説             山田勝仁(演劇ジャーナリスト/日刊ゲンダイ)「梁塵日記」

 池袋で流山児★事務所「地球☆空洞説」。開演10分前に小公園に集合。 公衆トイレ(?)の上に陣取った流山児祥と大久保鷹の二人が前口上。「地球はオシマイだ」の合唱に送られて公会堂へ。
舞台はどこを切っても天野天街ワールド全開のミュージカル。ある日銭湯帰りの男(塩野谷正幸)が自分のアパートに帰ろうとするが、彼は人間蒸発ならぬ、この世界からあふれてしまう。
映像、夕沈ダンス、増殖、スパイラル。天野得意の舞台表現が炸裂。

 見ものはなんといっても53人の出演者による空前絶後のモブシーンを手がける前田清実さんの振付が素晴らしすぎる。そしてJ・A・シーザーの音楽がもうひとつの主役。シーザー名曲集の趣き。 合唱曲はシーザーの真骨頂だ。 終わって外に出ると公会堂の上にアドバルーン。大久保鷹さんは状況劇場時代の有名なあのシーンを舞台でやるというサービスぶり。

 

地球☆空洞説              田中伸子(ジャパンタイムス) 「芝居漬け」 

池袋東口、豊島公会堂で流山児事務所総動員の大イベント音楽劇「地球★空洞説」を観る。

〜一人の人間が「勃発」する!〜
見世物小屋が建っている夕陽の公園からこの奇妙なミュージカルは始まる。街を巻き込む偶発的演劇?街から「一人の所在不明男が勃発する」ストーリーを軸に空気女と腹話術師、「他人」を演じる歌右衛門、不思議の国のアリス友の会の女子高生達が池袋の街を疾走する!

1973年市街劇として杉並区高円寺の小公園で上演された作品を2012年豊島区東池袋の小公園と公会堂で上演するJ・Aシーザー:音楽、坂本弘道:音楽監督、天野天街・村井雄・流山児祥:構成・演出、流山児★事務所劇団員総出演+実力派役者陣+オーディションメンバー!総勢50余人の「まったく新しい」半市街劇的ミュージカル・スペクタクル。これは「世界の何処にもない」TERAYAMA Musicalだ!『田園に死す』を超えるニンゲンの凄み・ニンゲンの熱情が爆発する「演劇」を超えた8日間の祝祭!を見逃すな。
・・・・・・・
夜7時の本公演開演時間の10分前から公会堂の真向かいの中公園でプロローグシーンあり。仕掛人流山児祥と大久保鷹が公園に集まった人々ー観客はもちろんのことそこにたまたま居合わせた池袋風来坊たちもいるーへ語りかける、胡散臭い前口上からして心誘われる。

公会堂へ移ってからは、ギシギシ音を立てる老朽化した観客席で50人を超えるキャストの生身の日本語による音楽劇(横文字でMusicalというよりも日本語できちんと言葉を伝えるミュージカル/ライブ音楽劇)が楽しめる。

音響設備が整っていない公会堂で、全ての言葉を拾うのはキツいが、そんなことは小さなことを思わせる、生身の人間によるライブパフォーマンス、俳優一人一人の個性が匂いたつ歌と踊り、マスダンスが展開される。

言葉の魔術師寺山修司が演劇に求めたものとは何だったのか・・・韻を踏むことばに乗ってトランスするそのいかがわしさ、見せ物テイストのイベント、阿波踊りの呼び声のような「踊る阿呆に観る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損損。 ・・」というような集団の同時高揚感だったように思う。

その場にいなければ何も語れない、現場主義のイベント演劇。
元気のない昨今の演劇界にあって、あらためて目を覚まさせ、原点回帰させるような演劇上演。
まずはライブパフォーマンスの楽しさを体感してもらいたい。
 

地球☆空洞説             今村修(演劇ジャーナリスト/朝日新聞) 

「昨夜は、池袋の豊島公会堂で流山児★事務所「地球☆空洞説」(原作=寺山修司、構成・脚色・演出=天野天街、村井雄、流山児祥)。
1973年に天井桟敷が上演した市街劇を「見世物ミュージカル」としてよみがえらせた。開演前、すぐ前の公園に止めたワゴン車の上で、流山児と大久保鷹が前説を始める。いきなりアングラな世界に誘われ、その勢いのまま公会堂へ。

60年の星霜を経た客席のたたずまいが、タイムトリップ感をいや増す。人間蒸発ならぬ、人間勃発した銭湯帰りの男が迷い込む迷宮。帰るべき家をなくした男の前に現れるのは、増殖する母や妹であり、地面から掘り出された父であり、気球で地球脱出をめざす女学生たちであり、世界の涯をめざす探検隊長たちだ。空気女、暦売り、人さらいといった寺山作品おなじみのキャラクターも登場し、オールドファンを楽しませる。

寺山の言葉が紡ぎ出すのは、自明への懐疑だ。地球空洞説がイメージする上と下が逆...転した地球内部の世界、交換可能な家族、世界の終末、容易に入れ替わる被害者と加害者……。当たり前のことなんかない、全て疑え!秩序や権威がまだ存在した1973年ならではのアジテーションだが、権威も秩序もぐずぐず、ずぶずぶになった(今回の選挙を見るがいい)今、これにどう向き合えばいいのか。不幸にも的中した予言と見るべきなのか、世界の破滅への警告と受け止めるべきなのか。

そもそも、暗闇の客席におとなしく座って、舞台を眺めていていいのか……。寺山のそして、流山児や天野、村井らの術中にうかうかとはまっている自分に気づく。魂の奥底のプリミティブな部分を振るわせる、シーザーの音楽、その世界を批評的にまたコミカルに肉体化する前田清実の振り付けに酔う。今回の脚色で加えられた、メールのなりすましや通り魔のエピソードが、73年と現在をつなぐ効果的なアクセントになっている。

突然の劇の中断、ノイジーな映像の多用など天野色の強い演出は、登場人物の多くを複数にし、ユニゾンで台詞を語らせる。コピーが氾濫する現在から寺山を見つめ直す面白い試みだが、時に言葉が聞き取れないのが歯がゆい。
没後30年を経て、今なお上演され続ける寺山だが、「地球☆空洞説」は、仕掛け人たちのリスペクトと野心がほどよくブレンドされた刺激的な舞台だ。

 

地球☆空洞説           堀浩哉(現代美術家)

流山児★事務所公演『テラヤマ見世物ミュージカル・地球☆空洞説』久しぶりに妙な感動があった。

率直に「感動した」と言いにくいのは、そもそもぼくが寺山修司という人に昔か らさほど興味が持てなかったからだ。寺山さんは短歌や演劇から競馬予想まで、様々なジャンルで豊穣な「物語」を紡ぎ出してきた人、と評価されてきた。
しかしぼくには寺山さんという人は、ただ「ぼくって何?」ということにだけ執拗に こだわり続け、それが転じて「ぼくを見て!」とひたすら主張している人にしか見えなかった。芝居はすべて寺山脳内ワールドの迷宮巡りで、だから役者もその演技も彼の脳内からひり出したオブジェであるしかなく、その世界は徹底して 他 者不在の、いわば「胎内的世界」である、とぼくには思えたし,今もそう思う。

そんな寺山戯曲が、没後29年たった今なお毎月のようにどこかの劇団が公演しているほどもてはやされているというのは、この国の無意識な「胎内回帰」の気 分を象徴しているのかもしれない,とさえ思う。
が、しかしそれでも昨日は感動したのだ。

初演時(1973年高円寺の小さな公園での市街劇)の記憶が、台詞や歌の間に間にフラッシュバックして蘇るが、ほとんど原作を換骨奪胎した流山児祥ら3人による共同演出は50人を超える出演者に生演奏付きの大狂騒ミュージカル。

公演後、演出家でありながら今回は久しぶりに役者としても出ずっぱりの流山児祥が、ぼくにささやいた。「ばかばかしいだろう。だけど元気だろう」と。そう、ばかばかしいほどの「無内容」。だけれど、流山児は寺山ワールドを「内容」だと信じる多くの再演者たちをあざ笑うように「ばかばかしい」狂騒に徹 し、そして39年という年月自体を、いわば「記憶の他者」のように挿入することで、「胎内」から外へ、とにかく歩き出そうとしている。空元気であろうと も。それが、思いもかけずに、じわっと感動につながってきたのだった。(1973年といえば、ぼくは美術での活動の傍ら,流山児の劇団「演劇団」で座付き作者として台本を書き始めたころだった。)

そして、狂騒の中から聞き取れる数少ない言葉、「地球はもうじきおしまいだ」というリフレーンだけが、舞台が終わってなおリアルに響いているのは、39年前には想像もできないことだった。」

 

地球☆空洞説          演劇◎定点カメラ  ねこ

豊島公会堂を使っての豊島区との3年企画。FTで気を吐く南口に対抗してるよう。また楽しみが増えたねこ。

 構成。戦後の歴史を刻んできた、古びた豊島公会堂をメイン会場。芝居はその前の公園から始まり。公衆トイレ前で地面に自転車空気入れで注入するおじさん。女子高生達が訪ねると、地球は空洞なのでしぼんでしまうとか、まか不思議。それを聞いた彼女たちは気球で地球脱出と、輪を掛けて途方もない。と、トイレの上にあがって流山児。公園で風を売っているという大久保鷹演じる博士を呼び上げ。あとは気持ちよさそうに2人で歌いまくり。楽団とコーラスが加わって、それに導かれるようにメイン会場に入場。

 舞台。舞台上に豊島公会堂の正面入口と、いきなりメタ装置。両袖花道、客席通路もフルに使い。

 お話。銭湯から帰ってみたらアパートがない、と困った男が巻き込まれるあれこれ。 ついた場所では自分だけ、世界に一人のよけいもの。母、妹を自称する他人は勝手に増殖。知らないはずだ、まだあってはいないと自称母は煙に巻く。 家から世界、そして母を思慕し探すインナートリップの始まり。

 醒めてみる幻、天野ワールド全開。今回は多人数で、1役多人数の量も役柄もとんでもない。JAシーザーのプログレ楽曲で次ぐから次と圧倒。前田清実のファニーな振り付けダンスは客席を取り巻いて、物量大作戦。銭湯シーンの大盛男肉状態は楽しくしょうがないねこ。お楽しみコーナーは、昔に戻る暦。タンス(偽物札付き)を背負って、状況劇場の名シーンを演じ、歌う大久保鷹。うれしいプレゼントなり。

 来年はなにをやらかしてくれるか、今から楽しみねこ。
 

地球☆空洞説           江森盛夫(演劇評論家)  BY「演劇袋」2012年11月28(水)

「音楽:J・A・シーザー、振付:前田清美、音楽監督・演奏:坂本弘道、構成・脚色・演出:天野天街、村井雄、流山児祥、流山児★事務所、豊島公会堂(みらい座いけぶくろ)。
昭和27年に建設されて60年たつ豊島公会堂は池袋育ちの私は、ここで沢山の芝居を観たし、様々な集会に参加した。劇団民芸の宇野重吉主演のシング作「西の国の人気者」もここで観て、その面白さの記憶がいまでも蘇る。

この公会堂で今年から3年間、毎年11月に流山児★事務所によって寺山修司の作品を上演することが決まった。そのテラヤマプロジェクトの第一弾がこの「地球☆空洞説」。これは豊島区の区制施行80周年記念の区のイヴェントとして流山児が取り付けたもの。流山児の大物(文化の区の高野豊島区長)との交渉力、篭絡力(?)が遺憾なく発揮され賜物だ。
公会堂の前の中池袋公園のトイレの上、50人余名の俳優が公演に様々な衣裳で散らばり、公衆トイレの屋根の上の流山児と大久保鷹の掛け合いでオープニング。公演の地面にパイプを差して、空気入れで地球を膨らましている男がいて・・、そこから三々五々と公会堂に入場する。
まずは塩野谷正幸扮する男が、銭湯から帰ったが、住んでいるアパートが消えてなくなっていた・・。ここから、テラヤマワールドのミュージカルが始まった・・。
舞台だけでなく、劇場内の通路を使った、50人の俳優の一糸乱れぬパフォーマンスは実に見事なもので、シーザーの音楽の主調旋律が場内を支配し、前田の振付が沢山のシーンを独創的なダンスで躍動させて、俳優は力一杯踊り、歌い、演じたのだ。中でも男達が前を隠して裸で踊る銭湯での群舞が圧巻だった・・。
流山児のスタッフ・キャストへの統率力の見事な大成果!流山児の舞台でもベストに入るだろう。テラヤマ作品を流山児流のミュージカルに仕立て上げ、最高のエンターテイメントにしたのだ。
その流山児と大久保鷹の老優二人が、舞台を締めたのだが、大久保が1972年の状況劇場での唐十郎の名作「二都物語」での大きな箱を背負っての余興がオールドファンにはたまらない・・。

終わりは公園に俳優がまたもどり、公会堂の屋上から上がった気球を眺める・・・。池袋西口には東京芸術劇場がキレイにリニューアルされて活性化しているが、東口のこの古い公会堂もこの上演で蘇ったといっていい・・。

 

地球☆空洞説               「高取英の日記」 BY 高取英(劇作家)  2012年11月27(火)

流山児事務所の地球空洞説を見た。楽しい芝居だ。歌と踊りで。
天野天街 台本だから、独自に仕上がっている。
「傘がない」が、流れるが、わたしが寺山修司さんがショックを受けた歌といったから、と、流山児さんにいわれた。中味は、一部、月蝕歌劇団の12月公演 人力飛行機ソロモンとダブルから、どきっとした。

 

地球☆空洞説                CORICH舞台芸術  BY アキラ

「テラヤマ見世物ミュージカル」は、「お祭り」だ。
「大騒ぎして、空虚で虚しい」って、なんて素敵なんだろう!

公園にある公衆便所の上から始まり、ここで終わる。
流山児祥さんたちがここに乗ってハンドメガホンで口上を述べ、「地球はもうじきおしまいだ〜」の歌に送られて観客は劇場に入る。

みらい座いけぶくろなんて洒落た名前にしているけど、豊島公会堂のこと。古めかしくて味わいがある。ここで上演する意味があるなとも感じた。本当は野外のほうが面白かったとは思うのだが。この登場人数では無理だな。みらい座いけぶくろ(豊島公会堂)は、独特の反響がある。だから、合唱の感じがいい。

生演奏で50人ぐらいの俳優が舞台で歌い踊る姿は圧巻!
J・A・シーザーさんの曲は、当然のごとく寺山修司との相性がいい。J・A・シーザーさんの曲は、やっぱり「合唱」だと思う。若い男女の合唱が切なくなる。

かたやももう1人の音楽担当、坂本弘道さんの曲もいい。
J・Aシーザーさんだけでない分だけ幅が広がったように思えるし、別モノだ、という違和感も感じなかった。

今回演出にクレジットされているのは、天野天街さん、村井雄さん、流山児祥さんの3人。だからそれぞれの持ち味がそれぞれ活かされていたようだ。特に天野天街さんは、「いつもの天街ワールド」で、夕沈さんもいつもの「な〜」の語尾のような少年王者舘風味でもなんか、「見つけた」感があっていい。確かに「いつもの」すぎるところもあるのだけど、「テラヤマ見世物ミュージカル」としてはそれでもいいと思った。劇場の時計の表面が実はニセモノでだらりと垂れ下がるのがツボだった。

銭湯帰りの男が1人、蒸発ではなく、余分に「勃発」することで、カオスになっていくという物語。自分が自分だ、と言い張る男たちや、母だと言い張る母たち、妹だと言い張る妹たちが、どんどん出てくる。「自己の喪失」ではないところの「(自己の)勃発」による、「オレは誰なのだ」というアイデンティティ的な問題もあるのだけど、結論としては「地球はからっぽ」で、「もうじきおしまいだ」なのだ。

日本の今を見ても、ぐるりと世界を見渡しても、やっぱり「地球は何にもない空洞」で、「もうじきおしまいだ」と思わずにはいられない。

空気女などの寺山演劇のシーンも盛り込まれていたり、あざとく、30年前(だったか?)のオレたちは何をしていたか、などと昔話をしたり、福島のことをちょろっと入れたりしていたが、基本は、大人数で大騒ぎして、お祭り騒ぎ。公演そのものも「からっぽだ」とまでは言わないけれど、それで十分だったと思う。
つまり、「大人数で歌い、踊り、大騒ぎして、空虚で虚しい」なんて、素敵じゃないか! と思うのだ。
「世界初演!」なんてのもバカバカしくていい。

セットだった垂れ幕が落ち、劇場の姿になり、幕。
そして、外に出ると最初と同じに公園の公衆便所の上に立つ、流山児祥さんがハンドメガホンで「終わりました」と客出しをする。上空にはぼんやり気球が浮かぶ。祭りは終わった。その虚しさが池袋の雨上がりの街に寒々しくっていい。
 


 『花札伝綺』 2012海外公演劇評はこちら
 

『花札伝綺』    江森盛夫(演劇評論家) BY「演劇袋」 
 今日の舞台は、2012WORLDツアー プレビュー&壮行公演。流山児★事務所はこの「花札伝綺」をもって、8/12日のエジンバラを皮切りに、ニューヨーク、カナダ・ビクトリア、バンクーバーと約一ヶ月の海外ツアーにゆく。その「2012フリジバージョン」のプレビュー公演。
 この芝居は骨格はブレヒトの「三文オペラ」、乞食の元締めのビーチャム夫妻は、この芝居では死人の元締めの葬儀屋団十郎と女房おはか。娘のポリーは、歌留多で、歌留多をかっさらう大泥棒のメッキ・メッサーは、水木しげるの墓場の鬼太郎、ほか「三文オペラ」の乞食の群れは、この舞台では白塗りの死人の群れ、そして全編、本田実の音楽でのミュージカル仕立て・・。
 わたしは今回で3回目だが、舞台は進化して熟してきた。それぞれの役者が、自分のキャラクターを独自に粒立ててきて、鬼太郎、歌留多、団十郎のメインキャラクターに迫る勢いがあり、音楽の本田が”幽霊ジョニー”役で出演して、ソロを歌って音楽の先導役をはたして、舞台全体が音楽的に安定した。美服のイケメン泥棒鬼太郎と、死んで紅い長襦袢の妖艶な美女に変貌する二役の伊藤弘子、歌も芝居も存在感をました歌留多の坂井香奈美、歌も英語の台詞も自信たっぷりの仏蘭西刑事の流山児、芝居の要の団十郎を演じた里美和彦らが舞台を締めて、全体を統括した青木の演出は、流山児が長年標榜してきた”流山児レビュー”の小規模ながらの完成形とも思えた。


 


「さらば、豚」    文藝雑誌「文藝軌道」2012年10月号     劇評:2012春から夏の舞台   野平昭和

「いつかどこかの、かつて炭鉱だった、その町の養豚場の、地下にある潰れた炭鉱での寓話」と、タイトルに続く小文に、この劇のすべてが凝縮されている。  
 幕が開くと、天井からぶら下がった裸電球が光り始める。林立する柱。平衡を保っていない梁。萬美炭鉱跡地。坑道の中継地らしい。 腐った木材が乱雑に散らばっている。上手、下手に坑道の入口の狭い穴。この舞台を見ただけで、自分なりのストーリーが浮かんでは消えて行く世代の観客も多いと思うが、筆者もその一人で、増産々々の掛け声で日本中の山が掘り返され、黒ダイヤなどと持て囃された敗戦前後の好景気、同時に爆発事故の連続と死者の山、そして今日の廃墟だらけの日を迎えた歴史のすべてに身を置いた者の胸には、この舞台は、炭鉱関係者でなくても、思いは尽きないのである。  
 ストーリーは単純で、今は養豚場と化した炭鉱跡を拠点に、対立する櫻組と梅組という二組のヤクザの抗争の話なのだ。序章で示された地獄絵図。屠殺場にぶら下がった豚の死体のように、半裸の肉塊となって梁からぶら下がっている死体は櫻組の番ケ瀬(イワオ)、因(木暮拓失)、須賀(冨澤力)、であり、上手には櫻組も郷屋(若杉宏二)が梅組のサブ(今村洋一)のこめかみに銃口を当て、その後ろに、腹を撃たれて銃を構えた屋敷(佃典彦)が、ぶら下がった死体の後ろに瀬川(塩野谷正幸)も銑を構え、梅組の標葉(丸山厚人)にも銃が向けられている。この男達に共通のものは、荒い息と罵り合いである。これは劇の進行の結果だが、二時間のあいだ全篇、怒りと殺戮に終始して、観客は、その残虐さに慣れてしまうのだが、強烈に残るのは、「狼」と呼ばれる老兵(本多一夫)が、帝国陸軍の兵隊服姿のまま、自在に出没することであり、狼も含め、折に触れて歌われる「炭坑節」である。日本の最底辺の暗闇の中で働いていた人々の、闇の果てのアッケラカンとした明るさが辛い歌であり、劇中にも有効に使われていた。他に保村大和が出演している。  (下北沢ザ・スズナリ)  

 

「さらば、豚」   演劇雑誌 「悲劇喜劇」9月号 「2012年上半期演劇界の収穫」     江森盛夫(演劇評論家)
 流山児☆事務所「さらば、豚」(作:東憲司、演出:流山児祥)ザ・スズナリ。九州の炭鉱町の話だ。石炭の余沢でしのいでいたヤクザも廃坑で、いまやシノギは養豚稼業。その豚が廃坑の迷路に逃げ込んだ。豚を追ったヤクザも閉じ込められて、どこかから聞こえてきたのは炭坑節だ。筑豊の作家上野英信が、炭坑節は明るい盆踊りの民謡などではなく、九州の虐げられた日本・在日の民衆、アウトローの「黒人霊歌」だとした。不吉な弔い歌なのだ。当時の炭労副委員長の息子:流山児が歌う暗い炭坑節は、戦後史の深部を垣間見させた。



「さらば、豚」   演劇雑誌「テアトロ」2012年8月号  「個の生き方と集団表象」   田之倉稔(演劇評論家)
流山児★事務所の『さらば、豚』(作:東憲司、演出:流山児祥)。クラッシク音楽からロックに変わったよう。舞台でスピーディーに交わされる怒号、卑語、方言のまじる台詞に理解が届かないので、台本を読んだ。表紙のエピグラフにこうある。「…‥いつかどこかの…‥かつて炭鉱だった町…‥その町の養豚場の…‥地下にある……潰れた炭鉱での…‥寓話……」。これを読んであるヤクザのせりふ「夢落ちなんかで終わらせねえ」の意味が分かる。スペイン演劇風の「ああ、夢だったのか」で終わる話にならない。炭鉱=閉ざされた世界から青空の広がる外界へと脱出し、自由の大地へと向かうというヤクザの決意が表明される。『さらば、豚』は底辺の人間をも抑圧するあらゆる束縛からの解放を謳う。この物語は二つのヤクザ組織、桜組(5人)と梅組(4人)の抗争が主筋。両方の組員の世話する豚が養豚場から消える。豚を追って迷い込んだのが炭鉱の閉じられた空間。そこに一人の老人、「狼と呼ばれる老兵」が出現する。本多一夫演じるこの人がエニグマティック。炭鉱とは被差別者ばかりでなく「…‥軍国主義、資本主義の生蟄が眠る穴ぐら」老人とは過去の幻影なのだ。そのほか「豚の見る夢」や「炭坑節」の意味があかされてゆく。炭鉱問題に詳しい作者と演出家ではないと構想も形象化もできない快作だ。

 

「さらば、豚」   演劇雑誌「悲劇喜劇」9月号「演劇時評」                           岩佐壮四郎(近代文学)×小山内伸(朝日新聞)
編集部 流山児★事務所「さらば、豚」東憲司さんの書き下ろしです。
岩佐 落盤事故で、シマにしている炭鉱が閉鎖して養豚業に転じている、暴力団の梅組と桜組。その養豚場から豚が姿を消してしまう。二つの組は、鉱山会社の下請けとして張り合っていたのですが、豚が突然消滅する事件をめぐって二つの組の対立が再燃し、忌まわしい落盤事故の記憶が甦るという話です。人間の食欲を満足させるため徹底的な管理の元に飼育される豚を、人間になぞらえるというのはそう珍しくない。私などは学生時代に観た今村昌平の「豚と軍艦」(1961年)という映画を思い出しますが、ここでも豚のおかれた状況と管理社会における人間たちの状況を重ね合わせるように表現しています。映画は横須賀が舞台で、実質的な植民地としてアメリカの支配下にある日本人の姿に光をあてていましたが、この劇では、それだけではなく一種の人肉食にまで視界に収めている。

小山内 劇中に「人間を食った豚は意志を持ち、夢をみる」という台詞が出てきます。カニバリズムも出てくる。だから人間をあたかも養豚場の豚のように描くという狙いでしょう。東憲司さんと流山児祥さんは初めての組み合わせですが、アングラ的な活力を帯びている点で両者は相性がいい‥劇中で、12年前に炭坑節を歌ったら落盤事故が起きた過去が語られ、若い衆はそれを知らないのでまさかと言いますが、実際に同じことが繰り返されます。ただし、その凄惨な事件が再現されるだけで、意外性はない。
岩佐 我々は豚を殺してトンカツやとん汁にしたり、牛を殺してステーキや牛井にして食べている。では豚や牛が、人間を殺して人間のカツや人間井をしてはいけないのか。人間は豚を殺していいけれど豚は人間を殺してはいけないと正統化する根拠は実はどこにもない。これは、究極には誰も答えることのできなかった問いで、その意味ではこの舞台が向き合ったのはとても重い主題です。人肉食は武田泰淳『ひかりごけ』や大岡昇平『野火』 など、戦後文学が追求したテーマで、舞台では例えば『ひかりごけ』は初期の劇団四季が取り上げ、『野火』は数年前に俳優座が鐘下辰男脚本・演出で舞台化に挑みましたが、この戦後文学的なテーマに、東・流山児のコンビは正面から向き合おうとしている。束の脚本はやや一本調子で、男達の怒号に終始する舞台に二時間近く観客の関心を集中させるにはかなりの力技を要しますが、流山児の演出は脚本の持つ北九州の炭鉱地帯である川筋の言葉をベースにしたヤクザ言葉の魅力を活かし、笑いやダンスを挟みながら、二時間近く退屈させない。もともと、修羅場というか鉄火場を得意とする流山児ですが、「豚野郎」 「汚い」「臭い」 「死んじまえ」などのドスのきいた怒号が逆巻くなかに豚の悲鳴も混じって、迫力のある舞台となっていました。
小山内 演技には熱いエネルギーを感じました。この炭鉱の名前は「よろずみ」。「よろず」と「黄泉」を掛け合わせた命名ではないかと思います。炭坑節が歌われるシーンで本多一夫さん演じる日本兵の亡霊が出てきます。迷宮の中の悪夢として描くために昔からの怨念みたいなものを放り込む必要があって、戦時中のもの(兵隊)を出したのでしょうが、この必然がわからない。因縁ならばむしろ、強制連行された朝鮮人を出したほうが腑に落ちるように思います。
岩佐 もちろん、強制連行された人の怨念も渦巻いてはいるでしょうが、ここはやはり日本兵でしょう。日本の役者は軍服を、特に日本軍の服を着ると誰でも似合うといいますが、とくに本多さんぐらいの年配の、戟前生まれの人が軍服を着て登場すると、それなりに存在感もありますね。映画「豚と軍艦」では、長門裕之のチンピラが水洗便器に首を突っ込んで死んでいく場面が印象的でしたが、この舞台では仲間が一人ひとり穴蔵に吸い込まれていって、最後にひとりだけ残された兄貴分がまっ青な空の記憶を語るラストシーンも鮮やか。舞台装置は島次郎で、オープニングの豚の解体現場風の装置が、エンディングでは、福島原発の建屋の残骸を思わせる装置に変わってしまっているのもアザトサを感じさせない。
小山内 炭坑内なのに窓がある美術がおもしろかったですね。
岩佐 若杉宏二や、佃典彦、塩野谷正幸、イワヲ、保村大和などのベテランと、丸山厚人など個性的な若手の組み合わせもこういう暴力劇を演ずるにはふさわしく、流山児★事務所の快作だったのではないかと思います。

 

「さらば、豚」   高取英(月蝕歌劇団)
流山児事務所の「さらば、豚」を見た。男しか出てこない。ヤクザと炭鉱の話。豚はわたしか、わたしが豚か?「ドグラ・マグラ」のような匂いもさせながら、落盤で閉じこめられたヤクザの抗争もある。謎の人物は本多一夫さんが。炭鉱節を坑内で歌うと落盤が起きるといいながら、迷信だよ、しかし、起きる。彼は、狼と呼ばれる帝国陸軍の亡霊。

ヤクザの主人公は、仲間を裏切ったのか、裏切ってないのか、明白ではない。謎は謎のまま終わる。展開は早く飽きさせない。
 タランティーノの「レザボア・ドッグス」だよ、と流山児さん。 深刻な話だが、そうならず、楽しませる。役者がそろって、元気がいいからか。笑いがちりばませてあるからか。
 配られたあいさつ文に、炭鉱節が現在なおもっともきびしい差別にあえいでいる人々の遺産であり、と上野英信の言葉が掲載。 様々な解釈が出来る芝居。

 

「さらば、豚」   今村修(演劇評論家/朝日新聞)
「なんちゅう、ドグラマグラんこつ芝居じゃろかい!」。一昨日、流山児☆事務所「さらば、豚」を観終わって、思わず口をついた変な博多弁。「桟敷童子」を率いる東憲司の書き下ろし、アングラ第二世代の生き残り・流山児祥の演出、舞台は筑豊の廃鉱となれば、アングラ、情念、夢野久作……というのは自然な連想だろうが、それにしてもな舞台だ。

エネルギー革命で人々が去った旧産炭地。かつてスト破りで勇名を馳せたヤクザの下っ端たちも、今は逃げた養豚業者たちが残した豚の面倒を見る毎日だ。ある日その豚たちが一斉に居なくなった。対立する組みの仕業と見たチンピラたちは、豚の隠し場所と目される旧坑道に向かう。そこに落盤。閉じ込められた彼らの耳に、忌まわしい弔いの歌が響く……。主人公の郷屋(若杉宏二)は豚にも劣る今の境遇から抜け出すことをひたすら夢み、「俺は豚じゃない」と繰り返す。だがその言葉が吐かれる度に彼の輪郭はにじみ、これが現...実なのか、夢なのか、はたまた人間だと思い込んだ豚の見る妄想なのか、分からなくなってくる。

演出もドラマの緊張をあえて台無しにする、突然の解説や歌、踊りなどブレヒト的異化効果もてんこ盛りで、一種のアングラのパロディーを作り手たちが楽しんでいる。〈中略)豚の化身でもある郷屋たちが現実の彼岸に見るのが、豚肉も饗するであろう「レストラン経営」という無残な皮肉も効いている。〈後略〉

 

「さらば、豚」   山田勝仁(演劇ライター/日刊ゲンダイ)
 ザ・スズナリで流山児★事務所「さらば、豚」。東憲司の初書き下ろし作。かつての筑豊の炭鉱地帯を根城にする二組のやくざ。石炭繁栄の時代は終わり、いまや競うように豚を飼い、それが組のシノギになっている。やくざなのか畜産労働者なのかわからなくなった凶暴な連中。桜組66頭、梅組42頭、合わせて108匹の豚。まるで煩悩の数。

 その豚がある日忽然と消えてしまう。互いに相手の組の仕業と思い、拉致拷問の果てに豚の行方が廃炭鉱の旧坑道と狙いをつけ、真っ暗なヤマに潜るも、坑道から聞こえてきたのは不気味な弔いの歌「炭坑節」。明るい盆踊りとして知られる炭坑節の背景には、ぼろくずのように坑道に葬られた何十万何百万もの朝鮮人、被差別部落民、漂白の民、下層の人々の怨念がこもっているのだ。
 互いの疑心暗鬼の果てに殺し合いを始めたやくざたちの前に現われる旧日本軍の老人・狼。たった一人、敗戦日本のGHQ占領に徹底抗戦した兵隊の亡霊だ。今も炭鉱の闇の中から戦後日本を呪詛している。
 やくざたちの殺戮合戦。岩盤崩落で闇に閉じ込められたその果てのカニバリズム。日本軍兵士の登場に「ひかりごけ」を連想してしまう。
 再びの「弔いの歌」。それが鳴り響くにつれ、坑道の破局が近づく。

 スズナリに旧い梁の木をめぐらし、炭鉱の坑道を再現した島次郎の美術がまず目を引く。しかも最後は屋台崩しだ。この舞台美術で今回の舞台の成功はあらかじめ予感されたといっていい。
 カナダ演劇「ハイ・ライフ」を思わせる男10人の汗臭いバイオレンス芝居。

 なによりも役者たちがいい。
 桜組(錯乱?)の若頭で物語の狂言回し的な役割を果たす若杉宏ニは商業演劇中心で3年ぶりの出演。アングラ芝居のブランクを感じさせない余裕の演技。久々に役者復帰した劇作家・佃典彦がまたいい味を出してる。塩野谷正幸はいつもの独自路線な役作りで笑いを取り、梅組(呻く?)の頭・保村大和は凶悪さと茶目っ気の共存したやくざを好演。イワヲ、冨澤力、木暮拓矢の劇団員と今村洋一(地下空港)も凝った役づくりと流山児仕込みのアナーキーな演技で舞台を活性化させる。

 真っ白なスーツ姿で登場する丸山厚人は流れ者の革命家という設定。辺境最深部からの窮民革命ということか。色香を感じさせる立ち姿、テントで鍛えた声量。登場するだけで場が華やぐ。「これはアングラ革命劇だ!」の客体化したセリフも張り詰めた緊張を緩和する。

 「オールドバンチ」でも活躍した本多一夫氏は老敗残兵・狼役に挑戦、普通の役者では決して表現できない、その独自の存在感が舞台に異様な緊張感をもたらしていた。
炭鉱の闇の底から戦後日本の空虚な明るさを照射する陰鬱なるハードボイルド活劇。 戦後エネルギー革命の連鎖で閉山に追い込まれて行った炭鉱の歴史、その漆黒の闇に消えていった何百万もの最底辺労働者の悲劇は現在進行中のフクシマの原発被爆労働者の姿と重なる。「弔いの歌」は筑豊や夕張の地下水脈を突っ切り、メルトダウンした原発の底盤に鳴り響いている。福島原発4号機の破壊が世界の「破局」と同義であるという事実を思えば、「さらば、豚」は  今日的状況を反映したきわめてアクチュアルな芝居といえよう。 

 この濃密な空間がギラリと抜き身の刀を放つように息づいたのは何よりも流山児祥の硬軟併せ持つ演出の力。演出家の仕事とはつまりこういうことなのだ。

 

「さらば、豚」   江森盛夫の「演劇袋」                   江森盛夫(演劇評論家)

 舞台はかっての炭鉱の町の廃坑。炭鉱が栄えていたときは、そのからみでしのいでいたが、いまやいあがみあっていたヤクザの梅組と桜組もいまは下っ端が働く養豚所の稼ぎでかろうじてしのいでいる。その二つの組の豚がある日廃坑目指して忽然と逃げ出し、両方のヤクザが廃坑のなかでどつきあう・・。


 作者の東は炭鉱があった北九州の出身、演出の流山児は熊本出身で、父親が総資本と総労働が命がけで対決した三井三池の炭鉱争議を指揮した炭労の副委員長で総評副議長だった・・、
 その流山児はこういうアウトローの世界の芝居はいわばオハコで、カナダのアウトローの世界を活写して『ハイライフ』で演劇賞を獲った。
 磐石の背景で廃坑の迷路を走り回る豚の群れの咆哮がどよめき、ヤクザのピストルが火をふき、落盤を予告する炭鉱節が不気味に聞こえてくる・・。 この舞台の肝は、この炭鉱節、この民謡は普通、明るい夏の盆踊りの民謡として知られているが、この舞台での炭鉱節は流山児が敬愛する筑豊の作家上野英信が言った、「この炭鉱節は、九州の炭鉱に強制連行され朝鮮の人々、被差別部落の人々、犯罪者、ヤクザら現在でも差別にあえいでいる人々の遺産であり、日本民族の「黒人霊歌」である」として、どこかから怨念がこもった暗い不気味な調子の歌として聞こえてくる・・、ヤクザたちは出口を落盤でふさがれ、閉じ込められる・・、飢えがつのり、銃撃で死んだ仲間の死体へ・・・。

 流山児の意を体した久しぶりに事務所の芝居に出た若杉宏ニが梅組のリーダーで芝居の大筋のナレーターも勤める、桜組は元唐組の丸山厚人が独特の存在感で際立ち、異色は劇作家佃典彦が梅組のヤクザに扮して面白く、桜組は塩野谷正幸がバックを固める・・。
 これも久しぶりに流山児の舞台美術を担当した島次郎はかって流山児の舞台で役者をやったこともあるそうだ。追い詰められたヤクザたち、弔い歌と化した炭坑節、最後に全員で歌ったこれも正調の労働歌だった「頑張ろう」が全く茶化して歌われて、戦後の歴史が異化される。

 だが、決してこれが主題化されなくて、流山児は東の戯曲の隅々まで最大限に舞台化し、ただただおっかなくて面白い芝居の中で、既成概念をこわし、歴史の味わいを複雑に変化させ、賞味させるのだ・・。


「さらば、豚」   芝居漬け                        田中伸子(ジャパンタイムス)
 流山児★事務所が得意とするジャンルの一つ、社会のはみだしもの(今回はヤクザくずれ)の男達が対立しあい、殺しあい、裏切り、結局は落ちていく・・・・というお話。
 今回は、九州の炭坑で土にまみれ、豚に振り回され、人と金で入り組んだ軋轢の中で抗争を繰り返す10人のヤクザものたちのもがく姿に、過去に置き去りにされてきた社会問題、解決を後回しにして目先の発展にばかり奔走してきたわれわれへの警告を絡めてみせる。

 10人の男ばかりの舞台の中、流山児氏とは氏がプロデュースする高齢者劇団を通して昵懇の仲の劇場支配人本多一夫氏が特別出演している。私ば観た日は、幕が開けて2回目の公演ということもあったのか、本多氏のシーンでは、オールド・バンチ公演を彷彿とさせる、なかなかスリリングな「間」もあったので、毎日、何が起きるか。。まさにライブならではの面白さがあり。。かも。(ま、それにしても、あのこわ〜〜〜い「間」からして味にしてしまうところに、劇団の円熟味があるのかも)  


『イロシマ』        江森盛夫の「演劇袋」         2012年7月10日 

  2010年に座・高円寺で上演された鹿目作のミュージカル「愛と嘘っぱち」は、100年前の大逆事件をあつかったもので、意表を衝かれたようなユニークな作品で、この名古屋の作家を紹介した流山児に感服したものだ。今回は、3・11の大災害で団地の一棟がまるごと流されて、無人島にたどり着き、そこで団地の主婦達のサバイバルが始まるはなし・・。背景には放射線の海洋汚染の分布グラフがカラーで描かれ、漂流主婦たちが置かれた状況が示され、流されてきた団地のA棟の屋上から謎の文字がは落ちてきて、それが”目立”でこの文字が”目立て”という暗示だとおもって、皆せい一たちの杯の目立ち合戦が始まり、一番目だったオンナには食物が名指しで送ってきた・・、その文字が”自立”の読み違えだと気づくのだが・・。

8人の主婦+謎の女たちのサバイバルは、今までの暮らしや、それそれの性格の差とかで、なかなかタイヘンだが、青木の作詞で、本田実作曲の数々のナンバーでのミュージカル仕立てのなかでの、全員の合唱、苦難を乗り越えるサバイバルへの意気ごみ、生き延びたいという意欲が伊藤弘子以下の歌声のエネルギーで舞台は熱気をおびる・・、鹿目のテキストを青木が全面的に統率して、ラストナンバーの全員の絶唱まで緊張感を保たせた・・。

『イロシマ』       「文藝軌道」2012年10月号 「劇評」 2012年春から夏の舞台   野平昭和

題名も意味不明だが、集合団地A5号棟に住む主婦達の暮らしが或る日突然、無人島に 移って展開されるという設定も運びも、理屈の上では、去年の東北大震災を思わせる突然 の地鳴りによって、気がつけば、無人島暮らしが展開することになったのだ。作りかけの カレーのこと、風呂やトイレを心配する女達の頭上に降って来る大量のビラには、「ルー ル・目立つ」と書いてあるだけ。意味不明のままに、脱出、サバイバルに我を忘れ、人は、 顔見知りの女達だけ、という極限状況の中で、自分ひとり生き延びようとして、裏切り、暴力等、考えられる限りの悪の世界が展開する。

 当事者が女だけなのが、恐怖を増幅する仕掛けになっている。結末のないままにカレーを 食べて幕が降りるこの劇は劇中にもある生老病死という四苦の、この世界をシンボライズ しているとも見ることが出来る舞台だった。 それにしても、このグループだけではないが、最近の女たちの力の強さをひしひしと感じさせる舞台だった。結局「イロシマ」とは、「この世」ということだったのか。伊藤弘子、小林七緒、佐藤華子、平野直美、坂井香奈美、阿萬由美、荒木理恵、山丸菊菜、青木砂織が出演している。  (Space早稲田)

 



「田園に死す」   雑誌「街から」2012年no.117号 平早勉(写真家・ジャーナリスト)
 
 寺山修司原作の名作『田園に死す』は映画化された折り、巷でかなりの評判を呼んだものだ。この作品を小劇場の舞台に乗せたのは流山児★事務所。『田園に死す』(主催、流山児★事務所、脚色・構成・演出は天野天街、音楽:J・A・シーザー。2012年2月、下北沢ザ・スズナリ) 
〜われわれは歴史の呪縛から解放されるためには、なによりも先ず、個の記憶から自由にならなければならない〜寺山修司「田園に死す」演出ノートより。
 寺山自身の自伝的ともされるこの作品を、恐山のイタコと幾人もの寺山を登場させ、ファンタジーな舞台に仕上げた。情感そして躍動感がたっぷり。総勢37名の魅力ある役者が、舞台狭しと動き廻る。観る側も目が廻る。あっという問の2時間。
 エンディングに、ザ。スズナリの劇場人口が現れる。『田園に死す』の上演ポスターを見た寺山修司は、その舞台を観るために劇場入口の階段を上ってゆく……。とても憎い演出。寺山修司本人もこの舞台に「自分探し」をしているとの隠喩なのだろうか。
 自身も一曲歌ったり、ボクシングスタイルの寺山役で大暴れしたりと、仕掛け人の流山児祥もしてやったりの舞台になったに相違ない。それにしても、少年王者館の天野と万有引力のシーザーとタッグを組むなんて凄い賛沢なつくり。
寺山作品をたびたび上演することで話題の月蝕歌劇団とともに、寺山ワールドを観させて貰える自分は幸せ者である。他にも僕が気に入った舞台を紹介する。是非とも一皮、小劇場に足を運んでもらえたら幸甚だ。人は真に、役者であれどんな仕事に就いていようと誰でも旅人である。いつも、いつも己はどこに行こうか、なにを捜しているのか、何かをもとめて思索の族を続けているからである。演劇にはそんな想いがそこかしこに詰まっている、と僕はいつも思う。

  

「田園に死す」   芝居漬け       田中伸子(ジャパンタイムス)
 09年スマッシュヒット舞台。寺山修司の代表作映画「田園に死す」を天野天街脚色・演出した寺山の自伝的舞台の再演をスズナリで観る。
 今回の上演でも巷での好評を得て、おそらく2年前に見逃したという寺山・演劇ファンたちもつめかけ、最終日の日曜マチネは開場前から多くの人が劇場を取り囲む、大盛況での千秋楽となった。

 

「田園に死す」   噴き出るレビュー
「10分未満で構成された各シーンを便宜上 A、B、C…と呼ぶとして、その A、B、C…にはおのおの A’、B’、C’…と類似形が用意されている。そしてそれら全てのシーンが、例えば A - B - A' - C - B' - C'…というように行きつ戻りつしながら、主宰・流山児の急くように、物語は先へ行く。

 物語にはサーカス一座が登場する。そこでの出し物は列挙したところで「ネタバレ」というほどのネタバレにはならないが、それでもやはりこれから観る人のために、挙げずにおこう。
印象だけ言うならば、シルク・ド・ソレイユのような超人芸を見せるサーカスではなく、寒村に住む人たちの気紛らわしにしかならないようなサーカスである。
 寺山はこのサーカス一座の寂しさを言いたかったんじゃないか、と僕には読めた。下の毛が生え揃わない青年が、理由も曖昧に「東京へ行こう」と始めるこの芝居には、寺山の故郷と東京に対する想いが籠って観えた。 結果、どのように寺山が故郷と向き合うか、またホンをどのように構成したか。それは芝居の先を観れば良いとして、冒頭、故郷を捨てる決意をした青年が迷い込んだサーカスは、彼が(また寺山と同時代を生きた若者が)辿り着いた末の、東京の化身ではなかった。 僕がこの芝居の主戦場をサーカスと読んだためか、物語全編がサーカス仕立てに観える。その構成がサーカス的であり、劇中訪れる群舞がサーカス的であり、観る者を不安と焦燥に駆る音楽がサーカス的であった。(役者陣の芝居はサーカス的であったか?全体に寓話的に処理されているようだが、僕にはよくわからない。僕自身が芝居の霧の中にいるのだから) 

 群舞部分の振り付けと音楽、殊更振り付けの面白さは発見だった。音楽あればこそではあろうが、その不安と焦燥を一層濃く色づけ、ちょっと全体主義的な怖さも感じた。単純に客を驚かす、怖がらせる、不意を衝く。そういったびっくり箱のような可愛げが、客にとって刺激になることを再発見した芝居だった。

 

「田園に死す」   梁塵日記                         山田勝仁(演劇ライター/日刊ゲンダイ)
 コラージュの天才・天野天街が寺山修司の自伝的映画「田園に死す」や舞台「身毒丸」などを解体、脱構築した作品。冒頭、増殖していく俳優たちが読み上げる寺山の短歌。それさえも分解されたコラージュだ。そして、舞台いっぱいに立ち現れた登場人物たちに折り重なるように、映画の冒頭シーンが映し出され、シーザーの合唱曲「こどもぼさつ」の大合唱。カラスの影が背景を横切る。鳥肌の立つようなオープニング。 続いて、「故障」した柱時計をめぐってループされる母親(平野直美)と男(沖田乱)の会話。家出しようとする中学生のしんじ、大人になったしんじ、そして病院のベッドで管につながれたしんじ(シーンとしては出てこないが)、増殖するしんじ、「田園に死す」の化鳥、「身毒丸」の継母……何重ものメタ構造とおびただしいイメージの連鎖。

豪奢な饗宴が収斂していくのは12時05分。寺山の心音が止まる時刻。アグレッシブなJ・A・シーザーの音楽と緩〜い夕沈ダンスの幸福かつ絶妙なコラボレーション。 スズナリの階段を上っていく晩年のしんじが少年時代のしんじに変わるラストシーンにじんわりと涙。寺山の世界を独自に解体し、見事に脱構築した天野ワールド。これを寺山さんが見たら面白がっただろう。

 

「田園に死す」   CORICH舞台芸術〜「恐山」発「下北(沢)」行き、寺山修司を巡る旅〜

「同名の映画が含む要素、つまり、寺山氏の自伝的な内容、母、恐山、映画、時間というキーワードを見事に散りばめ、ギラギラとしながら泥臭く組み上げられた作品。大勢の役者、映像、音楽が織り成す全体の熱量は凄まじく、とても濃厚。『田園に死す』は、もともと寺山修司氏の歌集のタイトルということもあろう、オープニングで、出演者が舞台に登場しマッチを擦りながら登場し、有名な短歌「マッチ擦るつかのま……」(歌集『田園に死す』からではなかったと思うが)などを叫ぶ。短歌は、単語やセンテンスに分けられ、執拗に繰り返されていく。それによってコトバが言葉とことばに重なっていく。寺山が始まった、天野が始まったという合図だ。マッチを擦り、叫びながら現れる出演者で舞台は埋まり、タイトルと唄。ここまでで、すでにジビれてしまっていた。
あまりにもカッコいい。

確かにマッチ擦りながらのシーンは、本家(?)万有引力では必ず(と言っても何本も観ているわけではないが)どこかで行われるシーンではあるのだが、それは横に置いたとしてもカッコいいのだ。少年王者舘の天野天街氏が演出とあって、確かに少年王者舘の匂いはプンプンしていた。映像の使い方・見せ方、セットの使い方・見せ方・手品のようなシカケ、コトバの遊び・つなぎ方、ダンス等々で。しかし、少年王者舘は、とにかくそれをストイックに突き詰めていき、がっちりした形状であるとすれば、こちらは少し違う。明らかに、流山児★事務所の作品に仕上がっているのだ。それは、「人」の「在り方」だ。

人の持つ、能力と曖昧さと、その場(あるいはその時間)との関係性を強く感じる。つまり、ライブ感とでも言うか、人が動いている感とでもいうか、そんな感じだ。もちろん、少年王者舘にもライブ感や人がいることの、強い刺激はあるのだが、少年王者舘には、髪の毛1本も入らないような緻密さがある。一方、流山児★事務所にはもう少し「余白」があるような印象なのだ。特に観客の空気を読んで動いているように見える、流山児氏本人の存在にそれを強く感じた。観客席側から登場し、「一体誰なんだ?」と観客が思っている間に、キャラメルを食べ、気持ち良く唄ってはけるのだ(後で当パンを見たら役名は「寺山司修」だった!)。結果、天野天街(少年王者舘)と流山児★事務所の関係はとても美しく引き合い、押し合いながら相乗効果を生んでいるという、コラボの一番いい形になっているのではないだろうか。

流山児★事務所を思い描き、脚色・構成した天野天街氏の腕は確かだということでもある。そこに天野天街氏自身の、少年王者舘で培ったテクニックがすべて投入される。オープニングあたりでは、映画のほうの映像を映していたのだが、それは、「これとは違う」「これとは同じ」という意気込みと原作への敬意の現れではなかっただろうか。

「覗いている」「シンジ」の登場という、かなりアイロニーの効いた主人公の登場から、新司、しんじ、新次が現れ、ウソかマコトかわからない修司の自伝的なストーリーを軸に、映画の軸を絡み合わせて、母や自己の位置を探るという、寺山修司を巡る旅に観客をいざなっていく。繰り返し、繰り返しのくどさ、その微妙なズレ、そういう演出のシカケも楽しい。映像のインパクト、シーンのつなぎは、映像の編集のようでもあるのだが、確かに演劇(舞台)でしか味わえないダイナミックさとインパクトを感じる。柱時計のシーンの凄まじさ!
 幾重にも重なっているエピソードとシーンの関係、そして、一瞬の暗転と音楽(唄)がいい。J・A・シーザー氏の音楽(歌曲)は、合唱が、その真価を発揮する。さらに、花輪和一氏による、アナクロなフライヤーも素敵すぎる。ダンスシーン、特にラストに延々続くダンスは、モロに夕沈さんの振り付けだとわかるものだ。大人数で、見せ、かつ音楽との親和性も良いもので、トランス状態に陥りそうなほど、しつこく繰り返され、ラストを飾る。
 ラスト、映画では「新宿字恐山」となり、一挙に新宿の雑踏となるシーンは衝撃的だったが、舞台では、「下北」である。青森の下北ではなく、演劇の街「下北沢」なのだ。舞台奥に、今観客がいる(はずの)スズナリの入口が再現されている。39歳の新次(シンジ、しんじ、新司)がそれを見上げるというのは、「演劇」に戻っていく姿であり、流山児氏と天野氏の強いメッセージだろう。印象に残る素晴らしいシーンだと思う。(アキラ)

 

「田園に死す」   演劇◎定点カメラ  ねこ
 2009年初演、紀伊國屋演劇賞受賞作、再演。久々に、よいしょ詰めを目撃する大盛況のスズナリ客席。舞台、構成は初演と同じ。キャスト替えで色合いが違うとこあり。母子家庭の覗き好きの少年は隣家の人妻に誘われて家出をする。彼の心にはいつも母が居た。

 寺山修司の言葉と所行、伝説をごった煮にして、天野イリュージョンで仕上げた一品。冒頭の「時計が故障した」の繰り返しと変調を楽しめばOK。後は波に運ばれ足下を すくわれる、ここに居て彼方に運ばれるな劇的トリップ感を堪能でき。役者演技、スタッフワークとも安定し、より不安定な世界の面白さを味わえて○。流山児の乱入スパイスも口直し?に上々。

 


「ユーリンタウン」    〜充実した舞台〜 @「ミュージカル」誌 2012年1・2月号 小藤田千栄子

09年5月以来の再演で、かなりのキャストを変えている。初演よりミュージカルのプロが多く、その分充実した舞台になっていた。水不足の未来に、公衆便所を有料化する話だが、今回は、中心に別所哲也。やはりミュージカルのプロなのだ。全体の進行にメリハリがつき、音楽監督=荻野清子の力強い演奏ぶりが客席から見えるのもよかった。

 

「ユーリンタウン」 〜スケールアップした再演〜@村井健がゆく  2011年10月の舞台ベスト3 

流山児の個性そのものの舞台。やんちゃで活気がある。日生版では到底考えられない「水尿譚」。 震災日本の未来を感じさせるイロニー・ミュージカル。初演よりスケール・アップしての再演だ。

 

「ユーリンタウン」   〜「いま・ここで」の演劇 〜 @演劇誌「テアトロ」  2011年10月号 七字英輔 

 流山児☆事務所公演、『ユーリンタウン』(グレッグ∵コティス脚本・詞、マーク・ホルマン音楽・詞、吉原豊司翻訳、坂手洋二台本、流山児祥演出、座・高円寺)も、一昨年好評を得た舞台の再演。しかし、変えるべきところは変える。それが成功している。
 まずは客席の設定が異なる。初演では中2階を設け演技エリアとしても使ったが、今回は、ほぼ舞台に正対する客席のみになった。もうひとつは、狂言回し兼悪徳警官役にミュージカルの出演歴が長い別所哲也を起用した。
声量は勿論のこと、アドリブを交える余裕や愛嬌が、このミュージカルのスケールを一段と大きくした。さらに入れ子の台詞がふんだんに入る台本がいい。それに、印象的なメロディや訳詞(浅井さやか)が、この作をブレヒト劇を思わせる音楽劇にした。


 水不足から公衆便所がすべて有料になり、洩らした者は「ユーリンタウン(小便の町)」へ追放される社会を扱う近未来もの。町を牛耳るのが水の管理会社社長(塩野谷正幸)で、「水」を「原発」や「電力」の比喩と捉えれば、「水」管理会社はそれを独占する電力会社に比定される。さらに、この上演
前から、アメリカで「反格差デモ」が激しくなった。この舞台がニューヨークのオフ・ブロードウェイで幕を開けたのが2001年。まさに、「いま・ここで」の演劇になった。

 

「ユーリンタウン」    〜大資本に反旗、「ユーリンタウン」低価格上演!」 〜 @11年10月15日日刊スポーツ

 「別所哲也が主演するブロードウエイ・ミュージカル「ユーリンタウン」が14日座・高円寺1で幕を開けた。金儲けを企む大資本に反旗を翻すホームレスたちの姿を描く異色ミュージカルで09年に座・高円寺のこけらおとし公演で初演されたときは5000円以下という低価格設定もあって満員が続いた。初めてブロードウエーで見たときの衝撃が忘れられないという別所は「絶対に共有したい物語。今までのすべてをぶつけて体当たりで演じたい」と語っていた。

 

「ユーリンタウン」 〜別所哲也「体当たり」で挑む!」〜@11年10月15日中日スポーツ

 「2002年トニー賞主要3部門を受賞した人気ブロードウエイ・ミュージカルで、地球温暖化で水資源が枯渇し展開される群集劇。」  

 

「ユーリンタウン」〜奔放なミュージカル、想定外のクリーンヒット!〜  @日本経済新聞11年10月25日 舞台レビュー :内田洋一

 すれからしのシアター・ゴーアーにとって、この「ユーリンタウン」のような想定外のクリーン・ヒットに出合うことほど、うれしいものはない。大宣伝もしなければ、テレビで顔の売れる役者で配役をかためてもいない。2カ月におよぶ稽古(けいこ)で磨きあげ、豪華な話題作をもしのぐ、奔放なミュージカルを送りだしたのだから。  話はとんでもない。なにしろタイトルを直訳すれば「ションベン街」。地球は深刻な干ばつで水不足に見舞われている。有料公衆トイレの使用が義務づけられ、金がないからといって立ち小便すれば即逮捕、ユーリンタウンなる恐ろしい場所へ送りこまれる。理不尽な圧政に苦しむホームレスたちが体制転覆をはかって立ち上がるが、事態は思いもよらぬ展開へ、というB級寓意(ぐうい)劇。  

 2年前の夏、ところも同じ座・高円寺で初演され、口コミで評判になった舞台の再演。もとはオフ・ブロードウェイと呼ばれるニューヨークの小劇場で生まれ、2001年にブロードウェイの商業劇場に進出、トニー賞を3部門で受賞した異色作である。 演出家の流山児祥は小劇場ミュージカルとして大胆に構成する。よくあるコピーのような翻訳上演ではない。再演でキャストを大きく入れ替え、衣装も装置もやり直して緊密なミュージカルに練り直した成果に手ごたえがある。  

 なにより、マーク・ホルマン(音楽・詞)の曲がすばらしい。無調的な響きをもつ、しらじらとした独唱曲が苦難にあえぐ孤独な心を照らしだす。かと思えば、ホームレスの群衆(どこか「キャッツ」風)が客席まではねまわり、強烈な合唱曲を繰りだす。舞台下手のバンドとのかけ合い、ことにピアノの荻野清子(音楽監督)との呼吸が絶妙、猥雑(わいざつ)でまがまがしい群舞を導いて細部まですきがない。あからさまなまでにバカバカしいお話に、飛び切りの音楽。これぞB級、その対照が見事だ。  

 前田清実の振り付けにも目を見はる。無名の役者たちをよく動かし、群衆のうねりを威勢よく表している。両手をだらんとさせ、亡霊のような動きから躍動的なダンスに高めていったり、勢い余って倒れそうになりながら回転したり、不思議な曲線美で異常な世界に巻きこまれた感覚を示すあたりは、うならされる。  

 劇場の暴れん坊、流山児祥も年輪を刻んだものだなあと思わせられるが、猥雑、過剰、エログロ、などなど1970年代に興隆したアンダーグラウンド演劇の雑食的エネルギーをこの舞台に投げこんだ。唐十郎や寺山修司が主導したアングラ演劇は、一面で歌を多用するミュージカルでもあった。ただ多くの場合、役者の歌唱力やダンスがお粗末で、アングラすなわち粗悪品のイメージも強かった。すぐれた役者と向き合えばアングラのセンスはいまなお光り輝くことがわかる。  その流山児演出は観客を手玉にとる。入場時、制服姿のセクシーな美女たち(圧政の象徴)が「こっちよ」などとささやき、席に案内してくれる。すわれば拍手をうながされ、ホームレスのビラをまかれる。あの手この手で舞台に注意をひきつけられ、役者もまたアドリブ的な瞬発力をみなぎらせる。観客への挑発を過激に試みた寺山修司の演劇論が、この舞台には生き残っている。  大劇場のグランド・ミュージカルで活躍する別所哲也が警官の親玉を演じ、大いに意気をあげる。流山児の相棒といっていい塩野谷正幸がトイレ管理会社の悪徳社長を演じて、いかがわしくも、キッチュだ。ホームレスの「世界同時ションベン革命」をひっぱる青年の今村洋一、悪徳社長の愛娘の関谷春子の純真な恋はまるで「ロミオとジュリエット」。それも台本のいたずら心だろうが、B級であればこそ必死の演技が必要で、この点はきれいにクリアされた。

 歌は真剣そのもの、今村の透明感、関谷のブルース調の懸命な歌唱も胸にしみ、不思議な命が役に宿る。  ほかに輝く役者の名をあげれば伊藤弘子、坂井香奈美、清水宏。坂井の愛きょうのあるセリフとカンのいい歌唱力、清水の観客をひきこむ勢いの良さ。群衆シーンで一丸となるコーラスの面々も歌、踊りともに頑張る。  演劇通なら、この舞台が20世紀演劇の巨匠ブレヒトの演劇論で構成されることに気づくだろう。観客を甘美なラブソングやコント、アクロバット的な演技で誘いこみ、それでいて予定調和的なエンディングを裏切る。世界の矛盾をありのまま認識させようと、意外性(異化効果という専門用語がある)を駆使し、意識の覚醒(かくせい)に導く。グレッグ・コティス脚本のこの舞台はブレヒトの代表作で、闇社会を生きる悪漢の音楽劇「三文オペラ」の似姿であり、ブレヒトの異化効果を象徴する「ソング」を用いた「逆三文オペラ」でさえあるのだ。  

 「ユーリンタウン」が何であるかは劇中でわかる。その味は苦い。革命運動は成功しそうだが、終わりは……。  唐突な結末はお話に酔った観客の頭をさますのに十分。節水か流し放題か。専制か自由か。ブレヒトにならえば、答えは観客が見いだすものなのだ。  井上ひさしが最晩年の朗読劇「水の手紙」で描いた地球の水不足の問題、それは震災後の日本でいっそう切実に感じられる。水がなくなってまず困るのが水洗トイレだというのは、神戸でも東北でも明らかだった。出せなくて行き詰まる人間、それはただの笑い話でなく、あすの我が身だ。  

 個人の無制限の自由(廃棄の自由でもある)は地球環境に「優しくない」面がある、という含意は今日の世界状況をついて、思いのほか鋭い。2年前の初演は稽古3カ月だったそうだが、その3分の1にも満たない日数で初日を開けてしまう「話題作」が大宣伝される現実を知っておこう。スターのスケジュールや稽古場を押さえるのが大変だからで、稽古が長ければギャラも仕込み費も高くなる。演技そっちのけの舞台が横行するなか、このミュージカルは演劇界の「体制」に立ち向かうアンチテーゼでもあった。 
吉原豊司訳、坂手洋二台本。休憩を入れて約2時間40分。(編集委員 内田洋一)

 

「ユーリンタウン」  〜超〜贅沢な“社会派”ミュージカル 〜 @11年10月15日 しのぶの演劇レビュー 高野しのぶ

  『ユーリンタウン』とは日本語に直訳すると「おしっこの町」。深刻な水不足のため公衆便所が有料化され、お金を払わずに排泄した者は厳しく罰せられるという、ちょっと変わった設定のお話です。また、語り部が「このミュージカルは…」と観客に話しかけたり、これから起こる事件の結末を先にしゃべってしまう驚きの展開もあります。 そんな一筋縄ではいかない、クセのある海外ミュージカルですが、遊び心があるオリジナルの日本語台本・訳詞のおかげで言葉が面白い上に、作品の狙いがとてもわかりやすくなっています。 一番の見どころは40余名の大迫力のアンサンブルでしょう!見事な振付の群舞とステージングで、客席を含む空間全体が一気に『ユーリンタウン』の世界に染め上げられます。特に体制側と民衆側の人々の対立場面は、目が離せない見せ場の連続!  

 原発事故による放射能汚染の実態がやっと明らかになってきた今、最後のメッセージは初演時よりも鋭く、重く胸に届きました。ミュージカルが好きな人にも、そうでない人にもお薦めしたい、生演奏ありの超〜贅沢な“社会派”ミュージカルです。 2002年に日生劇場で主役のボビーを演じた別所哲也さんは、警官役でほぼ出ずっぱりです。おなじく警官役の清水宏さんがアンサンブルの皆さんと一緒に開演前から盛り上げてくれます。300席以下の小空間で、役者さんは観客にどんどん話しかけて来ますから、ぜひ積極的に楽しむ気持ちで、ノリノリで、劇場に入ってください♪ (10月15日:高野しのぶ)

 

「ユーリンタウン」  〜今年度ベストワン!流山児演出のベスト3〜  @11年10月17日  江森盛夫の「演劇袋」 

  2009年に上演され、高い評価を受け、紀伊国屋演劇賞を受賞した作品だ。出演者はその評価が励みになって自信を深めたのだろう、この再演はさらに洗練され、凝集度を深めた舞台になった。「ユーリータウン」は訳せば「ションベン街」・・・、地球をおびやかす水不足のためトイレの水を公衆便所にしか使用を許さないことになり、それを悪用してトイレを有料にして官憲とグルになってあくどく儲ける業者・・立ちションベンや野糞は厳しく取り締まられユーリータウンに送られる。ユーリータウンとは謎の場所で、ここでは明かさないことにする。  ゼニのない貧乏人やホームレスは毎日死ぬ苦しみだ・・。そこへ正義に目覚めた青年とそれに共感した悪徳業者の1人娘が愛し合い、貧乏人を「救うべく「ションベン革命」の旗を揚げ、革命運動にのりだした・・。  このミュージカルの面白さは、頻出する”愛”とか”革命”とかの固い言葉が、ダンスや歌の凝集された悦楽のなかに溶け込むとそういう言葉が輝くのだ・・。

 今回はミュージカルの大物である別所哲也を迎えて、さらに厚みを増したキャストの中で、一枚も2枚も皮がむけて演技が深まり、迫力が増したのが流山児★事務所の2枚看板、塩野谷正幸と伊藤弘子、それにおどろくほど自由闊達な坂井香奈美、彼らの、とくに伊藤の歌唱力はミュージカルのパターンを超えた優れて演劇的な訴求力をもつ・・。それとオーデシションで選ばれた正義の青年を演じた今村洋一の歌の明確で透明感がある歌と台詞の声が素晴らしい・・。革命は青年の犠牲が稔って成就したかに見えたが、地球全体を覆った水不足・旱魃で人間は死んでゆく・・。 この舞台での要所、要所での客のノリがいい、新自由主義や格差社会や世界恐慌の不安に襲われている今の社会が、このミュージカルのリアリテイに共振しているのだ・・。社会不安への抗議と、資本主義の必死の延命・・そのストラッグルのアクチュアリテイ・・。今年度ナンバー・ワン、流山児演出でもベスト3に入る舞台だろう。素晴らしい初日だった・・。

 

「ユーリンタウン」  〜「ユーリンタウン」とヒロイン役・関谷春子に注目! 〜@11年10月17日東京スポーツ 阪本良  

 話題のミュージカル「ユーリンタウン」(10月14〜30日、東京・杉並区の座・高円寺)が「連日満員」の人気を呼んでいる。オフ・ブロードウェイで大ヒットして2001年にブロードウェイに進出し、02年トニー賞3部門(脚本、楽曲、演出)を受賞したミュージカルの名作で、日本版は坂手洋二の台本で、流山児祥が演出。09年に流山児★事務所創設25周年記念公演としてロングランされた。今回半分のメンバーが入れ替わり、2年ぶりの再演となった。  ユーリンタウンを直訳すると「ションベン・タウン」。近未来、干ばつが地球を襲い、節水のため市民は有料公衆トイレの使用が義務付けられていた。違反すると逮捕され「ユーリンタウン」に送られる。そうしたなか、有料公衆トイレを経営するUGC社の横暴な使用料値上げに、ホームレスたちの不満が爆発。「ションベンをする自由」を求めて「ションベン革命」がボッ発するという物語。主演の悪徳警官ロックストック役に今回新たに別所哲也を迎え、ヒロインのホープに関谷春子、有料公衆トイレ管理人ペニーに伊藤弘子、ホープと恋に落ちるが、父親(大久保鷹)をユーリンタウンに送られ、ションベン革命の先頭に立つ若者ボビーに今村洋一などのキャスト。  

 留置場の監房のような公衆トイレのセットが組まれた舞台で、40人を超すキャストが舞台狭しと走り回り、踊って歌いまくるパワフルでスピーディな展開に圧倒される。なかでも、汚れた扮装のホームレスたちの中で掃き溜めにツルといった感じで純白のドレス姿で登場するヒロインのホープ役・関谷は、透明感のある圧倒的な歌唱力とパワフルな演技でドラマを引っ張っていき、本格的なミュージカル女優の登場と注目されている。 「ションベン」だの「革命」だの挑発的な言葉が飛び交い、オフ・ブロードウェィと日本の小劇場演劇の持つ鋭い風刺や反権力が合体した異色のミュージカルになっている。

 開演前に出演者たちが客席を盛り上げたり、別所がところどころで物語の先をほのめかしたりして観客を誘導する狂言回しもいい。音楽監督の荻野清子が自らピアノを担当するバンドの演奏も軽快で、最後まであきずに楽しめる。

 

「ユーリンタウン」  〜別所哲也が“悪”を好演!あの型破りミュージカルが再び! 〜@ぴあ劇評 11年10月17日 野上瑠美子  

 台本・坂手洋二、演出・流山児祥により2009年に上演された、ブロードウェイミュージカル『ユーリンタウン』。座・高円寺1のこけら落としとして上演され、紀伊國屋演劇賞団体賞に輝くなど、その年の演劇界で一際大きな注目を集めることとなった。そんな『ユーリンタウン』の再演が早くも決定。キャストも新たに、10月14日、同じく座・高円寺1にて初日の幕を開けた。

  世界的な水不足のため、節水を余儀なくされた近未来のある街。用を足すためには公衆トイレを使用せねばならず、しかも有料であるため、貧民街で暮らす人々にとってはたまったものではない。“立ちション”をしたならば、警官のロックストック(別所哲也)らによって即逮捕。恐怖の「ユーリンタウン」へと連行されてしまう。そんな中、すべてのトイレを管理しているUGC社の社長クラッドウェル(塩野谷正幸)が、トイレ使用料の値上げを断行。それに反発したトイレ管理人助手のボビー(今村洋一)は、貧民街の人々とともに革命ののろしを上げる。 きらびやかで美しい、誰もが幸せに満ちた世界。

 そんなミュージカルを『ユーリンタウン』に期待して行くと、観客は大きく裏切られることになる。まずタイトルは直訳で「小便の街」。開始早々にハッピーエンドではないことが告げられ、ミュージカルなのに歌えなかったと登場人物が愚痴り出す。何ともミュージカルらしからぬミュージカルな のだが、その猥雑で、底知れぬ熱量を秘めた群衆たちがハーモニーを奏でた瞬間、全身に鳥肌が立ち、観客は一気にこの世界に引き込まれてしまうのである。 ロックストック役の別所は、これまでにない魅力的な“悪”を好演。狂言回しとして観客へのアピールもたっぷりと、劇場を大いに盛り上げた。警官バレル役の清水宏は、飄々とした演技で作品にリズム感を与える。前作から引き続きの参加となる塩野谷は、さすがの存在感。コミカルさに狂気を同居させ、資本側のいやらしさと苦悩を体現した。また舞台下手に配された生バンドの効果は絶大。三谷幸喜作品の常連でもある萩野清子が音楽監督を務め、4ピースとは思えないほどのエネルギッシュな演奏で魅せた。

 前出の通り、本作にハッピーエンドは用意されていない。群衆たちは高い理想を掲げ、革命を成功させるが、現実はそううまくいかないのだ。しかしその失敗から学ぶか、学ばないか。どちらを選択すべきなのか、観る者に痛烈に訴えるラストが印象的だった。

 

「ユーリンタウン」  〜ミュージカル界の問題作『ユーリンタウン』 2年ぶりに再演!〜 @演劇ライフ10月15日

舞台は2幕構成で1幕が80分。10分の休憩を挟み、2幕が75分の合計2時間45分ほどとなっている。地球温暖化による水資源の枯渇。人類存続の危機をも利用して、更なる金儲けを企む貧欲な大資本など社会性あふれるテーマの作品だが、コミカルに創られているので、気負わずに楽しめる。

 主演の別所哲也はアンチヒーローである警官ロックストックを好演。その姿は、観ていて清々しい。また、劇中ではラップも披露している。音楽監督・荻野清子の生伴奏にあわせて総勢44人によるダンス&ナンバーは、とても厚みがあり場内が揺れるほど。  この臨場感=小劇場ミュージカルの力を全身で感じることができるのも、本公演の醍醐味だ。チケットも低価格なので、この機会にぜひ劇場まで足を運んでいただきたい。  

 

「ユーリンタウン」  〜ミュージカルの本質的な面白さ! 〜 @演劇ぶっく:「演劇キック」観劇予報  榊原和子   

2011年10月19日 このミュージカル『ユーリンタウン』は、2009年に流山児★事務所創立25周年記念公演として、また座・高円寺1のこけら落とし演目として1か月、全30ステージのロングラン上演を果たした。公共劇場ならではの「ミュージカルの価格破壊」というべき低料金(5,000円以下)での上演に、連日超満員の観客が劇場に詰めかけるという現象を生みだし、メディアでも「絶賛の劇評」が掲載されるなど、前代未聞の「事件」となった。  そして再び、国際的に活躍する2人の演劇人、流山児祥&坂手洋二がタッグを組み、屈指のミュージカル俳優、別所哲也を迎えて再演することになった。

 題名の『ユーリンタウン』とは、直訳すると「ションベンタウン」。地球温暖化で水資源の枯渇のなか、人類存続の危機という事態をも利用して、さらなる金儲けを企む貪欲な大資本と、それに反旗を翻して蜂起するホームレスたち。 そんな社会性あふれるテーマを、オペラ、ゴスペル、ロックといった数々のナンバーと迫力のダンスで繰り広げるこの作品は、オフ・ブロードウェイで爆発的なヒットとなり、01年にはブロードウェイ進出。02年にトニー賞主要3部門(脚本賞・楽曲賞・演出賞)を独占したブロードウェイ・ミュージカルの名作である。主役は悪徳警官のロックストックで、今回この役に扮する別所哲也は、歌唱力と求心力で物語の中心で群衆を圧するパワーを発揮。清楚で強いヒロインのホープ役の関谷春子は初演に続いての出演。また恋人の純粋な青年のボビー役には今回は今村洋一が挑んでいる。伊藤弘子、坂井香奈美、塩野谷正幸をはじめとする流山児★事務所の俳優たち、客演の清水宏、大久保鷹、福麻むつ美、三ツ矢雄二という存在感が作品に厚みを加え、ミュージカルの楽しさを伝えてくる舞台だ。

そして流山児祥の演出は、このミュージカルの本質的な面白さ、猥雑さと庶民のパワーを打ち出して、座・高円寺の客席を十分に活用、空間全体をユーリンタウンの世界に変えてしまう力を持っている。


『花札伝綺』  目黒:円融寺公演評〜和み芝居〜  @村井健がゆく 2011年の8月のベスト3 

恐れ多くもご本尊鎮座の本堂で、それも観客一同尻を向けての和み芝居。気分転換、お客も役者もリラックスしてのあっという間の1時間半だった。劇場へのこだわりすぎを実感させるいい試みだ。

 

『花札伝綺』    目黒:円融寺公演評 〜アクチャルに浮かび上がる生死観〜 @江森盛夫の演劇袋 11年08月07日

作:寺山修司、演出:青木砂織、流山児★事務所、目黒・円融寺本堂。

開幕、”みなさん、本堂の阿弥陀様の像にお尻を向けて舞台にむかっていらっしゃいますが、後ろを向いて阿弥陀様に手をあわせて拝んでからはじめましょう”と声がかかり、全員阿弥陀様に手を合わせた・・・。

「この生と死のアラベスクが織り成す絢爛たる芝居を、メイク、音楽、ダンスなどすべてにわたって精緻に躍動させ、死人や生死の境にゆている人物達を露出させ、躍動させて寺山の世界を寸法どうりに復元させた。墓場の鬼太郎を華麗な男装姿と、あでやかで色っぽい女のしたたりで演じた伊藤弘子が舞台のトーンを高めて圧巻・・。」

これは3月1日のスペース早稲田の上演時の文章だが、このお寺での上演は、御仏のご加護があったのだろうし、芝居が死者をあつかう芝居でもあり、青木の演出がさらに精緻に、完成度が非情に高いグレードアップした上演に進化した。

この芝居、インドネシア でも熱狂的に観てくれたそうだし、甲府の善光寺公演では”このお芝居を観て、死ぬのが怖くなくなった”と語ったお婆さんがいたそうだ。

3・11の大震災は日本人の死生観に甚大な影響を及ぼした・・。
 
この芝居の死に向う姿は現在きわめてアクチュアルに浮かび上がってきたのだ。


『花札伝綺』    山梨:甲斐善光寺公演  山梨日日新聞 〜生と死のはざま コミカルに表現 〜11年08月01日(月)朝刊

 生と死のはざまに立つ人々をコミカルに描く寺山修司の戯曲『花札伝綺』(寺山修司:作 青木砂織:演出)30(土)、31(日)の両日、甲府・善光寺で上演された。
アングラ演劇の流れを継ぐ演出家、流山児祥さんが全国の寺社やライブハウスを“劇場化”する試み「レパートリーシアター」の一環で、寺院では国内「初」の公演となった。

 物語は家族が皆「死んでいる」葬儀屋一家の一人娘が「生きている」人間に恋をするところから始まり、個性豊かなキャラクターが生と死についてさまざまな疑問を投げかけるにぎやかな音楽劇。
寺の本堂には白黒の幕が張られ、顔におしろいを塗り極彩色の衣装をまとった役者が「死人」をユーモアたっぷりに演じた。

 初日の30日(土)は約200人が詰め掛け、軽妙なやりとりに笑い声を弾ませていた。

 


『花札伝綺』   インドネシア公演評   A.SARTONO 〜 シュールレアリスム的劇世界〜11年7月16日

"花札伝綺"は、ふたつの“形・姿を持った“精神(魂)の出現から始まる。死者の世界は、沈黙の中で動いていく。彼らの活動は単調で、時間を気にしないように見える。この死者の世界は、棺桶だけが立っている黒と白のベールの、装飾とも呼べるセットの前で繰り広げられる。 舞台上のメインセットの黒と白の幕は、多分、この世界を象徴しているのだろう:生と死の世界、つまり、それこそ『花札伝綺』の主要なテーマ。その他には、ステージの正面の一角に、精神(魂)への祈りの媒体としてランプ(ランタン:燈籠)が置かれている。

第二場面は、葬儀社内。同社は、団十郎を家長として、死ぬことを望んでいる人に、いくつかの死に方を提案したり、実践している。例えば、笑死、轢死、はらきり(切腹)、首つり、食死、飲死、腹上死、悲死。歌死。すべては「金」さえ持っていれば、選ぶことができる。この劇の物語は不条理の世界であり、超現実主義(シュールレアリスム)的世界のようにも見える。また、日本の民間伝承の世界のようでもある。生と死の世界・神々の世界とこちらの世界。それらは次第に"リアル"な世界になり、まるで「普通」の事であるように思われてくる。 

物語の内容は、世界の中(生と死の世界)で演じられている。その二つの世界を互いに通過しあい、追いかけあい、入ったり、出たりしているのだ。

日本語で上演されている公演を理解するためには、集中力を要した(舞台上には字幕が映しだされている)が、音楽劇であり、ポップでスタイリッシュな喜劇であり、ここには至るところに、生と死の世界についての質問や、哲学的要素がちりばめられていた。生と死、それはどちらも、同様に重要。死がなくなると生はその意味を失うことになる。同時に生がなくなると、死の意味もなくなる。すべての生物は死ぬのだ。「さあ、これまでに死んでないヤツが1人でもいたか!?」

 生と死の世界をつなぐ階段を通じて、行ったり来たりしているような『花札伝綺』の物語。流れるようにスムーズな変化(男の鬼太郎から女の鬼太郎へ)・衝撃(時には混乱)の連続。生と死は、実は制限などなく、簡単にお互いの世界を行き来できるのでないか。

 個々の演技の完成度・充実した音楽・発声・ほとばしる表現。それは"自動的"に表れているかのようだった。Pendopoの柱に制限されてない(邪魔されていない)ブロッキングや、“インテリジェント”な照明のサポート。そして、上演中の演者の驚異のスタミナ。流山児★事務所公演は実に魅力的だった。


『花札伝綺』    インドネシア公演評 @JYOGJYA NEWS.COM 〜生きている世界と死んでいる世界の鬼ごっこ〜 11年7月16日

 「花札伝綺」は東京の町はずれの葬儀社(「死の家」)で行われる物語。生きている世界と、死んでいる世界を10人の役者で描く音楽劇「花札伝綺」。7月15日金曜日に、TembiRumah BudayaPendopo Yodanegaranで、流山児★事務所によって上演された。これはフェステイバル、Apresiasi Tari Tembiの初日。

音楽劇「花札伝綺」は、すでに死亡している葬儀社の家族を中心に展開。ただ、一人、歌留多だけは、まだ生きている。歌留多はまだ生きていて、墓場の鬼太郎に恋をする。そして遂には、「花札伝綺」の物語は、“生きている世界”と“死んでいる世界”の間での鬼ごっことなっていく。 多くの死者たちに囲まれて、鬼太郎と団十郎の間では、誰が生きていて、誰が死んでいるのか、どんどん曖昧になっていく。団十郎の望み、娘の歌留多を死の世界に連れ戻す事に成功したとしてもだ。

演出家、青木砂織は、「解釈はそれぞれの観客にお任せします」と言う。「鬼太郎はまだ生きている。そして彼(死んで彼女になったが)は死にたくない。」ここにも答えはない。すべて答えは観客のものである。

 寺山修司作「花札伝綺」は、日本の前衛劇団、演劇実験室◎天井桟敷によって、1967年に初演された。本来この物語は、もっと長い作品で、ミュージカル劇ではなかった。44年後、彼らは音楽劇としてつくりかえたのである。寺山修司の詩、作曲は本田実のオリジナル楽曲。その特異な衣裳も日本社会の特色を表現している。「死亡記事がのっている新聞」を張りつけた衣裳。「衣裳のデザインも自分たちでしている」という。「日本で公演した時は、日本の新聞しかつけていなかったです。が、こっちへ来てインドネシアの新聞記事も」もちろん、貼り付けられていた。Apresiasi Tari Tembi2011が、流山児★事務所公演をインドネシアに招へいした。役者たちは日本語で演じた。観客は、インドネシア語に訳された字幕によって、十分、劇を理解することができた。これは、 私たちにとって「初」の体験でもあった。

 ♪めくって 重ねて 連れてった 花札伝綺。

さあ、 思いだしてみな 死んでない人間が 一人でも いたか?

 

『花札伝綺』    インドネシア公演評 @JYOGJYA NEWS.COM  〜死の物語が音楽に包まれて〜11/7/16

 白塗りの、日本の新聞(ニュース)を張り付けた衣装を身にまとった、俳優たちが、観客席から登場し、『花札伝綺』の舞台が始まった。俳優の一人が観客に話し始めると、俳優たちは思い思いの行動を起こす。突然、音楽が流れ始ると、彼らは舞台上で完全に「ひとつになった」。

音楽は実に多彩で、それぞれ違ったスタイルのダンスや歌が全編を彩る。随所にインドネシア語を挿んで(その度に大いに受けていた)いたが、台詞はすべて日本語(インドネシア語の字幕上演)であったが観客は十分理解していた。これは、7月15日金曜日の夜、Tembi Rumah Budayaで上演された、流山児★事務所による、寺山修司作の「花札伝綺」。これは、17日まで開催されるApresiasi Tari Tembiの中の演目である。そして、このフェステイバルは、今後、毎年開催していく予定。

この物語は、東京の町はずれの葬儀社(「死の家」と呼ばれている。)での物語。この葬儀社内では、ほとんどの人間がすでに死んでいる。主人の名前は団十郎。まだ“生きている”娘の歌留多を除いては。彼女は“生きている”墓場の鬼太郎に恋をする。大泥棒の墓場の鬼太郎に。

鬼太郎は「死の世界」をも支配する泥棒となるまでの物語が繰り広げられる。ミュージカルの要素で作り上げた「生と死の倒錯の喜劇」である。

演出の青木砂織が語ってくれた。「「役者」は生きることも死ぬことも出来る。それどころか、様々な人格に変身することも可能なのだ。」

 

『花札伝綺』   インドネシア公演評  @Metro tv news 〜流山児の舞台芸術家たちがジョグジャの芸術家たちに、圧倒的存在感を示す!〜11718

 日本の現代演劇の先駆的(アンダーグラウンド)劇団である流山児★事務所が、先日、「初」のジョグジャカルタ公演をした。そこでは流山児★事務所の芸術家達の魅力的な踊りと歌でうめつくされた。

『花札伝綺』(作:寺山修司)の物語を上演。ジョグジャカルタのTembi Rumah Budayaでのこの作品は、東京の町はずれの葬儀社内での物語である。

この葬儀社は、団十郎という、もう死んでいる人間によって管理されている。この家では、全ての人間が「すでに」死んでいる。

 

流山児★事務所は、「死の世界」を表現したが、それは荒涼とした世界ではない。身体表現や、台詞は大いに笑えるし、ユーモアとエネルギーに満ちあふれた祝祭喜劇でもある。

彼らはジョグジャカルタのTembi Rumah Budayaにそんな素敵な劇をもってきてくれた訪問者(遠来の客)であった。彼らもジョグジャカルタの観客の反応に満足し、感謝していると語っている。それは、私たちが東京(の観客)よりも、高い芸術鑑賞眼を持っているといえよう。

日本で、流山児★事務所は、先駆的(アンダーグラウンド)劇団として知られている。それは、様々なレパートリーを上演し高い演技スタイルを、追求している歴史のあるカンパニーだからである。『花札伝綺』にも、現代劇と能・歌舞伎のような日本の古典芸能との演技的融合が含まれているシーンが随所に見受けられた。

 

『花札伝綺』  @読売新聞 〜寺山死生観が色濃く反映した世界。寺山の台本古びてない〜 2011/3/2夕刊

  流山児★事務所が「レパートリーシアター2011」と題して、Space早稲田で3作連続公演を開始した。上演中の1作目は寺山修司作「花札伝綺」(演出・青木砂織)。演劇実験室◎天井桟敷が1967年に初演した作品だ。

 大正時代、東京の下町の「死の家」と呼ばれる葬儀屋を舞台に、寺山の死生観が色濃く反映された世界が展開する。音楽を本田実が担当、寺山のせりふを生かした音楽劇に仕立てたのが、今回の特徴。企画、出演もしている同劇団代表の流山児祥は「寺山さんの台本は、驚くほど言葉がきれいです。初演時はなぜか不評だったようですが、今やっても、全然古びていないし、面白い」と熱く語る。流山児は、今公演を手始めに、全国の寺社やライブハウスなどを回って上演し、演劇交流のネットワーク作りを進めたいという。「劇場法で劇場ばかりが話題になるけど、劇場に演劇があるわけでなく、人と人が出会うところに演劇が生まれる。その原点に戻ってみたい。」

 

『花札伝綺』   @江森盛夫の演劇袋   〜生と死のアラベスクが織りなす絢爛芝居〜       2011/3/1

作:寺山修司、演出:青木砂織、Space早稲田。ひさしぶりの青木演出、この生と死のアラベスクが織り成す絢爛芝居を、衣裳、メイク、音楽、ダンスなどすべてにわたって精緻に飾り、死人や生死の境にゆれている人物たちを露出させ、躍動させて寺山の世界を寸法どうりに復元させた。墓場の鬼太郎を華麗な男装姿と、あでやかで色っぽい女のしたたりで演じた伊藤弘子が舞台のトーンを高めて圧巻。そして沖田乱。この役者、「ブリキの自発団」時代から観ているが、いまや小劇場を支える練達の雄、この舞台でも、獄門次(あんまの忠)に扮して、舞台いっぱいに存在感を示し、そのひたむきさが感動的だ。

 

『花札伝綺』    @梁塵日記   〜これこそ寺山芝居、最上級の出来栄え〜             2011/3/2

「花札伝綺」は寺山修司若書きの戯曲。葬儀屋を舞台に生と死を逆転させた耽美・アナーキーな極彩色絵巻。

墓場の鬼太郎役は伊藤弘子。宝塚風男装と肌も露わな赤襦袢のなまめかしさの二役。青木砂織の演出はメリハリがあり、スピーディーかつ細緻。寺山の言葉を時速200キロのスピードで繰り出す。これこそ寺山芝居。 衣装、石丸だいこ振り付けのダンス、本田実の音楽、どれもが最上級の出来栄え。青木砂織の演出は役者の動き、視線、指先一本まで実に細かく行き届いていて、「これぞ演出家の仕事」。演出経験はまだ数えるほどというが、これはただならぬ才能。

流山児事務所は小林七緒もそうだが、女性演出家がうまく育っている

 

『花札伝綺』    @芝居漬け  〜サービス満点のエンタメ劇。海外でも元気に成立する劇〜 11/3/3   田中伸子

流山児事務所の活動拠点、Space早稲田で寺山修司の初期作品、音楽劇「花札伝綺(はなふだでんき)」を観る。 劇に役者として出演する劇団の頭、流山児氏が開演5分前にもかかわらず、寒空の中で客を出迎えていた。 このデジタルではない、アナログな人と人との繋がり感がこの劇団の大きな魅力の一つ。 でもって、善くも悪くも、頑なまでのアングラへのこだわり、その一途な姿勢ーブレない姿勢も、律儀なファンを確保しつづけている要因だろう。

ブレヒトの「三文オペラ」の本歌どり、とはじめにプログラムでことわっているように、その方向で芝居を観れば、この死者の世界という話も、嫌な男にかわいい娘を嫁がせたくない葬儀屋家業の男とその妻の奮闘活劇として結構すんなりと喉元を過ぎていくはず。 カラフルなジャポネスク衣装に、歌あり、踊りあり、ゾンビメイクあり、時々雄叫びあり、でもって性の倒錯もあり、と、とにかく観客を楽しませる趣向で溢れたサービス満点のエンタメ劇。

 流山児★事務所は全国の寺社・教会・ライブハウス・コミュニティカフェなどを「劇場化」し、そのネットワークを多くの演劇人が共有=協働するプロジェクトを始めたらしい。 芝居を観に来る客が減っているのなら、こちらから出向いていこう!で、とにかく多くの人に観劇を体験してもらおう、ということなのだろう。 いんじゃないでしょうか?そういった視点で、改めてこの芝居を考え直してみると、どこでも(海外でも)元気に成り立つような気がする。


楽塾『もーれつ、ア太郎〜宇宙下町大戦争の巻〜』 @江森盛夫の演劇袋  〜肝付兼太の存在感〜11年5月

楽塾版もーれつア太郎 宇宙下町大戦争の巻」(原作:赤塚不二夫、脚本:佃典彦、演出:流山児祥)流山児★事務所+楽塾創立14周年記念公演、スペース早稲田。

楽塾はもう固定ファンができて直ぐにチケットは完売になるそうだ。この平均年齢58歳の熟女ユニットの歌と踊りの流山児が仕込んだ「楽塾歌劇」はもう堂にいったものになっているが、今回は結構やっかいな会話劇でもあるのをなんとかこなして楽しい舞台になった。さらにこの舞台をひきしめたのは、赤塚漫画常連のイヤミのテレビの声を担当している肝付兼太の特別出演、真っ赤なオベベを着たイヤミな婆さん役は、一声発するだけ、そこにいるだけで舞台の雰囲気を面白く換えてしまう。ベテランの味というのはこういうものだと思わせて絶品だった

 

楽塾『もーれつ、ア太郎〜宇宙下町大戦争の巻〜』 @演劇◎定点カメラ  〜解体し奇抜に構成。意表を突く面白さ〜 まねきねこ 11年5月5日

昨年公演での肝付兼太の劇化希望からなった上演とか。

舞台。歌舞伎定式幕が背景。下手に場面名を書いためくり。お話。ア太郎親分、行方不明。タチツテ党から東京都知事選に立候補?。敵対候補の狭間で、さらに襲来した宇宙人を前に、助手デコッ八は毅然として立ち向かう。
はたして地球を救えるのか、そもそもア太郎はどうなってしまったのか。

歌と踊りは控えめに、原作会話劇をキャラ総出演、いったん解体しての奇抜な構成で展開。冒頭のエンディングやお客参加など、意表をついた面白さあり。                                   
ナンセンスなギャグが往来するも、デコッ八のからりとした男っぷりや、友情や人情の機微に 通じた物語であることには好印象。原作を読み直したくなったねこ。

アニメで実担当の肝付兼太さんが「イヤミ」婆さん役でリアル出演。達者な芸風といい、贅沢な 面白さを堪能するねこ。

 

楽塾『もーれつ、ア太郎〜宇宙下町大戦争の巻〜』 @シニア演劇WEB 〜深まる赤塚世界観。原作を超える濃厚キャラ〜 朝日恵子 11年5月9日

G・Wは、恒例の「楽塾」。千秋楽を観劇しました。 今年は、『宇宙下町大戦争の巻〜もーれつア太郎〜』(原作:赤塚不二夫、脚本:佃典彦、演出:流山児祥)でした。

漫画の劇場版は、漫画の時点で、キャラがはっきりと かき分けられているだけに、劇場版になったとき、役者に個性がないと ピンボケしてしまうのでは ないかと思います。

 しかし、楽塾の場合は個性派役者揃いで、 原作を超えるほどの濃厚キャラが作られていました。 最初に、すべての役者さんが登場しましたが、 普通に出てくるだけで、もう皆さんおかしい。 存在感だけで笑わせるって なかなかできることではありません。 (メイクもよかった!神様役などは、全身でアメ食い競争やったみたいな 粉っぽい白さで、私の目がかすんだのかな と思いました!)

戯曲は、ア太郎はじめ 登場人物のキャラを活かしつつも全くのオリジナル(たぶん)。 でも、はちゃめちゃでありながらも、 人情ベースが貫かれて、そう、まさに「ア太郎」そのもの。 そこにアニメでイヤミなどの声を担当されていた 俳優・声優の肝付兼太さんが出演され、 赤塚さんの世界観がグッと深まります。 正真正銘本物の「シェー」が 何回もみることができ感激でした。

 シニア劇団といえば、 介護や認知症などこの世代の抱える リアルな問題をストーリー化し 観る人に共感を与えるものが主流です。 「楽塾」の場合は、 ストーリーによって 観客に何かを訴えるというのではなく、中高年の役者さんたちが身体をはって 「人間って、壊れて、自由になれば、すごく、気持ち良くなれるもんなのよ」 っていうのをみせつけてくれる芝居。 戯曲も演出も、役者さんたちの魅力を 掘り起こせるものが求められます。 「ここまでやれるんだ」(これでいいのだ) という感動&憧れが、劇場を出る時 観る人の力に変わっているんですよね。 毎回、みなさん限界まで出し惜しみなし、どこまでいくのか、楽塾!

それにしても最高齢の女優さんは70歳なのに、団員の中で一番若い・・・楽塾の謎です。

来年「創立15周年 」になる2012年の G・W公演は「高円寺2」であるようです。

 


 『卒塔婆小町 』 インドネシア公演評  〜 愛と忠誠心 〜  Untro  11年7月22日

~小町、あなたは美しい~ 
愛と忠誠心。それは日本からの物語。

我々は日本の古い名作映画、例えば、『幸せの黄色いハンカチ』を覚えている。刑務所から釈放された夫は、家に帰るのをためらっているが、妻は夫の帰りを忠実に待っているシーンを思い出した。ただのシンボルの黄色のハンカチ。それは受諾の印。帰宅を躊躇する夫への合図。と、はるか遠端から、不安な気持ちで、彼女の夫は、どこにでもはためいている黄色いハンカチを見たのだ。

それに似たような、“愛と忠誠心”の物語『卒塔婆小町』が、7月17日日曜日に日本からの流山児★事務所によって、ジョグジャカルタのTembi Rumah Budaya"で上演された。


"小町、あなたは美しい。世界で最も美しい。一万年たっても、あなたの美しさは衰えはしない”そうやって『卒塔婆小町』の話へと始まっていき、人間間の出来事に意味を持っていく。それは死についての話しではない。“愛と忠誠心”は繰り返され、死に至るまで続く。"私を美しいと言った男は全て死んだわ”これは、実にスリリングな物語なのである。


100日、毎日会うことを約束した、小町の恋人:深草少将。しかし、99日目に恋人は死んでしまう。そして、小町は、歳とるまで、同じ場所で、忠実に恋人を待ち続けるのだ。 『卒塔婆小町』での愛と忠誠。それは、二人の恋の話なだけではない。“約束に縛られた”二人の人間の関係。もしくはコミットを持つ。その二人の関係は、”従わせる“ものではない。生涯を通じて、その忠誠心を守り抜く。


流山児★事務所の公演は、演劇・ダンス・音楽を組み合わせたものでジョグジャカルタの演劇界に新鮮さと衝撃を与えた。会話劇は時には、説教臭ささえ覚えるものである。流山児★事務所の『卒塔婆小町』では、言葉・踊り・演劇表現が互いに、入り込み、しかし、互いに支配することはなかった。それぞれが、空(から)の空間を埋めていく。演者たちによって、全ての空間が意味を持ってうめつくされているのである。さらに印象的なのは、pendopoの建築様式が、まったく、障害物となっていなかったこと。それどころか、pendopoの柱たちが、舞台のセットの一部のようだった。避けるのではなく、演者たちは、舞台の真中にある4つの柱の近くに、頻繁に、存在していた。それぞれが、その4つの柱と“遊び”かつ“表現”していたように見える。 

または、ある演者は、観客の近くにあるひとつの柱によじ登り、舞台の中央にいる演者との対話を行った。そのようなブロッキングすることによって、ただのLIVEな遊びなだけでなく、pendopoの空間さえも、作品をあらわす手段となっていた。

 

『卒塔婆小町』は夜の公園での話。

ここで、その場所で、恋人たちは抱擁している。そこへひどく恐ろしい老婆の乞食が、タバコの吸殻を拾いながらやってくる。デートをしている彼らを追い払い、ベンチに座り込む。その後、酔った詩人が来て、その老婆の生い立ちを尋ねる。“昔、小町と呼ばれた女さ”老婆は言った。『卒塔婆小町』は1952年初演。第二次世界大戦後の三島由紀夫の傑作。この作品が、男女の間の“愛と死と美”の残酷な舞踊劇(ダンス・テアトル)として復活した。


私たちは『卒塔婆小町』から興味深い事を得た。ダンスと演劇のミックス以外に。衣装も非常にシンプル。詳細なステージと、ブロッキングが非常に力強い。演者間の相互作用と反応は、“芸術”を、“美学”を生み出していた。

流山児★事務所公演は、私たちに、最大の“演劇的教訓”を与えてくれた。観客にとって、ダンサーにとって、演劇人にとって、それを学ぶための「チームワーク!」を忘れてはいけない・・・・ということを。

 


  『卒塔婆小町 』 インドネシア公演評  @KEDAULATAN RAKYAT  劇の虜〜公園の美しい小町〜  SUARA HATI 11720

 

“小町、君は美しい。この世で一番美しい。1万年たっても、君の美しさは消えやしない”100日間、休むことなく小町と会い続ける事を約束した恋人。しかし、99日目、この台詞を言った後、恋人は、死んでしまう。そして小町は、会い続けたこの場所で、歳おいても待ち続ける。

夜の公園、そこには蜜のように愛し合う恋人たち。一人の乞食らしき老婆が、煙草を拾い集めながらやってくる。そしてカップルたちを追い払い、ベンチを取り戻そうとする。そこへ、酔った詩人がやってくる。そして、老婆の生い立ちを尋ねる。それから、100年前の鹿鳴館でのダンスパーテイーの場面になる。当時老婆はとても若く、皺ひとつない。

全ての目は、彼女を見ると、その美しさに魅了されてしまう。この、三島由紀夫作の「卒塔婆小町」公演は、日本の劇団流山児★事務所によって、717日日曜日に、Tembi Rumah Budayaで上演された。流山児祥と北村真実演出によるこの作品は、先日715日から始まった、Apresiasi Tari Tembiのフェステバルの最終日の公演となった。

 冒頭の百夜通いのシーンの後、作家:三島由紀夫の切腹シーンがあった。この自殺行為は、古典的な日本の演劇の形式(能)を忘れ去ってしまう新しい世代への失望、そして現代演劇の形態につながる「象徴」に見える効果があった。

ある観客は私にこう感想を告げた。「この公演での、気持のいい流れによって、劇の虜になった。演者たちの表現は、とっても興味深かった。すべての観客が「日本語」を理解しているわけではないのです。

だけど、観客は演者たちの動きから「物語」を理解することができた。このことは、想像力やその他の印象を高める可能性を持っています。それどころか、会話のシーンでもこの現象は起きたのです。

今まで見た劇の中で最大の衝撃を受けた。」 

わたしたちは『卒塔婆小町』の虜になったのである。

 

 『卒塔婆小町 』  @江森盛夫の演劇袋  〜変幻するパフォーマンス。刺激的な舞台〜11年3月20日

演出の本線はダンス演劇を志向している北村(観てはいないが「静かなうた」というダンス演劇の傑作があると流山児が書いている)だろう。前代未聞の<ダンス・テアトル>としてのMISHIMA MODERN NOHが仕上がった。

骸骨が置かれている無人の舞台に登場人物は穿かれた穴から現れる。男女全員白衣。彼らはチュウチュウタコカイナと呟きながら骸骨を細分し、みなそれらをそれぞれ持ち帰り、舞台から消える。骸骨は割腹自殺した三島の遺骸だろう。塩野谷正幸が主役の老婆・小町を演じ、さらに市ヶ谷の自衛隊での三島の決起演説を咆哮、三島そのもののイメージも刻印させる。ほとんどの戯曲のストーリーはダンス表現で、基本は公園のアベックとタバコの吸殻を拾う老婆という原戯曲の風景だから、男女のペア、老婆の吸殻を拾う長い火箸しがメインイメージ。音楽も名曲オペラ、謡曲、お経、ジャズ等々多種多様な音源が全編流れ、マネキンの人体がバラバラにカーテンに縫い付けられた美術など、緊密に組み込まれたダンスの強度を増幅させるセノグラフイーも鮮やかだ。俳優陣も変幻するパフォーマンスを北村・流山児の狙いをほぼ完璧に担った。

名高い深草少将と小町のエピソードなど、台詞もきちんと挿入されているが、身体表現が優越する。意表外の舞台で驚いたが、ほぼ完璧に北村・流山児の狙いが成功していると思った。が、とても感心したが、面白いかと問われれば戸惑う。三島特有の魅惑的な台詞・ことばの表現の捨象、俳優達の身体表現が機械体操のようなアート性の薄さとか・・しかし、とにかく刺激的な舞台だったことは確かだし、こちらの理解力の問題かもしれない。

 

 『卒塔婆小町 』   @芝居漬け〜シンボリックに内容を無駄なく描き出す。・塩野谷の圧倒的な存在感〜 田中伸子  11年3月20日

流山児★事務所のレパートリーシアター連続上演企画の最後、三島由紀夫作、現代能楽集の一遍「卒塔婆小町」をSpace早稲田で観る。

流山児祥氏と北村真美氏との共同演出、プログラムにある通り出演者10人による群舞がふんだんに盛り込まれた<ダンス・テアトル>形式の上演であった。(中略)

 オープニング、舞台床下から、白衣を着た男5人、女5人が舞台上へ這い出してくる。Space早稲田の狭い舞台を上演スペースぎりぎりまで客席が迫り、その中央のステージに重なりあうように役者10人が一挙に登場する。 その後、白いシャツを脱ぎ捨てて、塩野谷正幸が三島の割腹自殺当日の市ヶ谷駐屯所での自決直前のスピーチを一節述べ、その後、卒塔婆小町の幻想の世界へ。

それまで舞台上にあった白骨人体(三島の亡骸と思われる)を10人の役者が拾い上げ、骨を手にこれから三島の世界を表現する覚悟を示す。百夜通い〜小野小町に恋いこがれた深草少将は小町から百夜通い続けよ、そうすれば恋心にこたえる、と言いつけられ、毎夜忍んで通うのだが、99夜まで通った後、病に倒れて死んでしまう。その無念から霊となった少将の念に小町は苦しめられる。〜の末に恋の幻想を信じ幸福感に包まれ死んでいく男=現代の詩人(山下直哉)=深草少将の生まれ変わり(谷宗和)とこの世のしがらみから抜けられず、それでも男からの愛の告白を本能的に望んでしまう女=老婆(塩野谷正幸)=小町(木内尚)の何時の世にも変わらないものがたり、男と女の性質の違い、男という純粋で単純な生き物と女という現実的で地に足がついた生き物を描いた現代能楽話が21世紀の早稲田の小劇場で、一部の隙間もない劇場空間で老若男女の見物人たちに囲まれた舞台で展開していた。

この舞台空間を、その狭さと狭さ故の密閉感を熟知している演出家だからこその有効的な演出方法であったと思う。 群舞ダンス、その形式的な俗世の恋人達の愛情表現方法もリアリズムで演じるよりもシンボリックでありながら内容を無駄無く描き出すことに適していたし、塩野谷正幸演じる卒塔婆小町の圧倒的な存在感も話を緩慢とさせず、一点に集中させて〜小町という、ある種化け物のように人を引きつけて止まないその存在を中心にして、この夢物語を信じさせることに成功していた〜ダンス・テアトルという省略形式の中でメリハリを効かせる事に大いに貢献していた。 現代風にアレンジした着物地の衣装も、内容とあっていて、良し。

それにしても、毎回思うことだが、昨今、塩野谷正幸のように男でありながら`色気のある’役者というのが、なかなか現れてこなくなった、と思う。(後略)

 

 『卒塔婆小町 』  @村井健がゆく  〜ダンシング小町〜   村井健 11年3月31日

『夢謡話浮世根問』の後で上演された流山児&北村真実演出の「卒塔婆小町」も悪くない。 ダンシング「小町」。踊りで始まり、三島の市谷駐屯地での割腹をプロローグに、小町の世界に入るという趣向。 これが実にコンパクトにまとまって、三島の観念くささがあまりない。 これも楽しめた3月の舞台の1つだ。  


 『夢謡話浮世根問』    @「文藝軌道」 2011年10月号  2011年春から夏の舞台〜死の影の底流〜   野平昭和

一人芝居、二人芝居には、古来、一風変った傑作が目立つが、ここに、一味も二味も凝った異色の二人芝居を新たに加えることが出来るのは嬉しい。落語の中で、能さん、八っあんが横丁の隠居に、おいそれと答の出ない難問を吹っかけると、この世のことで知らないことはないことを看板にしている隠居が、苦し紛れに捻り出す珍答のおかしさを笑う「浮世根間(うきよのねどい)」仕立ての設定に、戦後六十五年の流行歌(はやりうた)をまぶして、アラカン(六十歳前後)の男1(流山児祥)、男2(北村想)の二人が、天衣無縫に、知力体力のすべてを発散する舞台が、東京の路地裏の怪しげなビルの中の、これまた正体不明の弁護士事務所という場で展開する仕掛けなのである。


 このビルの一階にある居酒屋から流れてくる古い歌謡曲と、話のシチュエイションが変るたびに、自ら、声を張り上げて、時に暗い調子で歌う二人の、いわゆる懐メロめいた歌の数々は、客の胸に、それぞれの思いを喚起せずにはおかないが、筆者なども、男1の「星の流れに……」から始まる菊地章子の歌に、敗戦後間もない焼け跡とバラックの街に街娼がむらがっていた池袋の一角に六十年を越えて連れ去られてしまったくらいだから、ハヤリウタをたくさん劇の展開に織り込んだのも舞台に効果を倍増させるのに大いに貢献していて、劇作りの企みに拍手したくなったほどである。


一見、筋なしの即興的展開にも見せかけた舞台も緻密に設計されたストーリー展開と、謀略史観とも都市伝説の変形とも言うべき事件の幾つかを、真相はこうだ風のミステリー仕立ての進行もあって、その時代の空気を同時に吸いながら、固唾をのんで、事件の行方を、あれこれ推理しつつ、新聞・雑誌を追っていた観客をも最後まで飽きさせずに幕を降ろしたのは見事だった。言うまでもなく、作者の功大なることは当然だが、演出の、この劇の運びの妙は、二人の相乗的功績と言っていい。


 浅間山荘事件が、どっかと据えつけられていて、機動隊員だった男1がゲバルトで頭のイカレタ身を暴力団のヒットマンとして、常にタマを追う身に仕立て上げられ、怪しげな全共闘の弁護士だった男2に、新しいタマを提示される身で、消えた妻と娘を思い、中学まで同級だった男と女の死や行方を思い、赤報隊事件にも噛んでいたかのような設定とも取れる男2の言葉も撒き散らされ、しかもそのすべてが、謎のまま一時間半に満たない明るくて暗い舞台に幕が降りるのだ。  

流山児の言う「全部わかる世代」 の客であ る筆者は、間もなく人生の幕を降ろすアラカ ン役者のせりふの行間に流れる死の影の底流 に共感した.。

 

 『夢謡話浮世根問』    @日本照明家協会雑誌「ステージレビュー」20116月号 〜震災後を考える舞台〜  西堂行人

 311日、東日本を襲った巨大地震は演劇界にも激震を走らせた。津汲、原発事故とも連動した戦後最大の大惨事を前にして、もはや地震以前のように、わたしたちは演劇を安閑と観たり、演じたりすることはできなくなった。演劇に関わる者たちは、この事態をどう考えるべきか。とりわけ、表現の問題にこの地震はどう関わってくるのか。

 地震当夜、首都圏では交通械関が止まり、帰宅できない「帰宅難民」が大量に生まれた。また多くの劇場は公演中止を余儀なくされた。

 公共ホールはすべてこの日の業務を中止する発令が出された。だが、当夜公演を敢行した劇場がなかったわけではない。流山児★事務所のスペース早稲田では、北村想と流山児の二人芝居『夢謡話浮世根間』(作=北村想、演出=小林七緒)が21名の観客とともに上演されたのだ。わたしが観た316日には、震災状説を即興的に取り込み、トイレットペーパーを買いあさる東京都民の「あさはかさ」を名古屋在住の劇作家が皮肉たっぷりに揶揄してみせた。演劇は厳しい現実に直面しても、いくらでも現実を柔軟に取り込むことができる。その時、演劇というもののライブ性、今ここに生きている人間が演じるというジャンルの特性が発揮されるのだ。

 

『夢謡話浮世根問』  @中日新聞  2011611夕刊 〜男たちの虚無 、満載の歌で〜 安住恭子の舞台プリズム

 北村想と流山児祥。四十年にわたって小劇場演劇で粘り強く活動してきた二人が、二人芝居に取り組んだ。「夢謡話浮世根問」(北村想作、小林七緒演出)。自分たちの生きてきた時代と今を、満載の歌でつづる舞台だ。

一人はやくざのヒットマン(流山児)で、もう一人は彼の友人らしい弁護士(北村)。やくざは元機動隊員で、鉄パイプで頭を打たれ記憶力を失っている。その彼が最後の仕事をする前に、気になる記憶のあれこれを弁護士に問いただす。失踪した妻と娘の行方、自分が殺した相手は誰だったのか等々。弁護士はかつて全共闘の弁護をしており事情通だった。

 記憶喪失のやくざの話はあちこちに飛び、そのさまざまな問答を落語の「根問い」風に見せるのがミソ。さらにビルの下の居酒屋から聞こえてくる歌謡曲に合わせて歌いと、一見お気楽な展開だ。 だがその中で、彼らの道のりの裏にあった昭和の裏面史もかすかに語っていく。浅間山荘事件と朝日新聞襲撃事件をつなぐ線、あるいばやくざと公安をつなぐ糸。けれどもその解き明かしではない。この舞台がさらに強く語るのはそうした時代に身をさらし、見てしまった男たちの虚無だ。これでもかと披露する得意ののども、もはや本気で歌えるのは戯れ歌や歌謡曲以外にないのだという断念にも見える。二人は虚無の果てにやくざと弁護士のごっこ遊びをしているのかもしれない。そしてそのごっこ遊びを北村と流山児は本気で舞台で遊んで見せた。それが演劇だといわんばかりに。

 

『夢謡話浮世根問』  @村井健がゆく 〜まさに演劇「落語」〜 2011年3月の舞台 ベスト3   11/3/31       

3月の舞台は散々である。「中止、中止の連続で、予定はあってなきが如し、だった」   未曾有の津波・震災、そしてプロメテウスの火が降り注ぐ中、落ち着いた気持ちでの観劇ができようはずもない。起きたのは東北、東京は無関係と何事もなかったかに振る舞う人がおれば、それは単に想像力の貧困なお人だろう。   想像力が乏しければ危機も恐怖も半減する。意外なのは、そういう人が演劇人に多かったことだ。それで分かったことが1つある。日本の芝居の貧しさは、この想像力の貧しさにこそあると。 まあ、これはいわずもながの皮肉だが、それはさておき、3月の舞台である。といっても、さしてない。パルコの「国民の映画」(三谷幸喜作・演出) 流山児事務所「夢謡話浮世根問」(北村想作・小林七緒演出)の2本。   「夢謡話浮世根問」は、まさに演劇「落語」。 北村想の「ご隠居」と流山児祥の「八」が、ボケとツッコミよろしく、浅間山荘事件の裏話を交えての2人芝居。 これが、いかにも「なさそで、ありそな」話なのだ。つまりは、虚と実の入れ子。 それにオーバーラップするのが、2人の歌と即興という、なんとも「妙」なる味の舞台だ。 躁の流山児、鬱の北村。このキャスティング自体が「妙」。 しかし、こんなおもろいユニットはもう2度とないだろう。見たもの勝ちとはこのことである。

 

『夢謡話浮世根問』  @江森盛夫の演劇袋   〜大笑いの連続、アラ還二人の足跡〜 11/3/15

ーうたはゆめ うきよのねどいー(作:北村想、演出:小林七緒)、スペース早稲田。  北村想と流山児祥の二人芝居。流山児はもともとちんぴらだった男が、機動隊にはいり、浅間山荘攻防に係わり、いまは大物のタマをとるヤクザだ。北村は怪しげで物知りの貧乏弁護士。落語のクマ、ハチとご隠居の問答ー根問いの趣向だ。だけど、話はなかなかこっていて、ヤクザの幼馴染みの男女が赤軍兵士で、粛清寸前で山から逃げだした。その男が自殺、女はヤクザと暮らしだし、女の子が産まれたが、女は子供を連れてヤクザと別れた。こういう話が、昔の流行歌やヤクザ映画、役者の話にまじり、その話題のたびにおびただしい数の歌を二人がそれぞれ歌う。台本が三分の二、毎日変わるアドリブが三分の一だそうで、北村はクリスチャンだし、物理学マニアだから、宗教や科学の薀蓄も覗かせるが、なにより演技のセンスが抜群で、歌も渋くて巧い。流山児が気はいいが落語のクマ、ハチ丸出しのオーバーな芝居をして、大声で歌うと、北村が渋くてカッコよく見えて、その絶妙な会話、間取りで客は大笑いの連続・・・。まあ、アラ還の二人のいままでの足跡がなんとなく腹に納まる芝居だった。

 

『夢謡話浮世根問』   演劇定点◎カメラ 〜演劇戦友によるライブ感溢れる舞台〜  11/3/12   まねきねこ
 珍しい2人のタッグマッチ芝居。出前もうけるとのことで、手始めに東西ツアー敢行。

 舞台。殺風景な事務所。シースルー壁に、ドア、サッシ窓。上手、斜に事務机。 スタンドライトとファイル、携帯電話。奥にカップ麺とかあるラック。下手に簡素なテーブルとパイプ椅子など。天井に裸電球1。  

お話。元機動隊員、現ヤクザの鉄砲玉(男1:流山児祥)と、元全共闘、現暴力団関係の弁護士 (男2:北村想)。長屋のクマとご隠居の落語問答。鉄砲玉は頭の怪我やクスリで記憶が曖昧、でも時々別れた妻子や闘争の時代を思い出して…。 惚けたふりして、ババババンと描く、裏昭和史劇。

一粒で3,4度と、おいしい重層 する劇作と演技演出。謎めいたモザイクから時々晴れ間が覗き交錯するミステリー。 落語問答からとんだオチがつく展開。表があれば裏があるとのうんちくや豆知識、生活に必要が無いのがいい昭和暴露話。歌は世につれ 世は歌につれと、やたらめたらと歌唱。熱血出鱈目な流山児、醒めてかっこよさげな想さんの対照が面白く。

 演劇戦友ならではのアドリフ(全体の1/3とか)は愉快も、しばしハラハラさせられ。など、もろもろライブ感溢れる舞台を楽しむねこ。

『夢謡話浮世根問』  @山崎哲 ひと・こころ・からだ    〜ここに、最上の劇がある〜  11/3/11   

流山児祥と北村想の二人芝居「夢謡話浮世根問」を観てきた。
元機動隊員で、現ヒットマンの初老の男(流山児祥)が、薄汚い倉庫に事務所をかまえている初老の弁護士(北村想)を訪れ、次の仕事を受け取る。
ただそれだけの話なのだが、その間、ヒットマンの生きてきた半生が昭和の歌謡とともに語られていく…。

そう言うと、流山児をよく知ってるひとにはすぐわかるだろうが、半ば、流山児の歌謡ショーみたいなものだ?(笑)
たぶん流山児が想を誘って書かせたのだろうが、「おい、おれ、セリフは少なくていいから歌わせろよ」と脅したに違いない(笑)。
その脅す様と適当に受け流す想ちゃんの姿が幼い頃から二人をよく知っている私の目にはありありと見える。
そうして二人して歌った数が30曲超え…?(笑)憶えてられるかいそんなもん、と思うのだが、全曲知っていた自分が自分でも恐ろしかったよ、というか、情けなかった…?(笑)

終演後、流山児が、「こんな芝居もあっていいだろ?」と、知人友人の間を脅して走り回っていると、たまたま同席した同期の桜の岡田潔さん(トム・プロジャクト)が、「アカペラでここまで聴かせるなんてたいしたもんだよ」
と、すかさず言った。さすが岡田さん、逃げ方がうまいね、と感心する(笑)。

こういうことを書いていると日が暮れてしまうので、一言はっきり言おう。もういいよ、おまえの歌は、聞き飽きたよ。と言いたいのだが、流山児が歌っているときのこのうえなく幸せそうな顔を見ていると、そうも言えない。
というより、歌ってるかれの幸せそうな顔を見ていると、見てる私まですごく幸せになってしまうので、いいよ歌って、おい、もっと歌えよ、と言いたくなってしまうのだ…(笑)。
もっとも私が唐十郎の「愛の乞食」を演出したときは、1曲だけにさせたが、唐さんの手前…(笑)。ともあれ、観ている私を幸せな気分にしてくれる男、それが流山児祥という困った男なのだ。
しかし劇中で歌った「ワルシャワ労働歌」は圧巻だった。例によってロック調で歌うのだが、これだけこの歌を聴かせるものを私は知らない。涙が出た…。といって調子に乗るなよ、おまえ、頼むから。あ…、ま、いいか、乗っても…(笑)。

ところで、北村想…。会ったのはいつ以来だろう。目黒かどこかで劇作家協会が開いたシンポジウム以来?下手から入ってきた瞬間、胸が熱くなってしまい困った…。名古屋の七ツ寺共同スタジオで初めて会ったとき、想は19歳。なのでいつも想ちゃんと呼んでしまうのだが、飄々とした居ずまいと、そうした場所からしか視えない世界を紡ぎだす北村想を、ひそかに「いいかげんな」名古屋の天才…、と呼び、私は畏敬の念を抱いてきた。
自分ではかなり冷静に世界を見ているつもりなのだが、想ちゃんを見ると、おれも流山児同様、目くら滅法な鉄砲玉だな、と、わが身を思い知らされるのだ。ほんとに困ったやつだよ、私より若い想ちゃんなのにさ…(笑)。

20年ぶりに舞台に立ったのだそうだ。初めて想ちゃんの演技を見るひとは、その達者ぶりにみな驚いていたが、なに、19歳のころの想と全然変わってないよ…(笑)。すこしふっくらとして、髪に雪もすこし積もったが、私の目の前にいたのは初めて出会ったときの19歳の北村想…、想ちゃんだった。あの世とこの世のハザマに…、天と地の間に立って、いつも行く方越し方を眺めている想ちゃん…。この世の人間どもと世間話をし、あの世の神どもと世間話をしている想ちゃん…。

演劇的に言うなら、北村想のいる場所こそ、近松が言った演劇の「虚実」の間なのだ。この劇の作術にもそのことは見事に表れている。かつて学生運動での鉄砲玉だった流山児祥を、敵方の機動隊に書き換え、自らの半生を語らせる。革命を志すものを葬ってきたはずのヒットマンにこんどは警察上部の者を葬らせようとする…。瞬間、私はオウム事件がよぎったが、劇中、老弁護士がこの世は?とヒットマンに問われ、「無限に大きな金魚鉢だよ、そこにはなにもない…」と答えるシーンがあるが、そこが北村想の…、想ちゃんのいる場所…。そしてそこで流山児と出会っている?

流山児は40年このかた「演劇の解体」を目指してきた。平たく言えば、演劇を外に向かって、街に向かって、いま観てるひたとたちに向かって、開け。ということ…。現実のほうに向かって解体しろと言うこと。もういいよ、そういう芝居は。そういう芝居やるくらいだったら、おれに歌わせろよ、と言うこと…(笑)。どこまでが芝居でどこまでがお芝居なのかようわからん、そういう芝居をやりたいってこと…。かれが寺山修司に隣接するのもそこだし、終演後、「こういう芝居があってもいいよな?」と、友人知人の間を脅しまわるのも(笑)じつはそのことを言っている。と、真面目に語っている私を見て想ちゃんがニヤニヤ笑ってる姿がそこに見えるのだが(笑)、しょうがないだろ、おれが言わんとわかる演劇人なんかひとりもおらんのだからよ…(笑)。

この芝居を観て、ああ、流山児も観てる私も40年経って、ようやく19歳の想ちゃんのいる場所に立てた、という感慨に襲われたよ…。流山児も私も、好き勝手にやってきたはずなのに、そして理念的にはとっくにわかっていたことなのに、40年経って、やっと…。

こういう芝居もあっていいどころじゃない。これが芝居だよ。バカをやってる二人が…、流山児と想ちゃんがいる。間違いなく目の前にいる。自分を晒しつづけて…。そのことがもたらす演劇性に較べたら、どんな演劇性もただ無残でしかない。長く芝居をやっているものは、自ずとそのことがわかるはずだ…。

東京公演のあと、地方に行くので、ほんとうの芝居を観たいと思ってるかたは、ぜひこの芝居を観てくださいな。私のこの上なく大事な友人の芝居だから薦めるわけではありません。
ここには、間違いなくいま最上の劇があるからです…。
 


『愛と嘘っぱち』  @ 「悲劇喜劇」  20112月号演劇時評 〜流山児流ブレヒトミュージカル〜 野田学

 野田 :1910年の「大逆事件」を扱ったミュージカルです。野田秀樹さんの「ローリング・ストーン」を思わせる地口が出てきます。「皇帝・肯定・校庭」とか、「医師・石・意志」とかですね。こういった地口にのせて、獄中の革命家たちの人間模様が、回想と幻想と共に描かれています。 なんと言っても、中心人物が男性ではない点が、この作品の特徴でしょうね。作品の視点は、大逆事件で処刑された唯一の女性、菅野スガのものなんです。舞台は牢獄。その真ん中のスペースで八人の管野スガがひしめいています。作品は、スガの人生が始終「ブレている」と何度も指摘します。革命家、女性運動家、恋多き女、幸徳秋水をひたすら愛する女、そんな自分を冷めて見つめている女など、いろいろな女性像に菅野スガが分裂している。この女たちは、いつまでも苦悩して、互いにけんかをします。しかし最後に刑場に向かうのは、自分のことがわからなくて、自分を探し続ける女としてのスガひとりだけです。果たして彼女の人生は男性中心社会で、秋水を含む無責任な男たちに振り回されたものに過ぎないのだろうか、それとも、彼女は自分なりの自由を得ることができたのだろうか。作品はオープン・エンディングになっている。 融通無碍な舞台上で、流山児☆事務所の役者さんたちは、手堅い演技を繰り広げていました。「ユーリンタウン」以来のミュージカルなんですが、歌える役者が多いのは感心しましたね。流山児流ブレヒト的なミュージカル、もしくは、ソンドハイム風ミュージカルだったと思います。

編集部:作の鹿目由紀さんは、日本劇作家協会新人戯曲賞を受賞したばかり。

野田:菅野スガに焦点をあてたということで、鹿目由紀さんの劇作家としての視点は確かだったと思います。

 

『愛と嘘っぱち』   @中日新聞 10年11月20日夕刊 〜「大逆事件」を男と女の理論で読み解く試み〜 安住恭子の舞台プリズム

流山児★事務所「愛と嘘っぱち」 流山児☆事務所のミュージカル「愛と嘘っぱち」 (鹿目由紀:作、流山児祥:演出、浅井さやか:音楽)は、百年前の「大逆事件」を素材にした作品だ。

鹿目にとって初の他劇団書き下ろしで、初の歴史物、初のミュージカルとさまざまに挑戦している。名古屋の劇団あおきりみかんの鹿目由紀の書き下ろし。東京と愛知で上演。
 思想弾圧の一大でっち上げ事件とされるこの事件を描くにあたり、鹿目は二つの仕掛けをする。
一つば臨月の女性記者とその助手である少年が、死刑囚たちに取材する形で事件を振り返ること。もう一つは、幸徳秋水の愛人で主犯の一人とされた菅野スガを八人に分裂させたこと。この二つによって革命家たちが抱いた夢と、それに向かう男と女の多様な姿をとらえ
ようとした。 確かに八人のスガは、革命への情熱だけでは、くくれない姿を分かりやすく見せる。また少年を爆弾作りのミヤシタに憑依(ひょうい)させることで、革命家の男たちに潜む純粋な直情やその弱さを示した。
さらに弾圧を指揮した検事や彼らの意向に従順に従う民衆も登場させ、権力の構造も暗示した。つまり大逆事件を男と女の理論で読み解くことで普遍化しつつ全体像に迫ろうとしたと思う。
 けれどもそれらが絡んで、百年前の男女の悲劇のうねりになっていかないもどかしさがあった。(後略)  

 

 『愛と嘘っぱち』  @江森盛夫の演劇袋 〜特異で面白い 「大逆事件」ミュージカル〜 10/11/02

 「大逆事件」を題材にしたミュージカルだ。鹿目は名古屋の人気劇団「あおきりみかん」の主宰者。今どき大逆事件をミュージカルにしようと鹿目に書かせた流山児のアイデイアはいつもながら凄い。
 鹿目もそれに応えて、しっかりした良い台本を書いた。なにより菅野スガを8人のスガにして、この複雑剛毅な女傑の内面の葛藤のポイントを8人に分担させたアイデイアが独創的で、スガの全体像に迫った。スガの恋人であり、スガと同じく処刑された幸徳秋水はじめ、事件に連座した人々も周到に描かれていて、事件の全容もきちんとわかる。スガのほかに無政府主義・社会主義者の夢を次の世代へ継がんとする少年が主要人物だが、この少年の夢とヴィジョンが今の時代に説得力をもつかどうかが分れ目だろう。ともあれ、浅井さやかの音楽、石丸だいこの振付とも活気あふれる舞台で、特異で面白いミュージカルだった。

 

『愛と嘘っぱち』    @梁塵日記  〜8人のスガと大逆事件の収監者たちの幻想と妄想〜10112日 

 作者は名古屋の劇団あおきりみかん主宰。「中学生日記」などテレビ作品の脚本も書いている。そのためか、舞台構成も独りよがりにならず、かといって単純な具象化作品にならず演劇としてのツボを心得た作品になった。
 主題は明治末に起こった大逆事件。菅野スガ、幸徳秋水、内山愚童ら社会主義者、アナキストらが明治天皇暗殺未遂事件のフレームアップで逮捕、処刑された事件。死刑判決からわずか1週間以内にスガ、秋水ら12人が死刑執行されている。これで社会主義運動は沈滞、沈黙を強いられる。そこには天皇制絶対主義を確立しようとした明治政府の意思があった。(中略)

 菅野スガが8人に分裂し、それぞれが自分を主張する。これは面白い。作家・向井豊昭さんの「BARABARA」は、朝会社に向かう途中で次々と人格が分裂・複製していくシュールな小説だったが、その手法と似ている。アイディンティティーの統合失調。 スガの8人の人格が我こそはスガであると主張し、互いを抹殺せんと闘う。秋水を愛するスガ、前夫・荒畑寒村の執着にほだされるスガ、強い婦人を目指すスガ、古い女を引きずるスガ‥‥。8人のスガと大逆事件の収監者たちの幻想と妄想。それを喚起するのは収監所を訪れた臨月間近の女性記者とひとりの少年。彼らが大逆事件の全貌を解読していく。

 12人が処刑されていくシーンの演出がいい。舞台から飛び降り、落ちた瞬間、首を垂れるが次の瞬間、ゆっくりと顔を上げて客席通路に去っていく。その幻想性。なるほど、こんな処刑シーンもあるんだ。久しぶりに吉田喜重の映画「エロス+虐殺」が見たくなった。 オギャアと産声上げる赤ん坊はスガ、秋水らの「遺志」を引き継いでいくのか。最後、ちょっぴり泣けた。「ユーリンタウン」に続く流山児音楽劇。(後略)

 

 『愛と嘘っぱち』    @ 「ミュージカル 」2011年3・4月号 〜2010ミュージカル・ベストテン :24位選出評〜

「流山児★事務所の『愛と嘘っぱち』はミュージカルとしては異色だが、こんな大衆的路線がもう少しあると楽しい」 (日本経済新聞:河野孝氏)

「『愛と嘘っぱち』は劇団の力が生んだ。」 (共同通信:阪清和氏 


演劇批評誌「シアターアーツ」2011年春号

2010年ベスト舞台選出     ベスト舞台:楽塾『ほろほろと、海賊』 (作:佃典彦 演出:流山児祥/Space早稲田)

演劇雑誌「JOIN」2011年 3月号

2010年私が選ぶベストテン選出   ベスト女優:坂井香奈美 (『お岩幽霊/ぶゑのすあいれす』 )     ベスト戯曲:佃典彦『標的家族!』      ベスト制作者:米山恭子(全作品:2年連続選出!)


『櫻の園』  @「悲劇喜劇」  20111月号 〜2010年のチェーホフ     岩佐壮四郎

 千葉哲也演出による『楼の園』は、日本の一九八〇年代の時代の感触と交錯させながらこの劇を新しく捉え直そうというのが、舞台づくりの基本の意図のようだ。その目論見は、台詞のいいまわしから、登場人物たちのファッション、バック・ミュージツク、八〇年代にはちらほら目立ち始めたポストモダン風の高層建築を思わせる装置にまで、ほぼ過不足なく貫かれてはいる。とりわけ、坊主頭に黒い夏の背広といういでたち、当時活躍した地上げ屋を思わせる風情のガーエフの登場と共に、一挙に八〇年代の雰囲気が漂ってくるあたりはなかなかアジがある。終幕近く、ちょっと振り向いてから桜の園をあとにする流山児祥の扮するガーエフの姿には、世紀転換期のロシアというよりは、やはり『櫻の園』を下敷きにした太宰治『斜陽』の、復員した直治の哀愁が漂っているといってもいいかもしれない。八〇年代はまた、生き延びた復員兵達が、こんなふうに退場した時代でもあったか。 ただ、この劇が二〇〇〇年代も最初の十年を過ぎた「今、ここ」に生きる観客の期待とどれほど関わることができたかとなると、やや不満もある。たとえば終幕近く、金欠病で金を借りまくり、周囲から鼻抓み者になっていた没落地主のピーシチクが、自分の土地に有望な鉱脈があることが判明し、イギリスの会社に二十五年間の契約で賃貸することになって急にハブリがよくなる場面。地道に仕事に励むこともなく遊びまくり、尾花うち枯して家に帰ったものの、結局は広大な庭園のある豪壮な邸宅を手放すことになるラネブスカヤの一家のスッタモンダを描いたこの劇では、明るい(?)笑いを巻き起こす場面の一つといっていいだろう。だが、この場面に接する観客は、この気のいい男に約束された土地からの収入も、十年あまりしか続かなかっただろうことを知っている。劇の現在を、初演された一九〇四年と考えれば、いうまでもないことながら、契約期間の切れる一九二九年まで待たずとも、十三年後には革命が起こって土地は没収された筈だからだ。また、当然のことながら、八〇年代といえば、急にフトコロ具合のよくなった人間の急増に応じて、住み馴れた家を追われるラネフスカヤの一家のドタバタがあちこちで演じられた乱痴気騒ぎの酔いざめの苦さは今に続いていること、八〇年代の終わりが、ソ連の崩壊によって、二十世紀が賭けた夢の最終的な破綻と重なって、なんとも得体のしれないアト味をこれまた今に引き摺っていることも知っている。千葉演出は、にもかかわらず、こうした観客の気分に、かならずしも自覚的であったといえるかどうか。(後略)

 

『櫻の園』  @「文藝軌道」20114月号   〜異色のチェーホフ劇〜  野平昭和

 この「櫻の園」も「あうるすぽっと」の参加舞台だが、戯曲そのものに手を入れて変えるやり方ではなく、登場人物に強弱のアクセントをつける方法で、千葉哲也はチェーホフの心を、今の世の客に伝えようとしたのだ、と筆者は解釈した。すべての人物がそのアクセントの外にはないが、ラネーフスカヤ(安奈淳)、ガーエフ(流山児祥)、ロバーヒン(池下重大)、トロフィーモフ(イワヲ)、ピーシテク(栗原茂)そしてフィールス(塩野谷正幸)に、俳優の色と相俟って強く演出家のアクセントを感じたのである。

 金銭感覚も稀薄で、ひたすら愛する男に入揚げて破滅に至るラネーフスカヤの華麗な面が舞台を覆っているのを高く評価したい反面、やや浮世離れしたところはあるが、尾羽打ち枯らした落魄の影を押しやったところが気になり、生活力が稀薄で無能だが、妹の弱いところもすべて認めて愛しており、ただ空しい騒ぎの中で、ラネーフスカヤと共に、零落の道を辿っている感じはよく出ているガーエフなのに、時折、元気すぎるところに違和感を抱いてしまうし、最早忠犬とでも呼びたいほどの、この屋敷の主とでも呼びたいほどの、櫻の木を切り倒す斧に倒されるように横になって死を迎える老僕フィールスの、「一生が過ぎ去ってしまった。まるで生きてきた覚えがないくらいだ」のせりふは、更に死の直前の、よれよれの亡霊の姿と声で観たかったが、少し生臭さが残っているように見えてしまい、残念だった。とはいえ、筆者のように観る客を百も承知の上で、敢えて新しいチェーホフ劇を見せたのではないか、と思い直せば、安奈淳の発する華麗な雰囲気、流山児祥の、銀行に就職して腐った櫻の園を後にする男の最後の気力、地霊のように、死んでも死なずに櫻の園に永遠に生き続ける塩野谷正幸の不滅の霊の言葉として捉えれば、異色の、大成功のチェーホフ劇として評価できる筈である。

 

『櫻の園』  @「シアターアーツ」  2011年春号 〜積極的「誤読」〜  野田学

 積極的「誤読」といえば、千葉哲也演出による『櫻の園』は、登場人物連にとっての古き良き時代を日本の八〇年代バブル期に重ねることで、彼らの行き詰まった現状を二〇一〇年の日本に見ようとした。舞台は倉庫のような空間、レオニードの「八〇年代の人間」宣言をきっかけに、現代服の人物連がジュリアナ東京の狂乱お立ち台ダンス(扇子付き)まで折り込んだやけっばちの狂騒を繰り広げる。ほかにも女優がロバーヒンを演じたりしている。

 日本の八〇年代という着目点は悪くない。八〇年代まではばらまき可能だったかもしれないが、もはや無理だ『櫻の園』におけるように、ということだ。チェーホフという作家は、そんな「だらしない」没落者に、「それではいけないことは分かっている」という自意識をあたえてしまう。だから、だらしない没落者が、いつのまにか愛おしくさえ思えてしまう。この観客意識の操作が心憎いのである。(後略)

 

『櫻の園』   @「テアトロ」 2010年11月号劇評 〜女優陣の充実、異化としての流山児印。〜  七字英輔

「チェーホフ生誕150周年」に当たる今年は、チェーホフ劇が目白押しだ。

 先ずは流山児★事務所公演、チェーホフ『櫻の園』(木内宏昌翻訳・台本、千葉哲也演出)。これは、あうるすぽっとの「チェーホフフェスティバル2010」の嚆矢を飾る公演でもある。流山児★事務所が旗揚げ以来、初めて本格的に挑むチェーホフ劇だというが、木内、千葉といえばtptで修行したコンビだし、主演の安奈淳(ラネーフスカヤ)も池下重大(ロパーヒン)も、tpt馴染みの俳優で、「流山児」というより、まるでtptの舞台を観ているような錯覚すら覚えた。その最たるものがベニサン・ピットの内部を彷彿とさせる美術(石原敬)だ。天井からブランコがぶら下がり、グランドピアノの陰に大きな木馬がある以外、「子供部屋」を思わせるものは何もないガランとした倉庫のような空間。木造の机や椅子が引き出されてくる他は、4幕すべてをこのセットで通す。  

 ブランコに坐ったまま居眠りをしていたロパーヒンがドゥニヤーシャ(坂井香奈美)に起こされるのが冒頭。やがて汽車の音が幻聴のように聞こえ、背後の巨大な鉄扉が右に引かれて、ラネーフスカヤの一行が姿を現す。その一瞬が、逆光に照らされて美しい(照明・沖野隆一)。

 19世紀末ロシアの広大な領地を所有する大地主の邸を思わせるものも、邸を囲む桜の樹もなく(「桜」は常に観客席の側にある)、殺風景な舞台は、まるで今はないベニサン・ピットに役者たちが帰還したかのようである。そして、そこに幻影が立ち現れるのだ。この舞台の面白さはそこに集約される。原作の2幕、桜の園に迷い込んでくる浮浪者(下総源太朗)も、ここでは開け放された鉄扉から屋内へと入ってくる闖入者になる。  

 演出上、唯一の変り種は、エピホードフ(町田マリー)とヤーシャ(朝比奈慶)に女優が扮し、ドゥニヤーシャとの三角関係を演じることだが、これが意外に違和感がない。勿論、演出は3人をレズビアンにしたかったわけではなかろう。ヤーシャなどは男の扮装の下に女物の衣裳がはみ出していて、この劇がメタシアターであることを強く意識させる。とんがったワーリャの伊藤弘子とともに、女優陣の充実を感じた。安奈はラネーフスカヤにしては華著すぎるが、品格の点で申し分がない。

 諧調を崩すのは、野性的に過ぎるガーエフの流山児祥と耄碌とはほど遠いフィールスの塩野谷正幸だが、彼らの「異化」が、この舞台をまぎれもない「流山児印」にしていた。

 

『櫻の園』  @江森盛夫の演劇袋   〜チェーホフの覚めた視線〜 2010年9月5日

 なかなか斬新で心の鎮まる「桜の園」である。舞台は屋敷の子供部屋だが、いままでの「桜の園」の通常のセットとはまるで違う。高い奥のなにやら文様がある壁がそそり立ち、上手に鋼の階段があり、上の部屋に通ずる。下手に二人がゆうゆう座れる大きなブランコがあり、紗幕に覆われた構造物がある。この美術はTPTの「広い世界のほとりに」という千葉の演出の芝居で、ベニサンピットの構造を見事に使った石原敬。払暁の暗い部屋に老僕フイールスが入ってきて、なにやら呟きながら灯をともす。

 この「桜の園」が斬新なのは、通常はラフネースカヤの兄ガーエフの身の回りの世話をしているだけだったが、塩野谷正幸が演じるフイールスが芝居の要を担っていること。この農奴だったのに農奴解放を嫌悪する老僕が、この家に出入りする人間たちの行状を見守り断罪する役を果たす。さらに千葉は、いままでのチェーホフ劇の常套を排し、俳優の演技をナチュラルにすることによって、芝居を平滑にし、芝居の見晴らしをよくする。イワオが演じる万年大学生ペーチャがいつもの流山児の芝居での臭いが消えて見違えるようだ。幕間に千葉にそのことを放したら”フツーにやってるんですよ。流山児さんももうすこしフツーにやってくれたら”と笑っていっていたが、彼の演じるガーエフはなるほど一寸くさいが、この役は誰が演じてもうっとおしいのだが、流山児のは活気があって面白かった。池下重大のロパーヒンがそのフツーの演技で今の時代を生きている。伊藤弘子のワーリャも千葉の意を体していた。その中で塩野谷の存在感が底光りしていた。無論安奈淳のラフネースカヤが中心人物の貫禄を示す。

 ニ幕目の幕開きは現代的なダンスシーンで始まる。それと対照的に下手に古典的な舞踏会の影絵が浮かび、、天井にゆらゆら光る玉が遊泳する。典雅で美しい情景だ。千葉の演出は精緻に細部を活かし、さらに思いきって強調すべきところはする。そのバランス感覚が素晴らしい。大概の「桜の園」では最後のロパーヒンとワーリャの別れはなんとなくすれ違ってしまうのだが、この舞台では濃厚なキスシーンがあり、それでも分かれてしまう。このほうが観ていて説得的ではある。ロパーヒンが何万べん説得しても、アrフネースカヤは桜の園を切り倒すことは考えることさえできない。

 個人の思いの伝達不可能性、その根源的な不可避性ハアrフネースカヤとロパーヒン、ロパーヒンとワーリャあdけではなく、登場人物全員にあてはなる。その農奴解放後の不安定な社会が生んだ現象を、農奴制の貴族社会を懐かしむフィルースが冷ややかにみつめ、断罪する。チェーホフの覚めた視線を、千葉が現代に蘇らせ、一種の鎮魂の気配がみなぎる舞台だった

『櫻の園』  @しのぶの演劇レビュー 〜愚かで、美しい若者〜 10年9月02日    高野しのぶ

 現代的でかっこいい美術でした。舞台中央奥にある壁が倉庫の扉のように開きます。上手奥の壁に描かれた巨大なイラストは女の子の胸から下の部分かしら。選曲も奇抜でしたね〜。流れた時に「えっ?」と少し驚くけれど、納得のいくものでした。

 何度も観てる『桜の園』。よく言われることですが、自分が年をとるにつれて気になる人物や、印象に残るシーンは変わっていくものですね。登場人物は老若男女そろっていますから、ずっとずっと何度も観続けられるんでしょうね。主要人物の誰を見ても「こういう人いるいる〜」と思 ってしまいます。今までに観たものと比べる視点でも楽しみました。

 千葉さんの演出作品はいくつか拝見してきましたが、私はとても好きです。千葉さんご自身が俳優だからというのが大きいのでしょうけど、舞台の上にいる人たちに嘘がないように見えるからです。千葉さんの「今」と、役者さんの「今」をそのまま舞台に乗せるからじゃないかしら。そのままをさらすのが前提なので、出演者には過酷かもしれません。戯曲を出演者の身体にゆだねて、演出家があまりコントロールをしない場合は、好みが分かれる結果になることもあるかと思います。この作品もかなり好き嫌いがあるでしょうね。

 チラシを見ててっきり下総源太朗さんがロパーヒン役だろうと思い込んでいたので、最初に驚きました。池下重大さんがっ、ロパーヒンっ!!期待を裏切らない素晴らしい演技でした。なんでいつもあんなにセクシーなんでしょうね、池下さん!

 今回はラネーフスカヤ(安奈淳)の娘アーニャ(関谷春子)にしみじみしました。歴史を軽んじて、家を捨てて、未来ばっかり見つめている若者。親を乗り越えていくけれど、親を無条件に愛し続ける若者。愚かで悲しいけれど、美しい若者。 (後略)


「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」   「テアトロ」 20112月号 〜2010年の力作。ラテン系の力強いお岩〜林あまり

編集部 今年はどういう一年であったと思いますか?

林 今まで話に出た中で私のベスト作品「裏切りの街」とイキウメの「図書館的人生 食べもの連鎖」以外の三つの芝居について言いたいと思います。まず「お岩幽霊/ぶゑのすあいれす」。これは、(社)日本劇団協議会主催で、製作は流山児☆事務所です。坂口瑞穂さんのなかなかの力作だったと思います。こんなラテン系(笑)の、力強いお岩さんものは、初めてです。流山児祥の演出で、ベテランが若い作家を支援し、育てていてる感じがしていいですね。

編集部 お二人は何度か一緒にやっていますよね、「ドブネズミたちの眠り」などもそうですね。

林 そうですね。坂口瑞穂さんは黒テントでやるときもいい作品を書くと思いますが、流山児祥と組んでやるときも面白い作品を書いていると思います。坂口瑞穂は黒テントの芸術監督でもありますし、今後も是非頑張ってほしいです。

 

「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」    @「文藝軌道」 2010年 10月号 〜坂口の新局面、蠢くニンゲン群像〜 野平昭和

 鶴屋南北の「東海道四谷怪談」に、このような形で再会出来るとは思わなかった。 

朝鮮事変(戦争)が始まって二年目のこと、明治座で、お昼前から夜暗くなるまで、通しで上演した歌舞伎の舞台を観る幸運に恵まれたが、丁度半世紀後の今日、昭和四十八年生まれの坂口瑞穂によって、その主人公の名を題名にした舞台に接し、感無量だった。というのも、この作が南北七十歳過ぎのものであることを知って、気持ちが悪くなり、書くことにとりつかれた南北をコワイと思った、という坂口の文をプログラムで読んだこともあって、あと三十数年で明治維新という幕末の、何でもありの崩壊期の江戸の姿と、坂口が南北の戯曲を下敷きにしながらも、敗戦後たった五年で始まった朝鮮戦争下の北九州の港町を舞台に新たに構築した世界が、見事に重なっていて、そこに蠢く人間群のおぞましさが蘇っているのに、筆者は脱帽したからである。

 すでに「金玉娘」「ドブネズミたちの眠り」によって、この作者の並々ならぬ力量に感服していた筆者は、更に坂口の手腕の新しい面を見たのは嬉しかった。半世紀前に南北の原作そのものに魘された筆者としては尚更だった。

「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」  2010年7月30日 読売新聞 〜心揺さぶる人間の本性〜 臼山誠 

 舞台は朝鮮戦争{1950〜53年)の特需景気に沸く北九州の港町。暴力、殺人、強姦……何でもありの無法地帯である。

そこへ(大戦に出征していた主人公の男が復員してくる。しかし、再会した妻は娼婦になり、進駐軍の黒人の子を産んでいた。町では、朝鮮人のぐれん隊とやくざの抗争が日常化し、誰もが他人をけ落としながら生きている。男には自分以外に頼るものがない町が、戦場以上の地獄に感じられる。そして、彼をだまそうとする男たちによって妻は毒殺され、終盤の血で血を洗うような殺りく合戦のなかで本人も命を落とす。 けんか、男女の抱擁といった肉体のぶつかり合いや接触、暑苦しいくらいの言葉の掛け合いがこれでもかと続き、むせるような熱気がたちこめる。舞台のそのエネルギーに圧倒され、くぎ付けにされた。

 これを、荒唐無稽だが楽しめるドタバタ劇と見てもいいかもしれない。だが、それだけか。法律、道徳などの社会ルール、保護するもののない無秩序な世界に放り出された人間たちの素の姿に、観客の心は揺さぶられもする。 生存するためだけに生きる、むき出しの生物的な生こそ人間の本質ではないか。残酷なエネルギッシュさが生の実相ではないか。そんな訴えを聞き取ることもできるだろう。それは、極限状態に置かれたとき人はどう生きるべきかという、有史以来繰り返し問われてきた問いでもある。

 人間の本性は本当に救いがないものなのか。町の外から転任してきた巡査以外、すべての登場人物が死んで幕は下りる。立ち尽くす巡査の姿は、われわれ観客の姿でもある。    

「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」  @ 「テアトロ」  2010年9月号〜永遠の課題、精神の廃墟〜  北川登園

 一九五〇年に勃発した、朝鮮戟争の特需景気にわく北九州の港町。米兵の死体処理さえ庶民の生活の糧になる。
そんな港町で愚連隊とヤクザの喧嘩の最中、戦死公報が届いていた人斬り半次こと清水(谷宗和)が、幽霊の如く軍服姿で復員してきた。

 彼には岩(阿萬由美)という妻がおり、彼女は妹のエリー(坂井香奈美)と共に美人姉妹を売り物に娼婦をして生活をしのいでいた。しかも、岩は黒人兵の子供を産んでいたが、清水は初夜のやり直しから人生の出直しを決意する。男の心意気がにじみ出る。

 鶴屋南北の「東海道四谷怪談」をモチーフにしているというが、たとえ髪すきの場面をこしらえても、南北の"恨み"はなく、むしろ人間に対する"優しさ"さえ感じる。焼け跡の廃墟の中でヤクザと愚連隊の抗争は、お国のためから急展開し、生きるため、復興するためのエネルギーの爆発だとさえ思える。

 清水にしてもブラジルでコーヒー園を経営する夢を持っているが、南北の「金が仇の姿婆世界」に翻弄されての岩殺しだ。二層の舞台で、上では清水と彼の上官の娘との盃ごと、下ではもぐりの医者(塩野谷正幸)に毒を盛られる岩。流山児の生と死の対比の場面は、静謐な美しさを湛える。 歌あり踊りあり、活劇ありのエンターティンメント作品だが、清水のポン友で朝鮮人の新井の言葉「戦争とか、人種とか、自分のあずかり知らんところで振り回されるのが嫌だ」が、ずしりと重い。今に続く永遠の命題だからだ。
 

「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」  江森盛夫の演劇袋 ジェットコースター的B級活劇〜 10年6月30日

作:坂口瑞穂、演出:流山児祥、流山児★事務所、ザ・スズナリ。これは流山児にしかできない舞台だ。終戦直後、朝鮮戦争たけなわの時代の北九州の港町。地元のヤクザと朝鮮人の抗争に駐留米軍の日系二世がからみ、復員兵も混じって、米軍の物資を奪い合い、警察はすべてみてみぬふりをこめこんで、街はほとんど無政府状態。この街では女たちは体を売る以外生きてゆけない。坂口は南北の原作を踏まえて、お岩、お袖の姉妹をパンパンあがりの姉妹にして物語の中心に据えた。  

開幕、流山児が「上海帰りのリル」を歌いながら、”パラダイス一座”の85歳の瓜生正美と伊藤弘子の老夫婦を連れて出てくる。塩野谷正幸の機能的で見事な美術、本田実の音楽が流山児の意を呈して、このジェットコースターのようなめまぐるしB級活劇を支えて、流山児の無頼の魂が全編みなぎる芝居が出来上がった。ヤクザの親分が本多チェーンの社長本多一夫。20代ら80代までの大勢の役者が活躍するこの舞台は、終戦直後の日本人・朝鮮人の活力を描き、歌や合唱の効果的な挿入は、流山児の特技であるレビュー演出の華、彼の真骨頂が横溢した実に楽しい舞台だった。流山児★事務所初出演の伊達暁が肺病病みのヤクザを演じて生彩を放ち、塩野谷・伊藤のベテランが舞台を締め、日系二世の米兵と「四谷怪談」の原作では伊右衛門の家の隣の金持ちに当たる役の二役を演じたさとうこうじが相変わらず面白い。

「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」  @「悲劇喜劇」〜テーマ性あふれる活劇エンターテインメント〜 山口宏子×河合祥一郎 10年9月号

編集部: 次は流山児★事務所「お岩幽霊〜ぷゑのすあいれす〜」ザ・スズナリ/作=坂口瑞穂/演出=流山児祥/美術=塩野谷正幸/出演=塩野谷正幸、伊達暁、伊藤弘子、さとうこうじ、保村大和、上田和弘、谷宗和、里美和彦、冨澤力、坂井香奈美、武田智弘、阿寓由美、荒木理恵、山下直哉、滝本直子、流山児祥、本多一夫、瓜生正美)をお願いします。日本劇団協議会の創作劇奨励公演に選ばれている作品です。
山口: タイトルから想像できるように、四谷怪談の人間関係をベースに置いた物語です。朝鮮戦争の頃の博多を舞台に、朝鮮人の愚連隊、日本人ヤクザ、警官、娼婦たちが入り乱れて生きています。 戦争で死んだと思われた男(谷宗和)が片腕を失って帰ってくる。これが伊衛門にあたる役です。彼の妻のお岩(阿萬由美)は、お袖にあたる妹(坂井香奈美)とともにパンパンをやっている。混沌とした街に「生きていた英霊」が帰ってきてドラマが動きだします。 黒テントの若い作家である坂口瑞穂さんによる台本では、伊衛門を悪者にしてないんですね。伊衛門はむしろ非常にいい人です。かっての上官から「うちの娘と結婚してくれ」と言われて、いったんはその気になったりはするんだけど。
河合:「俺には妻がいるから」と。
山口: お岩がいると言って、ちゃんと戻るんですね。むしろ悪いのは、妹の恋人(伊達暁)。肺を病んでいる朝鮮愚連隊の青年です。 恋あり、冒険あり、暴力あり、そこに戦争の傷が横たわっている。テーマ性もある活劇エンターテインメントとして楽しく観ました。「オールド・パンチ」出身の瓜生正美さんと本多一夫さんが出演していましたが、恰幅のいい本多さんはヤクザの親分役が堂にいっていました。瓜生さんの艶々としたたたずまいが、戦後を全身で表現していて、こういうキャスティングは流山児さんうまいなあと思います。塩野谷正幸さんが演じた、おそらく中国で731部隊にいたのだろうというあやしい医者が、影を抱えている存在でした。
河合:塩野谷さんは、何かを内に秘めた怖い雰囲気があって、舞台を引き締める存在感がありました。とくにお岩を毒殺してしまう場面は圧巻でしたね。
山口:四谷怪談でいえば宅悦の役どころなんでしょうが、道化っぼい感じはありませんでした。
河合:得体の知れない感じだね。
山口:いわゆるお岩の悲劇にせずに、全体に元気で押し切った感じはあると思いますね(笑)。戯曲も演出も含めてその元気が流山児★事務所。
河合:息も切らせず最後まで突っ走る演出はさすがだと思います。お岩さん役の阿寓由美さんに歌わせたりして、エンターティンメントとして成立させていますしね。さとうこうじさんと伊藤弘子さん演じる代議士夫妻が「娘と結婚してください」と人斬り半次に無理強いするとき、急に不思議な演技モードに入ったりするおかしさもうまく機能していた。役者のエネルギーがうまく発散されていて大いに楽しめました。


 

「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」    2010年7月11日  @熊本日日新聞 〜港町の青春活劇〜 文化圏

流山児★事務所の7年ぶりの公演が7月9日熊本市健軍文化ホールで上演された。鶴屋南北の「東海道四谷怪談」を基に、劇団黒テントの芸術監督坂口瑞穂さん=玉名市出身=が書き下ろし、流山児★事務所代表の流山児祥さん=荒尾市出身=が演出した。朝鮮戦争の特需に沸く北九州市の港町を舞台にした青春活劇。約200人の観客は、20〜80代の俳優陣による、全編九州弁のせりふ回しや殺陣に見入った。

「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」     2010年7月8日 @西日本新聞 〜ギラギラした熱情〜 塚崎謙太郎     

ギラギラした熱情をもてあまし、手なずけながら、生き急ぎ、疾走する男たちと女たち。目の前で繰り広げられているのは「芝居」であるはずなのに、彼らの人生を間近で目撃してるかのような興奮におそわれた。
 戯曲は坂口瑞穂=熊本県玉名出身= 演出は流山児祥=同荒尾市出身=のコンビがつくりあげた、重厚で熱い群像劇「お岩幽霊ぶゑのすあいれす」(6月29日、東京のザ・スズナリ)に、舞台と客席を隔てる境界は存在しなかった。

 1905年6月、朝鮮戦争の特需景気で活気あふれる九州の港町。戦死したはずの男(谷宗和)が10年ぶりに舞い戻ってくる。かつてこの町で「人斬り半次」と呼ばれ、お岩(阿萬由美)という妻がいた。だがお岩は生きるために体を売り、米兵の子どもを産んでいた。半次の友人、新井(伊達暁)は米軍トラックから物資を強奪し、地元の博徒と抗争を繰り返していた。お岩の妹、警察官、代議士、もぐりの医者、死体処理請負人も絡み合いながら「東海道四谷怪談」を大胆に翻訳した活劇は、悲劇へと向かっていく。


 集団の歌と踊り、激しい殺陣も見どころだが、最大の魅力は個性の強い役者陣だ。20代から80代まで、層の厚い役者18人。その一人一人が熱を体から放ちながら、物語の世界に存在していた。半次役の谷を含む9人が九州出身であり、生きた九州弁がドラマを支えた。
 60年前、これほどに人間は熱く生きていた。翻って、いまの私たちはどうか。ジェットコースターじみた活劇の興奮からさめたとき、受け取ったメッセージの重さに気付くだろう。


楽塾公演 「ほろほろと、海賊」   @ 江森盛夫の演劇袋  10年5月3日

13年目の楽塾の熟年女性メンバーは鮮やかに一皮むけた。舞台でどうどうと演技を楽しみ、全員芝居の腕も上がった。

佃の脚本も良くて、10数人のメンバーにそれぞれ見せ場をつくり、話の起承転結も無駄がなく、人物も話もぐいぐい客を引っ張った。最近ではオレには佃の最高の作品に思える。長野県の湖に浮かぶ水上レストランが閉店を余儀なくされ、伝説の名人シェフはカスピ湖の世界最高の岩塩を求めてアゼルバイジャンに行ってしまう。残された女給仕たちは男装して海賊になるしかなく、町の住人と対立するという荒唐無稽な話だが、一場一場が面白く、副人物たちも多様で飽きさせない。

 みんなの腕が上がったから、ミュージカル仕立てにし流山児の演出も冴えに冴えた。歌を芝居のかすがいにしてスピーデイに芝居を運ぶのは流山児の独壇場だ。1時間20分のあっという間のジェットコースターだった。しかし、舞台に重みを与え支えたのは客演した肝付兼太と戌井市郎というパラダイス一座の重鎮だ。特に伝説の名人シェフを演じた戌井の当たりを払う存在感は畏怖さえ呼び起こす。

 

楽塾公演 「ほろほろと、海賊」   @演劇定点◎カメ ラ  まねきねこ  10年5月21日

舞台。斜めった柱がいくつか。壁際に倒れかかる板。 お話。斜陽のリゾート村。湖上にある海賊船を模したレストラン。幻の岩塩を探しに  カスピ海へ旅立った料理長を待つ間に海賊のよになってしまった女従業員。「彼ら」 を追い出し、記念館を建設しようとする役所と主婦達。海賊船を守るかのように潜む、怪獣がため容易には近寄れない。そんなところに謎の中年カップルがやってきて。

溢れる演劇愛、滋味ある役者と演技にほろほろするねこ。 歌とモブダンスが一杯の音楽劇体裁。急転する物語、散りばめた言葉とキャラ遊びがテンポよく繰り出され乗ってのせられて楽しい一時。達者な演技に、人生経験なのか滋味を乗せる役者達が とても魅力的。演ずることの喜びがダイレクトに感じられて、思わず微笑むねこ。

御大・戌井市郎さんの渋くも洒落た演技も○。オールドパンチの復活も予定されているらしく、また楽しみが増えたねこ。

 

楽塾公演 「ほろほろと、海賊」  梁塵日記     10年5月1日

佃典彦の書下ろしを流山児祥が演出。カスピ海の岩塩を求めて旅立った伝説の料理長の帰りを待ちわびるうちに海賊に身をやつした湖上のレストランの女従業員たち。彼らを追放しようと画策する「記念館建設」の主婦連、湖に住み海賊を守る怪獣。そして謎の中年不倫カップル。 失礼ながら、平均年齢58歳、70代もいる素人役者の芝居には期待しなかった。93歳の戌井市郎さん目当てだった。が、戌井さんは体調不良で休演。残念。

 が、ステージが始まったら、役者たちに釘付け。出だしは「なんだこりゃ」。素人とプロの役者の違いは舞台にどう立つか。その立ち姿が違う。どんなヘタな役者でもプロはプロ。舞台に違和感なく立てる。しかし、素人はそうはいかない。見ただけで違和感ありすぎ。確かに、いくら稽古したってしょせんは素人。ところがぎっちょん。芝居が進むうちに、うまいヘタじゃない、今その場で役を必死に演じている役者たちの存在感が異様に膨らんでいく。つまり、役者がうまくなるにつれ、どんどん捨てていった夾雑物の残滓が、彼らにはまだ残っている。その夾雑物が魅力となって観客を圧倒するのだ。

 つまりは役者の存在そのもの魅力。これにはびっくりした。確かにうまい人もいる。というより、皆さん、芝居が達者だ。スピーディーな展開、言葉遊びによくついていける。その達者ぶりには、大笑い。近頃こんなに快い笑いをしたことがない。それもこれも、舞台で演じている役者たちの演劇への真摯な愛情が伝わってくるからだ。 ゲスト出演の肝付兼太さんや代役の流山児祥よりことによると上手い。

 

楽塾公演 「ほろほろと、海賊」   @ 芝居漬け   田中伸子  10年4月27日

「ひとは元気で楽しいものを見ると元気で楽しくなる」をモットーに13年目を迎える中高年劇団=楽塾。 このスローガンを掲げ、毎年G・Wの時期に定期公演を続けている「楽塾」、流山児祥率いるところの劇団が今回は本拠地のSpace早稲田で佃典彦による書き下ろし(プラスあて書き!?)の新作を上演。

歌あり、踊りあり、コスプレあり(??)、演劇界の重鎮ゲスト出演あり、の盛りだくさんの内容でスローガン通りの舞台を見せてくれた。 何と言っても楽塾の役者ありきの芝居なので、戯曲の意図は?作者の訴えたい事は??なんて堅苦しい事は言いっこ無し。はなから、とにかく役者一人一人を観て楽しんでくれ!!と言わんばかりのサービス精神いっぱいの1時間半。伝説の料理の超人、三ツ星鯛一郎(戌井市郎/流山児祥のダブルキャスト)の帰還を待ち続け、湖上にうかぶ落ちぶれたリゾート地のレストランで海賊になってしまった元の従業員たち、とその海賊船レストランを改造して地元の名士の記念館を建てたいと画策する市民団体のおばさん達。

舞台狭しと個性溢れるおばさま女優の皆様がたがテンポ良く、歌声軽やかに、軽妙なコメディを繰り広げて行きます。で、今回の目玉が何と言っても、流山児が率いるもう一つの高齢者劇団(こちらは劇団関係、演出家、劇場主など、の高齢者から成る)からの特別ゲスト、前述の戌井さんと肝付兼太さん、このお二人と楽塾女優陣との共演だろう。

絶妙なチームワークを見せている。 いつも観客席側にいると、どうも演劇は観るもの。という観念から抜けきれないようになってしまっているのだが、今回の公演では「演劇は自らやるもの」と考えても良いのでは?という、新鮮なメッセージを受け取る事が出来た。 演劇教育という理念の中にも、先日岩井秀人さんがインタビューでも語っていたように・・・・もっともっと演劇に関わる=自らで演劇を作る(鑑賞して批評するだけでなく)を積極的に勧めていくというアプローチが加われば良いなと感じた公演でした。


「標的家族!」  @「テアトロ」  2010年 6月号    フリンジ系評判記        浦崎浩實

「標的家族!」 はコワい芝居。 助けた相手の一家が日常的に受けているらしい世間からのいじめが、じわじわと主人公一家にも[感染]してくる。 なさそうで、ありうる現代社会の不気味な気流をホラー化した秀作。

「標的家族!」 @江森盛夫の演劇袋     2010年2月2日

佃のテクストがいい。鋭利で巧みで面白い舞台だった。特定の家族を標的にして、子供じみた悪意でその家族の不幸につけこんで一家を破滅させてしまう、今の日本人の徹底したエゴイズムの荒廃感が舞台にむんむん漂よった。小林の演出もきっちり佃のテクストを生かした立派なもので、美術の小林岳郎も狭い空間を驚くほど立体的に見せた。演技陣も客演の下総源太朗を中心に文句のつけようがない芝居に仕上げた。ただ、最後に近づくと、盛り上がりが過剰になって批評性が薄れてゆき、スペクタクルになってしまった感じが残 った。

「標的家族!」 @梁塵日記    2010年1月30日

佃典彦の作品を小林七緒が演出。

 ある日、キノシタさんは地下鉄の公衆トイレの前で倒れている一人の男に声を掛けた。ノグチと名乗るその男は数日後、家族を伴いキノシタさんの元を訪ねて来たのだが、どうも様子が普通じゃない。ノグチさん一家はナゼか全員大怪我を負っているのである。ノグチさん一家の夕  食に招待されたキノシタさんはその後、ノグチさん一家の行方が判らなくなったことを知る。 謎めいたノグチさん一家であったが、その一方で世間から「不当なイジメ」を受け続けているスズキさん一家の存在を目の当たりにするのであった。それはまるで世間から標的にされているかの様である……。

 世間の悪意の標的になる3つの家族。ナゾめいた動物カウンセラーがアリの生態を引き合いに解説。途中でタネ明かししてしまうのが脚本としては弱いか。
 集団のストレスを拡散させるために、犠牲者を仕立て上げ、それを標的にすることで集団を守る。 アリと人間の相似形。

 七緒の演出は手堅い。ただし、いじめのシーンをバックグラウンドで見せるところはもうひと工夫あってもいいのでは。後方の空間の使い方、演出がいまひとつ。
 悪意を、そして犠牲者を連鎖させていく脚本は、ホラーの定石。下総源太郎、NLTの藤川恵梨はじめゲスト陣が面白い味。特に笑いを独占したのは平野直美。この女優はうまい。

「標的家族!」 @芝居漬け  2010年1月30日

佃典彦氏の書き下ろし新作。家族単位でいじめの標的にされたら?という被害者家族の状況を詳細に描いた内容で、不条理、かつ筒井康隆ノベルのようなブラックコメディの要素あり、でたいへん面白いものとなっております。

次世代を担う演劇人育成公演の対象となっている若手演劇人チーム(『演出:小林七緒』、音楽:諏訪創、美術:小林岳朗、主演俳優:木暮拓矢)が中心となり作っている舞台。そこへベテラン:下総源太朗、流山児事務所の看板娘:坂井香奈美などが加わり1時間20分、どんどんブラックテイストに加速していくバトルシーンをしっかりと見せてくれている。
アフタートークでボスの流山児さんがコメントしていたように、自前の劇場を知り尽くしている美術、小林さんがリアルに、そして効率よく作り上げた平均的サラリーマン家庭の家のセットが秀逸。

若手と中堅、大御所がそれぞれに役割分担してうまく稼働している(青年団なんかもその点でしっかり組織だって活動していますよね)中で、どんどん若い人たちに発表の場を与え、新しい息吹を演劇界へ注入するってと〜〜〜っても大切なことですよね。
だって、いくらがんばったって人の寿命なんてたかだか100年もてば奇跡。だったら、どんどん継承していかなければ、、大きなものは達成出来ません。

 

 


「田園に死す」  雑記帳(1)  @ 「もずくスープね」2009年12月23日   あんどうみつお

And life is like a dream
Dream
The dream I long to find
The movie in my mind

(ミュージカル「ミス・サイゴン/The movie in my mind」より)

                  ◆

もし寺山が生きていたら74歳の誕生日となったであろう2009年12月10日に、流山児★事務所『田園に死す』(原作:寺山修司、脚色・構成・演出:天野天街、音楽:J・A・シィザー、企画・出演:流山児祥)が開幕した。寺山修司の監督した長編映画『田園に死す』(制作・原作・台本・演出:寺山修司。撮影:鈴木達夫。音楽:J・A・シーザー。美術:粟津潔。意匠:花輪和一。出演:八千草薫、春川ますみ、新高恵子、高野浩幸、菅貫太郎、他。制作:九条映子、ユミ・ゴヴァーズ。配給:ATG)が公開された1974年(昭和49年)12月28日からは、約35年後にあたるタイミングでもある。

映画『田園に死す』は、通常「寺山の自伝的映画」と紹介されるが、注意すべきは、けっして自伝映画ではないということだ。あくまで自伝「的」、あるいは自伝「風」映画である。「私」の過去を映画にしようとするものの、そこに真実を描かなかった現在の「私」が、過去の「私」に真実を伝えようとするメタ・ムーヴィーである。しかし、そこで語られる真実もまた、実は真実ではないということを、現在の観客たるわたしたちは知っている。

                  ◆

「これは一人の青年の自叙伝の形式を借りた虚構である。われわれは歴史の呪縛から解放されるためには、何よりも先ず、個の記憶から自由にならなければならない。この映画では、一人の青年の“記憶の修正の試み”を通して、彼自身の(同時にわれわれ全体の)アイデンティティの在所を追求しようとするものである」(寺山修司/「『田園に死す』演出ノート」より)

                  ◆

「終わったことは全て虚構に過ぎない」「歴史はどうにでも組み立て直すことが可能である」と考えていた寺山は、自身の過去も映画の中で組み立て直そうとする。しかし、組み立て直そうとしても完全に組み立て直しきれない「私」もまた、映画の「私」の中に、そして作者=寺山自身の中に潜んでいるらしい。

                  ◆

「どこからでもやりなおしは出来るだろう。母だけではなく、私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎないのだから。そして、これは、たかが映画なのだから。だが、たかが映画の中でさえ、たった一人の母も殺せない私自身とは、いったい誰なのだ?!生年月日、昭和49年12月10日、本籍地、東京都新宿区新宿字恐山!!」(寺山修司/『田園に死す』シナリオより)

                  ◆

この映画を通じて、あるいはこの映画のベースにもなっている彼の自伝的歌集(もちろん、これも自伝を装った自伝「的」歌集である)『田園に死す』において、寺山は、「私」の解体を試みる。では、なぜ「私」は解体されなければならないのか。それは、「私」=「自我」の重力に呪縛されていたからである。その背景には、「死」と隣り合わせの健康問題、母親との複雑な関係性、などなど、寺山ならではの特殊な事情が色々あったと考えられる。そんな「私」を解体し、自由になるために、寺山は、映画という表現媒体を夢のように機能させたのではないだろうか。

自身の欲望やら原風景やら幻視的オブジェやら現実的記憶やらを、フィルムの中に織り込んでみせた。フェデリコ・フェリーニの『8 1/2』や『アマルコルド』の手法をさらに過激に推し進めたともいえよう。これによって、たしかに「私」の解体は進められたのかもしれないが、本当に個の記憶から自由になったといえるのだろうか。そのことでますます「私」の内的な全体像が浮かび上がるというパラドックスが生じたとはいえないだろうか。かくして「私」はいよいよ謎を深めるばかりなのだ。

とはいえ映画『田園に死す』は、寺山修司があらゆるジャンルで繰り広げた表現活動の中でも、最高峰の作品と一般的に評されている。彼の思想や方法論さらには内面的主題が詰め込まれているうえ、ヴィジュアルも音楽も撮影も、すべて独特で完成度が高い。公開当時、キネマ旬報1975年日本映画ベスト10では、第1位『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』監督:新藤兼人(ATG)、以下、第2位『祭りの準備』監督:黒木和雄(ATG)、第3位『金環蝕』監督:山本薩夫(大映)、第4位『化石』監督:小林正樹(東宝)、第5位『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(松竹)といった名作群のひしめきあう中、『田園に死す』は第6位につけている。尋常ならざる幻想実験映画としてはまあ健闘といってよいかもしれぬ(それにしてもATGの多いことよ)。

わたしは、公開から4年後、たまたま学校をさぼり観た。うぶで多感な高校生にとって、これほど圧倒された映画は他になかった。以来、現在に至るまで生涯のベスト1映画である(流山児祥氏に言ったら「変わってるねえ」と言われた)。この映画をきっかけに、寺山の他の映画や演劇(劇団天井桟敷)なども観るようになるが、『田園に死す』を超える衝撃はなかった。併せて、J・A・シーザーのことも、音楽の仕事を中心にそこそこ追っかけているが、わたしの中での最高傑作はやはり『田園に死す』の音楽なのだ(ジャパニーズプログレファンの間では御詠歌ロックの金字塔なども言われているらしい)。映画を観た頃には既にサントラ盤(アナログレコード)は入手不可能だったが、大学に入ると増山さんという先輩が所持していることを知った。そこで無理を言ってお借りし、テープにダビングさせてもらった。以来、2002年8月にデジタル・リマスタリングでCD復刻されるまで、20年近く、自分にとっては最も貴重な音源として大変役立っていた(親切だった増山先輩には改めて深謝!)。



「2009年12月に流山児★事務所で天野天街が寺山修司作品を手がける」、しかもそれがわたしにとって最も愛着の強い映画、『田園に死す』だと知らされたのは1年ほど前のことである。わたしの心境は少々複雑だった。『田園に死す』は、過去にも幾度か舞台化されたことがある。わたしは、その中の1つ、劇団☆APB-Tokyoの上演を3年前に観たことがある。寺山への熱烈なリスペクト精神が、この難物に挑む心意気やよし、されど、戦略性の乏しい分、どうしても粗がめだってしまい、ノスタルジーの域を超えるものにはなりえてなかった。まあ、そういうものはまだ微笑ましい。しかし、天野が手がけるとなれば、微笑んでもいられない。というのも、天野天街は、わたしが最も強く興味を抱き続けてきた演劇作家だからだ。

天野天街。名古屋を拠点に、劇団少年王者舘を主宰。極めて独特な作風の舞台作品の劇作・演出を数多く手かげてきた。また、もともと自劇団のチラシのために始めた独自のコラージュ美術が注目され、数多くの演劇公演の宣伝美術や、書籍の装丁に起用されている。さらには、映像作家としても活躍。なかでも1994年監督作品『トワイライツ』はオーバーハウゼン国際短編映画祭で日本人としてグランプリ初受賞(ちなみに寺山修司は1975年のオーバーハウゼン映画祭において『迷宮譚』で銀賞)。このように、ハイブリッドな多面体というべき天野天街が、寺山という大いなるハイブリッド多面体の、集大成とも結晶体とも称せられる映画作品を、一体どのように扱うというのだろう。まず、そう思った。



天野はかつて、澁澤龍彦『高丘親王航海記』、鈴木翁二『マッチ一本ノ話』、しりあがり寿『真夜中の弥次さん喜多さん』の舞台化において、原作の風味を損ねることなく、大胆に自らの演劇ワールドへと移植/転換/翻訳させることに成功せしめている。とはいえ、今回の取り組み相手は、寺山修司の映画『田園に死す』という、相当に手強い難物ではないか。…しかし、である。天野の思考回路は、まるで「夢」の如し。作劇においても「夢」の技法を駆使することで、「夢」的な原作を、舞台上の「夢」として描くことを可能たらしめてきた。

もちろん天野のソレは、陳腐で凡庸な「夢」的表現とは一線を画す。フロイトは「夢」の仕事の例として、置換・圧縮・視覚化・象徴化などを挙げたが、これらはとどのつまり「夢」の「編集」作業と呼べるだろう。天野は、自らまるごとマルチな「編集」アプリケーションソフトと化して、ストーリー、台詞、美術、音、文字、身体、さらには時間、空間、記憶、演劇的決まり事に至るまで、あらゆるリソースを、編集可能なマテリアルとして扱うことで、大胆な「編集」作業を進める。そこでは時間を行ったり来たりさせることなど当たり前。一人の登場人物が複数に分裂するなども日常茶飯事だ。切ったり貼ったり読み換えたりひっくり返したりのコラージュ的「編集」作業の過程において、事物に潜む思いがけない本質が偶然浮かび上がってくる。それらをさらにつなぎあわせて、リアルな夢の感触を構築する。そうなるまで、たとえ「遅筆」の誹りを受けようと、天野は執拗なまでに、「編集」を繰り返すのだ。すなわち、彼こそは「夢の編集職人」であり「偏執狂的編集狂」なのである。

そこで思い出されるのは、寺山修司の諸作品もまた、コラージュ性ないし「編集」性に満ち溢れていることである。いまや国語の教科書にも載るほどに有名な「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国やありや」(第一歌集『空には本』「祖国喪失」より)という歌も、富澤赤黄男の俳句「一本のマッチをすれば湖は霧」「めつむれば祖国は蒼き海の上」をコラージュしたものではないかと言われている。そのため盗作問題にまで発展したこともあったが、結果的として圧倒的に強烈な印象を人々に刻印したのは寺山の「マッチ擦る…」の短歌のほうであって、つまりは卓抜した「編集」能力の勝利といえる。天野との違いといえば、寺山の仕事のほうが、諸局面において教養人・知識人としての意識的な力を感じる。天野のほうは幾分、無意識的な作業の中から思いがけない偶然の効果を生み出すことが得意のように見受けられる。

ともかくも、寺山という編集職人の仕事を、天野という編集職人がさらに「編集」すると、どうなるのか。しかも『田園に死す』は、寺山において映画=夢ともいえる。その夢の土俵で、夢職人たる天野はどのような戦略を描き、どのような仕掛けを発動させたのだろうか。

                  ◆


昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかって
完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森県浦町字橋本の
小さな陽のいい家の庭で
外に向かって育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを

子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ

(寺山修司「懐かしのわが家」より)

                  ◆

寺山修司は、映画『田園に死す』が封切られてから約8年半後の1983年(昭和58年)5月4日午後12時5分に、阿佐ヶ谷の河北総合病院にて死んだ。常に「死」と隣り合わせだった寺山にとって、それは「完全な死体」になることだった。その一方で、彼は「世界の涯てが自分自身の夢の中にしかない」とも書いた。そこで天野がまず企てたのは、寺山の夢=映画の内側に入り込み、「世界の涯て」=寺山の死の瞬間に時計の針をセットしたことだった。そうして、果たして本当に夢の中に「世界の涯て」があるのかどうかを問うたのではないだろうか。
 

 

「田園に死す」   雑記帳(2)    @ 「もずくスープね」2009年12月23日   あんどうみつお

 

映画『田園に死す』が、寺山修司自身による短歌朗読で始まることはあまりに有名である。一方、流山児★事務所の演劇版『田園に死す』は、思いがけない始まり方で観客を呆然とさせるのであった。

場内アナウンス「本日はご来場ください(して…)」の「」の音に頭の音がかぶさりながら「ッチ擦るつかの」という台詞が突然発せられると共に、実際にマッチが擦られることによって暗闇に束の間の演劇空間が垣間見える。と、続いて「つかの」の「」にかぶせれられるように、別の俳優によって「ッチ擦るつかの」が発せられ、さらに別の俳優へと次々に連鎖してゆく。こうして、みるみるうちに舞台上には「ッチ擦るつかの」の「間」=「演劇空間」がどんどん穿たれてゆき、続いて、その他の寺山短歌群が洪水のように詠み出されれることで観客は、寺山をめぐる劇世界の中に、否応なく吸い込まれてゆくのだ。

そして遂に映画冒頭の寺山修司の声が舞台に降りてくる。「大工町米町寺町仏町老婆買う町あらずやつばめよ」「新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥」(歌集『田園に死す』より)。こうして観客に少しも息を継がせぬまま、舞台は映画『田園に死す』の主題歌、J・A・シーザーの最高傑作「こどもぼさつ」の、全劇団員による合唱に突入する。

寺山ファンならば、天井桟敷の『盲人書簡』における、苦力が次々にマッチ擦る場面と融合するように、かの有名な「マッチ擦るつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国やありや」の一節が、かくも効果的に使われることに早くも感銘を受けるかもしれない。天野天街のファンならば、『マッチ一本ノ話』『マバタキノ棺』を頭によぎらせながら、瞬間の中に永遠を宿らせる儀式に、進んで己が身を投じるかもしれない。ともあれ、われわれ観客は、あれよあれよという間に『田園に死す』の世界へと引きずり込まれてしまったのである。

そこからしばらくは、映画『田園に死す』の流れに沿いながら物語が進行してゆくと見せかける。が、細部においては忠実ではない。主題歌明けての、最初の場面、故障した柱時計をめぐる主人公シンジの母と隣家の主人のとめどなく反復する会話。天野は柱時計と共にそこに流れる時間自体をも壊してしまうのだ。


観客はこの段階から、線的で一方通行的な現実の時間感覚を、徐々に失わされてゆく。その後も、この種の反復が随所に差し挟まれてゆくことで、観る者は、知らず知らずのうちにアナクロニスム(時間錯誤)の森に、奥深く、迷い込まされることとなるのだ。その頃になると、「昭和五十八年五月四日。敗血症」とか「あと三十五年…やりたいこと…やるんだぜ」といった、不吉な臭いのする言葉がさりげなく囁かれるのをわれわれは耳にするようになる。

寺山修司は、事実として昭和五十八年(1983年)五月四日、敗血症で47歳で死ぬのである。そして、芝居の主人公シンジは、「東京タワーは昭和三十三年(1958年)に建つ、まだ十年も先のことだよ」と語ることによって、とりあえず今、昭和二十三年(1948年)に生きていることがわかり、寺山修司の年表に照らせばそれは12歳ということになる。つまり寺山が死ぬ47歳まで、あと「三十五年」なのだ。


そのことに気づくならば、舞台中央の、壊れた柱時計の針がずっと同じ時刻に止まっていることに誰かが注目するかもしれない。12時5分。それは寺山修司の死亡時刻である。この演劇作品は、寺山修司が阿佐ヶ谷の河北総合病院で死んだ12時5分、その直前の刹那=マッチ擦る束の間に展開した「夢」であると、そのように設定したと、見てとれるのだが、どうだろう。

そう意識した頃には、主人公シンジの住む村にサーカス小屋がやってくるのだが、原作の映画『田園に死す』のサーカス小屋シーンとは少々異なる話が展開されてゆくことに、われわれは「おや?」と思う。ここでは、一人の人物が二人に分裂・増殖する(実際の双子の俳優がつかわれる)スケッチや、(寺山が少年期に愛読したという)明智小五郎と小林少年率いる少年探偵団が登場するスケッチ、また、役者を演出する演出家のスケッチ、などが描かれる。

少年探偵団は、団員の一人<ゼンマイ仕掛けの腹話術人形>がはぐれてしまい、団長の<小林少年>がそれを探そうとする。<小林少年>は無線トランシーバーを通じてその声を<ゼンマイ仕掛けの腹話術人形>の口にとばすことができる。<ゼンマイ仕掛けの腹話術人形>は<ワタシの本体であるワタシ>=<小林少年>を探さねばならないのだが、<小林少年>の言葉が口から出てきてしまうために、うまく<小林少年>を探すことができない。一方、<小林少年>は、すぐ後方に来ている<ゼンマイ仕掛けの腹話術人形>が、自分の声と同期してしまっているので、それと気づかずに前方を探し続けてしまう。こうしてこの二人は、それぞれ探す対象を探しあてることができないまま、周辺をぐるぐると、とめどなく回り続けることとなるのだ。この状態は、映画『田園に死す』における「私」探しの主題とも大いに関係するものではないか。だとすれば、劇中の<作者の分身>は<作者>を探すことができるのか。

次に、役者の演技にダメだしする<演出家>、しかしその<演出家>は、実は<<演出家>を演じている役者>であり、彼の演技にダメだしする<別の演出家>が現れる。しかし、その<別の演出家>も<<別の演出家>を演じている役者>であって、その演技にダメだしする<さらに別の演出家>が現れる。しかし、その<さらに別の演出家>の演技もまた、いままでの役者たちがダメ出しをする。マトリョーシカのような入れ子構造が、いつしか円環構造を形成するのである。実は、この種の円環構造が、この芝居の大きな鍵を握ることになることを後にわれわれは思い知らされるのだ…。

こうして、<異界>=<外部>から訪れたサーカス小屋でシンジが出会った体験は、この後の劇の新たなる展開に向けた、通過儀礼とも煉獄体験ともいえそうだ。この後は、原作映画からのストーリーの乖離がますますエスカレートする一方で、寺山修司の色々な作品の断片や、彼の生涯や死にまつわる断片が、次々に闖入し、虚構と現実が入り乱れて、天野的流儀でコラージュされてゆく。さしづめ、サーカス小屋は、ある意味、寺山ファミリーの<外部>であり<他者>である天野が自分のドラマトゥルギーを全開にするキッカケを示すための装置なのではなかったろうか。同時に、それ以降は、寺山修司が死の床の夢で見ている走馬燈世界が、舞台上にどっと流れ込んできたようにも見えた。

 

「田園に死す」   @ 「文藝軌道」 2010年4月号     「2009年秋から冬の舞台 劇評」 野平昭和

 一九七四年、寺山修司自身が製作した映画「田園に死す」が公開された時、奇妙な異和感の中で見た記憶が蘇ってきた。
 それまで舞台を通じて、あるいは活字で、幾度となく寺山自身が語ってきた (もちろんフィクションを混えてだが)世界を、「記憶」というキーワードを使いながら更に新しく自伝を綴った作品として、これほど贋の自伝を手を変え品を変え作り続ける寺山の情熱に、却って傷ましいものを覚え、共感から遠退いたさびしさを味わったからかもしれないと思ったからだった。
 荒筋を書けば、母ひとり子ひとりで恐山の麓に暮らしている少年が、母と衝突しては恐山のイタコに亡き父の霊を呼び出してもらって父と話すために出かけ、一方、隣の家の若妻が好きになり、二人で家出をしてしまう、という話を、映画監督の自分が作っている自伝映画として見せる仕立ての話である。青森の市街が恐山の麓に変った、……というようなフィクションのことではなく、カメラというものは、山も樹も草も線路も、少年も、人妻も、その細部の不必要な部分まで撮り込んでしまうので、嘘と真実の差異は消えてしまい、映像上はすべて真実に転化してしまうことの、異和感と空しさが逆に観客にしっかり伝えられてしまうのだ。


 まだ四十前の若い身空で、生臭い母を抱えた身では、記憶をナマのまま復元出来ないもどかしさの中で製作されたにちがいない、と勝手に決めてから十年も経たないうちに、本当に四十七歳で世を去ってしまった寺山の遺作自伝映画を、まったく異なる視点から、遥か後代に生を受けた天野天街が再構築した舞台であることを知り、それこそ古い記憶とは無縁の、新作に接した時と、同じ気持ちで見られた。 寺山が今、この新作を見たらどう思うだろうと考えたのも一興だった。
 企画の流山児祥の言葉によれば、映画「田園に死す」=「詩と死と私」の幻想世界を《現在の視点》で大胆に批評・シャッフルし、言葉と身体と映像の「『世界が眠ると言葉が目をさます』叙事詩劇として見事に再編集した。」とあって、なるほど、と舞台の成果と重ねて納得した。そしてそれこそまさにアングラ演劇の王道 (予盾した言い方だが)だ、と感心した。
 寺山がこだわって描き切れずに歯切れ悪くもたつく淀んだ世界(戦争、父の戦死、農村、東京、「身を捨つるほどの祖国」、「悲しき口笛」等の)の沼から這い上がれない記憶の世界とは無縁の、SF的、無機質の、ぴかぴか光る冷たい世界の(まさに今の世の)、「振り落とされないようにご注意」と警告された舞台だった。


 寺山と同じ淀んだ沼でもがいてきた老観客である筆者は、ただ呆然として舞台を眺め、蹌踉としてザ・スズナリを後にしたのだが、新三次元映画まで出現した現在、映像、群舞、暗黒、光のメカニックな世界に情念の世界を解放した舞台として、寺山作品が内包していた核の部分が拡大解放された成果と捉えれば、寺山の霊も浮かばれる筈だと信じたい

「田園に死す」   @ 「 テアトロ」 2010年3月号     「劇評 歯ごたえのある舞台」 丸田真悟

 流山児★事務所の「田園に死す」 (原作/寺山修司、脚色・構成・演出/天野天街) は一九七四年公開の同名映画を下敷きに舞台化したもの。映画は、母親と故郷からの逃避とその失敗を描いた自伝的性格の強いもので、現代の自分が過去の自分に遡り、それを自伝として映画に撮る過程を映画にするという二重三重のイメージのコラージュが独特の映像美で表現されていた。


 この極めて芳醇で堅牢な寺山の世界を、天野は個の肉体と言葉を捨てて、集団の身体と音声によって独自の演劇空間として立ち上げた。
 群衆が暗闇の中でひとりずつマッチを擦っては言葉を吐き出す幕開き、あるいはひたすらに同じ台詞を繰り返す場面、次から次に寺山のキーワードをしりとりのように繋いでいくラストシーン、さらに舞台全面にカラスの群れが飛び回る映像の中で俳優たちが語る場面や地面の穴に吸い込まれていくシーンなど、群衆処理と映像的手法に巧みな天野の演出は寺山との資質の親和性を感じさせる。また、映画では見せ物小屋の奇怪な人間たちが独特のキッチュな印象を創り出していたが、舞台では全員で歌い踊るシーン (音楽/J・A・シィザー、振付/夕沈)が観客の緊張を解してくれる。
 

「田園に死す」   @ 「悲劇喜劇」 2010年3月号 「2009年演劇界の収穫」 高橋敏夫

「田園に死す」(寺山修司原作、天野天街脚色・構成・演出、流山児★事務所)最初から最後まで執拗に「反復」を炸裂させる天野天街(脚色・構成・演出)のくわだてに、流山児祥をはじめ流山児★事務所の不逞の輩がひとりびとりの炎をかかげ騒然と合流、寺山修司版「自同律の不快」を今に赤々と燃えあからせる。やりなおせ、やりなおせ、性懲りもなくやりなおせ、というメッセージが、寺山おなじみのおわりがはじまりの曙光へと変じ、劇場スズナリの急傾斜の階段を舞台中央に照らしだす意表をつくラスト、劇場は一瞬の沈黙ののち深い感動につつまれた。
 

「田園に死す」   @ 「公明新聞」 2009年12月18日   〜寺山修司の演劇的手法と生きざまをクリティカルに描く〜         今野裕一 

 流山児祥のプロデュース、天野天街の脚色演出・構成、そしてキャラクター豊かな38人の役者たち。
オーディションによって役者を集め、さらに長期間の稽古をして初日を迎えた。
天野が主宰する少年王者舘の劇団員でもないのに、あの独特の幾何学的ダンスを38人が見事なアンサンブルで踊っていることでも稽古充分は見て取れる。それだけでもまず見る価値がある。これが演劇というものだ。


 舞台初日は、寺山修司の生誕日、本当に良い供養になる。芸術家への供養は、作品の先鋭性を理解しそれを乗り越えようとする姿勢で成り立つ。愛で敬っているだけでは駄目なのだ。寺山修司の映画『田園に死す』を戯曲に書き換え、今の地点から寺山修司の演劇的手法と生き様をクリティカルに描く。それでいて面白い。
とてつもないことを天野天街はして見せた。もちろんこの成功には、流山児祥のプロデュースの力も大きい。
 流山児祥は、今回、役者としても舞台に上がっているが、なんとも良い演技だ。
長い間、劇団を率いてプロデューサーとしても活躍している。にもかかわらずそのキャリアがないもののように新鮮に舞台に上がっている。その時、舞台での経験は不思議な昧になってでてくる。


 流山児は若手の劇団の活動にも積極的にコミットしている。同じ地べた、同じ板の上に立ってつきあっている。なかなかできることではない。その視線で天野を選び、寺山を見ている。天野天街の舞台演出は、もともと映画的な手法や文法を演劇に持ち込んだものだ。
 映画『田園に死す』を舞台にするのは、まさに水を得た魚のようなもので、寺山修司という虚構をこよなく愛した演劇人を何人もの寺山修司、何人もの寺山の母を登場させて寺山ワールドの表裏を見せている。
 


 『ハイライフ』      2009 年9月24日(木) @ マカオディリー    『ハイライフ』が吹かせた暴風    李宇樑

 最近の観劇経験から、面白い芝居が見れるかどうかは本当に「運」にかかっていると感じている。探していてもなかなか見つからない。ヒューコック実験室で上演された『ハイライフ』のように。これを見逃した演劇人は遺憾には思わないかもしれない、が、それは損失に値するだろう。

 『ハイライフ』はカナダのリー・マックドゥガルが10数年前に書いたブラックコメディーである。その内容は暴力、ユーモア、荒唐無稽、色々なものが含まれている。1996年、トロントの初演以来、何度もカナダで上演され、今回は日本のアングラ劇団流山児★事務所によって、カナダバージョンと日本バージョンという二つのスタイルの作品をマカオに持ってきた。私が見たのはカナダバージョンである。

劇場に入ってみると舞台後方には大きな銀幕がかかり、ハリウッドの60年代の白黒映画が放映され、まるでハイライフの予告編を観客に見せているようであった。

 物語はディックの銀行強盗をして大もうけをしようと言う計画に始まり、バグ、ドニーそしてビリーをそれぞれを説得する。4人の性格の違いは鮮明である。4人の共通点はモルヒネを嗜好するという点だが、お互いの間で摩擦が起こる。デックの計画は天衣無縫聞こえるが、バグは毎回牢屋に入ることになる。今回の計画も同じだ。銀行のATMが壊れたと言い、そこに武装をしていない修理屋が来ると、ATMのお金を奪おうというのだ。4人が車の中で待つプロセスの中でたくさんのユーモアとブラックユーモアが起こる。観客はお腹を抱えて笑っていた。例えば車のそばを警官が通る時、駐車違反だと疑ったり、免許所を持っていなかったり。そして最後に4人は対立し、凶暴な性格のバグは事なかれ主義のビリーを殺してしまう。ディックの命令の下、全ての罪を気が小さいドニーに押しつけてしまう。皮肉なことにディックはずっとドニーにバグから守ってやると言っていた。観客は彼らの性格的矛盾と葛藤のプロセスの中で、滑稽荒唐が暴力兇暴へ変化することを目撃する。荒唐無稽と演劇の張力を十分に表現しているのは、演出家・流山児祥の功労なのである。

『ハイライフの』セットはとてもシンプルで、多くのシーンは役者の動作で表現される。車の中でのシーンは丸椅子が4個あるだけである。その体と動作で観客に車のイメージを与える。正確な効果音が車の設備を描写する。四人のジャンキーは、小劇場のなかで幾度となく薬を注射し、観客は本当に打っていないと知っていても、身が痺れる思いを体験する。

 3人の役者は50前後の中年であるが、敏捷な動作はとても細かく的確で、パワーがみなぎっている。その中でもドニーを演じる保村大和は特に表情が豊富で、目の表現が印象に残っている。

   『ハイライフ』の作・演出・俳優・スタッフ共にハイレベルが結集しこのような感動を作り上げた。さらに小劇場という共鳴空間で直接観客の腎臓に暴風を吹かせた。

 

 『ハイライフ』    2009年9月27日(日)   @ 文匯報 ─《高級生活》日本の小劇場『ハイライフ』を語る    文:陳國慧

ここ数年、香港・牛棚劇場で2本の日本の小劇場作品を見た。去年は日本小劇場第2世代の流山児祥が率いた寺山修司の『狂人教育』、その前にはパパ・タラフマラがチェーホフを元に作った『三人姉妹』。これらの作品はそれぞれに特色を持ち、期せずして日本の俳優のすぐれた肉体や炸裂するパワーを見せてくれた。これらの公演は小劇場空間に人の魅力を放出した。『狂人教育』はマカオから香港に見に行く観客もいた。が今回流山児が率いた『ハイライフ』は香港では見れず、マカオで、もしくは台北でしか見る機会がなかった。

流山児がマカオのアングラ空間に出現のは意外なことであった。香港の牛棚劇場は今では観客や演劇人に認知され、自主的な実験の場所となっている。香港では牛棚劇場以外にも最近は工業ビルや喫茶店などで、小劇場の可能性が試されている。が、マカオ(の小劇場)では、(演劇実験というよりも)むしろ公立の劇場が少ないという政治的意味が濃い。独立した表現空間を自分たちで作らなければいけない。牛房倉庫、窮空間、暁角実験室などはすでにマカオのアングラな表現空間として、青少年の新作を支持し、よく利用されている。また近年行われているマカオフリンジも都市空間の中で表現空間の可能性を探っている。

今回、『ハイライフ』は暁角実験室で上演された。マカオで30年の歴史をもつ空間である。この空間には沢山の制約がある。床と天井の距離、照明設備など。しかし小さな公演をするのには、観客という要素をどう芝居に介入させるか、調節するかなどで、作品に違った色を発揮させる可能性がある。

『ハイライフは』原作がリー・マックドゥーガル、カナダの俳優であり劇作家である。作品は4人の社会底辺の人間が、完璧な銀行強盗をして大金を手に入れ、それぞれが夢の『ハイライフ』を過ごせることになっているというものである。資本主義社会の犠牲となり社会の中での敗者は、麻薬を提供することで同じ空間を共有し、混沌とした空気と暴力的な言語でコミュニケーションを取り、暖を取る。これは大都市と都市の人々に潜んでいるものである。演出はそれに慈悲を施すことなく、媒体に操られている社会の敗者の悲哀を、「ハイ」というユーモアを持って、「社会底辺」という定義を引っ繰り返している。

演出家はこの小さな空間で最強であり、最も原始的な生命力を呈している。例えば、病気だらけのスリのドニー(カナダバージョンでは保村大和が演じる)は非尋常的な自嘲能力を持ち、自分を理解すると同時に、他人に笑われ人に踏みつけにされ、最小限の生きるための尊厳しか持っていない。彼らがハイライフを夢見れば見るほど、彼らの現実生活の惨めさが際立ち滑稽なものに見える。計画が最後に失敗して、ドニーは一人刑務所に入り(観客に)色々考えさせる。社会底辺の生活は一体本当に存在の実感とパワーがあるのだろうかと。

流山児は日本の小劇場の第一世代の唐十郎や鈴木忠志の洗礼を受け、小劇場に存在する抗争パワーと再考意識を信じて、また社会問題を取りあげて、それを同時に劇場で実践する。たとえば年長者の劇団は消費主義が日本の小劇場を侵食していることへの抗争創作である。

小劇場で何ができるのか?作品を通して(演出の)技量を見せると同時に小劇場では俳優の個性と長所を発揮させながら、演出家は演出処理を実践していかなければならない。俳優を輝かす、これが小劇場で一番かっこいいことである。『ハイライフ』(カナダバージョン)の4人の俳優のパワー、テンポの調整はお互いの間での暗黙の了解となっている。また俳優だけではなく、音響、照明とも合っていて、車の中での濃厚な空間と緊張感を発揮できている。ドニーを演じる俳優は事の外、素晴らしく、現場にたくさんのユーモアを生み出した。が、観客が一番笑っている時こそが、一番(自分の生活を)再考しなければならない瞬間であった。場末の表現空間で、社会の敗者の芝居をする、本当は誰が敗者なのか?これが流山児祥がマカオと香港の小劇場に残した啓示なのである。

 


「ユーリンタウン」 @ 「文藝軌道」2009 10月号 野平昭和 

 「座・高円寺」という小さいが工夫して創られた新劇場で、五月二九日〜六月二八日まで一ケ月の間ミュージカルが、流山児事務所創立25周年記念公演として行われた。
これだけでも私が興味を持ったのは、全国各地にロングランして廻り一万円の入場料で多勢の観客を吸収している「四季」を思い浮かべないわけにいかなかったのは、ミュージカルとあったからである。入場料は半額、場所は狭く、しかもミュージカル初めて、とあっては、開幕前から、どうなることか、という興味というか、心配が先に立ってしまったのだ。結果を先に書けば、すべて杞憂に終り、逆に、商業ペースではないミュージカルの原点に接したのだ、というすがすがしさの気持さえ噛みしめて新劇場を後に出来たのは収穫だった。

 お話は至って単純で、近来来のある日、水が極端に不足してきて、この町でも節水のため小便まで管理されることになり、(ユーリンとは小便ということ)特定の有料トイレの他は使用禁止で、禁をやぶれば、処刑、実は小便管理会社社長(塩野谷正幸)と政治家と警察は同じ穴の狢なのである。
貧しい民衆が小便も出来ずに倒れて行くのに抗して起ち上ったボビー・ストロング(遠山悠介)は屋上から突き落とされて処刑されてしまう。小便管理会杜の娘のホープ(関谷春子)はボビーの恋人で、ボビーの意志を継いで起ち上り、父と対決して、起ち上った民衆の先頭に立って勝利をおさめる。
めでたしめでたしで、ここで終れば安手の革命劇だが、狂言廻しでもある警官のロックストック(千乗哲也)が、事態は元の木阿弥、水が枯渇して再び地獄が始まるのを告げ、革命の破綻で幕となる。開幕の時、ラストのどんでん返しに注意と言って劇を進行させて行く方法で、二幕、休憩を挟んで三時間のミュージカルが展開する。一糸乱れぬマネキン風に人物が動くキレイなミュージカルではなく、ときに普通の舞台劇風にも展開する、いわば三文オペラ風のところもある楽しいミュージカルだった。他に伊藤弘子、三ツ失雄二、上田和弘、栗原茂、大久保鷹、曽我泰久、坂井香奈美、関谷春子、有希九美、石橋祐、植野葉子、平野直美、稲増文、井村タカオ、柏倉太郎、鈴木啓司、木内尚、里美和彦、山下直哉等が出演している。 (座・高円寺/5・29〜6・28)

 

「ユーリンタウン」  @「太郎の部屋」 09・7・15号       芝居の日    鈴木太郎

 流山児★事務所「ユーリンタウン」(東京:高円寺・座・高円寺1)。脚本・詞・グレッグ・コティス、音楽・詞・マーク・ホルマン、翻訳・吉原豊司、台本・坂手洋二、演出・流山児祥。劇団創立25周年記念公演。「集団劇としてのブロードウェイミュージカルをやる!」という無謀な試みは見事に成功した。50人以上の俳優たちが歌って、踊って、躍動する舞台は、演劇のもつべき祝祭性に満ちていて、5月にオープンしたばかりの公共劇場にふさわしい幕開けとなった。 音楽監督・荻野清子のピアノを軸とした楽曲、工夫された客席と舞台の空間が一体となる演出はさすがというほかはない。
 タイトルを直訳すると「ションベンタウン」。オフ・ブロードウェイなどでヒットを飛ばした作品。近未来の架空都市。水飢饉のなか水洗トイレが廃止される。公衆トイレが有料になり、管理する資本家とホームレスとが対立する。そのなかで、若いひとたちの恋も生まれてくる。ちょっと「三文オペラ」風でもある。千葉哲也が警官に扮して狂言回しの役割で登場、マイクで物語の展開を解説する。若い恋人役になった遠山悠介と関谷春子も熱い演技をみせていた。脇にまわった塩野谷正幸、三ツ矢雄二などのベテランが存在感をみせるとともに坂井香奈美が若手のリーダーとして大活躍をみせていたのが嬉しい。
 

「ユーリンタウン」  @「シアターガイド」 2009年9月号 STAGE GALLERY  (お)

癒着する企業家と権力者の犠牲となっていた底辺の人々が反旗を翻し、「おしっこする」自由を勝ち取る。そんな甘々なめでたしめでたしはクソくらえ!とばかりに、彼らの無防備な自由はさらに水不足を招き、自ら命を縮めてTHE END。権力者=悪、民衆=善だけに終わらない、これぞ真の反骨ミュージカル。ハッピーを求めがちな観客やミュージカル的なお約束を茶化しているのも同じく。小劇場万歳!こんな熱のある作品、もっと観たい。

 

「ユーリンタウン」  @読売新聞 2009年7月15日 第17回読売演劇大賞 中間選考会報告
2009年1月から6月公演の5部門のベスト5(ノミネート:参考作:演出賞部門)に流山児祥が選ばれる。
「ユーリンタウン」の流山児祥は若い俳優を多数起用し、わい雑なパワーに満ちたミュージカルに仕上げた。

 

「ユーリンタウン」  @「テアトロ」 2009年8月号 劇評「力強いユーリンタウン」   林あまり

 流山児★事務所「ユーリンクウン」、楽しかった。台本、演出、演技のすべてが気持ちよく響き合う。(G・コティス脚本・M・ホルマン音楽、吉原豊司訳、坂手洋二台本、流山児祥演出、5月29〜6月28日、座・高円寺1) 水不足のため、トイレがすべて有料になった街。貧乏人は、もれそうなお腹を押さえながら、一番安い便所に並ぶ。それすら払えない者は、道端にたれ流すはかない。そこへ警官がとんできて、逮捕され、なんと死刑にされてしまう。ついに人々は「自由に排泄できる権利を!」と立ち上がる――。

 坂手洋二の台本が見事だ。戯曲の構成はあまりいじらずに、もっぱら歌詞やせりふを耳になじむものに書き替えた。いわゆる翻訳劇を観るときの、どぅしても感じてしまう少し遠い距離のようなものを、ていねいに埋めてくれた。吉原の地道な仕事の上に、坂手が現場の生命力を与えた。

 役者も充実している。全体を締める狂言まわしの千葉哲也の安定ぶり、坂井香奈美のひたむきな純情、さっさと殺されて亡霊となる大久保鷹のマヌケな存在感、伊藤弘子のいい女っぶりなど、誰もがのびのびと演じている。歌も力強くて、テーマソングが今も耳に残る。

 座・高円寺のこけら落としが、猥雑な魅力を持つ演目だったことは、劇場の覚悟と意志を表している。私たちは、本気でこの街で生きていきたいんだ、と。

 

「ユーリンタウン」 2009年7月4日 @千葉日報     ミュージカルランド 「上半期の収穫」  御木平輔

現代の「蟹工船」か?

今回はちょっと毛色の変わったミュージカルを紹介しよう。ロードウエーには、小予算で実験的な作品を上演する、いわゆるオフ・ブロードウエーのミュージカルである。
最近はこのオフ・ブロードウェーでヒットした作品が日本でも上演されるようになった。これも新しい潮流である。益々、日本の演劇状況のすそ野が広く深くなってきたようだ。

 5月、高円寺に公共劇場「座・高円寺」がオープン。
その柿落としの一つが「ユーリンタウン」 (脚本・詞=グレッグ。コティス、曲・詞=マーク・ホルマン)だ。訳せば「おしっこの街」か。2001年にオフからオン・ブロードウェーに上がった。04年には宮本亜門演出で日本初演。

《地球温暖化で…水不足。家の水洗トイレは禁止され、有料トイレしか使えない。違反すれば罰金だ。そこで貧しい人々が立ち上がるのだ》。まるで「蟹工船」の世界。

70年代の歌あり踊りありの破天荒なアングラ芝居といった趣だ。歌やダンスに荒っぽさも目立つが、音楽監督。荻野清子の軽みのスパイスが効いて、ほどよい感じに仕上がっていた。ヒロイン関谷春子の清清しさ、ションベンジジイ・大久保鷹の怪優ぶり、<私的解釈>で挑んだ台本の坂手洋二、そして演出・流山児祥の勇断に拍手!!再演を望む。

 

 「ユーリンタウン」  @ 「月刊ミュージカル 」 2009年7月号   ミュージカル時評 〜「変革」を描く2つのミュージカル〜  扇田昭彦                                                                       
 

 抑圧的な体制に反抗する若者たちを措くブロードウェイ・ミュージカルが2本、東京で相次いで上演された。流山児事務所が上演した話題の公演『ユーリンタウン』と、テレビ朝日、ホリプロなどが主催した 『ヘアスプレー』 の来日公演である。同じように「変革」を描きながら、2つの舞台の味わいは対照的と言っていいほど違う。

 演出家の流山児祥が率いる流山児事務所は小劇場系、と言うよりもアングラ演劇系の演劇ユニットで、今年で創立25周年を迎える。演劇を中心に音楽劇も上演するが、ブロードウェイ・ミュージカルを手がけるのはこれが初めてだ。 とは言え、『ユーリンタウン』(グレッグ・コティス脚本・詞、マーク・ホルマン音楽・詞)はオフ・ブロードウェイからブロードウェイに進出し、02年のトニー賞で3つの賞を獲得した作品だし、内容的にもブロードウェイらしからぬ異色作だから、流山児事務所にはふさわしい作品だった。04年にホリプロが宮本亜門演出により日生劇場で日本初演したが『おしっこの町」(ユーリンタウン)で展開するこの作品は日生劇場の豪華な雰囲気には合わなかった。

 さて、今回の流山児祥演出の 『ユーリンタウン』 は今年5月に開館したばかりの杉並区の公共劇場「座・高円寺」で上演された。吉原豊司の翻訳をもとに社会派色の強い劇作家・坂手洋二が台本を書き、三谷幸喜の演劇・映画の音楽でも知られる荻野清子が音楽監督とピアノ演奏を担当した(水谷雄司美術、北村真実振付)。 開場時、普通の劇場の人口を使わず、舞台装置などを運びこむ搬入口から舞台上を通って観客を客席に導入するのが面白かった。観客の案内係は警官に扮した若い男女の俳優たちだが、その口調はぞんざいで、「ケ一夕イは切っといてね」「アンケートは必ず書くように!」などと命令口調で語りかける。舞台となる「ユーリンタウン」 の抑圧的な管理体制を早くも実感させる趣向である。

 ほぼ三角形をした舞台は大きく張り出し、その両側に客席がある。しかも、左右の客席の高さが違うという、かなり変則的な劇場構造だ。 まず、印象的なのはクルト・ワイルを連想させる魅力的な音楽の響きと耳に残る旋律。カオス的な活力とさめた才気が結合した音楽だ。ブレヒトとワイルが組んだ 『三文オペラ』 に似て、この作品も鋭い社会性と喜劇性、そしてメタシアター的な批評性を多く備えた音楽劇だ。

 異常渇水に見舞われ、住民すべてが有料の公衆便所に並ばないと大小便ができなくなった町。公衆便所を独占的に管理し、町を支配する強欲な会社に反抗して、貧民たちが立ち上がる。リーダーは、トイレ管理人(伊藤弘子)の助手だった青年(遠山悠介)。青年は体制側に殺されるが、青年の恋人で、トイレ会社の社長(塩野谷正幸)の娘(関谷春子)が彼の遺志を引き継ぎ、「革命」はとりあえず成功する…。劇全体の狂言回しを務めるのは、千葉哲也が演じる悪徳警官だ。

 48人に上る演技陣は活気にあふれ、過剰で猥雑で陽気なエネルギーを放射する。全体的に歌もダンスも洗練されているとは言えず、中には歌が下手な俳優もいるが、この作品に必要なごつごつした底辺のエネルギーは確かに感じられる。荻野清子が率いる4人編成のバンド演奏は快調だ。歌唱力のある伊藤弘子、ホームレスの少女役の坂井香奈実らの好演も印象に残る。従来型の商業ミュージカルのシステムによらない、こうした「オレタチのブロードウェイ・ミュージカル」(流山児祥)の登場に注目したい。

 だが、このミュージカルの後味は相当苦い。「革命」派は勝利するが、その結果、町の水源は枯渇し、独裁的な前社長のやり方の方が効果的だったことが分かる、という結末なのだ。観客のハッピーエンド願望に水をかける強い異化作用を伴うシニカルな終幕だ。これは個人的な想像だが、この苦いエンディングには、独裁体制の崩壊後、民族対立、宗教対立などが激化した1990年代以降の東欧、中東などの現状が反映しているのかもしれない。

 さて、もう1つの 「変革」を措くミュージカルは、,07年に続いて2度目の来日公演となる『ヘアスプレー』(マーク・ガシャイマン作曲・作詞、ジャック・オブライエン・オリジナル演出、マット・レンツ清出)だ。前回の東京公演は渋谷のオーチャードホールだった が、今回は新宿の厚生年金会 館大ホールだった(6月2日〜14日。)。 今回は国際ツアー租の来日で、主役のトレイシーは、前回の来日公演と同じ、ブルックリン・プルバー。トレイシーの母親エドナを女形で演じるのも、前回と同じ、ベテランのジェリー・オーボイル。それ以外の演技陣は全員入れ替わり、前回より若い顔ぶれが多かった。

 舞台を観ながら、不当な黒人差別を続ける地方テレビ局に対して、黒人たちと連帯して差別撤廃に立ち上がり、合わせて肥満をはじめとする容姿に対する世間の偏見をも晴らしていく女子高校生トレイシーの、ためらいも屈折もないまっすぐな変革志向の精神に改めて驚きを覚えた。自分の太った体型にもまったくコンプレックスを持たず、仲間たちの善意を信じて前へ前へと進んでいく楽天的な姿勢。それはまさに自由と未来を信じるアメリカ的な精神であり、それはブロードウェイ・ミュージカルの精神にもつながっているのだろう。

 当然、この楽観的な前向きの精神は、変革の輝きとその挫折を措く『ユーリンタウン』のシニカルな味わいとはずいぶん違う。そして 『ユーリンタウン』 の苦い幕切れに感銘を受けた私は、『ヘアスプレー』の乗りのいい音楽を楽しみながらも、その陰りのないハッピーエンドに軽い違和感を覚えたのだった。
        
 

「ユーリンタウン」   @東京中日スポーツ 2009年6月25日 「ミュージカルに新星!!関谷春子に熱視線」  本庄雅之


 ミュージカル界に新星が現れた。東京・高円寺北に完成した新劇場「座・高円寺」で上演中のミュージカル「ユーリンタウン」 (坂手洋二台本、流山児祥演出)でヒロインを演じている関谷春子が、連日熱演。第一線の演出家、プロデューサーらが劇場に詰め掛けている。

 オフ・ブロードウエーで2002年にトニー賞3部門に輝いた作品。地球上の干ばつで節水を余儀なくされた近未来が舞台。人々は有料公衆トイレの使用を義務付けられ、違反すると「ユーリンタウン」に送られてしまう。実態不明のユーリンタウンとは何か。不満を爆発させる貧民街の人々と、トイレを管理する側との衝突。一見とりとめなさそうな世界に、現実の世界(日本)が重なる面白さがある。

 掃きだめに鶴のような状況で登場する関谷は、ふとした出会いから現実に目覚め革命の旗印となるヒロインを、堂々と演じ、透明感あふれる歌声で物語をけん引する。
 関谷は、約300人の中からオーディションで選ばれた。慶応大学文学部出身で、舞台経験はあるがメジャー作品での主演は初めて。今後の活躍が期待される。
 

「ユーリンタウン」  @毎日新聞  2009年6月25日朝刊  「水資源が枯渇した近未来を描くミュージカル!」 明珍美紀


 地球温暖化で水資源が枯渇した近未来の街の人々を描くミュージカル「ユーリンタウン」が杉並区立杉並芸術会館「座・高円寺」で上演されている。
 地球が干ばつに襲われ、深刻な水不足で公衆トイレも有料化。資本家が金もうけをたくらみ、排せつ行為さえも制限される格差社会に自由を求めて人々が立ち上がる。

 米ニューヨークのブロードウェーに進出してヒットした社会派ミュージカルを日本で舞台化。演出家の流山児祥さんらが、5月に開設された座・高円寺のオープニング記念にプロデュースした。 「劇場は市民が交流し、自由に創造するための広場でもある。不況で民間劇場が次々と閉鎖に追い込まれる時代に、演劇の原点を見つめたい」と流山児。

先月末から始まった公演では、週末や休日に「ユーリンタウン祭」も開催。上演前に地元の阿波踊りなどのグループが登場している。
 


 

「ユーリンタウン」 @ 日本経済新聞  2009年6月24日夕刊  「ステージ採点」 河野孝

有料公衆トイレの使用を義務付けられた貧困層が革命を起こす米国発のミュージカルで、「座・高円寺」開場記念で上演。

革命が成ってめでたしかと思えば皮肉な結果が待つ。ブレヒトの三文オペラが基にあり、知的で娯楽性もある。
歌や踊りのうまさよりも演劇的な面白昧を優先させて奏功。ただし歌のメッセージは伝わっている。

坂手洋二の台本を流山児祥が演出。


 

「ユーリンタウン」  @公明新聞 2009年6月20日  「役者が活発に動き回る演出に精彩!」  七字英輔


 5月に開館した劇場「座高円寺」で、流山児★事務所がブロードウェイ・ミュージカル「ユーリンタウン」 {G・コティス脚本・詞、M・ホルマン音楽・詞)を上演している。2002年にトニー賞の作詞作曲賞などを受賞した作品。ニューヨーク・フリンジ(外縁)発の芝居とはいえ、小劇場劇団がこうした舞台に挑むこと自体きわめて珍しい。

  旱魃で水不足が深刻化した近未来、人々は有料の公衆便所を使うことを義務づけられ、金を払えず洩らした者は、逮捕・追放される。
その管理会社社長(塩野谷正幸)がこの町を牛耳っていて、やがて貧民たちは町で一番汚い便所の管理人助手の青年(遠山悠介)に率いられて革命を起こす。そしてそれは成功したように見えたのだが――――。

 狂言回しの悪徳警官(千葉哲也)によって最後に語られる未来は、決して明るいものではない。こうしたディストピア(逆ユートピア)ものの常套ではあるが、ことが「水」だけに苦い後味を残す。青年の遺志を継いで父親を倒す恋人の令嬢役、関谷春子の声が魅力的。遠山も初々しく、新人2人がいい。

 錆色に統一された張り出し舞台の中央に貧民たちの公衆便所が立つ美術(水谷雄司)も面白い。回転すると敵対する社長室にもなる。
 舞台下や段差のある客席の間を総勢48人にもなる役者が活発に動き回る演出(流山児祥)に精彩があった。

 

「ユーリンタウン」 @東京新聞 2009年6月18日夕刊  「刺激的わい雑空間」   萩尾瞳


 作品と劇場が幸せな出合いをした。作品は、皮肉なユーモアとブラックな笑いにまみれた「ユーリンタウン」。劇場は、五月に開場した「座・高円寺1」。

挑戦的な作品を得意とする流山児★事務所が初めて手掛けるブロードウエー・ミュージカルでもある。小さな空間にひしめく四十八人もの出演者がわい雑なエネルギーを放ち、作品にふさわしい刺激的な舞台となっている。 水不足のため徹底的な管理社会化した近未来、人々は有料公衆トイレの使用を義務づけられている。トイレ管理会社が政治家と結託して値上げした料金を払えない貧しい人々を率いて、青年(遠山悠介)が革命を起こす。

もともとは、実験的作品の多いオフ・ブロードウエーから発信された作品。それだけに、正統派の裏をかくオフビートな展開から、管理社会や大資本と政治の癒着、人間の愚かさなどに対する批判的な視線が浮かび上がる。
 

 

「ユーリンタウン」  @読売新聞 2009年6月17日夕刊  「瞬間・旬感」  「実験的舞台 高まる高揚感」 旗本浩二

 タイトルをそのまま訳せば「ションベン街」。排尿を巡るホームレスと資本家との争いという題材を強調しようと、舞台上のめぼしいセットは汚らしい公衆トイレぐらい。いかにもアングラ小劇場的な雰囲気が漂う。
 だが、音楽監督の荻野清子が自ら操るピアノを軸とした軽快な楽曲が、物語の進行を効果的に盛り上げる。ミュージカルの本場でヒットしたというのもうなずける。

 劇場の2辺にL字形に客席を寄せ付け、残った空間にプロレスのリングのようなステージを置いた舞台は、50人もの出演者による大立ち回りを立体的に見せるのに役立っている。特に2階席から見ると、ステージから転げ落ちる役者たちが場外乱闘さながらに足元にまで迫ってくる。それをのぞき込んでいるうぢに臨場感が高まる。

 千葉哲也ふんする警官が劇の途中、狂言回しとしてマイクを握りしめて物語の展開を解説する趣向も面白い。先月、オープンしたばかりの公共劇場にふさわしい、実験的な舞台となっている。
       
 

「ユーリンタウン」 @スポーツニッポン新聞 2009年6月16日 「舞台評」  「群舞に熱気、新人もいい」  木村隆

東京・高円寺に新劇場がオープした。演出は流山児祥(りゅうざんじ・しよう)。わい雑と剛腕で鳴る流山児が初めてブロードウェー・ミュージカルを手がけるが、額縁舞台と異なる空間を味方にし、荻野清子ら音楽陣の豊かな演奏効果にも助けられて独自のミュージカルを仕立てあげている。

 「ユーリンタウン」とは直訳すれば小便の町″。なんとなく小汚いイメージだが、このミュージカルには苦い思い出がある。オフからオン・ブロードウェーに進出して話題になっていたからプレビュー公演をのぞいている。帰国したその数日後にあの悪夢がニューヨークを襲った。2001年の9・11である。あれからNYの存在は私の中からスーツと遠のいた。

 舞台は近未来の架空都市。長年の水不足から家庭での水洗トイレの使用が禁止され指定の有料トイレしか使えない。違反すれば厳罰が待つ。そこで貧しい人々が団結して立ち上がろうとする。構図はさながら「三文オペラ」風であり「蟹工船」風でもある。が、当時の印象では管理社会の窮屈さや大企業の横暴ぶりや貧困層の問題など今の社会的状況を先取りしたかのようでもありながら、どこか思いつきの域を出ていない感じだった。この感想は今でも変わらない。

群舞(振り付け・北村真実)など集団演技に熱気があり坂井香奈美、関谷春子、伊藤弘子、遠山悠介ら新人がいい。


 

「ユーリンタウン」  @毎日新聞  2009年6月15日夕刊  「記者が選ぶ今週はコレ!」  高橋豊

 東京・高円寺にオープンした座・高円寺が、こけら落としとしてミュージカル「ユーリンタウン」を上演。流山児★事務所の創立25周年記念公演でもある。
 脚本・詞はグレッグ・コティス、音楽・詞はマーク・ホルマン、翻訳は吉原豊司、台本は坂手洋二、演出は流山児祥。

 オフ・ブロードウェーから01年にブロードウェーヘ進出、トニー賞3部門を制覇したミュージカルだけれど、「オフ出身」らしい行儀の悪さ(つまり本音)が魅力だ。
 水が貴重になった近未来。トイレに関する法律に違反した人は「ユーリンタウン」に送り込まれてしまう。 
 日本初演は大劇場の日生劇場だったが、ユーリン(小便)をめぐる舞台なら、やはり、舞台と客席が密接な座・高円寺の方が似合う。料金も4500円と安い。

歌は決してうまくないけれど、「異議申し立て」の志に満ちている。ヒロインの関谷春子、狂言回しの千葉哲也、それに大久保鷹と三ツ矢雄二の快(怪)演を評価したい。
 

「ユーリンタウン」 @しんぶん赤旗 2009年6月12日 「小劇場版の可能性を示す」  瀧口雅仁


 演題を直訳すれば 「小便の街」。舞台は近未来の都市。危機的な水不足が長く続くことから、人々は有料のトイレを使用することを義務付けられ、それに従わない者は、ユーリンタウンという得体の知れぬ場所へ送られてしまう…。
 ブロードウェイで演じられたミュージカルを流山児が演出、舞台化。小劇場で低料金で気軽に楽しんでもらおうという趣向通りの賑やかな舞台に仕上がった。

 テーマには水の利権に目を付け、政府を巻き込んで暗躍するUCCというトイレ管理会社による圧制。そして抑圧の中で怒りを溜め込み、社会を正しい道へ導こうと革命を起こす人々との対立が描かれる。

 もちろん、そこにはお約束の主人公である男女二人の恋の芽生えと、その心情表現が歌と踊りで展開される。
 ただしポピー役の遠山悠介の歌唱力不足が否めなかった点。そしてその恋の相手であるホープ役の関谷春子が心の内を全ての人に打ち明けるためには、舞台のセンターを分捕ってでももっと大きな演技をすべきと感じた。二人が放つ「どんな人にもハートがある」というセリフが重要な意味合いを持つのだから尚更だ。その中でUCC側につく上院議員ヒップご意見番役の三ツ矢雄二の歌良し、セリフ良し、表現良しの圧倒的な存在感が、このミュージカルの手綱をしっかりと握っていた。

 革命後に訪れる結末はハッピーエンドではなく、憶測不能な未来の姿を暗示している。
そんな点からも、アングラとブロードウェイのコラボが歌い文句になっているが、小劇場版ミュージカルの可能性の大きさを感じさせる流山児ならではの舞台である。

 

「ユーリンタウン」 @朝日新聞 2009年6月5日夕刊  「皮肉な笑い生きる演出」  藤谷浩二

 流山児★事務所が初めてブロードウェー・ミュージカルに取り組んだ。5月に開館した公共劇場「座・高円寺」での初の新作公演でもある。猥雑な空間で小劇場とミュージカルの俳優48人が競演する。その熱気が革命幻想を主題にした物語と響きあい、さながらアングラミュージカルの趣がある。

 「ユーリンタウン」 (G・コティス脚本・詞、M・ホルマン音楽・詞)は「おしっこの町」の意。01年9月にブロードウェーで開幕した。近未来、干ばつによる水不足で有料公衆トイレの使用を義務づけられた貧民が「革命」に立ち上がる。荒唐無稽な筋立てに、生理現象すら規制する管理社会や巨大資本の横暴、環境問題、家族の崩壊と再生といったモチーフが投影された、実は硬派な作品だ。

 04年の宮本亜門演出による日本初演(日生劇場)は、この作品の持つ鋭い批評性やニューヨーカー好みの皮肉な笑いに届いていなかった。今回の上演は、坂手洋二の台本(吉原豊司翻訳)が劇の持つ多義性と辛口のユーモアを浮かび上がらせ、アクの強い俳優たちが寓話に生々しさを与えている。スピーディな流山児祥の演出も相まって、見ごたえがある。

 悪徳警官の千葉哲也、公衆トイレを牛耳る汚職社長の塩野谷正幸、トイレ管理人の伊藤弘子ら常連組の厚みのある演技と、ヒーローの遠山悠介、ヒロインの関谷春子の新人コンビの初々しい演技とのコントラストが面白い。ヒーローの父の大久保鷹のすっとぼけ(役名も!)ぶりも愉快だ。

 歌唱力とダンスにばらつきがあり、名作ミュージカルのパロディーの要素が薄まったのは残念。しかし音楽監督の荻野清子がピアノも担当するバンドは、4人編成とは思えない多彩な音を奏でる。 ニューヨーク・フリンジ(小劇場)発の舞台だけに、小劇場での上演も奏功している。


 


パラダイス一座 『続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る』  @「太郎の部屋」2009年4月15日号  芝居の 日    鈴木太郎


 パラダイス一座「オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る」(東京・下北沢・本多劇場)。作・山元清多(黒テント)、演出・流山児祥。3年間が期限の平均年齢80歳近い世界に類をみない高齢者劇団の最終公演。なんといってもパワーがすごいしカラフルだ。歌って踊って、一芸を披露する。スタッフもキャストも超一流の顔ぶれである。92歳の日本の演劇界の最長老の成井市郎を筆頭に瓜生正美、中村哮夫、本多一夫、肝付兼太の五人の俳優を中心に、今回はふじたあさや、二瓶鮫一が加わった。岩淵達治は映像出演ながら元気なところをみせていた。そして、音楽の林光がピアノの生演奏を聞かせるという豪華版。美術は妹尾河童、ヨーロッパ風のしゃれたバーの出現である。流山児がいちばん若くて61歳、まだまだである。

 舞台はいまから20年前、「昭和」の終わる日の四谷の名物ゲイバー「つばさ」。ここに、ビルマ戦線から帰還してゲイになった7人の元兵士たちが集まってくる。7人の登場人物には七福神にあやかって、弁天、毘沙門、大黒などとつけられている。女装にもこだわっているところは笑いがつまっている仕組みだ。戦争の体験談も随所に出てくる。それぞれの人生の重み、時代にたいして真撃に生きてきた証左そのものである。脚本が俳優の特性をよく取材して、あてがきに近いこともあって、説得力をもたせていた。
 「椰子の実」を客席といっしょに歌うことに感動していた人もいた。

また、終演後にアフタートークを設け、俳優の苦労談義などきかせ、観客との交流を大事にすることの重要さを感じた。楽しく、おかしく、さらに芝居の醍醐味に大満足だった。

 

パラダイス一座 『続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る』  @「悲劇喜劇」 2009年5月号  横溝幸子

演出家の流山児祥が「三年間期間限定」で旗揚げした高齢者劇団「パラダイス一座」の最終公演、山元清多作「続々オールド・パンチ−カルメン戦場に帰る」(二〇〇九年二月八日−十五日本多劇場)が、観客に惜しまれながら成功裡に幕を降ろした。平均年齢八十歳近く、世界に類を見ない出演者の顔ぶれは、その道を極めた個性豊かな大ベテランばかり。文学座の演出家・戌井市郎さんは九十二歳。「役者」の最長老である。ゲイ・バー「つばき」のママ弁天・ローズを名乗り、真っ赤なドレスに蓄薇の花をくわえ、颯爽と登場した。確かな演技力と凄い存在感に圧倒される思いがした。

出演は戌井さんを筆頭に青年劇場の劇作・演出家瓜生正美(八十四)、演出家中村哮夫(七十七)、劇場経営本多一夫(七十四)、俳優∴演出家肝付兼太(七十三)、映像参加の独文学者岩淵連泊(八十一)、新参加の劇作・演出家ふじたあさや(七十四)と全員がゲイの役。ビルマ戦線から生還した元兵士たちが戟争責任をとり復員後「男」を捨てゲイとして生きた話で、昭和天皇崩御の日にローズを死んだことにして葬式を出し自分たちの戦後を終わらせる重いテーマである。

ショータイムで成井さんは艶やかな振袖姿を披露、「椰子の実」を歌いながら死んだ戦友に会いに六人でビルマに行く。

戦争と日本の現在を捉えた問題作だ。
 

パラダイス一座 『続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る』  @「悲劇喜劇」 2009年5月号 演劇時評 山下悟

高田:それでは次に、流山児★事務所パラダイス一座で「続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る〜」をお願いします。山元清多脚本、流山児祥演出、林光音楽、妹尾河童美術。本多劇場でやりました。昭和の終わりの日、四谷の名物ゲイバーつばき。ビルマ戦線から帰還してゲイになった七人の元兵士たちが戦後史を語る。今回、パラダイス一座三部作の完結編ということになります。

山下:戌井市郎さんがなさっているんですが、ゲイバーのママのお葬式に、その友達らしい人たちが集まってくる。それでお葬式が始まるかと思いきや、死んだはずのママ、ローズは生きていた。大筋は、ゲイバーの経営権をめぐるすったもんだですね。新たに経営権を握っている社長の二瓶(鮫一)さんや、藤井びんさんが戌井さんの甥として水戸から出てきたりします。

戌井さん、瓜生(正美)さん、中村(嘩夫)さん、本多(一夫)さん、肝付(兼太)さん。みなさんが見事な女装をされて、それぞれの芸を出される(笑)。やっぱり戌井さんは見事なものでした。最初にもらうリーフレットに、七福神音頭ですとか、椰子の実の歌詞が印刷してあって、開演前に「芝居中に歌いますから、みなさん一緒に歌ってください」といわれます。これは珍しいなと思ったんですが、お客さんが全然抵抗なく楽しんで歌うんですね。とはいえ、七福神音頭、これは東京オリンピック音頭の替え歌ですけれども、さすがに若い人は知らないんだろうなと。その後の万博のほうの歌は覚えていても、こつちはなかなか今は出てこないのかもしれないなという気はしました。
 

 

パラダイス一座 『続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る』  @ 「シアターガイド」 2009年5月号 「お」 STAGE GALLERY

演劇界の重鎮ばかりを招集!しかも、演技はウン10年orまったくやってないという先生方の多くを俳優に起用・・・。そんな、とてつもなく破天荒な期間限定劇団が、3作目にしてついにファイナル。思い起こせば役の設定も型破りだった。1作目は銀行強盗団、2作目は元殺し屋。そして今回は、伝説のゲイバー「つばき」にかつて集っていた旧知のゲイ仲間。ママのローズを演じる92歳最年長俳優・戌井市郎が、カルメンよろしく「恋は野の烏」を歌い登場するや、客席からはどよめきと喝釆が。

物語とは無関係な恒例の余興タイムでは、ほんわか空気が流れる。そんな彼らが、数奇な人生を歩むことになった原点は、ビルマでの戦争体験。笑い多き中で、時に発せられる反戦メッセージが胸を打つ。

最後に装置が急転、舞台は“戦友”の待つビルマの海岸へ。人生の総決算に臨む晴れやかな笑顔が、最終公演を成し遂げたご本人たちの達成感も思わせて、何だか清々しかった。

 

 パラダイス一座 『続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る』  @ 「テアトロ」 2009年4月号   中本信幸

パラダイス一座の最終公演である。これまでの演劇の枠をとっぱらった平均年齢80歳近い高齢者のこの劇団が2006年12月に『オールド・バンチ〜男たちの挽歌』で旗揚げ公演した。本誌(2007年2月号)で一座の首尾よい船出にラブコールしたのだが、一座は、一世を風靡しながらも、「三年間の期間限定劇団」との予告どおりに、惜しまれて退場した。総選挙という国民の審判を回避して政権の座にしがみつく政治家と大違い、芝居者の気っ風のよさは心地よい。

『続オールド・パンチ〜復讐のヒットパレード』(2007年作=佃典彦)に続く今回の芝居は、下敷きになっている往年の話題映画『カルメン故郷に帰る』や『ビルマの竪琴』を知っているといっそう楽しめる。敗戟後ビルマの捕虜収容所で暮らし、戦後ゲイとして生きた7人の戦友が、1989年1月7日、昭和が終わった日に四谷のゲイバー「つばき」で再会して起こる滅茶苦茶な大衆的音楽劇だ。この日、戦後ゲイ界の頂点に君臨してきた名物ママのカルメン・ローズの命も尽きたのだ。終幕で、ゲイバー「つばき」のセットがとっぱらわれ、広い青い海を背景に椰子の繁るビルマの海岸に6人のオールド・ゲイが舞い戻る。

映像出演の岩淵達治が、ビルマで水島上等兵の孫娘を見つけたと映像で知らせてくるが、オールド・バンチを待ち受けるのは、「戦場」なのか?

妖艶なローズ役を演ずる92歳の戌井市郎はじめ瓜生正美、中村哮夫、本多一夫、肝付兼太、映像出演の岩淵達治、舞台美術の妹尾河童ら強力な常連劇団員に加えて、最終公演にふじたあさやと二瓶鮫一、「謎のピアニスト」役で作曲家の林光が初参加、その他の出演者たちも適材適所、全員が存分に遊ぶ楽しい舞台だ。

 

パラダイス一座 『続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る』  @「國文學」2009年4月号    大笹吉雄 

パラダイス一座という平均年齢が八十歳に近い高齢者劇団がある。いや、あった。このほど本多劇場で最終公演の『続々オールド・バンチ〜カルメン戦場に帰る』(山元清多・脚本流山児祥・演出)を終えて、「三年間の期間限定劇団」との触れ込み通り、解散したからである。が、この劇団は輝かしい「伝説」として、語り継がれるかも知れない。

その中心になったのが流山児★事務所を主宰する演出家の流山児祥で、流山児の呼びかけで二〇〇六年のパラダイス一座の旗揚げに俳優として参加したのは、文学座の演出家で当時九十歳(以下同じ)の戌井市郎、青年劇場の劇作家で演出家の八十二歳の瓜生正美、ブレヒト学者で演出家の七十九歳の岩淵達治、ミュージカルの演出家で七十五歳の中村哮夫、劇場経営者で七十二歳の本多一夫、能楽師・俳優・演出家で七十九歳の観世柴夫、声優・演出家で七十一歳の肝付兼大の七人だった。このうち観世・肝付以外の人々は俳優としての本格的な経験はなく、その意味ではデビューだったし、舞台美術を担当したのも七十六歳の妹尾河童だった。俳優以外の演劇の第一線で活躍中のこれだけの知名人が一座を結成し、第一作が『オールド・バンチ〜男たちの挽歌』(山元・脚本 流山児・演出)という銀行強盗の話だったから大きな話題になって、ザ・スズナリという小劇場は文字通り立錐の余地もない満員になった。ただし、岩淵・観世の両氏は舞台に立たずにビデオ出演だったし、舞台に立った人たちもよくも悪くも素人のご愛嬌だった。また、それでよかった。

翌年の全員が殺し屋になった第二作『続オールド・バンチ〜復讐のヒットパレード』(佃典彦・作 流山・演出)も同じ劇場で上演され、これまたヒットした。が、この間に観世榮夫が逝去した。そしてこの二月の最終公演ということになるが、これはザ・スズナリの数倍の規模になる本多劇場での上演だった。増えつづける観客をさばき切れなくなったのが理由だろうが、ここもまた満杯だったから、パラダイス一座は満員つづきで幕を下ろしたことになる。ちなみに、これらの劇場のオーナーが本多一夫である。  

最終公演には新たに劇作家で演出家のふじたあさやと、俳優の二瓶鮫一が加わった。

毎回変わった趣向の新作を出したが、今回は戌井市郎が「つばき」という店名のゲイ・バーのママになり、二瓶は自称その息子という役。ビデオ出演の岩淵、瓜生のほかは女装もする凝りようだったが、オカマになったことに一理屈あり、戦争に駆り出されて敗戦を迎えた結果、男であることをやめる決意をしたのだという。が、このことはともかく、劇中で戌井が得意の新内を披露したり、ふじたが講談を語ったり、中村が『シャル・ウイ・ダンス』を歌い、特別参加の作曲家の林光がピアノを伴奏するにぎやかさ。

高齢者社会に突入した今、とにもかくにも真剣に舞台に取り組む「老人」の姿は、ひとつのお手本のようでもあった。こうありたいと思った観客も多かったに違いなく、そう思わせたとしたら、それこそがパラダイス一座の存在理由だったろう。カーテンコールでは流山児が「さよなら」とは言わず、「また逢う日まで」と挨拶した。

 

パラダイス一座 『続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る』      @産経新聞2009年2月13日文化面          「柳」

3年間の期間限定で結成された高齢者劇団「パラダイス一座」の最終公演。敗戦時に捕虜収容所で知り合い、戦後をゲイとして生きた男たち(戌井市郎、瓜生正美、中村哮夫、本多一夫、肝付兼太ほか)が再会した「昭和が終わった日」の1日を描く。92歳の最高齢メンバー、戌井を筆頭に、平均年齢80歳の老人パワーが炸裂(さくれつ)。芝居を楽しむ姿勢が客席に熱く伝わってくる。

☆泣き笑い度88%☆ ☆再結成希望度88%☆

 

パラダイス一座 『続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る』   @ まねきねこ&