■劇評■(2009〜)
「ユーリンタウン」 〜スケールアップした再演〜@村井健がゆく 2011年10月の舞台ベスト3
流山児の個性そのものの舞台。やんちゃで活気がある。日生版では到底考えられない「水尿譚」。 震災日本の未来を感じさせるイロニー・ミュージカル。初演よりスケール・アップしての再演だ。
「ユーリンタウン」 〜「いま・ここで」の演劇
〜 @演劇誌「テアトロ」 2011年10月号 七字英輔
流山児☆事務所公演、『ユーリンタウン』(グレッグ∵コティス脚本・詞、マーク・ホルマン音楽・詞、吉原豊司翻訳、坂手洋二台本、流山児祥演出、座・高円寺)も、一昨年好評を得た舞台の再演。しかし、変えるべきところは変える。それが成功している。
まずは客席の設定が異なる。初演では中2階を設け演技エリアとしても使ったが、今回は、ほぼ舞台に正対する客席のみになった。もうひとつは、狂言回し兼悪徳警官役にミュージカルの出演歴が長い別所哲也を起用した。
声量は勿論のこと、アドリブを交える余裕や愛嬌が、このミュージカルのスケールを一段と大きくした。さらに入れ子の台詞がふんだんに入る台本がいい。それに、印象的なメロディや訳詞(浅井さやか)が、この作をブレヒト劇を思わせる音楽劇にした。
水不足から公衆便所がすべて有料になり、洩らした者は「ユーリンタウン(小便の町)」へ追放される社会を扱う近未来もの。町を牛耳るのが水の管理会社社長(塩野谷正幸)で、「水」を「原発」や「電力」の比喩と捉えれば、「水」管理会社はそれを独占する電力会社に比定される。さらに、この上演
前から、アメリカで「反格差デモ」が激しくなった。この舞台がニューヨークのオフ・ブロードウェイで幕を開けたのが2001年。まさに、「いま・ここで」の演劇になった。
「ユーリンタウン」 〜大資本に反旗、「ユーリンタウン」低価格上演!」 〜 @11年10月15日日刊スポーツ
「別所哲也が主演するブロードウエイ・ミュージカル「ユーリンタウン」が14日座・高円寺1で幕を開けた。金儲けを企む大資本に反旗を翻すホームレスたちの姿を描く異色ミュージカルで09年に座・高円寺のこけらおとし公演で初演されたときは5000円以下という低価格設定もあって満員が続いた。初めてブロードウエーで見たときの衝撃が忘れられないという別所は「絶対に共有したい物語。今までのすべてをぶつけて体当たりで演じたい」と語っていた。
「ユーリンタウン」 〜別所哲也「体当たり」で挑む!」〜@11年10月15日中日スポーツ
「2002年トニー賞主要3部門を受賞した人気ブロードウエイ・ミュージカルで、地球温暖化で水資源が枯渇し展開される群集劇。」
「ユーリンタウン」 〜奔放なミュージカル、想定外のクリーンヒット!〜
@日本経済新聞11年10月25日 舞台レビュー :内田洋一
すれからしのシアター・ゴーアーにとって、この「ユーリンタウン」のような想定外のクリーン・ヒットに出合うことほど、うれしいものはない。大宣伝もしなければ、テレビで顔の売れる役者で配役をかためてもいない。2カ月におよぶ稽古(けいこ)で磨きあげ、豪華な話題作をもしのぐ、奔放なミュージカルを送りだしたのだから。
話はとんでもない。なにしろタイトルを直訳すれば「ションベン街」。地球は深刻な干ばつで水不足に見舞われている。有料公衆トイレの使用が義務づけられ、金がないからといって立ち小便すれば即逮捕、ユーリンタウンなる恐ろしい場所へ送りこまれる。理不尽な圧政に苦しむホームレスたちが体制転覆をはかって立ち上がるが、事態は思いもよらぬ展開へ、というB級寓意(ぐうい)劇。
2年前の夏、ところも同じ座・高円寺で初演され、口コミで評判になった舞台の再演。もとはオフ・ブロードウェイと呼ばれるニューヨークの小劇場で生まれ、2001年にブロードウェイの商業劇場に進出、トニー賞を3部門で受賞した異色作である。 演出家の流山児祥は小劇場ミュージカルとして大胆に構成する。よくあるコピーのような翻訳上演ではない。再演でキャストを大きく入れ替え、衣装も装置もやり直して緊密なミュージカルに練り直した成果に手ごたえがある。
なにより、マーク・ホルマン(音楽・詞)の曲がすばらしい。無調的な響きをもつ、しらじらとした独唱曲が苦難にあえぐ孤独な心を照らしだす。かと思えば、ホームレスの群衆(どこか「キャッツ」風)が客席まではねまわり、強烈な合唱曲を繰りだす。舞台下手のバンドとのかけ合い、ことにピアノの荻野清子(音楽監督)との呼吸が絶妙、猥雑(わいざつ)でまがまがしい群舞を導いて細部まですきがない。あからさまなまでにバカバカしいお話に、飛び切りの音楽。これぞB級、その対照が見事だ。
前田清実の振り付けにも目を見はる。無名の役者たちをよく動かし、群衆のうねりを威勢よく表している。両手をだらんとさせ、亡霊のような動きから躍動的なダンスに高めていったり、勢い余って倒れそうになりながら回転したり、不思議な曲線美で異常な世界に巻きこまれた感覚を示すあたりは、うならされる。
劇場の暴れん坊、流山児祥も年輪を刻んだものだなあと思わせられるが、猥雑、過剰、エログロ、などなど1970年代に興隆したアンダーグラウンド演劇の雑食的エネルギーをこの舞台に投げこんだ。唐十郎や寺山修司が主導したアングラ演劇は、一面で歌を多用するミュージカルでもあった。ただ多くの場合、役者の歌唱力やダンスがお粗末で、アングラすなわち粗悪品のイメージも強かった。すぐれた役者と向き合えばアングラのセンスはいまなお光り輝くことがわかる。
その流山児演出は観客を手玉にとる。入場時、制服姿のセクシーな美女たち(圧政の象徴)が「こっちよ」などとささやき、席に案内してくれる。すわれば拍手をうながされ、ホームレスのビラをまかれる。あの手この手で舞台に注意をひきつけられ、役者もまたアドリブ的な瞬発力をみなぎらせる。観客への挑発を過激に試みた寺山修司の演劇論が、この舞台には生き残っている。
大劇場のグランド・ミュージカルで活躍する別所哲也が警官の親玉を演じ、大いに意気をあげる。流山児の相棒といっていい塩野谷正幸がトイレ管理会社の悪徳社長を演じて、いかがわしくも、キッチュだ。ホームレスの「世界同時ションベン革命」をひっぱる青年の今村洋一、悪徳社長の愛娘の関谷春子の純真な恋はまるで「ロミオとジュリエット」。それも台本のいたずら心だろうが、B級であればこそ必死の演技が必要で、この点はきれいにクリアされた。
歌は真剣そのもの、今村の透明感、関谷のブルース調の懸命な歌唱も胸にしみ、不思議な命が役に宿る。
ほかに輝く役者の名をあげれば伊藤弘子、坂井香奈美、清水宏。坂井の愛きょうのあるセリフとカンのいい歌唱力、清水の観客をひきこむ勢いの良さ。群衆シーンで一丸となるコーラスの面々も歌、踊りともに頑張る。
演劇通なら、この舞台が20世紀演劇の巨匠ブレヒトの演劇論で構成されることに気づくだろう。観客を甘美なラブソングやコント、アクロバット的な演技で誘いこみ、それでいて予定調和的なエンディングを裏切る。世界の矛盾をありのまま認識させようと、意外性(異化効果という専門用語がある)を駆使し、意識の覚醒(かくせい)に導く。グレッグ・コティス脚本のこの舞台はブレヒトの代表作で、闇社会を生きる悪漢の音楽劇「三文オペラ」の似姿であり、ブレヒトの異化効果を象徴する「ソング」を用いた「逆三文オペラ」でさえあるのだ。
ユーリンタウンが何であるかは劇中でわかる。その味は苦い。革命運動は成功しそうだが、終わりは……。
唐突な結末はお話に酔った観客の頭をさますのに十分。節水か流し放題か。専制か自由か。ブレヒトにならえば、答えは観客が見いだすものなのだ。
井上ひさしが最晩年の朗読劇「水の手紙」で描いた地球の水不足の問題、それは震災後の日本でいっそう切実に感じられる。水がなくなってまず困るのが水洗トイレだというのは、神戸でも東北でも明らかだった。出せなくて行き詰まる人間、それはただの笑い話でなく、あすの我が身だ。
個人の無制限の自由(廃棄の自由でもある)は地球環境に「優しくない」面がある、という含意は今日の世界状況をついて、思いのほか鋭い。2年前の初演は稽古3カ月だったそうだが、その3分の1にも満たない日数で初日を開けてしまう「話題作」が大宣伝される現実を知っておこう。スターのスケジュールや稽古場を押さえるのが大変だからで、稽古が長ければギャラも仕込み費も高くなる。演技そっちのけの舞台が横行するなか、このミュージカルは演劇界の「体制」に立ち向かうアンチテーゼでもあった。
吉原豊司訳、坂手洋二台本。休憩を入れて約2時間40分。(編集委員 内田洋一)
「ユーリンタウン」 〜超〜贅沢な“社会派”ミュージカル
〜 @11年10月15日 しのぶの演劇レビュー 高野しのぶ
『ユーリンタウン』とは日本語に直訳すると「おしっこの町」。深刻な水不足のため公衆便所が有料化され、お金を払わずに排泄した者は厳しく罰せられるという、ちょっと変わった設定のお話です。また、語り部が「このミュージカルは…」と観客に話しかけたり、これから起こる事件の結末を先にしゃべってしまう驚きの展開もあります。
そんな一筋縄ではいかない、クセのある海外ミュージカルですが、遊び心があるオリジナルの日本語台本・訳詞のおかげで言葉が面白い上に、作品の狙いがとてもわかりやすくなっています。
一番の見どころは40余名の大迫力のアンサンブルでしょう!見事な振付の群舞とステージングで、客席を含む空間全体が一気に『ユーリンタウン』の世界に染め上げられます。特に体制側と民衆側の人々の対立場面は、目が離せない見せ場の連続!
原発事故による放射能汚染の実態がやっと明らかになってきた今、最後のメッセージは初演時よりも鋭く、重く胸に届きました。ミュージカルが好きな人にも、そうでない人にもお薦めしたい、生演奏ありの超〜贅沢な“社会派”ミュージカルです。 2002年に日生劇場で主役のボビーを演じた別所哲也さんは、警官役でほぼ出ずっぱりです。おなじく警官役の清水宏さんがアンサンブルの皆さんと一緒に開演前から盛り上げてくれます。300席以下の小空間で、役者さんは観客にどんどん話しかけて来ますから、ぜひ積極的に楽しむ気持ちで、ノリノリで、劇場に入ってください♪
(10月15日:高野しのぶ)
「ユーリンタウン」 〜今年度ベストワン!流山児演出のベスト3〜
@11年10月17日 江森盛夫の「演劇袋」
2009年に上演され、高い評価を受け、紀伊国屋演劇賞を受賞した作品だ。出演者はその評価が励みになって自信を深めたのだろう、この再演はさらに洗練され、凝集度を深めた舞台になった。「ユーリータウン」は訳せば「ションベン街」・・・、地球をおびやかす水不足のためトイレの水を公衆便所にしか使用を許さないことになり、それを悪用してトイレを有料にして官憲とグルになってあくどく儲ける業者・・立ちションベンや野糞は厳しく取り締まられユーリータウンに送られる。ユーリータウンとは謎の場所で、ここでは明かさないことにする。
ゼニのない貧乏人やホームレスは毎日死ぬ苦しみだ・・。そこへ正義に目覚めた青年とそれに共感した悪徳業者の1人娘が愛し合い、貧乏人を「救うべく「ションベン革命」の旗を揚げ、革命運動にのりだした・・。
このミュージカルの面白さは、頻出する”愛”とか”革命”とかの固い言葉が、ダンスや歌の凝集された悦楽のなかに溶け込むとそういう言葉が輝くのだ・・。今回はミュージカルの大物である別所哲也を迎えて、さらに厚みを増したキャストの中で、一枚も2枚も皮がむけて演技が深まり、迫力が増したのが流山児★事務所の2枚看板、塩野谷正幸と伊藤弘子、それにおどろくほど自由闊達な坂井香奈美、彼らの、とくに伊藤の歌唱力はミュージカルのパターンを超えた優れて演劇的な訴求力をもつ・・。それとオーデシションで選ばれた正義の青年を演じた今村洋一の歌の明確で透明感がある歌と台詞の声が素晴らしい・・。革命は青年の犠牲が稔って成就したかに見えたが、地球全体を覆った水不足・旱魃で人間は死んでゆく・・。
この舞台での要所、要所での客のノリがいい、新自由主義や格差社会や世界恐慌の不安に襲われている今の社会が、このミュージカルのリアリテイに共振しているのだ・・。社会不安への抗議と、資本主義の必死の延命・・そのストラッグルのアクチュアリテイ・・。今年度ナンバー・ワン、流山児演出でもベスト3に入る舞台だろう。素晴らしい初日だった・・。
「ユーリンタウン」 〜「ユーリンタウン」とヒロイン役・関谷春子に注目!
〜 @11年10月17日東京スポーツ 阪本良
話題のミュージカル「ユーリンタウン」(10月14〜30日、東京・杉並区の座・高円寺)が「連日満員」の人気を呼んでいる。オフ・ブロードウェイで大ヒットして2001年にブロードウェイに進出し、02年トニー賞3部門(脚本、楽曲、演出)を受賞したミュージカルの名作で、日本版は坂手洋二の台本で、流山児祥が演出。09年に流山児★事務所創設25周年記念公演としてロングランされた。今回半分のメンバーが入れ替わり、2年ぶりの再演となった。
ユーリンタウンを直訳すると「ションベン・タウン」。近未来、干ばつが地球を襲い、節水のため市民は有料公衆トイレの使用が義務付けられていた。違反すると逮捕され「ユーリンタウン」に送られる。そうしたなか、有料公衆トイレを経営するUGC社の横暴な使用料値上げに、ホームレスたちの不満が爆発。「ションベンをする自由」を求めて「ションベン革命」がボッ発するという物語。主演の悪徳警官ロックストック役に今回新たに別所哲也を迎え、ヒロインのホープに関谷春子、有料公衆トイレ管理人ペニーに伊藤弘子、ホープと恋に落ちるが、父親(大久保鷹)をユーリンタウンに送られ、ションベン革命の先頭に立つ若者ボビーに今村洋一などのキャスト。
留置場の監房のような公衆トイレのセットが組まれた舞台で、40人を超すキャストが舞台狭しと走り回り、踊って歌いまくるパワフルでスピーディな展開に圧倒される。なかでも、汚れた扮装のホームレスたちの中で掃き溜めにツルといった感じで純白のドレス姿で登場するヒロインのホープ役・関谷は、透明感のある圧倒的な歌唱力とパワフルな演技でドラマを引っ張っていき、本格的なミュージカル女優の登場と注目されている。
「ションベン」だの「革命」だの挑発的な言葉が飛び交い、オフ・ブロードウェィと日本の小劇場演劇の持つ鋭い風刺や反権力が合体した異色のミュージカルになっている。開演前に出演者たちが客席を盛り上げたり、別所がところどころで物語の先をほのめかしたりして観客を誘導する狂言回しもいい。音楽監督の荻野清子が自らピアノを担当するバンドの演奏も軽快で、最後まであきずに楽しめる。
「ユーリンタウン」 〜別所哲也が“悪”を好演!あの型破りミュージカルが再び! 〜 @ぴあ劇評 11年10月17日
野上瑠美子
台本・坂手洋二、演出・流山児祥により2009年に上演された、ブロードウェイミュージカル『ユーリンタウン』。座・高円寺1のこけら落としとして上演され、紀伊國屋演劇賞団体賞に輝くなど、その年の演劇界で一際大きな注目を集めることとなった。そんな『ユーリンタウン』の再演が早くも決定。キャストも新たに、10月14日、同じく座・高円寺1にて初日の幕を開けた。
世界的な水不足のため、節水を余儀なくされた近未来のある街。用を足すためには公衆トイレを使用せねばならず、しかも有料であるため、貧民街で暮らす人々にとってはたまったものではない。“立ちション”をしたならば、警官のロックストック(別所哲也)らによって即逮捕。恐怖の「ユーリンタウン」へと連行されてしまう。そんな中、すべてのトイレを管理しているUGC社の社長クラッドウェル(塩野谷正幸)が、トイレ使用料の値上げを断行。それに反発したトイレ管理人助手のボビー(今村洋一)は、貧民街の人々とともに革命ののろしを上げる。
きらびやかで美しい、誰もが幸せに満ちた世界。そんなミュージカルを『ユーリンタウン』に期待して行くと、観客は大きく裏切られることになる。まずタイトルは直訳で「小便の街」。開始早々にハッピーエンドではないことが告げられ、ミュージカルなのに歌えなかったと登場人物が愚痴り出す。何ともミュージカルらしからぬミュージカルな
のだが、その猥雑で、底知れぬ熱量を秘めた群衆たちがハーモニーを奏でた瞬間、全身に鳥肌が立ち、観客は一気にこの世界に引き込まれてしまうのである。
ロックストック役の別所は、これまでにない魅力的な“悪”を好演。狂言回しとして観客へのアピールもたっぷりと、劇場を大いに盛り上げた。警官バレル役の清水宏は、飄々とした演技で作品にリズム感を与える。前作から引き続きの参加となる塩野谷は、さすがの存在感。コミカルさに狂気を同居させ、資本側のいやらしさと苦悩を体現した。また舞台下手に配された生バンドの効果は絶大。三谷幸喜作品の常連でもある萩野清子が音楽監督を務め、4ピースとは思えないほどのエネルギッシュな演奏で魅せた。
前出の通り、本作にハッピーエンドは用意されていない。群衆たちは高い理想を掲げ、革命を成功させるが、現実はそううまくいかないのだ。しかしその失敗から学ぶか、学ばないか。どちらを選択すべきなのか、観る者に痛烈に訴えるラストが印象的だった。
「ユーリンタウン」 〜ミュージカル界の問題作『ユーリンタウン』
2年ぶりに再演!〜 @演劇ライフ10月15日
舞台は2幕構成で1幕が80分。10分の休憩を挟み、2幕が75分の合計2時間45分ほどとなっている。地球温暖化による水資源の枯渇。人類存続の危機をも利用して、更なる金儲けを企む貧欲な大資本など社会性あふれるテーマの作品だが、コミカルに創られているので、気負わずに楽しめる。
主演の別所哲也はアンチヒーローである警官ロックストックを好演。その姿は、観ていて清々しい。また、劇中ではラップも披露している。音楽監督・荻野清子の生伴奏にあわせて総勢44人によるダンス&ナンバーは、とても厚みがあり場内が揺れるほど。
この臨場感=小劇場ミュージカルの力を全身で感じることができるのも、本公演の醍醐味だ。チケットも低価格なので、この機会にぜひ劇場まで足を運んでいただきたい。
「ユーリンタウン」 〜ミュージカルの本質的な面白さ!
〜 @演劇ぶっく:「演劇キック」観劇予報 榊原和子
2011年10月19日
このミュージカル『ユーリンタウン』は、2009年に流山児★事務所創立25周年記念公演として、また座・高円寺1のこけら落とし演目として1か月、全30ステージのロングラン上演を果たした。公共劇場ならではの「ミュージカルの価格破壊」というべき低料金(5,000円以下)での上演に、連日超満員の観客が劇場に詰めかけるという現象を生みだし、メディアでも「絶賛の劇評」が掲載されるなど、前代未聞の「事件」となった。
そして再び、国際的に活躍する2人の演劇人、流山児祥&坂手洋二がタッグを組み、屈指のミュージカル俳優、別所哲也を迎えて再演することになった。題名の『ユーリンタウン』とは、直訳すると「ションベンタウン」。地球温暖化で水資源の枯渇のなか、人類存続の危機という事態をも利用して、さらなる金儲けを企む貪欲な大資本と、それに反旗を翻して蜂起するホームレスたち。
そんな社会性あふれるテーマを、オペラ、ゴスペル、ロックといった数々のナンバーと迫力のダンスで繰り広げるこの作品は、オフ・ブロードウェイで爆発的なヒットとなり、01年にはブロードウェイ進出。02年にトニー賞主要3部門(脚本賞・楽曲賞・演出賞)を独占したブロードウェイ・ミュージカルの名作である。主役は悪徳警官のロックストックで、今回この役に扮する別所哲也は、歌唱力と求心力で物語の中心で群衆を圧するパワーを発揮。清楚で強いヒロインのホープ役の関谷春子は初演に続いての出演。また恋人の純粋な青年のボビー役には今回は今村洋一が挑んでいる。伊藤弘子、坂井香奈美、塩野谷正幸をはじめとする流山児★事務所の俳優たち、客演の清水宏、大久保鷹、福麻むつ美、三ツ矢雄二という存在感が作品に厚みを加え、ミュージカルの楽しさを伝えてくる舞台だ。そして流山児祥の演出は、このミュージカルの本質的な面白さ、猥雑さと庶民のパワーを打ち出して、座・高円寺の客席を十分に活用、空間全体をユーリンタウンの世界に変えてしまう力を持っている。
『花札伝綺』 目黒:円融寺公演評〜和み芝居〜 @村井健がゆく 2011年の8月のベスト3
恐れ多くもご本尊鎮座の本堂で、それも観客一同尻を向けての和み芝居。気分転換、お客も役者もリラックスしてのあっという間の1時間半だった。劇場へのこだわりすぎを実感させるいい試みだ。
『花札伝綺』
目黒:円融寺公演評 〜アクチャルに浮かび上がる生死観〜 @江森盛夫の演劇袋 11年08月07日
作:寺山修司、演出:青木砂織、流山児★事務所、目黒・円融寺本堂。
開幕、”みなさん、本堂の阿弥陀様の像にお尻を向けて舞台にむかっていらっしゃいますが、後ろを向いて阿弥陀様に手をあわせて拝んでからはじめましょう”と声がかかり、全員阿弥陀様に手を合わせた・・・。
「この生と死のアラベスクが織り成す絢爛たる芝居を、メイク、音楽、ダンスなどすべてにわたって精緻に躍動させ、死人や生死の境にゆている人物達を露出させ、躍動させて寺山の世界を寸法どうりに復元させた。墓場の鬼太郎を華麗な男装姿と、あでやかで色っぽい女のしたたりで演じた伊藤弘子が舞台のトーンを高めて圧巻・・。」
これは3月1日のスペース早稲田の上演時の文章だが、このお寺での上演は、御仏のご加護があったのだろうし、芝居が死者をあつかう芝居でもあり、青木の演出がさらに精緻に、完成度が非情に高いグレードアップした上演に進化した。
この芝居、インドネシア
でも熱狂的に観てくれたそうだし、甲府の善光寺公演では”このお芝居を観て、死ぬのが怖くなくなった”と語ったお婆さんがいたそうだ。
3・11の大震災は日本人の死生観に甚大な影響を及ぼした・・。
この芝居の死に向う姿は現在きわめてアクチュアルに浮かび上がってきたのだ。
『花札伝綺』
山梨:甲斐善光寺公演 山梨日日新聞 〜生と死のはざま コミカルに表現 〜11年08月01日(月)朝刊
生と死のはざまに立つ人々をコミカルに描く寺山修司の戯曲『花札伝綺』(寺山修司:作 青木砂織:演出)30(土)、31(日)の両日、甲府・善光寺で上演された。
アングラ演劇の流れを継ぐ演出家、流山児祥さんが全国の寺社やライブハウスを“劇場化”する試み「レパートリーシアター」の一環で、寺院では国内「初」の公演となった。
物語は家族が皆「死んでいる」葬儀屋一家の一人娘が「生きている」人間に恋をするところから始まり、個性豊かなキャラクターが生と死についてさまざまな疑問を投げかけるにぎやかな音楽劇。
寺の本堂には白黒の幕が張られ、顔におしろいを塗り極彩色の衣装をまとった役者が「死人」をユーモアたっぷりに演じた。
初日の30日(土)は約200人が詰め掛け、軽妙なやりとりに笑い声を弾ませていた。
『花札伝綺』
インドネシア公演評 A.SARTONO 〜
シュールレアリスム的劇世界〜11年7月16日
"花札伝綺"は、ふたつの“形・姿を持った“精神(魂)の出現から始まる。死者の世界は、沈黙の中で動いていく。彼らの活動は単調で、時間を気にしないように見える。この死者の世界は、棺桶だけが立っている黒と白のベールの、装飾とも呼べるセットの前で繰り広げられる。 舞台上のメインセットの黒と白の幕は、多分、この世界を象徴しているのだろう:生と死の世界、つまり、それこそ『花札伝綺』の主要なテーマ。その他には、ステージの正面の一角に、精神(魂)への祈りの媒体としてランプ(ランタン:燈籠)が置かれている。
第二場面は、葬儀社内。同社は、団十郎を家長として、死ぬことを望んでいる人に、いくつかの死に方を提案したり、実践している。例えば、笑死、轢死、はらきり(切腹)、首つり、食死、飲死、腹上死、悲死。歌死。すべては「金」さえ持っていれば、選ぶことができる。この劇の物語は不条理の世界であり、超現実主義(シュールレアリスム)的世界のようにも見える。また、日本の民間伝承の世界のようでもある。生と死の世界・神々の世界とこちらの世界。それらは次第に"リアル"な世界になり、まるで「普通」の事であるように思われてくる。
物語の内容は、世界の中(生と死の世界)で演じられている。その二つの世界を互いに通過しあい、追いかけあい、入ったり、出たりしているのだ。
日本語で上演されている公演を理解するためには、集中力を要した(舞台上には字幕が映しだされている)が、音楽劇であり、ポップでスタイリッシュな喜劇であり、ここには至るところに、生と死の世界についての質問や、哲学的要素がちりばめられていた。生と死、それはどちらも、同様に重要。死がなくなると生はその意味を失うことになる。同時に生がなくなると、死の意味もなくなる。すべての生物は死ぬのだ。「さあ、これまでに死んでないヤツが1人でもいたか!?」
生と死の世界をつなぐ階段を通じて、行ったり来たりしているような『花札伝綺』の物語。流れるようにスムーズな変化(男の鬼太郎から女の鬼太郎へ)・衝撃(時には混乱)の連続。生と死は、実は制限などなく、簡単にお互いの世界を行き来できるのでないか。
個々の演技の完成度・充実した音楽・発声・ほとばしる表現。それは"自動的"に表れているかのようだった。Pendopoの柱に制限されてない(邪魔されていない)ブロッキングや、“インテリジェント”な照明のサポート。そして、上演中の演者の驚異のスタミナ。流山児★事務所公演は実に魅力的だった。
『花札伝綺』 インドネシア公演評 @JYOGJYA NEWS.COM 〜生きている世界と死んでいる世界の鬼ごっこ〜 11年7月16日
「花札伝綺」は東京の町はずれの葬儀社(「死の家」)で行われる物語。生きている世界と、死んでいる世界を10人の役者で描く音楽劇「花札伝綺」。7月15日金曜日に、TembiのRumah
BudayaのPendopo Yodanegaranで、流山児★事務所によって上演された。これはフェステイバル、Apresiasi
Tari Tembiの初日。
音楽劇「花札伝綺」は、すでに死亡している葬儀社の家族を中心に展開。ただ、一人、歌留多だけは、まだ生きている。歌留多はまだ生きていて、墓場の鬼太郎に恋をする。そして遂には、「花札伝綺」の物語は、“生きている世界”と“死んでいる世界”の間での鬼ごっことなっていく。 多くの死者たちに囲まれて、鬼太郎と団十郎の間では、誰が生きていて、誰が死んでいるのか、どんどん曖昧になっていく。団十郎の望み、娘の歌留多を死の世界に連れ戻す事に成功したとしてもだ。
演出家、青木砂織は、「解釈はそれぞれの観客にお任せします」と言う。「鬼太郎はまだ生きている。そして彼(死んで彼女になったが)は死にたくない。」ここにも答えはない。すべて答えは観客のものである。
寺山修司作「花札伝綺」は、日本の前衛劇団、演劇実験室◎天井桟敷によって、1967年に初演された。本来この物語は、もっと長い作品で、ミュージカル劇ではなかった。44年後、彼らは音楽劇としてつくりかえたのである。寺山修司の詩、作曲は本田実のオリジナル楽曲。その特異な衣裳も日本社会の特色を表現している。「死亡記事がのっている新聞」を張りつけた衣裳。「衣裳のデザインも自分たちでしている」という。「日本で公演した時は、日本の新聞しかつけていなかったです。が、こっちへ来てインドネシアの新聞記事も」もちろん、貼り付けられていた。Apresiasi
Tari Tembi2011が、流山児★事務所公演をインドネシアに招へいした。役者たちは日本語で演じた。観客は、インドネシア語に訳された字幕によって、十分、劇を理解することができた。これは、
私たちにとって「初」の体験でもあった。
♪めくって 重ねて 連れてった 花札伝綺。
さあ、 思いだしてみな 死んでない人間が 一人でも いたか?
『花札伝綺』
インドネシア公演評 @JYOGJYA NEWS.COM 〜死の物語が音楽に包まれて〜11/7/16
白塗りの、日本の新聞(ニュース)を張り付けた衣装を身にまとった、俳優たちが、観客席から登場し、『花札伝綺』の舞台が始まった。俳優の一人が観客に話し始めると、俳優たちは思い思いの行動を起こす。突然、音楽が流れ始ると、彼らは舞台上で完全に「ひとつになった」。
音楽は実に多彩で、それぞれ違ったスタイルのダンスや歌が全編を彩る。随所にインドネシア語を挿んで(その度に大いに受けていた)いたが、台詞はすべて日本語(インドネシア語の字幕上演)であったが観客は十分理解していた。これは、7月15日金曜日の夜、Tembi
Rumah Budayaで上演された、流山児★事務所による、寺山修司作の「花札伝綺」。これは、17日まで開催されるApresiasi
Tari Tembiの中の演目である。そして、このフェステイバルは、今後、毎年開催していく予定。
この物語は、東京の町はずれの葬儀社(「死の家」と呼ばれている。)での物語。この葬儀社内では、ほとんどの人間がすでに死んでいる。主人の名前は団十郎。まだ“生きている”娘の歌留多を除いては。彼女は“生きている”墓場の鬼太郎に恋をする。大泥棒の墓場の鬼太郎に。
鬼太郎は「死の世界」をも支配する泥棒となるまでの物語が繰り広げられる。ミュージカルの要素で作り上げた「生と死の倒錯の喜劇」である。
演出の青木砂織が語ってくれた。「「役者」は生きることも死ぬことも出来る。それどころか、様々な人格に変身することも可能なのだ。」
『花札伝綺』 インドネシア公演評
@Metro tv news 〜流山児の舞台芸術家たちがジョグジャの芸術家たちに、圧倒的存在感を示す!〜11年7月18日
日本の現代演劇の先駆的(アンダーグラウンド)劇団である流山児★事務所が、先日、「初」のジョグジャカルタ公演をした。そこでは流山児★事務所の芸術家達の魅力的な踊りと歌でうめつくされた。
『花札伝綺』(作:寺山修司)の物語を上演。ジョグジャカルタのTembi
Rumah Budayaでのこの作品は、東京の町はずれの葬儀社内での物語である。
この葬儀社は、団十郎という、もう死んでいる人間によって管理されている。この家では、全ての人間が「すでに」死んでいる。
流山児★事務所は、「死の世界」を表現したが、それは荒涼とした世界ではない。身体表現や、台詞は大いに笑えるし、ユーモアとエネルギーに満ちあふれた祝祭喜劇でもある。
彼らはジョグジャカルタのTembi Rumah
Budayaにそんな素敵な劇をもってきてくれた訪問者(遠来の客)であった。彼らもジョグジャカルタの観客の反応に満足し、感謝していると語っている。それは、私たちが東京(の観客)よりも、高い芸術鑑賞眼を持っているといえよう。
日本で、流山児★事務所は、先駆的(アンダーグラウンド)劇団として知られている。それは、様々なレパートリーを上演し高い演技スタイルを、追求している歴史のあるカンパニーだからである。『花札伝綺』にも、現代劇と能・歌舞伎のような日本の古典芸能との演技的融合が含まれているシーンが随所に見受けられた。
『花札伝綺』 @読売新聞
〜寺山死生観が色濃く反映した世界。寺山の台本古びてない〜 2011/3/2夕刊
流山児★事務所が「レパートリーシアター2011」と題して、Space早稲田で3作連続公演を開始した。上演中の1作目は寺山修司作「花札伝綺」(演出・青木砂織)。演劇実験室◎天井桟敷が1967年に初演した作品だ。
大正時代、東京の下町の「死の家」と呼ばれる葬儀屋を舞台に、寺山の死生観が色濃く反映された世界が展開する。音楽を本田実が担当、寺山のせりふを生かした音楽劇に仕立てたのが、今回の特徴。企画、出演もしている同劇団代表の流山児祥は「寺山さんの台本は、驚くほど言葉がきれいです。初演時はなぜか不評だったようですが、今やっても、全然古びていないし、面白い」と熱く語る。流山児は、今公演を手始めに、全国の寺社やライブハウスなどを回って上演し、演劇交流のネットワーク作りを進めたいという。「劇場法で劇場ばかりが話題になるけど、劇場に演劇があるわけでなく、人と人が出会うところに演劇が生まれる。その原点に戻ってみたい。」
『花札伝綺』 @江森盛夫の演劇袋
〜生と死のアラベスクが織りなす絢爛芝居〜 2011/3/1
作:寺山修司、演出:青木砂織、Space早稲田。ひさしぶりの青木演出、この生と死のアラベスクが織り成す絢爛芝居を、衣裳、メイク、音楽、ダンスなどすべてにわたって精緻に飾り、死人や生死の境にゆれている人物たちを露出させ、躍動させて寺山の世界を寸法どうりに復元させた。墓場の鬼太郎を華麗な男装姿と、あでやかで色っぽい女のしたたりで演じた伊藤弘子が舞台のトーンを高めて圧巻。そして沖田乱。この役者、「ブリキの自発団」時代から観ているが、いまや小劇場を支える練達の雄、この舞台でも、獄門次(あんまの忠)に扮して、舞台いっぱいに存在感を示し、そのひたむきさが感動的だ。
『花札伝綺』 @梁塵日記
〜これこそ寺山芝居、最上級の出来栄え〜 2011/3/2
「花札伝綺」は寺山修司若書きの戯曲。葬儀屋を舞台に生と死を逆転させた耽美・アナーキーな極彩色絵巻。
墓場の鬼太郎役は伊藤弘子。宝塚風男装と肌も露わな赤襦袢のなまめかしさの二役。青木砂織の演出はメリハリがあり、スピーディーかつ細緻。寺山の言葉を時速200キロのスピードで繰り出す。これこそ寺山芝居。
衣装、石丸だいこ振り付けのダンス、本田実の音楽、どれもが最上級の出来栄え。青木砂織の演出は役者の動き、視線、指先一本まで実に細かく行き届いていて、「これぞ演出家の仕事」。演出経験はまだ数えるほどというが、これはただならぬ才能。
流山児事務所は小林七緒もそうだが、女性演出家がうまく育っている
『花札伝綺』 @芝居漬け
〜サービス満点のエンタメ劇。海外でも元気に成立する劇〜 11/3/3 田中伸子
流山児事務所の活動拠点、Space早稲田で寺山修司の初期作品、音楽劇「花札伝綺(はなふだでんき)」を観る。
劇に役者として出演する劇団の頭、流山児氏が開演5分前にもかかわらず、寒空の中で客を出迎えていた。
このデジタルではない、アナログな人と人との繋がり感がこの劇団の大きな魅力の一つ。
でもって、善くも悪くも、頑なまでのアングラへのこだわり、その一途な姿勢ーブレない姿勢も、律儀なファンを確保しつづけている要因だろう。
ブレヒトの「三文オペラ」の本歌どり、とはじめにプログラムでことわっているように、その方向で芝居を観れば、この死者の世界という話も、嫌な男にかわいい娘を嫁がせたくない葬儀屋家業の男とその妻の奮闘活劇として結構すんなりと喉元を過ぎていくはず。
カラフルなジャポネスク衣装に、歌あり、踊りあり、ゾンビメイクあり、時々雄叫びあり、でもって性の倒錯もあり、と、とにかく観客を楽しませる趣向で溢れたサービス満点のエンタメ劇。
流山児★事務所は全国の寺社・教会・ライブハウス・コミュニティカフェなどを「劇場化」し、そのネットワークを多くの演劇人が共有=協働するプロジェクトを始めたらしい。
芝居を観に来る客が減っているのなら、こちらから出向いていこう!で、とにかく多くの人に観劇を体験してもらおう、ということなのだろう。
いんじゃないでしょうか?そういった視点で、改めてこの芝居を考え直してみると、どこでも(海外でも)元気に成り立つような気がする。
楽塾『もーれつ、ア太郎〜宇宙下町大戦争の巻〜』 @江森盛夫の演劇袋 〜肝付兼太の存在感〜11年5月
「楽塾版もーれつア太郎 宇宙下町大戦争の巻」(原作:赤塚不二夫、脚本:佃典彦、演出:流山児祥)流山児★事務所+楽塾創立14周年記念公演、スペース早稲田。
楽塾はもう固定ファンができて直ぐにチケットは完売になるそうだ。この平均年齢58歳の熟女ユニットの歌と踊りの流山児が仕込んだ「楽塾歌劇」はもう堂にいったものになっているが、今回は結構やっかいな会話劇でもあるのをなんとかこなして楽しい舞台になった。さらにこの舞台をひきしめたのは、赤塚漫画常連のイヤミのテレビの声を担当している肝付兼太の特別出演、真っ赤なオベベを着た”イヤミな婆さん”役は、一声発するだけ、そこにいるだけで舞台の雰囲気を面白く換えてしまう。ベテランの味というのはこういうものだと思わせて絶品だった。
楽塾『もーれつ、ア太郎〜宇宙下町大戦争の巻〜』 @演劇◎定点カメラ 〜解体し奇抜に構成。意表を突く面白さ〜 まねきねこ 11年5月5日
昨年公演での肝付兼太の劇化希望からなった上演とか。
舞台。歌舞伎定式幕が背景。下手に場面名を書いためくり。お話。ア太郎親分、行方不明。タチツテ党から東京都知事選に立候補?。敵対候補の狭間で、さらに襲来した宇宙人を前に、助手デコッ八は毅然として立ち向かう。
はたして地球を救えるのか、そもそもア太郎はどうなってしまったのか。
歌と踊りは控えめに、原作会話劇をキャラ総出演、いったん解体しての奇抜な構成で展開。冒頭のエンディングやお客参加など、意表をついた面白さあり。
ナンセンスなギャグが往来するも、デコッ八のからりとした男っぷりや、友情や人情の機微に 通じた物語であることには好印象。原作を読み直したくなったねこ。
アニメで実担当の肝付兼太さんが「イヤミ」婆さん役でリアル出演。達者な芸風といい、贅沢な 面白さを堪能するねこ。
楽塾『もーれつ、ア太郎〜宇宙下町大戦争の巻〜』 @シニア演劇WEB 〜深まる赤塚世界観。原作を超える濃厚キャラ〜 朝日恵子 11年5月9日
G・Wは、恒例の「楽塾」。千秋楽を観劇しました。 今年は、『宇宙下町大戦争の巻〜もーれつア太郎〜』(原作:赤塚不二夫、脚本:佃典彦、演出:流山児祥)でした。
漫画の劇場版は、漫画の時点で、キャラがはっきりと
かき分けられているだけに、劇場版になったとき、役者に個性がないと ピンボケしてしまうのでは ないかと思います。
しかし、楽塾の場合は個性派役者揃いで、
原作を超えるほどの濃厚キャラが作られていました。
最初に、すべての役者さんが登場しましたが、
普通に出てくるだけで、もう皆さんおかしい。 存在感だけで笑わせるって
なかなかできることではありません。
(メイクもよかった!神様役などは、全身でアメ食い競争やったみたいな
粉っぽい白さで、私の目がかすんだのかな と思いました!)
戯曲は、ア太郎はじめ
登場人物のキャラを活かしつつも全くのオリジナル(たぶん)。
でも、はちゃめちゃでありながらも、
人情ベースが貫かれて、そう、まさに「ア太郎」そのもの。
そこにアニメでイヤミなどの声を担当されていた
俳優・声優の肝付兼太さんが出演され、
赤塚さんの世界観がグッと深まります。 正真正銘本物の「シェー」が
何回もみることができ感激でした。
シニア劇団といえば、
介護や認知症などこの世代の抱える
リアルな問題をストーリー化し
観る人に共感を与えるものが主流です。
「楽塾」の場合は、 ストーリーによって
観客に何かを訴えるというのではなく、中高年の役者さんたちが身体をはって
「人間って、壊れて、自由になれば、すごく、気持ち良くなれるもんなのよ」
っていうのをみせつけてくれる芝居。
戯曲も演出も、役者さんたちの魅力を
掘り起こせるものが求められます。 「ここまでやれるんだ」(これでいいのだ)
という感動&憧れが、劇場を出る時
観る人の力に変わっているんですよね。
毎回、みなさん限界まで出し惜しみなし、どこまでいくのか、楽塾!
それにしても最高齢の女優さんは70歳なのに、団員の中で一番若い・・・楽塾の謎です。
来年「創立15周年
」になる2012年の
G・W公演は「高円寺2」であるようです。
『卒塔婆小町
』 インドネシア公演評 〜 愛と忠誠心 〜 Untro 11年7月22日
~小町、あなたは美しい~
愛と忠誠心。それは日本からの物語。
我々は日本の古い名作映画、例えば、『幸せの黄色いハンカチ』を覚えている。刑務所から釈放された夫は、家に帰るのをためらっているが、妻は夫の帰りを忠実に待っているシーンを思い出した。ただのシンボルの黄色のハンカチ。それは受諾の印。帰宅を躊躇する夫への合図。と、はるか遠端から、不安な気持ちで、彼女の夫は、どこにでもはためいている黄色いハンカチを見たのだ。
それに似たような、“愛と忠誠心”の物語『卒塔婆小町』が、7月17日日曜日に日本からの流山児★事務所によって、ジョグジャカルタのTembi Rumah
Budaya"で上演された。
"小町、あなたは美しい。世界で最も美しい。一万年たっても、あなたの美しさは衰えはしない”そうやって『卒塔婆小町』の話へと始まっていき、人間間の出来事に意味を持っていく。それは死についての話しではない。“愛と忠誠心”は繰り返され、死に至るまで続く。"私を美しいと言った男は全て死んだわ”これは、実にスリリングな物語なのである。
100日、毎日会うことを約束した、小町の恋人:深草少将。しかし、99日目に恋人は死んでしまう。そして、小町は、歳とるまで、同じ場所で、忠実に恋人を待ち続けるのだ。 『卒塔婆小町』での愛と忠誠。それは、二人の恋の話なだけではない。“約束に縛られた”二人の人間の関係。もしくはコミットを持つ。その二人の関係は、”従わせる“ものではない。生涯を通じて、その忠誠心を守り抜く。
流山児★事務所の公演は、演劇・ダンス・音楽を組み合わせたものでジョグジャカルタの演劇界に新鮮さと衝撃を与えた。会話劇は時には、説教臭ささえ覚えるものである。流山児★事務所の『卒塔婆小町』では、言葉・踊り・演劇表現が互いに、入り込み、しかし、互いに支配することはなかった。それぞれが、空(から)の空間を埋めていく。演者たちによって、全ての空間が意味を持ってうめつくされているのである。さらに印象的なのは、pendopoの建築様式が、まったく、障害物となっていなかったこと。それどころか、pendopoの柱たちが、舞台のセットの一部のようだった。避けるのではなく、演者たちは、舞台の真中にある4つの柱の近くに、頻繁に、存在していた。それぞれが、その4つの柱と“遊び”かつ“表現”していたように見える。
または、ある演者は、観客の近くにあるひとつの柱によじ登り、舞台の中央にいる演者との対話を行った。そのようなブロッキングすることによって、ただのLIVEな遊びなだけでなく、pendopoの空間さえも、作品をあらわす手段となっていた。
『卒塔婆小町』は夜の公園での話。
ここで、その場所で、恋人たちは抱擁している。そこへひどく恐ろしい老婆の乞食が、タバコの吸殻を拾いながらやってくる。デートをしている彼らを追い払い、ベンチに座り込む。その後、酔った詩人が来て、その老婆の生い立ちを尋ねる。“昔、小町と呼ばれた女さ”老婆は言った。『卒塔婆小町』は1952年初演。第二次世界大戦後の三島由紀夫の傑作。この作品が、男女の間の“愛と死と美”の残酷な舞踊劇(ダンス・テアトル)として復活した。
私たちは『卒塔婆小町』から興味深い事を得た。ダンスと演劇のミックス以外に。衣装も非常にシンプル。詳細なステージと、ブロッキングが非常に力強い。演者間の相互作用と反応は、“芸術”を、“美学”を生み出していた。
流山児★事務所公演は、私たちに、最大の“演劇的教訓”を与えてくれた。観客にとって、ダンサーにとって、演劇人にとって、それを学ぶための「チームワーク!」を忘れてはいけない・・・・ということを。
『卒塔婆小町
』 インドネシア公演評
@KEDAULATAN RAKYAT 劇の虜〜公園の美しい小町〜 SUARA
HATI 11年7月20日
“小町、君は美しい。この世で一番美しい。1万年たっても、君の美しさは消えやしない”100日間、休むことなく小町と会い続ける事を約束した恋人。しかし、99日目、この台詞を言った後、恋人は、死んでしまう。そして小町は、会い続けたこの場所で、歳おいても待ち続ける。
夜の公園、そこには蜜のように愛し合う恋人たち。一人の乞食らしき老婆が、煙草を拾い集めながらやってくる。そしてカップルたちを追い払い、ベンチを取り戻そうとする。そこへ、酔った詩人がやってくる。そして、老婆の生い立ちを尋ねる。それから、100年前の鹿鳴館でのダンスパーテイーの場面になる。当時老婆はとても若く、皺ひとつない。
全ての目は、彼女を見ると、その美しさに魅了されてしまう。この、三島由紀夫作の「卒塔婆小町」公演は、日本の劇団流山児★事務所によって、7月17日日曜日に、Tembi
Rumah Budayaで上演された。流山児祥と北村真実演出によるこの作品は、先日7月15日から始まった、Apresiasi
Tari Tembiのフェステバルの最終日の公演となった。
冒頭の百夜通いのシーンの後、作家:三島由紀夫の切腹シーンがあった。この自殺行為は、古典的な日本の演劇の形式(能)を忘れ去ってしまう新しい世代への失望、そして現代演劇の形態につながる「象徴」に見える効果があった。
ある観客は私にこう感想を告げた。「この公演での、気持のいい流れによって、劇の虜になった。演者たちの表現は、とっても興味深かった。すべての観客が「日本語」を理解しているわけではないのです。
だけど、観客は演者たちの動きから「物語」を理解することができた。このことは、想像力やその他の印象を高める可能性を持っています。それどころか、会話のシーンでもこの現象は起きたのです。
今まで見た劇の中で最大の衝撃を受けた。」
わたしたちは『卒塔婆小町』の虜になったのである。
『卒塔婆小町
』 @江森盛夫の演劇袋
〜変幻するパフォーマンス。刺激的な舞台〜11年3月20日
演出の本線はダンス演劇を志向している北村(観てはいないが「静かなうた」というダンス演劇の傑作があると流山児が書いている)だろう。前代未聞の<ダンス・テアトル>としてのMISHIMA MODERN NOHが仕上がった。
骸骨が置かれている無人の舞台に登場人物は穿かれた穴から現れる。男女全員白衣。彼らはチュウチュウタコカイナと呟きながら骸骨を細分し、みなそれらをそれぞれ持ち帰り、舞台から消える。骸骨は割腹自殺した三島の遺骸だろう。塩野谷正幸が主役の老婆・小町を演じ、さらに市ヶ谷の自衛隊での三島の決起演説を咆哮、三島そのもののイメージも刻印させる。ほとんどの戯曲のストーリーはダンス表現で、基本は公園のアベックとタバコの吸殻を拾う老婆という原戯曲の風景だから、男女のペア、老婆の吸殻を拾う長い火箸しがメインイメージ。音楽も名曲オペラ、謡曲、お経、ジャズ等々多種多様な音源が全編流れ、マネキンの人体がバラバラにカーテンに縫い付けられた美術など、緊密に組み込まれたダンスの強度を増幅させるセノグラフイーも鮮やかだ。俳優陣も変幻するパフォーマンスを北村・流山児の狙いをほぼ完璧に担った。
名高い深草少将と小町のエピソードなど、台詞もきちんと挿入されているが、身体表現が優越する。意表外の舞台で驚いたが、ほぼ完璧に北村・流山児の狙いが成功していると思った。が、とても感心したが、面白いかと問われれば戸惑う。三島特有の魅惑的な台詞・ことばの表現の捨象、俳優達の身体表現が機械体操のようなアート性の薄さとか・・しかし、とにかく刺激的な舞台だったことは確かだし、こちらの理解力の問題かもしれない。
『卒塔婆小町
』 @芝居漬け〜シンボリックに内容を無駄なく描き出す。・塩野谷の圧倒的な存在感〜 田中伸子 11年3月20日
流山児★事務所のレパートリーシアター連続上演企画の最後、三島由紀夫作、現代能楽集の一遍「卒塔婆小町」をSpace早稲田で観る。
流山児祥氏と北村真美氏との共同演出、プログラムにある通り出演者10人による群舞がふんだんに盛り込まれた<ダンス・テアトル>形式の上演であった。(中略)
オープニング、舞台床下から、白衣を着た男5人、女5人が舞台上へ這い出してくる。Space早稲田の狭い舞台を上演スペースぎりぎりまで客席が迫り、その中央のステージに重なりあうように役者10人が一挙に登場する。
その後、白いシャツを脱ぎ捨てて、塩野谷正幸が三島の割腹自殺当日の市ヶ谷駐屯所での自決直前のスピーチを一節述べ、その後、卒塔婆小町の幻想の世界へ。
それまで舞台上にあった白骨人体(三島の亡骸と思われる)を10人の役者が拾い上げ、骨を手にこれから三島の世界を表現する覚悟を示す。百夜通い〜小野小町に恋いこがれた深草少将は小町から百夜通い続けよ、そうすれば恋心にこたえる、と言いつけられ、毎夜忍んで通うのだが、99夜まで通った後、病に倒れて死んでしまう。その無念から霊となった少将の念に小町は苦しめられる。〜の末に恋の幻想を信じ幸福感に包まれ死んでいく男=現代の詩人(山下直哉)=深草少将の生まれ変わり(谷宗和)とこの世のしがらみから抜けられず、それでも男からの愛の告白を本能的に望んでしまう女=老婆(塩野谷正幸)=小町(木内尚)の何時の世にも変わらないものがたり、男と女の性質の違い、男という純粋で単純な生き物と女という現実的で地に足がついた生き物を描いた現代能楽話が21世紀の早稲田の小劇場で、一部の隙間もない劇場空間で老若男女の見物人たちに囲まれた舞台で展開していた。
この舞台空間を、その狭さと狭さ故の密閉感を熟知している演出家だからこその有効的な演出方法であったと思う。
群舞ダンス、その形式的な俗世の恋人達の愛情表現方法もリアリズムで演じるよりもシンボリックでありながら内容を無駄無く描き出すことに適していたし、塩野谷正幸演じる卒塔婆小町の圧倒的な存在感も話を緩慢とさせず、一点に集中させて〜小町という、ある種化け物のように人を引きつけて止まないその存在を中心にして、この夢物語を信じさせることに成功していた〜ダンス・テアトルという省略形式の中でメリハリを効かせる事に大いに貢献していた。
現代風にアレンジした着物地の衣装も、内容とあっていて、良し。
それにしても、毎回思うことだが、昨今、塩野谷正幸のように男でありながら`色気のある’役者というのが、なかなか現れてこなくなった、と思う。(後略)
『卒塔婆小町
』 @村井健がゆく 〜ダンシング小町〜 村井健 11年3月31日
『夢謡話浮世根問』の後で上演された流山児&北村真実演出の「卒塔婆小町」も悪くない。
ダンシング「小町」。踊りで始まり、三島の市谷駐屯地での割腹をプロローグに、小町の世界に入るという趣向。
これが実にコンパクトにまとまって、三島の観念くささがあまりない。 これも楽しめた3月の舞台の1つだ。
『夢謡話浮世根問』
@「文藝軌道」 2011年10月号 2011年春から夏の舞台〜死の影の底流〜 野平昭和
一人芝居、二人芝居には、古来、一風変った傑作が目立つが、ここに、一味も二味も凝った異色の二人芝居を新たに加えることが出来るのは嬉しい。落語の中で、能さん、八っあんが横丁の隠居に、おいそれと答の出ない難問を吹っかけると、この世のことで知らないことはないことを看板にしている隠居が、苦し紛れに捻り出す珍答のおかしさを笑う「浮世根間(うきよのねどい)」仕立ての設定に、戦後六十五年の流行歌(はやりうた)をまぶして、アラカン(六十歳前後)の男1(流山児祥)、男2(北村想)の二人が、天衣無縫に、知力体力のすべてを発散する舞台が、東京の路地裏の怪しげなビルの中の、これまた正体不明の弁護士事務所という場で展開する仕掛けなのである。
このビルの一階にある居酒屋から流れてくる古い歌謡曲と、話のシチュエイションが変るたびに、自ら、声を張り上げて、時に暗い調子で歌う二人の、いわゆる懐メロめいた歌の数々は、客の胸に、それぞれの思いを喚起せずにはおかないが、筆者なども、男1の「星の流れに……」から始まる菊地章子の歌に、敗戦後間もない焼け跡とバラックの街に街娼がむらがっていた池袋の一角に六十年を越えて連れ去られてしまったくらいだから、ハヤリウタをたくさん劇の展開に織り込んだのも舞台に効果を倍増させるのに大いに貢献していて、劇作りの企みに拍手したくなったほどである。
一見、筋なしの即興的展開にも見せかけた舞台も緻密に設計されたストーリー展開と、謀略史観とも都市伝説の変形とも言うべき事件の幾つかを、真相はこうだ風のミステリー仕立ての進行もあって、その時代の空気を同時に吸いながら、固唾をのんで、事件の行方を、あれこれ推理しつつ、新聞・雑誌を追っていた観客をも最後まで飽きさせずに幕を降ろしたのは見事だった。言うまでもなく、作者の功大なることは当然だが、演出の、この劇の運びの妙は、二人の相乗的功績と言っていい。
浅間山荘事件が、どっかと据えつけられていて、機動隊員だった男1がゲバルトで頭のイカレタ身を暴力団のヒットマンとして、常にタマを追う身に仕立て上げられ、怪しげな全共闘の弁護士だった男2に、新しいタマを提示される身で、消えた妻と娘を思い、中学まで同級だった男と女の死や行方を思い、赤報隊事件にも噛んでいたかのような設定とも取れる男2の言葉も撒き散らされ、しかもそのすべてが、謎のまま一時間半に満たない明るくて暗い舞台に幕が降りるのだ。
流山児の言う「全部わかる世代」 の客であ る筆者は、間もなく人生の幕を降ろすアラカ ン役者のせりふの行間に流れる死の影の底流 に共感した.。
『夢謡話浮世根問』
@日本照明家協会雑誌「ステージレビュー」2011年6月号 〜震災後を考える舞台〜 西堂行人
3月11日、東日本を襲った巨大地震は演劇界にも激震を走らせた。津汲、原発事故とも連動した戦後最大の大惨事を前にして、もはや地震以前のように、わたしたちは演劇を安閑と観たり、演じたりすることはできなくなった。演劇に関わる者たちは、この事態をどう考えるべきか。とりわけ、表現の問題にこの地震はどう関わってくるのか。
地震当夜、首都圏では交通械関が止まり、帰宅できない「帰宅難民」が大量に生まれた。また多くの劇場は公演中止を余儀なくされた。
公共ホールはすべてこの日の業務を中止する発令が出された。だが、当夜公演を敢行した劇場がなかったわけではない。流山児★事務所のスペース早稲田では、北村想と流山児の二人芝居『夢謡話浮世根間』(作=北村想、演出=小林七緒)が21名の観客とともに上演されたのだ。わたしが観た3月16日には、震災状説を即興的に取り込み、トイレットペーパーを買いあさる東京都民の「あさはかさ」を名古屋在住の劇作家が皮肉たっぷりに揶揄してみせた。演劇は厳しい現実に直面しても、いくらでも現実を柔軟に取り込むことができる。その時、演劇というもののライブ性、今ここに生きている人間が演じるというジャンルの特性が発揮されるのだ。
『夢謡話浮世根問』 @中日新聞 2011/6/11夕刊 〜男たちの虚無
、満載の歌で〜 安住恭子の舞台プリズム
北村想と流山児祥。四十年にわたって小劇場演劇で粘り強く活動してきた二人が、二人芝居に取り組んだ。「夢謡話浮世根問」(北村想作、小林七緒演出)。自分たちの生きてきた時代と今を、満載の歌でつづる舞台だ。
一人はやくざのヒットマン(流山児)で、もう一人は彼の友人らしい弁護士(北村)。やくざは元機動隊員で、鉄パイプで頭を打たれ記憶力を失っている。その彼が最後の仕事をする前に、気になる記憶のあれこれを弁護士に問いただす。失踪した妻と娘の行方、自分が殺した相手は誰だったのか等々。弁護士はかつて全共闘の弁護をしており事情通だった。
記憶喪失のやくざの話はあちこちに飛び、そのさまざまな問答を落語の「根問い」風に見せるのがミソ。さらにビルの下の居酒屋から聞こえてくる歌謡曲に合わせて歌いと、一見お気楽な展開だ。 だがその中で、彼らの道のりの裏にあった昭和の裏面史もかすかに語っていく。浅間山荘事件と朝日新聞襲撃事件をつなぐ線、あるいばやくざと公安をつなぐ糸。けれどもその解き明かしではない。この舞台がさらに強く語るのはそうした時代に身をさらし、見てしまった男たちの虚無だ。これでもかと披露する得意ののども、もはや本気で歌えるのは戯れ歌や歌謡曲以外にないのだという断念にも見える。二人は虚無の果てにやくざと弁護士のごっこ遊びをしているのかもしれない。そしてそのごっこ遊びを北村と流山児は本気で舞台で遊んで見せた。それが演劇だといわんばかりに。
『夢謡話浮世根問』 @村井健がゆく 〜まさに演劇「落語」〜 2011年3月の舞台
ベスト3 11/3/31
3月の舞台は散々である。「中止、中止の連続で、予定はあってなきが如し、だった」
未曾有の津波・震災、そしてプロメテウスの火が降り注ぐ中、落ち着いた気持ちでの観劇ができようはずもない。起きたのは東北、東京は無関係と何事もなかったかに振る舞う人がおれば、それは単に想像力の貧困なお人だろう。
想像力が乏しければ危機も恐怖も半減する。意外なのは、そういう人が演劇人に多かったことだ。それで分かったことが1つある。日本の芝居の貧しさは、この想像力の貧しさにこそあると。
まあ、これはいわずもながの皮肉だが、それはさておき、3月の舞台である。といっても、さしてない。パルコの「国民の映画」(三谷幸喜作・演出)
流山児事務所「夢謡話浮世根問」(北村想作・小林七緒演出)の2本。 「夢謡話浮世根問」は、まさに演劇「落語」。
北村想の「ご隠居」と流山児祥の「八」が、ボケとツッコミよろしく、浅間山荘事件の裏話を交えての2人芝居。
これが、いかにも「なさそで、ありそな」話なのだ。つまりは、虚と実の入れ子。
それにオーバーラップするのが、2人の歌と即興という、なんとも「妙」なる味の舞台だ。 躁の流山児、鬱の北村。このキャスティング自体が「妙」。
しかし、こんなおもろいユニットはもう2度とないだろう。見たもの勝ちとはこのことである。
『夢謡話浮世根問』 @江森盛夫の演劇袋
〜大笑いの連続、アラ還二人の足跡〜 11/3/15
ーうたはゆめ うきよのねどいー(作:北村想、演出:小林七緒)、スペース早稲田。
北村想と流山児祥の二人芝居。流山児はもともとちんぴらだった男が、機動隊にはいり、浅間山荘攻防に係わり、いまは大物のタマをとるヤクザだ。北村は怪しげで物知りの貧乏弁護士。落語のクマ、ハチとご隠居の問答ー根問いの趣向だ。だけど、話はなかなかこっていて、ヤクザの幼馴染みの男女が赤軍兵士で、粛清寸前で山から逃げだした。その男が自殺、女はヤクザと暮らしだし、女の子が産まれたが、女は子供を連れてヤクザと別れた。こういう話が、昔の流行歌やヤクザ映画、役者の話にまじり、その話題のたびにおびただしい数の歌を二人がそれぞれ歌う。台本が三分の二、毎日変わるアドリブが三分の一だそうで、北村はクリスチャンだし、物理学マニアだから、宗教や科学の薀蓄も覗かせるが、なにより演技のセンスが抜群で、歌も渋くて巧い。流山児が気はいいが落語のクマ、ハチ丸出しのオーバーな芝居をして、大声で歌うと、北村が渋くてカッコよく見えて、その絶妙な会話、間取りで客は大笑いの連続・・・。まあ、アラ還の二人のいままでの足跡がなんとなく腹に納まる芝居だった。
『夢謡話浮世根問』 @演劇定点◎カメラ 〜演劇戦友によるライブ感溢れる舞台〜 11/3/12 まねきねこ
珍しい2人のタッグマッチ芝居。出前もうけるとのことで、手始めに東西ツアー敢行。
舞台。殺風景な事務所。シースルー壁に、ドア、サッシ窓。上手、斜に事務机。
スタンドライトとファイル、携帯電話。奥にカップ麺とかあるラック。下手に簡素なテーブルとパイプ椅子など。天井に裸電球1。
お話。元機動隊員、現ヤクザの鉄砲玉(男1:流山児祥)と、元全共闘、現暴力団関係の弁護士
(男2:北村想)。長屋のクマとご隠居の落語問答。鉄砲玉は頭の怪我やクスリで記憶が曖昧、でも時々別れた妻子や闘争の時代を思い出して…。
惚けたふりして、ババババンと描く、裏昭和史劇。
一粒で3,4度と、おいしい重層 する劇作と演技演出。謎めいたモザイクから時々晴れ間が覗き交錯するミステリー。
落語問答からとんだオチがつく展開。表があれば裏があるとのうんちくや豆知識、生活に必要が無いのがいい昭和暴露話。歌は世につれ 世は歌につれと、やたらめたらと歌唱。熱血出鱈目な流山児、醒めてかっこよさげな想さんの対照が面白く。
演劇戦友ならではのアドリフ(全体の1/3とか)は愉快も、しばしハラハラさせられ。など、もろもろライブ感溢れる舞台を楽しむねこ。
『夢謡話浮世根問』 @山崎哲 ひと・こころ・からだ
〜ここに、最上の劇がある〜 11/3/11
流山児祥と北村想の二人芝居「夢謡話浮世根問」を観てきた。
元機動隊員で、現ヒットマンの初老の男(流山児祥)が、薄汚い倉庫に事務所をかまえている初老の弁護士(北村想)を訪れ、次の仕事を受け取る。
ただそれだけの話なのだが、その間、ヒットマンの生きてきた半生が昭和の歌謡とともに語られていく…。
そう言うと、流山児をよく知ってるひとにはすぐわかるだろうが、半ば、流山児の歌謡ショーみたいなものだ?(笑)
たぶん流山児が想を誘って書かせたのだろうが、「おい、おれ、セリフは少なくていいから歌わせろよ」と脅したに違いない(笑)。
その脅す様と適当に受け流す想ちゃんの姿が幼い頃から二人をよく知っている私の目にはありありと見える。
そうして二人して歌った数が30曲超え…?(笑)憶えてられるかいそんなもん、と思うのだが、全曲知っていた自分が自分でも恐ろしかったよ、というか、情けなかった…?(笑)
終演後、流山児が、「こんな芝居もあっていいだろ?」と、知人友人の間を脅して走り回っていると、たまたま同席した同期の桜の岡田潔さん(トム・プロジャクト)が、「アカペラでここまで聴かせるなんてたいしたもんだよ」
と、すかさず言った。さすが岡田さん、逃げ方がうまいね、と感心する(笑)。
こういうことを書いていると日が暮れてしまうので、一言はっきり言おう。もういいよ、おまえの歌は、聞き飽きたよ。と言いたいのだが、流山児が歌っているときのこのうえなく幸せそうな顔を見ていると、そうも言えない。
というより、歌ってるかれの幸せそうな顔を見ていると、見てる私まですごく幸せになってしまうので、いいよ歌って、おい、もっと歌えよ、と言いたくなってしまうのだ…(笑)。
もっとも私が唐十郎の「愛の乞食」を演出したときは、1曲だけにさせたが、唐さんの手前…(笑)。ともあれ、観ている私を幸せな気分にしてくれる男、それが流山児祥という困った男なのだ。
しかし劇中で歌った「ワルシャワ労働歌」は圧巻だった。例によってロック調で歌うのだが、これだけこの歌を聴かせるものを私は知らない。涙が出た…。といって調子に乗るなよ、おまえ、頼むから。あ…、ま、いいか、乗っても…(笑)。
ところで、北村想…。会ったのはいつ以来だろう。目黒かどこかで劇作家協会が開いたシンポジウム以来?下手から入ってきた瞬間、胸が熱くなってしまい困った…。名古屋の七ツ寺共同スタジオで初めて会ったとき、想は19歳。なのでいつも想ちゃんと呼んでしまうのだが、飄々とした居ずまいと、そうした場所からしか視えない世界を紡ぎだす北村想を、ひそかに「いいかげんな」名古屋の天才…、と呼び、私は畏敬の念を抱いてきた。
自分ではかなり冷静に世界を見ているつもりなのだが、想ちゃんを見ると、おれも流山児同様、目くら滅法な鉄砲玉だな、と、わが身を思い知らされるのだ。ほんとに困ったやつだよ、私より若い想ちゃんなのにさ…(笑)。
20年ぶりに舞台に立ったのだそうだ。初めて想ちゃんの演技を見るひとは、その達者ぶりにみな驚いていたが、なに、19歳のころの想と全然変わってないよ…(笑)。すこしふっくらとして、髪に雪もすこし積もったが、私の目の前にいたのは初めて出会ったときの19歳の北村想…、想ちゃんだった。あの世とこの世のハザマに…、天と地の間に立って、いつも行く方越し方を眺めている想ちゃん…。この世の人間どもと世間話をし、あの世の神どもと世間話をしている想ちゃん…。
演劇的に言うなら、北村想のいる場所こそ、近松が言った演劇の「虚実」の間なのだ。この劇の作術にもそのことは見事に表れている。かつて学生運動での鉄砲玉だった流山児祥を、敵方の機動隊に書き換え、自らの半生を語らせる。革命を志すものを葬ってきたはずのヒットマンにこんどは警察上部の者を葬らせようとする…。瞬間、私はオウム事件がよぎったが、劇中、老弁護士がこの世は?とヒットマンに問われ、「無限に大きな金魚鉢だよ、そこにはなにもない…」と答えるシーンがあるが、そこが北村想の…、想ちゃんのいる場所…。そしてそこで流山児と出会っている?
流山児は40年このかた「演劇の解体」を目指してきた。平たく言えば、演劇を外に向かって、街に向かって、いま観てるひたとたちに向かって、開け。ということ…。現実のほうに向かって解体しろと言うこと。もういいよ、そういう芝居は。そういう芝居やるくらいだったら、おれに歌わせろよ、と言うこと…(笑)。どこまでが芝居でどこまでがお芝居なのかようわからん、そういう芝居をやりたいってこと…。かれが寺山修司に隣接するのもそこだし、終演後、「こういう芝居があってもいいよな?」と、友人知人の間を脅しまわるのも(笑)じつはそのことを言っている。と、真面目に語っている私を見て想ちゃんがニヤニヤ笑ってる姿がそこに見えるのだが(笑)、しょうがないだろ、おれが言わんとわかる演劇人なんかひとりもおらんのだからよ…(笑)。
この芝居を観て、ああ、流山児も観てる私も40年経って、ようやく19歳の想ちゃんのいる場所に立てた、という感慨に襲われたよ…。流山児も私も、好き勝手にやってきたはずなのに、そして理念的にはとっくにわかっていたことなのに、40年経って、やっと…。
こういう芝居もあっていいどころじゃない。これが芝居だよ。バカをやってる二人が…、流山児と想ちゃんがいる。間違いなく目の前にいる。自分を晒しつづけて…。そのことがもたらす演劇性に較べたら、どんな演劇性もただ無残でしかない。長く芝居をやっているものは、自ずとそのことがわかるはずだ…。
東京公演のあと、地方に行くので、ほんとうの芝居を観たいと思ってるかたは、ぜひこの芝居を観てくださいな。私のこの上なく大事な友人の芝居だから薦めるわけではありません。
ここには、間違いなくいま最上の劇があるからです…。
『愛と嘘っぱち』 @ 「悲劇喜劇」
2011年2月号演劇時評
〜流山児流ブレヒトミュージカル〜 野田学
野田
:1910年の「大逆事件」を扱ったミュージカルです。野田秀樹さんの「ローリング・ストーン」を思わせる地口が出てきます。「皇帝・肯定・校庭」とか、「医師・石・意志」とかですね。こういった地口にのせて、獄中の革命家たちの人間模様が、回想と幻想と共に描かれています。 なんと言っても、中心人物が男性ではない点が、この作品の特徴でしょうね。作品の視点は、大逆事件で処刑された唯一の女性、菅野スガのものなんです。舞台は牢獄。その真ん中のスペースで八人の管野スガがひしめいています。作品は、スガの人生が始終「ブレている」と何度も指摘します。革命家、女性運動家、恋多き女、幸徳秋水をひたすら愛する女、そんな自分を冷めて見つめている女など、いろいろな女性像に菅野スガが分裂している。この女たちは、いつまでも苦悩して、互いにけんかをします。しかし最後に刑場に向かうのは、自分のことがわからなくて、自分を探し続ける女としてのスガひとりだけです。果たして彼女の人生は男性中心社会で、秋水を含む無責任な男たちに振り回されたものに過ぎないのだろうか、それとも、彼女は自分なりの自由を得ることができたのだろうか。作品はオープン・エンディングになっている。 融通無碍な舞台上で、流山児☆事務所の役者さんたちは、手堅い演技を繰り広げていました。「ユーリンタウン」以来のミュージカルなんですが、歌える役者が多いのは感心しましたね。流山児流ブレヒト的なミュージカル、もしくは、ソンドハイム風ミュージカルだったと思います。
編集部:作の鹿目由紀さんは、日本劇作家協会新人戯曲賞を受賞したばかり。
野田:菅野スガに焦点をあてたということで、鹿目由紀さんの劇作家としての視点は確かだったと思います。
『愛と嘘っぱち』 @中日新聞 10年11月20日夕刊
〜「大逆事件」を男と女の理論で読み解く試み〜 安住恭子の舞台プリズム
流山児★事務所「愛と嘘っぱち」 流山児☆事務所のミュージカル「愛と嘘っぱち」 (鹿目由紀:作、流山児祥:演出、浅井さやか:音楽)は、百年前の「大逆事件」を素材にした作品だ。
鹿目にとって初の他劇団書き下ろしで、初の歴史物、初のミュージカルとさまざまに挑戦している。名古屋の劇団あおきりみかんの鹿目由紀の書き下ろし。東京と愛知で上演。
思想弾圧の一大でっち上げ事件とされるこの事件を描くにあたり、鹿目は二つの仕掛けをする。
一つば臨月の女性記者とその助手である少年が、死刑囚たちに取材する形で事件を振り返ること。もう一つは、幸徳秋水の愛人で主犯の一人とされた菅野スガを八人に分裂させたこと。この二つによって革命家たちが抱いた夢と、それに向かう男と女の多様な姿をとらえ
ようとした。 確かに八人のスガは、革命への情熱だけでは、くくれない姿を分かりやすく見せる。また少年を爆弾作りのミヤシタに憑依(ひょうい)させることで、革命家の男たちに潜む純粋な直情やその弱さを示した。
さらに弾圧を指揮した検事や彼らの意向に従順に従う民衆も登場させ、権力の構造も暗示した。つまり大逆事件を男と女の理論で読み解くことで普遍化しつつ全体像に迫ろうとしたと思う。
けれどもそれらが絡んで、百年前の男女の悲劇のうねりになっていかないもどかしさがあった。(後略)
『愛と嘘っぱち』 @江森盛夫の演劇袋 〜特異で面白い
「大逆事件」ミュージカル〜 10/11/02
「大逆事件」を題材にしたミュージカルだ。鹿目は名古屋の人気劇団「あおきりみかん」の主宰者。今どき大逆事件をミュージカルにしようと鹿目に書かせた流山児のアイデイアはいつもながら凄い。
鹿目もそれに応えて、しっかりした良い台本を書いた。なにより菅野スガを8人のスガにして、この複雑剛毅な女傑の内面の葛藤のポイントを8人に分担させたアイデイアが独創的で、スガの全体像に迫った。スガの恋人であり、スガと同じく処刑された幸徳秋水はじめ、事件に連座した人々も周到に描かれていて、事件の全容もきちんとわかる。スガのほかに無政府主義・社会主義者の夢を次の世代へ継がんとする少年が主要人物だが、この少年の夢とヴィジョンが今の時代に説得力をもつかどうかが分れ目だろう。ともあれ、浅井さやかの音楽、石丸だいこの振付とも活気あふれる舞台で、特異で面白いミュージカルだった。
『愛と嘘っぱち』
@梁塵日記 〜8人のスガと大逆事件の収監者たちの幻想と妄想〜10年11月2日
作者は名古屋の劇団あおきりみかん主宰。「中学生日記」などテレビ作品の脚本も書いている。そのためか、舞台構成も独りよがりにならず、かといって単純な具象化作品にならず演劇としてのツボを心得た作品になった。
主題は明治末に起こった大逆事件。菅野スガ、幸徳秋水、内山愚童ら社会主義者、アナキストらが明治天皇暗殺未遂事件のフレームアップで逮捕、処刑された事件。死刑判決からわずか1週間以内にスガ、秋水ら12人が死刑執行されている。これで社会主義運動は沈滞、沈黙を強いられる。そこには天皇制絶対主義を確立しようとした明治政府の意思があった。(中略)
菅野スガが8人に分裂し、それぞれが自分を主張する。これは面白い。作家・向井豊昭さんの「BARABARA」は、朝会社に向かう途中で次々と人格が分裂・複製していくシュールな小説だったが、その手法と似ている。アイディンティティーの統合失調。 スガの8人の人格が我こそはスガであると主張し、互いを抹殺せんと闘う。秋水を愛するスガ、前夫・荒畑寒村の執着にほだされるスガ、強い婦人を目指すスガ、古い女を引きずるスガ‥‥。8人のスガと大逆事件の収監者たちの幻想と妄想。それを喚起するのは収監所を訪れた臨月間近の女性記者とひとりの少年。彼らが大逆事件の全貌を解読していく。
12人が処刑されていくシーンの演出がいい。舞台から飛び降り、落ちた瞬間、首を垂れるが次の瞬間、ゆっくりと顔を上げて客席通路に去っていく。その幻想性。なるほど、こんな処刑シーンもあるんだ。久しぶりに吉田喜重の映画「エロス+虐殺」が見たくなった。 オギャアと産声上げる赤ん坊はスガ、秋水らの「遺志」を引き継いでいくのか。最後、ちょっぴり泣けた。「ユーリンタウン」に続く流山児音楽劇。(後略)
『愛と嘘っぱち』
@
「ミュージカル
」2011年3・4月号 〜2010ミュージカル・ベストテン
:24位選出評〜
「流山児★事務所の『愛と嘘っぱち』はミュージカルとしては異色だが、こんな大衆的路線がもう少しあると楽しい」 (日本経済新聞:河野孝氏)
「『愛と嘘っぱち』は劇団の力が生んだ。」 (共同通信:阪清和氏)
演劇批評誌「シアターアーツ」2011年春号
2010年ベスト舞台選出 ベスト舞台:楽塾『ほろほろと、海賊』 (作:佃典彦 演出:流山児祥/Space早稲田)
演劇雑誌「JOIN」2011年 3月号
2010年私が選ぶベストテン選出 ベスト女優:坂井香奈美
(『お岩幽霊/ぶゑのすあいれす』 ) ベスト戯曲:佃典彦『標的家族!』
ベスト制作者:米山恭子(全作品:2年連続選出!)
『櫻の園』 @「悲劇喜劇」
2011年1月号 〜2010年のチェーホフ〜
岩佐壮四郎
千葉哲也演出による『楼の園』は、日本の一九八〇年代の時代の感触と交錯させながらこの劇を新しく捉え直そうというのが、舞台づくりの基本の意図のようだ。その目論見は、台詞のいいまわしから、登場人物たちのファッション、バック・ミュージツク、八〇年代にはちらほら目立ち始めたポストモダン風の高層建築を思わせる装置にまで、ほぼ過不足なく貫かれてはいる。とりわけ、坊主頭に黒い夏の背広といういでたち、当時活躍した地上げ屋を思わせる風情のガーエフの登場と共に、一挙に八〇年代の雰囲気が漂ってくるあたりはなかなかアジがある。終幕近く、ちょっと振り向いてから桜の園をあとにする流山児祥の扮するガーエフの姿には、世紀転換期のロシアというよりは、やはり『櫻の園』を下敷きにした太宰治『斜陽』の、復員した直治の哀愁が漂っているといってもいいかもしれない。八〇年代はまた、生き延びた復員兵達が、こんなふうに退場した時代でもあったか。 ただ、この劇が二〇〇〇年代も最初の十年を過ぎた「今、ここ」に生きる観客の期待とどれほど関わることができたかとなると、やや不満もある。たとえば終幕近く、金欠病で金を借りまくり、周囲から鼻抓み者になっていた没落地主のピーシチクが、自分の土地に有望な鉱脈があることが判明し、イギリスの会社に二十五年間の契約で賃貸することになって急にハブリがよくなる場面。地道に仕事に励むこともなく遊びまくり、尾花うち枯して家に帰ったものの、結局は広大な庭園のある豪壮な邸宅を手放すことになるラネブスカヤの一家のスッタモンダを描いたこの劇では、明るい(?)笑いを巻き起こす場面の一つといっていいだろう。だが、この場面に接する観客は、この気のいい男に約束された土地からの収入も、十年あまりしか続かなかっただろうことを知っている。劇の現在を、初演された一九〇四年と考えれば、いうまでもないことながら、契約期間の切れる一九二九年まで待たずとも、十三年後には革命が起こって土地は没収された筈だからだ。また、当然のことながら、八〇年代といえば、急にフトコロ具合のよくなった人間の急増に応じて、住み馴れた家を追われるラネフスカヤの一家のドタバタがあちこちで演じられた乱痴気騒ぎの酔いざめの苦さは今に続いていること、八〇年代の終わりが、ソ連の崩壊によって、二十世紀が賭けた夢の最終的な破綻と重なって、なんとも得体のしれないアト味をこれまた今に引き摺っていることも知っている。千葉演出は、にもかかわらず、こうした観客の気分に、かならずしも自覚的であったといえるかどうか。(後略)
『櫻の園』 @「文藝軌道」2011年4月号
〜異色のチェーホフ劇〜 野平昭和
この「櫻の園」も「あうるすぽっと」の参加舞台だが、戯曲そのものに手を入れて変えるやり方ではなく、登場人物に強弱のアクセントをつける方法で、千葉哲也はチェーホフの心を、今の世の客に伝えようとしたのだ、と筆者は解釈した。すべての人物がそのアクセントの外にはないが、ラネーフスカヤ(安奈淳)、ガーエフ(流山児祥)、ロバーヒン(池下重大)、トロフィーモフ(イワヲ)、ピーシテク(栗原茂)そしてフィールス(塩野谷正幸)に、俳優の色と相俟って強く演出家のアクセントを感じたのである。
金銭感覚も稀薄で、ひたすら愛する男に入揚げて破滅に至るラネーフスカヤの華麗な面が舞台を覆っているのを高く評価したい反面、やや浮世離れしたところはあるが、尾羽打ち枯らした落魄の影を押しやったところが気になり、生活力が稀薄で無能だが、妹の弱いところもすべて認めて愛しており、ただ空しい騒ぎの中で、ラネーフスカヤと共に、零落の道を辿っている感じはよく出ているガーエフなのに、時折、元気すぎるところに違和感を抱いてしまうし、最早忠犬とでも呼びたいほどの、この屋敷の主とでも呼びたいほどの、櫻の木を切り倒す斧に倒されるように横になって死を迎える老僕フィールスの、「一生が過ぎ去ってしまった。まるで生きてきた覚えがないくらいだ」のせりふは、更に死の直前の、よれよれの亡霊の姿と声で観たかったが、少し生臭さが残っているように見えてしまい、残念だった。とはいえ、筆者のように観る客を百も承知の上で、敢えて新しいチェーホフ劇を見せたのではないか、と思い直せば、安奈淳の発する華麗な雰囲気、流山児祥の、銀行に就職して腐った櫻の園を後にする男の最後の気力、地霊のように、死んでも死なずに櫻の園に永遠に生き続ける塩野谷正幸の不滅の霊の言葉として捉えれば、異色の、大成功のチェーホフ劇として評価できる筈である。
『櫻の園』 @「シアターアーツ」
2011年春号 〜積極的「誤読」〜 野田学
積極的「誤読」といえば、千葉哲也演出による『櫻の園』は、登場人物連にとっての古き良き時代を日本の八〇年代バブル期に重ねることで、彼らの行き詰まった現状を二〇一〇年の日本に見ようとした。舞台は倉庫のような空間、レオニードの「八〇年代の人間」宣言をきっかけに、現代服の人物連がジュリアナ東京の狂乱お立ち台ダンス(扇子付き)まで折り込んだやけっばちの狂騒を繰り広げる。ほかにも女優がロバーヒンを演じたりしている。
日本の八〇年代という着目点は悪くない。八〇年代まではばらまき可能だったかもしれないが、もはや無理だ『櫻の園』におけるように、ということだ。チェーホフという作家は、そんな「だらしない」没落者に、「それではいけないことは分かっている」という自意識をあたえてしまう。だから、だらしない没落者が、いつのまにか愛おしくさえ思えてしまう。この観客意識の操作が心憎いのである。(後略)
『櫻の園』
@「テアトロ」 2010年11月号劇評 〜女優陣の充実、異化としての流山児印。〜 七字英輔
「チェーホフ生誕150周年」に当たる今年は、チェーホフ劇が目白押しだ。
先ずは流山児★事務所公演、チェーホフ『櫻の園』(木内宏昌翻訳・台本、千葉哲也演出)。これは、あうるすぽっとの「チェーホフフェスティバル2010」の嚆矢を飾る公演でもある。流山児★事務所が旗揚げ以来、初めて本格的に挑むチェーホフ劇だというが、木内、千葉といえばtptで修行したコンビだし、主演の安奈淳(ラネーフスカヤ)も池下重大(ロパーヒン)も、tpt馴染みの俳優で、「流山児」というより、まるでtptの舞台を観ているような錯覚すら覚えた。その最たるものがベニサン・ピットの内部を彷彿とさせる美術(石原敬)だ。天井からブランコがぶら下がり、グランドピアノの陰に大きな木馬がある以外、「子供部屋」を思わせるものは何もないガランとした倉庫のような空間。木造の机や椅子が引き出されてくる他は、4幕すべてをこのセットで通す。
ブランコに坐ったまま居眠りをしていたロパーヒンがドゥニヤーシャ(坂井香奈美)に起こされるのが冒頭。やがて汽車の音が幻聴のように聞こえ、背後の巨大な鉄扉が右に引かれて、ラネーフスカヤの一行が姿を現す。その一瞬が、逆光に照らされて美しい(照明・沖野隆一)。
19世紀末ロシアの広大な領地を所有する大地主の邸を思わせるものも、邸を囲む桜の樹もなく(「桜」は常に観客席の側にある)、殺風景な舞台は、まるで今はないベニサン・ピットに役者たちが帰還したかのようである。そして、そこに幻影が立ち現れるのだ。この舞台の面白さはそこに集約される。原作の2幕、桜の園に迷い込んでくる浮浪者(下総源太朗)も、ここでは開け放された鉄扉から屋内へと入ってくる闖入者になる。
演出上、唯一の変り種は、エピホードフ(町田マリー)とヤーシャ(朝比奈慶)に女優が扮し、ドゥニヤーシャとの三角関係を演じることだが、これが意外に違和感がない。勿論、演出は3人をレズビアンにしたかったわけではなかろう。ヤーシャなどは男の扮装の下に女物の衣裳がはみ出していて、この劇がメタシアターであることを強く意識させる。とんがったワーリャの伊藤弘子とともに、女優陣の充実を感じた。安奈はラネーフスカヤにしては華著すぎるが、品格の点で申し分がない。
諧調を崩すのは、野性的に過ぎるガーエフの流山児祥と耄碌とはほど遠いフィールスの塩野谷正幸だが、彼らの「異化」が、この舞台をまぎれもない「流山児印」にしていた。
『櫻の園』 @江森盛夫の演劇袋
〜チェーホフの覚めた視線〜 2010年9月5日
なかなか斬新で心の鎮まる「桜の園」である。舞台は屋敷の子供部屋だが、いままでの「桜の園」の通常のセットとはまるで違う。高い奥のなにやら文様がある壁がそそり立ち、上手に鋼の階段があり、上の部屋に通ずる。下手に二人がゆうゆう座れる大きなブランコがあり、紗幕に覆われた構造物がある。この美術はTPTの「広い世界のほとりに」という千葉の演出の芝居で、ベニサンピットの構造を見事に使った石原敬。払暁の暗い部屋に老僕フイールスが入ってきて、なにやら呟きながら灯をともす。
この「桜の園」が斬新なのは、通常はラフネースカヤの兄ガーエフの身の回りの世話をしているだけだったが、塩野谷正幸が演じるフイールスが芝居の要を担っていること。この農奴だったのに農奴解放を嫌悪する老僕が、この家に出入りする人間たちの行状を見守り断罪する役を果たす。さらに千葉は、いままでのチェーホフ劇の常套を排し、俳優の演技をナチュラルにすることによって、芝居を平滑にし、芝居の見晴らしをよくする。イワオが演じる万年大学生ペーチャがいつもの流山児の芝居での臭いが消えて見違えるようだ。幕間に千葉にそのことを放したら”フツーにやってるんですよ。流山児さんももうすこしフツーにやってくれたら”と笑っていっていたが、彼の演じるガーエフはなるほど一寸くさいが、この役は誰が演じてもうっとおしいのだが、流山児のは活気があって面白かった。池下重大のロパーヒンがそのフツーの演技で今の時代を生きている。伊藤弘子のワーリャも千葉の意を体していた。その中で塩野谷の存在感が底光りしていた。無論安奈淳のラフネースカヤが中心人物の貫禄を示す。
ニ幕目の幕開きは現代的なダンスシーンで始まる。それと対照的に下手に古典的な舞踏会の影絵が浮かび、、天井にゆらゆら光る玉が遊泳する。典雅で美しい情景だ。千葉の演出は精緻に細部を活かし、さらに思いきって強調すべきところはする。そのバランス感覚が素晴らしい。大概の「桜の園」では最後のロパーヒンとワーリャの別れはなんとなくすれ違ってしまうのだが、この舞台では濃厚なキスシーンがあり、それでも分かれてしまう。このほうが観ていて説得的ではある。ロパーヒンが何万べん説得しても、アrフネースカヤは桜の園を切り倒すことは考えることさえできない。
個人の思いの伝達不可能性、その根源的な不可避性ハアrフネースカヤとロパーヒン、ロパーヒンとワーリャあdけではなく、登場人物全員にあてはなる。その農奴解放後の不安定な社会が生んだ現象を、農奴制の貴族社会を懐かしむフィルースが冷ややかにみつめ、断罪する。チェーホフの覚めた視線を、千葉が現代に蘇らせ、一種の鎮魂の気配がみなぎる舞台だった。
『櫻の園』
@しのぶの演劇レビュー 〜愚かで、美しい若者〜 10年9月02日 高野しのぶ
現代的でかっこいい美術でした。舞台中央奥にある壁が倉庫の扉のように開きます。上手奥の壁に描かれた巨大なイラストは女の子の胸から下の部分かしら。選曲も奇抜でしたね〜。流れた時に「えっ?」と少し驚くけれど、納得のいくものでした。
何度も観てる『桜の園』。よく言われることですが、自分が年をとるにつれて気になる人物や、印象に残るシーンは変わっていくものですね。登場人物は老若男女そろっていますから、ずっとずっと何度も観続けられるんでしょうね。主要人物の誰を見ても「こういう人いるいる〜」と思 ってしまいます。今までに観たものと比べる視点でも楽しみました。
千葉さんの演出作品はいくつか拝見してきましたが、私はとても好きです。千葉さんご自身が俳優だからというのが大きいのでしょうけど、舞台の上にいる人たちに嘘がないように見えるからです。千葉さんの「今」と、役者さんの「今」をそのまま舞台に乗せるからじゃないかしら。そのままをさらすのが前提なので、出演者には過酷かもしれません。戯曲を出演者の身体にゆだねて、演出家があまりコントロールをしない場合は、好みが分かれる結果になることもあるかと思います。この作品もかなり好き嫌いがあるでしょうね。
チラシを見ててっきり下総源太朗さんがロパーヒン役だろうと思い込んでいたので、最初に驚きました。池下重大さんがっ、ロパーヒンっ!!期待を裏切らない素晴らしい演技でした。なんでいつもあんなにセクシーなんでしょうね、池下さん!
今回はラネーフスカヤ(安奈淳)の娘アーニャ(関谷春子)にしみじみしました。歴史を軽んじて、家を捨てて、未来ばっかり見つめている若者。親を乗り越えていくけれど、親を無条件に愛し続ける若者。愚かで悲しいけれど、美しい若者。 (後略)
「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」
@「テアトロ」 2011年2月号 〜2010年の力作。ラテン系の力強いお岩〜林あまり
編集部 今年はどういう一年であったと思いますか?
林 今まで話に出た中で私のベスト作品「裏切りの街」とイキウメの「図書館的人生 食べもの連鎖」以外の三つの芝居について言いたいと思います。まず「お岩幽霊/ぶゑのすあいれす」。これは、(社)日本劇団協議会主催で、製作は流山児☆事務所です。坂口瑞穂さんのなかなかの力作だったと思います。こんなラテン系(笑)の、力強いお岩さんものは、初めてです。流山児祥の演出で、ベテランが若い作家を支援し、育てていてる感じがしていいですね。
編集部 お二人は何度か一緒にやっていますよね、「ドブネズミたちの眠り」などもそうですね。
林 そうですね。坂口瑞穂さんは黒テントでやるときもいい作品を書くと思いますが、流山児祥と組んでやるときも面白い作品を書いていると思います。坂口瑞穂は黒テントの芸術監督でもありますし、今後も是非頑張ってほしいです。
「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」
@「文藝軌道」 2010年 10月号 〜坂口の新局面、蠢くニンゲン群像〜 野平昭和
鶴屋南北の「東海道四谷怪談」に、このような形で再会出来るとは思わなかった。
朝鮮事変(戦争)が始まって二年目のこと、明治座で、お昼前から夜暗くなるまで、通しで上演した歌舞伎の舞台を観る幸運に恵まれたが、丁度半世紀後の今日、昭和四十八年生まれの坂口瑞穂によって、その主人公の名を題名にした舞台に接し、感無量だった。というのも、この作が南北七十歳過ぎのものであることを知って、気持ちが悪くなり、書くことにとりつかれた南北をコワイと思った、という坂口の文をプログラムで読んだこともあって、あと三十数年で明治維新という幕末の、何でもありの崩壊期の江戸の姿と、坂口が南北の戯曲を下敷きにしながらも、敗戦後たった五年で始まった朝鮮戦争下の北九州の港町を舞台に新たに構築した世界が、見事に重なっていて、そこに蠢く人間群のおぞましさが蘇っているのに、筆者は脱帽したからである。
すでに「金玉娘」「ドブネズミたちの眠り」によって、この作者の並々ならぬ力量に感服していた筆者は、更に坂口の手腕の新しい面を見たのは嬉しかった。半世紀前に南北の原作そのものに魘された筆者としては尚更だった。
「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」
@
2010年7月30日 読売新聞 〜心揺さぶる人間の本性〜 臼山誠
舞台は朝鮮戦争{1950〜53年)の特需景気に沸く北九州の港町。暴力、殺人、強姦……何でもありの無法地帯である。
そこへ(大戦に出征していた主人公の男が復員してくる。しかし、再会した妻は娼婦になり、進駐軍の黒人の子を産んでいた。町では、朝鮮人のぐれん隊とやくざの抗争が日常化し、誰もが他人をけ落としながら生きている。男には自分以外に頼るものがない町が、戦場以上の地獄に感じられる。そして、彼をだまそうとする男たちによって妻は毒殺され、終盤の血で血を洗うような殺りく合戦のなかで本人も命を落とす。 けんか、男女の抱擁といった肉体のぶつかり合いや接触、暑苦しいくらいの言葉の掛け合いがこれでもかと続き、むせるような熱気がたちこめる。舞台のそのエネルギーに圧倒され、くぎ付けにされた。
これを、荒唐無稽だが楽しめるドタバタ劇と見てもいいかもしれない。だが、それだけか。法律、道徳などの社会ルール、保護するもののない無秩序な世界に放り出された人間たちの素の姿に、観客の心は揺さぶられもする。 生存するためだけに生きる、むき出しの生物的な生こそ人間の本質ではないか。残酷なエネルギッシュさが生の実相ではないか。そんな訴えを聞き取ることもできるだろう。それは、極限状態に置かれたとき人はどう生きるべきかという、有史以来繰り返し問われてきた問いでもある。
人間の本性は本当に救いがないものなのか。町の外から転任してきた巡査以外、すべての登場人物が死んで幕は下りる。立ち尽くす巡査の姿は、われわれ観客の姿でもある。
「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」
@ 「テアトロ」
2010年9月号〜永遠の課題、精神の廃墟〜 北川登園
一九五〇年に勃発した、朝鮮戟争の特需景気にわく北九州の港町。米兵の死体処理さえ庶民の生活の糧になる。
そんな港町で愚連隊とヤクザの喧嘩の最中、戦死公報が届いていた人斬り半次こと清水(谷宗和)が、幽霊の如く軍服姿で復員してきた。
彼には岩(阿萬由美)という妻がおり、彼女は妹のエリー(坂井香奈美)と共に美人姉妹を売り物に娼婦をして生活をしのいでいた。しかも、岩は黒人兵の子供を産んでいたが、清水は初夜のやり直しから人生の出直しを決意する。男の心意気がにじみ出る。
鶴屋南北の「東海道四谷怪談」をモチーフにしているというが、たとえ髪すきの場面をこしらえても、南北の"恨み"はなく、むしろ人間に対する"優しさ"さえ感じる。焼け跡の廃墟の中でヤクザと愚連隊の抗争は、お国のためから急展開し、生きるため、復興するためのエネルギーの爆発だとさえ思える。
清水にしてもブラジルでコーヒー園を経営する夢を持っているが、南北の「金が仇の姿婆世界」に翻弄されての岩殺しだ。二層の舞台で、上では清水と彼の上官の娘との盃ごと、下ではもぐりの医者(塩野谷正幸)に毒を盛られる岩。流山児の生と死の対比の場面は、静謐な美しさを湛える。 歌あり踊りあり、活劇ありのエンターティンメント作品だが、清水のポン友で朝鮮人の新井の言葉「戦争とか、人種とか、自分のあずかり知らんところで振り回されるのが嫌だ」が、ずしりと重い。今に続く永遠の命題だからだ。
「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」
@江森盛夫の演劇袋 〜ジェットコースター的B級活劇〜 10年6月30日
作:坂口瑞穂、演出:流山児祥、流山児★事務所、ザ・スズナリ。これは流山児にしかできない舞台だ。終戦直後、朝鮮戦争たけなわの時代の北九州の港町。地元のヤクザと朝鮮人の抗争に駐留米軍の日系二世がからみ、復員兵も混じって、米軍の物資を奪い合い、警察はすべてみてみぬふりをこめこんで、街はほとんど無政府状態。この街では女たちは体を売る以外生きてゆけない。坂口は南北の原作を踏まえて、お岩、お袖の姉妹をパンパンあがりの姉妹にして物語の中心に据えた。
開幕、流山児が「上海帰りのリル」を歌いながら、”パラダイス一座”の85歳の瓜生正美と伊藤弘子の老夫婦を連れて出てくる。塩野谷正幸の機能的で見事な美術、本田実の音楽が流山児の意を呈して、このジェットコースターのようなめまぐるしB級活劇を支えて、流山児の無頼の魂が全編みなぎる芝居が出来上がった。ヤクザの親分が本多チェーンの社長本多一夫。20代ら80代までの大勢の役者が活躍するこの舞台は、終戦直後の日本人・朝鮮人の活力を描き、歌や合唱の効果的な挿入は、流山児の特技であるレビュー演出の華、彼の真骨頂が横溢した実に楽しい舞台だった。流山児★事務所初出演の伊達暁が肺病病みのヤクザを演じて生彩を放ち、塩野谷・伊藤のベテランが舞台を締め、日系二世の米兵と「四谷怪談」の原作では伊右衛門の家の隣の金持ちに当たる役の二役を演じたさとうこうじが相変わらず面白い。
「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」 @「悲劇喜劇」〜テーマ性あふれる活劇エンターテインメント〜 山口宏子×河合祥一郎 10年9月号
編集部: 次は流山児★事務所「お岩幽霊〜ぷゑのすあいれす〜」ザ・スズナリ/作=坂口瑞穂/演出=流山児祥/美術=塩野谷正幸/出演=塩野谷正幸、伊達暁、伊藤弘子、さとうこうじ、保村大和、上田和弘、谷宗和、里美和彦、冨澤力、坂井香奈美、武田智弘、阿寓由美、荒木理恵、山下直哉、滝本直子、流山児祥、本多一夫、瓜生正美)をお願いします。日本劇団協議会の創作劇奨励公演に選ばれている作品です。
山口: タイトルから想像できるように、四谷怪談の人間関係をベースに置いた物語です。朝鮮戦争の頃の博多を舞台に、朝鮮人の愚連隊、日本人ヤクザ、警官、娼婦たちが入り乱れて生きています。 戦争で死んだと思われた男(谷宗和)が片腕を失って帰ってくる。これが伊衛門にあたる役です。彼の妻のお岩(阿萬由美)は、お袖にあたる妹(坂井香奈美)とともにパンパンをやっている。混沌とした街に「生きていた英霊」が帰ってきてドラマが動きだします。 黒テントの若い作家である坂口瑞穂さんによる台本では、伊衛門を悪者にしてないんですね。伊衛門はむしろ非常にいい人です。かっての上官から「うちの娘と結婚してくれ」と言われて、いったんはその気になったりはするんだけど。
河合:「俺には妻がいるから」と。
山口: お岩がいると言って、ちゃんと戻るんですね。むしろ悪いのは、妹の恋人(伊達暁)。肺を病んでいる朝鮮愚連隊の青年です。 恋あり、冒険あり、暴力あり、そこに戦争の傷が横たわっている。テーマ性もある活劇エンターテインメントとして楽しく観ました。「オールド・パンチ」出身の瓜生正美さんと本多一夫さんが出演していましたが、恰幅のいい本多さんはヤクザの親分役が堂にいっていました。瓜生さんの艶々としたたたずまいが、戦後を全身で表現していて、こういうキャスティングは流山児さんうまいなあと思います。塩野谷正幸さんが演じた、おそらく中国で731部隊にいたのだろうというあやしい医者が、影を抱えている存在でした。
河合:塩野谷さんは、何かを内に秘めた怖い雰囲気があって、舞台を引き締める存在感がありました。とくにお岩を毒殺してしまう場面は圧巻でしたね。
山口:四谷怪談でいえば宅悦の役どころなんでしょうが、道化っぼい感じはありませんでした。
河合:得体の知れない感じだね。
山口:いわゆるお岩の悲劇にせずに、全体に元気で押し切った感じはあると思いますね(笑)。戯曲も演出も含めてその元気が流山児★事務所。
河合:息も切らせず最後まで突っ走る演出はさすがだと思います。お岩さん役の阿寓由美さんに歌わせたりして、エンターティンメントとして成立させていますしね。さとうこうじさんと伊藤弘子さん演じる代議士夫妻が「娘と結婚してください」と人斬り半次に無理強いするとき、急に不思議な演技モードに入ったりするおかしさもうまく機能していた。役者のエネルギーがうまく発散されていて大いに楽しめました。
「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」 2010年7月11日
@熊本日日新聞 〜港町の青春活劇〜 文化圏
流山児★事務所の7年ぶりの公演が7月9日熊本市健軍文化ホールで上演された。鶴屋南北の「東海道四谷怪談」を基に、劇団黒テントの芸術監督坂口瑞穂さん=玉名市出身=が書き下ろし、流山児★事務所代表の流山児祥さん=荒尾市出身=が演出した。朝鮮戦争の特需に沸く北九州市の港町を舞台にした青春活劇。約200人の観客は、20〜80代の俳優陣による、全編九州弁のせりふ回しや殺陣に見入った。
「お岩幽霊〜ぶゑのすあいれす〜」
2010年7月8日 @西日本新聞 〜ギラギラした熱情〜 塚崎謙太郎
ギラギラした熱情をもてあまし、手なずけながら、生き急ぎ、疾走する男たちと女たち。目の前で繰り広げられているのは「芝居」であるはずなのに、彼らの人生を間近で目撃してるかのような興奮におそわれた。
戯曲は坂口瑞穂=熊本県玉名出身= 演出は流山児祥=同荒尾市出身=のコンビがつくりあげた、重厚で熱い群像劇「お岩幽霊ぶゑのすあいれす」(6月29日、東京のザ・スズナリ)に、舞台と客席を隔てる境界は存在しなかった。
1905年6月、朝鮮戦争の特需景気で活気あふれる九州の港町。戦死したはずの男(谷宗和)が10年ぶりに舞い戻ってくる。かつてこの町で「人斬り半次」と呼ばれ、お岩(阿萬由美)という妻がいた。だがお岩は生きるために体を売り、米兵の子どもを産んでいた。半次の友人、新井(伊達暁)は米軍トラックから物資を強奪し、地元の博徒と抗争を繰り返していた。お岩の妹、警察官、代議士、もぐりの医者、死体処理請負人も絡み合いながら「東海道四谷怪談」を大胆に翻訳した活劇は、悲劇へと向かっていく。
集団の歌と踊り、激しい殺陣も見どころだが、最大の魅力は個性の強い役者陣だ。20代から80代まで、層の厚い役者18人。その一人一人が熱を体から放ちながら、物語の世界に存在していた。半次役の谷を含む9人が九州出身であり、生きた九州弁がドラマを支えた。
60年前、これほどに人間は熱く生きていた。翻って、いまの私たちはどうか。ジェットコースターじみた活劇の興奮からさめたとき、受け取ったメッセージの重さに気付くだろう。
楽塾公演 「ほろほろと、海賊」
@ 江森盛夫の演劇袋
10年5月3日
13年目の楽塾の熟年女性メンバーは鮮やかに一皮むけた。舞台でどうどうと演技を楽しみ、全員芝居の腕も上がった。
佃の脚本も良くて、10数人のメンバーにそれぞれ見せ場をつくり、話の起承転結も無駄がなく、人物も話もぐいぐい客を引っ張った。最近ではオレには佃の最高の作品に思える。長野県の湖に浮かぶ水上レストランが閉店を余儀なくされ、伝説の名人シェフはカスピ湖の世界最高の岩塩を求めてアゼルバイジャンに行ってしまう。残された女給仕たちは男装して海賊になるしかなく、町の住人と対立するという荒唐無稽な話だが、一場一場が面白く、副人物たちも多様で飽きさせない。
みんなの腕が上がったから、ミュージカル仕立てにし流山児の演出も冴えに冴えた。歌を芝居のかすがいにしてスピーデイに芝居を運ぶのは流山児の独壇場だ。1時間20分のあっという間のジェットコースターだった。しかし、舞台に重みを与え支えたのは客演した肝付兼太と戌井市郎というパラダイス一座の重鎮だ。特に伝説の名人シェフを演じた戌井の当たりを払う存在感は畏怖さえ呼び起こす。
楽塾公演 「ほろほろと、海賊」
@演劇定点◎カメ
ラ まねきねこ
10年5月21日
舞台。斜めった柱がいくつか。壁際に倒れかかる板。 お話。斜陽のリゾート村。湖上にある海賊船を模したレストラン。幻の岩塩を探しに
カスピ海へ旅立った料理長を待つ間に海賊のよになってしまった女従業員。「彼ら」
を追い出し、記念館を建設しようとする役所と主婦達。海賊船を守るかのように潜む、怪獣がため容易には近寄れない。そんなところに謎の中年カップルがやってきて。
溢れる演劇愛、滋味ある役者と演技にほろほろするねこ。
歌とモブダンスが一杯の音楽劇体裁。急転する物語、散りばめた言葉とキャラ遊びがテンポよく繰り出され乗ってのせられて楽しい一時。達者な演技に、人生経験なのか滋味を乗せる役者達が とても魅力的。演ずることの喜びがダイレクトに感じられて、思わず微笑むねこ。
御大・戌井市郎さんの渋くも洒落た演技も○。オールドパンチの復活も予定されているらしく、また楽しみが増えたねこ。
楽塾公演 「ほろほろと、海賊」 @梁塵日記 10年5月1日
佃典彦の書下ろしを流山児祥が演出。カスピ海の岩塩を求めて旅立った伝説の料理長の帰りを待ちわびるうちに海賊に身をやつした湖上のレストランの女従業員たち。彼らを追放しようと画策する「記念館建設」の主婦連、湖に住み海賊を守る怪獣。そして謎の中年不倫カップル。 失礼ながら、平均年齢58歳、70代もいる素人役者の芝居には期待しなかった。93歳の戌井市郎さん目当てだった。が、戌井さんは体調不良で休演。残念。
が、ステージが始まったら、役者たちに釘付け。出だしは「なんだこりゃ」。素人とプロの役者の違いは舞台にどう立つか。その立ち姿が違う。どんなヘタな役者でもプロはプロ。舞台に違和感なく立てる。しかし、素人はそうはいかない。見ただけで違和感ありすぎ。確かに、いくら稽古したってしょせんは素人。ところがぎっちょん。芝居が進むうちに、うまいヘタじゃない、今その場で役を必死に演じている役者たちの存在感が異様に膨らんでいく。つまり、役者がうまくなるにつれ、どんどん捨てていった夾雑物の残滓が、彼らにはまだ残っている。その夾雑物が魅力となって観客を圧倒するのだ。
つまりは役者の存在そのもの魅力。これにはびっくりした。確かにうまい人もいる。というより、皆さん、芝居が達者だ。スピーディーな展開、言葉遊びによくついていける。その達者ぶりには、大笑い。近頃こんなに快い笑いをしたことがない。それもこれも、舞台で演じている役者たちの演劇への真摯な愛情が伝わってくるからだ。 ゲスト出演の肝付兼太さんや代役の流山児祥よりことによると上手い。
楽塾公演 「ほろほろと、海賊」
@ 芝居漬け
田中伸子
10年4月27日
「ひとは元気で楽しいものを見ると元気で楽しくなる」をモットーに13年目を迎える中高年劇団=楽塾。 このスローガンを掲げ、毎年G・Wの時期に定期公演を続けている「楽塾」、流山児祥率いるところの劇団が今回は本拠地のSpace早稲田で佃典彦による書き下ろし(プラスあて書き!?)の新作を上演。
歌あり、踊りあり、コスプレあり(??)、演劇界の重鎮ゲスト出演あり、の盛りだくさんの内容でスローガン通りの舞台を見せてくれた。
何と言っても楽塾の役者ありきの芝居なので、戯曲の意図は?作者の訴えたい事は??なんて堅苦しい事は言いっこ無し。はなから、とにかく役者一人一人を観て楽しんでくれ!!と言わんばかりのサービス精神いっぱいの1時間半。伝説の料理の超人、三ツ星鯛一郎(戌井市郎/流山児祥のダブルキャスト)の帰還を待ち続け、湖上にうかぶ落ちぶれたリゾート地のレストランで海賊になってしまった元の従業員たち、とその海賊船レストランを改造して地元の名士の記念館を建てたいと画策する市民団体のおばさん達。
舞台狭しと個性溢れるおばさま女優の皆様がたがテンポ良く、歌声軽やかに、軽妙なコメディを繰り広げて行きます。で、今回の目玉が何と言っても、流山児が率いるもう一つの高齢者劇団(こちらは劇団関係、演出家、劇場主など、の高齢者から成る)からの特別ゲスト、前述の戌井さんと肝付兼太さん、このお二人と楽塾女優陣との共演だろう。
絶妙なチームワークを見せている。
いつも観客席側にいると、どうも演劇は観るもの。という観念から抜けきれないようになってしまっているのだが、今回の公演では「演劇は自らやるもの」と考えても良いのでは?という、新鮮なメッセージを受け取る事が出来た。
演劇教育という理念の中にも、先日岩井秀人さんがインタビューでも語っていたように・・・・もっともっと演劇に関わる=自らで演劇を作る(鑑賞して批評するだけでなく)を積極的に勧めていくというアプローチが加われば良いなと感じた公演でした。
「標的家族!」 @「テアトロ」 2010年 6月号 フリンジ系評判記 浦崎浩實
「標的家族!」 はコワい芝居。
助けた相手の一家が日常的に受けているらしい世間からのいじめが、じわじわと主人公一家にも[感染]してくる。
なさそうで、ありうる現代社会の不気味な気流をホラー化した秀作。
「標的家族!」 @江森盛夫の演劇袋 2010年2月2日
佃のテクストがいい。鋭利で巧みで面白い舞台だった。特定の家族を標的にして、子供じみた悪意でその家族の不幸につけこんで一家を破滅させてしまう、今の日本人の徹底したエゴイズムの荒廃感が舞台にむんむん漂よった。小林の演出もきっちり佃のテクストを生かした立派なもので、美術の小林岳郎も狭い空間を驚くほど立体的に見せた。演技陣も客演の下総源太朗を中心に文句のつけようがない芝居に仕上げた。ただ、最後に近づくと、盛り上がりが過剰になって批評性が薄れてゆき、スペクタクルになってしまった感じが残
った。
「標的家族!」 @梁塵日記 2010年1月30日
佃典彦の作品を小林七緒が演出。
ある日、キノシタさんは地下鉄の公衆トイレの前で倒れている一人の男に声を掛けた。ノグチと名乗るその男は数日後、家族を伴いキノシタさんの元を訪ねて来たのだが、どうも様子が普通じゃない。ノグチさん一家はナゼか全員大怪我を負っているのである。ノグチさん一家の夕 食に招待されたキノシタさんはその後、ノグチさん一家の行方が判らなくなったことを知る。 謎めいたノグチさん一家であったが、その一方で世間から「不当なイジメ」を受け続けているスズキさん一家の存在を目の当たりにするのであった。それはまるで世間から標的にされているかの様である……。
世間の悪意の標的になる3つの家族。ナゾめいた動物カウンセラーがアリの生態を引き合いに解説。途中でタネ明かししてしまうのが脚本としては弱いか。
集団のストレスを拡散させるために、犠牲者を仕立て上げ、それを標的にすることで集団を守る。 アリと人間の相似形。
七緒の演出は手堅い。ただし、いじめのシーンをバックグラウンドで見せるところはもうひと工夫あってもいいのでは。後方の空間の使い方、演出がいまひとつ。
悪意を、そして犠牲者を連鎖させていく脚本は、ホラーの定石。下総源太郎、NLTの藤川恵梨はじめゲスト陣が面白い味。特に笑いを独占したのは平野直美。この女優はうまい。
「標的家族!」 @芝居漬け 2010年1月30日
佃典彦氏の書き下ろし新作。家族単位でいじめの標的にされたら?という被害者家族の状況を詳細に描いた内容で、不条理、かつ筒井康隆ノベルのようなブラックコメディの要素あり、でたいへん面白いものとなっております。
次世代を担う演劇人育成公演の対象となっている若手演劇人チーム(『演出:小林七緒』、音楽:諏訪創、美術:小林岳朗、主演俳優:木暮拓矢)が中心となり作っている舞台。そこへベテラン:下総源太朗、流山児事務所の看板娘:坂井香奈美などが加わり1時間20分、どんどんブラックテイストに加速していくバトルシーンをしっかりと見せてくれている。
アフタートークでボスの流山児さんがコメントしていたように、自前の劇場を知り尽くしている美術、小林さんがリアルに、そして効率よく作り上げた平均的サラリーマン家庭の家のセットが秀逸。
若手と中堅、大御所がそれぞれに役割分担してうまく稼働している(青年団なんかもその点でしっかり組織だって活動していますよね)中で、どんどん若い人たちに発表の場を与え、新しい息吹を演劇界へ注入するってと〜〜〜っても大切なことですよね。
だって、いくらがんばったって人の寿命なんてたかだか100年もてば奇跡。だったら、どんどん継承していかなければ、、大きなものは達成出来ません。
「田園に死す」 雑記帳(1)
@ 「もずくスープね」2009年12月23日 あんどうみつお
And life is like a dream
Dream
The dream I long to find
The movie in my mind
(ミュージカル「ミス・サイゴン/The movie in my mind」より)
◆
もし寺山が生きていたら74歳の誕生日となったであろう2009年12月10日に、流山児★事務所『田園に死す』(原作:寺山修司、脚色・構成・演出:天野天街、音楽:J・A・シィザー、企画・出演:流山児祥)が開幕した。寺山修司の監督した長編映画『田園に死す』(制作・原作・台本・演出:寺山修司。撮影:鈴木達夫。音楽:J・A・シーザー。美術:粟津潔。意匠:花輪和一。出演:八千草薫、春川ますみ、新高恵子、高野浩幸、菅貫太郎、他。制作:九条映子、ユミ・ゴヴァーズ。配給:ATG)が公開された1974年(昭和49年)12月28日からは、約35年後にあたるタイミングでもある。
映画『田園に死す』は、通常「寺山の自伝的映画」と紹介されるが、注意すべきは、けっして自伝映画ではないということだ。あくまで自伝「的」、あるいは自伝「風」映画である。「私」の過去を映画にしようとするものの、そこに真実を描かなかった現在の「私」が、過去の「私」に真実を伝えようとするメタ・ムーヴィーである。しかし、そこで語られる真実もまた、実は真実ではないということを、現在の観客たるわたしたちは知っている。
◆
「これは一人の青年の自叙伝の形式を借りた虚構である。われわれは歴史の呪縛から解放されるためには、何よりも先ず、個の記憶から自由にならなければならない。この映画では、一人の青年の“記憶の修正の試み”を通して、彼自身の(同時にわれわれ全体の)アイデンティティの在所を追求しようとするものである」(寺山修司/「『田園に死す』演出ノート」より)
◆
「終わったことは全て虚構に過ぎない」「歴史はどうにでも組み立て直すことが可能である」と考えていた寺山は、自身の過去も映画の中で組み立て直そうとする。しかし、組み立て直そうとしても完全に組み立て直しきれない「私」もまた、映画の「私」の中に、そして作者=寺山自身の中に潜んでいるらしい。
◆
「どこからでもやりなおしは出来るだろう。母だけではなく、私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎないのだから。そして、これは、たかが映画なのだから。だが、たかが映画の中でさえ、たった一人の母も殺せない私自身とは、いったい誰なのだ?!生年月日、昭和49年12月10日、本籍地、東京都新宿区新宿字恐山!!」(寺山修司/『田園に死す』シナリオより)
◆
この映画を通じて、あるいはこの映画のベースにもなっている彼の自伝的歌集(もちろん、これも自伝を装った自伝「的」歌集である)『田園に死す』において、寺山は、「私」の解体を試みる。では、なぜ「私」は解体されなければならないのか。それは、「私」=「自我」の重力に呪縛されていたからである。その背景には、「死」と隣り合わせの健康問題、母親との複雑な関係性、などなど、寺山ならではの特殊な事情が色々あったと考えられる。そんな「私」を解体し、自由になるために、寺山は、映画という表現媒体を夢のように機能させたのではないだろうか。
自身の欲望やら原風景やら幻視的オブジェやら現実的記憶やらを、フィルムの中に織り込んでみせた。フェデリコ・フェリーニの『8
1/2』や『アマルコルド』の手法をさらに過激に推し進めたともいえよう。これによって、たしかに「私」の解体は進められたのかもしれないが、本当に個の記憶から自由になったといえるのだろうか。そのことでますます「私」の内的な全体像が浮かび上がるというパラドックスが生じたとはいえないだろうか。かくして「私」はいよいよ謎を深めるばかりなのだ。
とはいえ映画『田園に死す』は、寺山修司があらゆるジャンルで繰り広げた表現活動の中でも、最高峰の作品と一般的に評されている。彼の思想や方法論さらには内面的主題が詰め込まれているうえ、ヴィジュアルも音楽も撮影も、すべて独特で完成度が高い。公開当時、キネマ旬報1975年日本映画ベスト10では、第1位『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』監督:新藤兼人(ATG)、以下、第2位『祭りの準備』監督:黒木和雄(ATG)、第3位『金環蝕』監督:山本薩夫(大映)、第4位『化石』監督:小林正樹(東宝)、第5位『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(松竹)といった名作群のひしめきあう中、『田園に死す』は第6位につけている。尋常ならざる幻想実験映画としてはまあ健闘といってよいかもしれぬ(それにしてもATGの多いことよ)。
わたしは、公開から4年後、たまたま学校をさぼり観た。うぶで多感な高校生にとって、これほど圧倒された映画は他になかった。以来、現在に至るまで生涯のベスト1映画である(流山児祥氏に言ったら「変わってるねえ」と言われた)。この映画をきっかけに、寺山の他の映画や演劇(劇団天井桟敷)なども観るようになるが、『田園に死す』を超える衝撃はなかった。併せて、J・A・シーザーのことも、音楽の仕事を中心にそこそこ追っかけているが、わたしの中での最高傑作はやはり『田園に死す』の音楽なのだ(ジャパニーズプログレファンの間では御詠歌ロックの金字塔なども言われているらしい)。映画を観た頃には既にサントラ盤(アナログレコード)は入手不可能だったが、大学に入ると増山さんという先輩が所持していることを知った。そこで無理を言ってお借りし、テープにダビングさせてもらった。以来、2002年8月にデジタル・リマスタリングでCD復刻されるまで、20年近く、自分にとっては最も貴重な音源として大変役立っていた(親切だった増山先輩には改めて深謝!)。
「2009年12月に流山児★事務所で天野天街が寺山修司作品を手がける」、しかもそれがわたしにとって最も愛着の強い映画、『田園に死す』だと知らされたのは1年ほど前のことである。わたしの心境は少々複雑だった。『田園に死す』は、過去にも幾度か舞台化されたことがある。わたしは、その中の1つ、劇団☆APB-Tokyoの上演を3年前に観たことがある。寺山への熱烈なリスペクト精神が、この難物に挑む心意気やよし、されど、戦略性の乏しい分、どうしても粗がめだってしまい、ノスタルジーの域を超えるものにはなりえてなかった。まあ、そういうものはまだ微笑ましい。しかし、天野が手がけるとなれば、微笑んでもいられない。というのも、天野天街は、わたしが最も強く興味を抱き続けてきた演劇作家だからだ。
天野天街。名古屋を拠点に、劇団少年王者舘を主宰。極めて独特な作風の舞台作品の劇作・演出を数多く手かげてきた。また、もともと自劇団のチラシのために始めた独自のコラージュ美術が注目され、数多くの演劇公演の宣伝美術や、書籍の装丁に起用されている。さらには、映像作家としても活躍。なかでも1994年監督作品『トワイライツ』はオーバーハウゼン国際短編映画祭で日本人としてグランプリ初受賞(ちなみに寺山修司は1975年のオーバーハウゼン映画祭において『迷宮譚』で銀賞)。このように、ハイブリッドな多面体というべき天野天街が、寺山という大いなるハイブリッド多面体の、集大成とも結晶体とも称せられる映画作品を、一体どのように扱うというのだろう。まず、そう思った。
天野はかつて、澁澤龍彦『高丘親王航海記』、鈴木翁二『マッチ一本ノ話』、しりあがり寿『真夜中の弥次さん喜多さん』の舞台化において、原作の風味を損ねることなく、大胆に自らの演劇ワールドへと移植/転換/翻訳させることに成功せしめている。とはいえ、今回の取り組み相手は、寺山修司の映画『田園に死す』という、相当に手強い難物ではないか。…しかし、である。天野の思考回路は、まるで「夢」の如し。作劇においても「夢」の技法を駆使することで、「夢」的な原作を、舞台上の「夢」として描くことを可能たらしめてきた。
もちろん天野のソレは、陳腐で凡庸な「夢」的表現とは一線を画す。フロイトは「夢」の仕事の例として、置換・圧縮・視覚化・象徴化などを挙げたが、これらはとどのつまり「夢」の「編集」作業と呼べるだろう。天野は、自らまるごとマルチな「編集」アプリケーションソフトと化して、ストーリー、台詞、美術、音、文字、身体、さらには時間、空間、記憶、演劇的決まり事に至るまで、あらゆるリソースを、編集可能なマテリアルとして扱うことで、大胆な「編集」作業を進める。そこでは時間を行ったり来たりさせることなど当たり前。一人の登場人物が複数に分裂するなども日常茶飯事だ。切ったり貼ったり読み換えたりひっくり返したりのコラージュ的「編集」作業の過程において、事物に潜む思いがけない本質が偶然浮かび上がってくる。それらをさらにつなぎあわせて、リアルな夢の感触を構築する。そうなるまで、たとえ「遅筆」の誹りを受けようと、天野は執拗なまでに、「編集」を繰り返すのだ。すなわち、彼こそは「夢の編集職人」であり「偏執狂的編集狂」なのである。
そこで思い出されるのは、寺山修司の諸作品もまた、コラージュ性ないし「編集」性に満ち溢れていることである。いまや国語の教科書にも載るほどに有名な「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国やありや」(第一歌集『空には本』「祖国喪失」より)という歌も、富澤赤黄男の俳句「一本のマッチをすれば湖は霧」「めつむれば祖国は蒼き海の上」をコラージュしたものではないかと言われている。そのため盗作問題にまで発展したこともあったが、結果的として圧倒的に強烈な印象を人々に刻印したのは寺山の「マッチ擦る…」の短歌のほうであって、つまりは卓抜した「編集」能力の勝利といえる。天野との違いといえば、寺山の仕事のほうが、諸局面において教養人・知識人としての意識的な力を感じる。天野のほうは幾分、無意識的な作業の中から思いがけない偶然の効果を生み出すことが得意のように見受けられる。
ともかくも、寺山という編集職人の仕事を、天野という編集職人がさらに「編集」すると、どうなるのか。しかも『田園に死す』は、寺山において映画=夢ともいえる。その夢の土俵で、夢職人たる天野はどのような戦略を描き、どのような仕掛けを発動させたのだろうか。
◆
昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかって
完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森県浦町字橋本の
小さな陽のいい家の庭で
外に向かって育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを
子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ
(寺山修司「懐かしのわが家」より)
◆
寺山修司は、映画『田園に死す』が封切られてから約8年半後の1983年(昭和58年)5月4日午後12時5分に、阿佐ヶ谷の河北総合病院にて死んだ。常に「死」と隣り合わせだった寺山にとって、それは「完全な死体」になることだった。その一方で、彼は「世界の涯てが自分自身の夢の中にしかない」とも書いた。そこで天野がまず企てたのは、寺山の夢=映画の内側に入り込み、「世界の涯て」=寺山の死の瞬間に時計の針をセットしたことだった。そうして、果たして本当に夢の中に「世界の涯て」があるのかどうかを問うたのではないだろうか。
「田園に死す」 雑記帳(2)
@ 「もずくスープね」2009年12月23日 あんどうみつお
映画『田園に死す』が、寺山修司自身による短歌朗読で始まることはあまりに有名である。一方、流山児★事務所の演劇版『田園に死す』は、思いがけない始まり方で観客を呆然とさせるのであった。
場内アナウンス「本日はご来場くださいま(して…)」の「ま」の音に頭の音がかぶさりながら「マッチ擦るつかのま」という台詞が突然発せられると共に、実際にマッチが擦られることによって暗闇に束の間の演劇空間が垣間見える。と、続いて「つかのま」の「ま」にかぶせれられるように、別の俳優によって「マッチ擦るつかのま」が発せられ、さらに別の俳優へと次々に連鎖してゆく。こうして、みるみるうちに舞台上には「マッチ擦るつかのま」の「間」=「演劇空間」がどんどん穿たれてゆき、続いて、その他の寺山短歌群が洪水のように詠み出されれることで観客は、寺山をめぐる劇世界の中に、否応なく吸い込まれてゆくのだ。
そして遂に映画冒頭の寺山修司の声が舞台に降りてくる。「大工町米町寺町仏町老婆買う町あらずやつばめよ」「新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥」(歌集『田園に死す』より)。こうして観客に少しも息を継がせぬまま、舞台は映画『田園に死す』の主題歌、J・A・シーザーの最高傑作「こどもぼさつ」の、全劇団員による合唱に突入する。
寺山ファンならば、天井桟敷の『盲人書簡』における、苦力が次々にマッチ擦る場面と融合するように、かの有名な「マッチ擦るつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国やありや」の一節が、かくも効果的に使われることに早くも感銘を受けるかもしれない。天野天街のファンならば、『マッチ一本ノ話』『マバタキノ棺』を頭によぎらせながら、瞬間の中に永遠を宿らせる儀式に、進んで己が身を投じるかもしれない。ともあれ、われわれ観客は、あれよあれよという間に『田園に死す』の世界へと引きずり込まれてしまったのである。
そこからしばらくは、映画『田園に死す』の流れに沿いながら物語が進行してゆくと見せかける。が、細部においては忠実ではない。主題歌明けての、最初の場面、故障した柱時計をめぐる主人公シンジの母と隣家の主人のとめどなく反復する会話。天野は柱時計と共にそこに流れる時間自体をも壊してしまうのだ。
観客はこの段階から、線的で一方通行的な現実の時間感覚を、徐々に失わされてゆく。その後も、この種の反復が随所に差し挟まれてゆくことで、観る者は、知らず知らずのうちにアナクロニスム(時間錯誤)の森に、奥深く、迷い込まされることとなるのだ。その頃になると、「昭和五十八年五月四日。敗血症」とか「あと三十五年…やりたいこと…やるんだぜ」といった、不吉な臭いのする言葉がさりげなく囁かれるのをわれわれは耳にするようになる。
寺山修司は、事実として昭和五十八年(1983年)五月四日、敗血症で47歳で死ぬのである。そして、芝居の主人公シンジは、「東京タワーは昭和三十三年(1958年)に建つ、まだ十年も先のことだよ」と語ることによって、とりあえず今、昭和二十三年(1948年)に生きていることがわかり、寺山修司の年表に照らせばそれは12歳ということになる。つまり寺山が死ぬ47歳まで、あと「三十五年」なのだ。
そのことに気づくならば、舞台中央の、壊れた柱時計の針がずっと同じ時刻に止まっていることに誰かが注目するかもしれない。12時5分。それは寺山修司の死亡時刻である。この演劇作品は、寺山修司が阿佐ヶ谷の河北総合病院で死んだ12時5分、その直前の刹那=マッチ擦る束の間に展開した「夢」であると、そのように設定したと、見てとれるのだが、どうだろう。
そう意識した頃には、主人公シンジの住む村にサーカス小屋がやってくるのだが、原作の映画『田園に死す』のサーカス小屋シーンとは少々異なる話が展開されてゆくことに、われわれは「おや?」と思う。ここでは、一人の人物が二人に分裂・増殖する(実際の双子の俳優がつかわれる)スケッチや、(寺山が少年期に愛読したという)明智小五郎と小林少年率いる少年探偵団が登場するスケッチ、また、役者を演出する演出家のスケッチ、などが描かれる。
少年探偵団は、団員の一人<ゼンマイ仕掛けの腹話術人形>がはぐれてしまい、団長の<小林少年>がそれを探そうとする。<小林少年>は無線トランシーバーを通じてその声を<ゼンマイ仕掛けの腹話術人形>の口にとばすことができる。<ゼンマイ仕掛けの腹話術人形>は<ワタシの本体であるワタシ>=<小林少年>を探さねばならないのだが、<小林少年>の言葉が口から出てきてしまうために、うまく<小林少年>を探すことができない。一方、<小林少年>は、すぐ後方に来ている<ゼンマイ仕掛けの腹話術人形>が、自分の声と同期してしまっているので、それと気づかずに前方を探し続けてしまう。こうしてこの二人は、それぞれ探す対象を探しあてることができないまま、周辺をぐるぐると、とめどなく回り続けることとなるのだ。この状態は、映画『田園に死す』における「私」探しの主題とも大いに関係するものではないか。だとすれば、劇中の<作者の分身>は<作者>を探すことができるのか。
次に、役者の演技にダメだしする<演出家>、しかしその<演出家>は、実は<<演出家>を演じている役者>であり、彼の演技にダメだしする<別の演出家>が現れる。しかし、その<別の演出家>も<<別の演出家>を演じている役者>であって、その演技にダメだしする<さらに別の演出家>が現れる。しかし、その<さらに別の演出家>の演技もまた、いままでの役者たちがダメ出しをする。マトリョーシカのような入れ子構造が、いつしか円環構造を形成するのである。実は、この種の円環構造が、この芝居の大きな鍵を握ることになることを後にわれわれは思い知らされるのだ…。
こうして、<異界>=<外部>から訪れたサーカス小屋でシンジが出会った体験は、この後の劇の新たなる展開に向けた、通過儀礼とも煉獄体験ともいえそうだ。この後は、原作映画からのストーリーの乖離がますますエスカレートする一方で、寺山修司の色々な作品の断片や、彼の生涯や死にまつわる断片が、次々に闖入し、虚構と現実が入り乱れて、天野的流儀でコラージュされてゆく。さしづめ、サーカス小屋は、ある意味、寺山ファミリーの<外部>であり<他者>である天野が自分のドラマトゥルギーを全開にするキッカケを示すための装置なのではなかったろうか。同時に、それ以降は、寺山修司が死の床の夢で見ている走馬燈世界が、舞台上にどっと流れ込んできたようにも見えた。
「田園に死す」
@
「文藝軌道」 2010年4月号 「2009年秋から冬の舞台 劇評」 野平昭和
一九七四年、寺山修司自身が製作した映画「田園に死す」が公開された時、奇妙な異和感の中で見た記憶が蘇ってきた。
それまで舞台を通じて、あるいは活字で、幾度となく寺山自身が語ってきた (もちろんフィクションを混えてだが)世界を、「記憶」というキーワードを使いながら更に新しく自伝を綴った作品として、これほど贋の自伝を手を変え品を変え作り続ける寺山の情熱に、却って傷ましいものを覚え、共感から遠退いたさびしさを味わったからかもしれないと思ったからだった。
荒筋を書けば、母ひとり子ひとりで恐山の麓に暮らしている少年が、母と衝突しては恐山のイタコに亡き父の霊を呼び出してもらって父と話すために出かけ、一方、隣の家の若妻が好きになり、二人で家出をしてしまう、という話を、映画監督の自分が作っている自伝映画として見せる仕立ての話である。青森の市街が恐山の麓に変った、……というようなフィクションのことではなく、カメラというものは、山も樹も草も線路も、少年も、人妻も、その細部の不必要な部分まで撮り込んでしまうので、嘘と真実の差異は消えてしまい、映像上はすべて真実に転化してしまうことの、異和感と空しさが逆に観客にしっかり伝えられてしまうのだ。
まだ四十前の若い身空で、生臭い母を抱えた身では、記憶をナマのまま復元出来ないもどかしさの中で製作されたにちがいない、と勝手に決めてから十年も経たないうちに、本当に四十七歳で世を去ってしまった寺山の遺作自伝映画を、まったく異なる視点から、遥か後代に生を受けた天野天街が再構築した舞台であることを知り、それこそ古い記憶とは無縁の、新作に接した時と、同じ気持ちで見られた。 寺山が今、この新作を見たらどう思うだろうと考えたのも一興だった。
企画の流山児祥の言葉によれば、映画「田園に死す」=「詩と死と私」の幻想世界を《現在の視点》で大胆に批評・シャッフルし、言葉と身体と映像の「『世界が眠ると言葉が目をさます』叙事詩劇として見事に再編集した。」とあって、なるほど、と舞台の成果と重ねて納得した。そしてそれこそまさにアングラ演劇の王道 (予盾した言い方だが)だ、と感心した。
寺山がこだわって描き切れずに歯切れ悪くもたつく淀んだ世界(戦争、父の戦死、農村、東京、「身を捨つるほどの祖国」、「悲しき口笛」等の)の沼から這い上がれない記憶の世界とは無縁の、SF的、無機質の、ぴかぴか光る冷たい世界の(まさに今の世の)、「振り落とされないようにご注意」と警告された舞台だった。
寺山と同じ淀んだ沼でもがいてきた老観客である筆者は、ただ呆然として舞台を眺め、蹌踉としてザ・スズナリを後にしたのだが、新三次元映画まで出現した現在、映像、群舞、暗黒、光のメカニックな世界に情念の世界を解放した舞台として、寺山作品が内包していた核の部分が拡大解放された成果と捉えれば、寺山の霊も浮かばれる筈だと信じたい
「田園に死す」
@
「
テアトロ」 2010年3月号 「劇評 歯ごたえのある舞台」 丸田真悟
流山児★事務所の「田園に死す」 (原作/寺山修司、脚色・構成・演出/天野天街) は一九七四年公開の同名映画を下敷きに舞台化したもの。映画は、母親と故郷からの逃避とその失敗を描いた自伝的性格の強いもので、現代の自分が過去の自分に遡り、それを自伝として映画に撮る過程を映画にするという二重三重のイメージのコラージュが独特の映像美で表現されていた。
この極めて芳醇で堅牢な寺山の世界を、天野は個の肉体と言葉を捨てて、集団の身体と音声によって独自の演劇空間として立ち上げた。
群衆が暗闇の中でひとりずつマッチを擦っては言葉を吐き出す幕開き、あるいはひたすらに同じ台詞を繰り返す場面、次から次に寺山のキーワードをしりとりのように繋いでいくラストシーン、さらに舞台全面にカラスの群れが飛び回る映像の中で俳優たちが語る場面や地面の穴に吸い込まれていくシーンなど、群衆処理と映像的手法に巧みな天野の演出は寺山との資質の親和性を感じさせる。また、映画では見せ物小屋の奇怪な人間たちが独特のキッチュな印象を創り出していたが、舞台では全員で歌い踊るシーン (音楽/J・A・シィザー、振付/夕沈)が観客の緊張を解してくれる。
「田園に死す」
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「悲劇喜劇」 2010年3月号 「2009年演劇界の収穫」 高橋敏夫
「田園に死す」(寺山修司原作、天野天街脚色・構成・演出、流山児★事務所)最初から最後まで執拗に「反復」を炸裂させる天野天街(脚色・構成・演出)のくわだてに、流山児祥をはじめ流山児★事務所の不逞の輩がひとりびとりの炎をかかげ騒然と合流、寺山修司版「自同律の不快」を今に赤々と燃えあからせる。やりなおせ、やりなおせ、性懲りもなくやりなおせ、というメッセージが、寺山おなじみのおわりがはじまりの曙光へと変じ、劇場スズナリの急傾斜の階段を舞台中央に照らしだす意表をつくラスト、劇場は一瞬の沈黙ののち深い感動につつまれた。
「田園に死す」
@
「公明新聞」 2009年12月18日 〜寺山修司の演劇的手法と生きざまをクリティカルに描く〜 今野裕一
流山児祥のプロデュース、天野天街の脚色演出・構成、そしてキャラクター豊かな38人の役者たち。
オーディションによって役者を集め、さらに長期間の稽古をして初日を迎えた。
天野が主宰する少年王者舘の劇団員でもないのに、あの独特の幾何学的ダンスを38人が見事なアンサンブルで踊っていることでも稽古充分は見て取れる。それだけでもまず見る価値がある。これが演劇というものだ。
舞台初日は、寺山修司の生誕日、本当に良い供養になる。芸術家への供養は、作品の先鋭性を理解しそれを乗り越えようとする姿勢で成り立つ。愛で敬っているだけでは駄目なのだ。寺山修司の映画『田園に死す』を戯曲に書き換え、今の地点から寺山修司の演劇的手法と生き様をクリティカルに描く。それでいて面白い。
とてつもないことを天野天街はして見せた。もちろんこの成功には、流山児祥のプロデュースの力も大きい。
流山児祥は、今回、役者としても舞台に上がっているが、なんとも良い演技だ。
長い間、劇団を率いてプロデューサーとしても活躍している。にもかかわらずそのキャリアがないもののように新鮮に舞台に上がっている。その時、舞台での経験は不思議な昧になってでてくる。
流山児は若手の劇団の活動にも積極的にコミットしている。同じ地べた、同じ板の上に立ってつきあっている。なかなかできることではない。その視線で天野を選び、寺山を見ている。天野天街の舞台演出は、もともと映画的な手法や文法を演劇に持ち込んだものだ。
映画『田園に死す』を舞台にするのは、まさに水を得た魚のようなもので、寺山修司という虚構をこよなく愛した演劇人を何人もの寺山修司、何人もの寺山の母を登場させて寺山ワールドの表裏を見せている。
『ハイライフ』
2009 年9月24日(木) @ マカオディリー 『ハイライフ』が吹かせた暴風 李宇樑
最近の観劇経験から、面白い芝居が見れるかどうかは本当に「運」にかかっていると感じている。探していてもなかなか見つからない。ヒューコック実験室で上演された『ハイライフ』のように。これを見逃した演劇人は遺憾には思わないかもしれない、が、それは損失に値するだろう。
『ハイライフ』はカナダのリー・マックドゥガルが10数年前に書いたブラックコメディーである。その内容は暴力、ユーモア、荒唐無稽、色々なものが含まれている。1996年、トロントの初演以来、何度もカナダで上演され、今回は日本のアングラ劇団流山児★事務所によって、カナダバージョンと日本バージョンという二つのスタイルの作品をマカオに持ってきた。私が見たのはカナダバージョンである。
劇場に入ってみると舞台後方には大きな銀幕がかかり、ハリウッドの60年代の白黒映画が放映され、まるでハイライフの予告編を観客に見せているようであった。
物語はディックの銀行強盗をして大もうけをしようと言う計画に始まり、バグ、ドニーそしてビリーをそれぞれを説得する。4人の性格の違いは鮮明である。4人の共通点はモルヒネを嗜好するという点だが、お互いの間で摩擦が起こる。デックの計画は天衣無縫聞こえるが、バグは毎回牢屋に入ることになる。今回の計画も同じだ。銀行のATMが壊れたと言い、そこに武装をしていない修理屋が来ると、ATMのお金を奪おうというのだ。4人が車の中で待つプロセスの中でたくさんのユーモアとブラックユーモアが起こる。観客はお腹を抱えて笑っていた。例えば車のそばを警官が通る時、駐車違反だと疑ったり、免許所を持っていなかったり。そして最後に4人は対立し、凶暴な性格のバグは事なかれ主義のビリーを殺してしまう。ディックの命令の下、全ての罪を気が小さいドニーに押しつけてしまう。皮肉なことにディックはずっとドニーにバグから守ってやると言っていた。観客は彼らの性格的矛盾と葛藤のプロセスの中で、滑稽荒唐が暴力兇暴へ変化することを目撃する。荒唐無稽と演劇の張力を十分に表現しているのは、演出家・流山児祥の功労なのである。
『ハイライフの』セットはとてもシンプルで、多くのシーンは役者の動作で表現される。車の中でのシーンは丸椅子が4個あるだけである。その体と動作で観客に車のイメージを与える。正確な効果音が車の設備を描写する。四人のジャンキーは、小劇場のなかで幾度となく薬を注射し、観客は本当に打っていないと知っていても、身が痺れる思いを体験する。
3人の役者は50前後の中年であるが、敏捷な動作はとても細かく的確で、パワーがみなぎっている。その中でもドニーを演じる保村大和は特に表情が豊富で、目の表現が印象に残っている。
『ハイライフ』の作・演出・俳優・スタッフ共にハイレベルが結集しこのような感動を作り上げた。さらに小劇場という共鳴空間で直接観客の腎臓に暴風を吹かせた。
『ハイライフ』 2009年9月27日(日) @
文匯報 ─《高級生活》日本の小劇場『ハイライフ』を語る 文:陳國慧
ここ数年、香港・牛棚劇場で2本の日本の小劇場作品を見た。去年は日本小劇場第2世代の流山児祥が率いた寺山修司の『狂人教育』、その前にはパパ・タラフマラがチェーホフを元に作った『三人姉妹』。これらの作品はそれぞれに特色を持ち、期せずして日本の俳優のすぐれた肉体や炸裂するパワーを見せてくれた。これらの公演は小劇場空間に人の魅力を放出した。『狂人教育』はマカオから香港に見に行く観客もいた。が今回流山児が率いた『ハイライフ』は香港では見れず、マカオで、もしくは台北でしか見る機会がなかった。
流山児がマカオのアングラ空間に出現のは意外なことであった。香港の牛棚劇場は今では観客や演劇人に認知され、自主的な実験の場所となっている。香港では牛棚劇場以外にも最近は工業ビルや喫茶店などで、小劇場の可能性が試されている。が、マカオ(の小劇場)では、(演劇実験というよりも)むしろ公立の劇場が少ないという政治的意味が濃い。独立した表現空間を自分たちで作らなければいけない。牛房倉庫、窮空間、暁角実験室などはすでにマカオのアングラな表現空間として、青少年の新作を支持し、よく利用されている。また近年行われているマカオフリンジも都市空間の中で表現空間の可能性を探っている。
今回、『ハイライフ』は暁角実験室で上演された。マカオで30年の歴史をもつ空間である。この空間には沢山の制約がある。床と天井の距離、照明設備など。しかし小さな公演をするのには、観客という要素をどう芝居に介入させるか、調節するかなどで、作品に違った色を発揮させる可能性がある。
『ハイライフは』原作がリー・マックドゥーガル、カナダの俳優であり劇作家である。作品は4人の社会底辺の人間が、完璧な銀行強盗をして大金を手に入れ、それぞれが夢の『ハイライフ』を過ごせることになっているというものである。資本主義社会の犠牲となり社会の中での敗者は、麻薬を提供することで同じ空間を共有し、混沌とした空気と暴力的な言語でコミュニケーションを取り、暖を取る。これは大都市と都市の人々に潜んでいるものである。演出はそれに慈悲を施すことなく、媒体に操られている社会の敗者の悲哀を、「ハイ」というユーモアを持って、「社会底辺」という定義を引っ繰り返している。
演出家はこの小さな空間で最強であり、最も原始的な生命力を呈している。例えば、病気だらけのスリのドニー(カナダバージョンでは保村大和が演じる)は非尋常的な自嘲能力を持ち、自分を理解すると同時に、他人に笑われ人に踏みつけにされ、最小限の生きるための尊厳しか持っていない。彼らがハイライフを夢見れば見るほど、彼らの現実生活の惨めさが際立ち滑稽なものに見える。計画が最後に失敗して、ドニーは一人刑務所に入り(観客に)色々考えさせる。社会底辺の生活は一体本当に存在の実感とパワーがあるのだろうかと。
流山児は日本の小劇場の第一世代の唐十郎や鈴木忠志の洗礼を受け、小劇場に存在する抗争パワーと再考意識を信じて、また社会問題を取りあげて、それを同時に劇場で実践する。たとえば年長者の劇団は消費主義が日本の小劇場を侵食していることへの抗争創作である。
小劇場で何ができるのか?作品を通して(演出の)技量を見せると同時に小劇場では俳優の個性と長所を発揮させながら、演出家は演出処理を実践していかなければならない。俳優を輝かす、これが小劇場で一番かっこいいことである。『ハイライフ』(カナダバージョン)の4人の俳優のパワー、テンポの調整はお互いの間での暗黙の了解となっている。また俳優だけではなく、音響、照明とも合っていて、車の中での濃厚な空間と緊張感を発揮できている。ドニーを演じる俳優は事の外、素晴らしく、現場にたくさんのユーモアを生み出した。が、観客が一番笑っている時こそが、一番(自分の生活を)再考しなければならない瞬間であった。場末の表現空間で、社会の敗者の芝居をする、本当は誰が敗者なのか?これが流山児祥がマカオと香港の小劇場に残した啓示なのである。
「ユーリンタウン」 @ 「文藝軌道」2009 10月号 野平昭和
「座・高円寺」という小さいが工夫して創られた新劇場で、五月二九日〜六月二八日まで一ケ月の間ミュージカルが、流山児事務所創立25周年記念公演として行われた。
これだけでも私が興味を持ったのは、全国各地にロングランして廻り一万円の入場料で多勢の観客を吸収している「四季」を思い浮かべないわけにいかなかったのは、ミュージカルとあったからである。入場料は半額、場所は狭く、しかもミュージカル初めて、とあっては、開幕前から、どうなることか、という興味というか、心配が先に立ってしまったのだ。結果を先に書けば、すべて杞憂に終り、逆に、商業ペースではないミュージカルの原点に接したのだ、というすがすがしさの気持さえ噛みしめて新劇場を後に出来たのは収穫だった。
お話は至って単純で、近来来のある日、水が極端に不足してきて、この町でも節水のため小便まで管理されることになり、(ユーリンとは小便ということ)特定の有料トイレの他は使用禁止で、禁をやぶれば、処刑、実は小便管理会社社長(塩野谷正幸)と政治家と警察は同じ穴の狢なのである。
貧しい民衆が小便も出来ずに倒れて行くのに抗して起ち上ったボビー・ストロング(遠山悠介)は屋上から突き落とされて処刑されてしまう。小便管理会杜の娘のホープ(関谷春子)はボビーの恋人で、ボビーの意志を継いで起ち上り、父と対決して、起ち上った民衆の先頭に立って勝利をおさめる。
めでたしめでたしで、ここで終れば安手の革命劇だが、狂言廻しでもある警官のロックストック(千乗哲也)が、事態は元の木阿弥、水が枯渇して再び地獄が始まるのを告げ、革命の破綻で幕となる。開幕の時、ラストのどんでん返しに注意と言って劇を進行させて行く方法で、二幕、休憩を挟んで三時間のミュージカルが展開する。一糸乱れぬマネキン風に人物が動くキレイなミュージカルではなく、ときに普通の舞台劇風にも展開する、いわば三文オペラ風のところもある楽しいミュージカルだった。他に伊藤弘子、三ツ失雄二、上田和弘、栗原茂、大久保鷹、曽我泰久、坂井香奈美、関谷春子、有希九美、石橋祐、植野葉子、平野直美、稲増文、井村タカオ、柏倉太郎、鈴木啓司、木内尚、里美和彦、山下直哉等が出演している。 (座・高円寺/5・29〜6・28)
「ユーリンタウン」 @「太郎の部屋」 09・7・15号 芝居の日 鈴木太郎
流山児★事務所「ユーリンタウン」(東京:高円寺・座・高円寺1)。脚本・詞・グレッグ・コティス、音楽・詞・マーク・ホルマン、翻訳・吉原豊司、台本・坂手洋二、演出・流山児祥。劇団創立25周年記念公演。「集団劇としてのブロードウェイミュージカルをやる!」という無謀な試みは見事に成功した。50人以上の俳優たちが歌って、踊って、躍動する舞台は、演劇のもつべき祝祭性に満ちていて、5月にオープンしたばかりの公共劇場にふさわしい幕開けとなった。
音楽監督・荻野清子のピアノを軸とした楽曲、工夫された客席と舞台の空間が一体となる演出はさすがというほかはない。
タイトルを直訳すると「ションベンタウン」。オフ・ブロードウェイなどでヒットを飛ばした作品。近未来の架空都市。水飢饉のなか水洗トイレが廃止される。公衆トイレが有料になり、管理する資本家とホームレスとが対立する。そのなかで、若いひとたちの恋も生まれてくる。ちょっと「三文オペラ」風でもある。千葉哲也が警官に扮して狂言回しの役割で登場、マイクで物語の展開を解説する。若い恋人役になった遠山悠介と関谷春子も熱い演技をみせていた。脇にまわった塩野谷正幸、三ツ矢雄二などのベテランが存在感をみせるとともに坂井香奈美が若手のリーダーとして大活躍をみせていたのが嬉しい。
「ユーリンタウン」 @「シアターガイド」 2009年9月号 STAGE GALLERY
(お)
癒着する企業家と権力者の犠牲となっていた底辺の人々が反旗を翻し、「おしっこする」自由を勝ち取る。そんな甘々なめでたしめでたしはクソくらえ!とばかりに、彼らの無防備な自由はさらに水不足を招き、自ら命を縮めてTHE
END。権力者=悪、民衆=善だけに終わらない、これぞ真の反骨ミュージカル。ハッピーを求めがちな観客やミュージカル的なお約束を茶化しているのも同じく。小劇場万歳!こんな熱のある作品、もっと観たい。
「ユーリンタウン」 @読売新聞 2009年7月15日 第17回読売演劇大賞 中間選考会報告
2009年1月から6月公演の5部門のベスト5(ノミネート:参考作:演出賞部門)に流山児祥が選ばれる。
「ユーリンタウン」の流山児祥は若い俳優を多数起用し、わい雑なパワーに満ちたミュージカルに仕上げた。
「ユーリンタウン」 @「テアトロ」 2009年8月号 劇評「力強いユーリンタウン」 林あまり
流山児★事務所「ユーリンクウン」、楽しかった。台本、演出、演技のすべてが気持ちよく響き合う。(G・コティス脚本・M・ホルマン音楽、吉原豊司訳、坂手洋二台本、流山児祥演出、5月29〜6月28日、座・高円寺1) 水不足のため、トイレがすべて有料になった街。貧乏人は、もれそうなお腹を押さえながら、一番安い便所に並ぶ。それすら払えない者は、道端にたれ流すはかない。そこへ警官がとんできて、逮捕され、なんと死刑にされてしまう。ついに人々は「自由に排泄できる権利を!」と立ち上がる――。
坂手洋二の台本が見事だ。戯曲の構成はあまりいじらずに、もっぱら歌詞やせりふを耳になじむものに書き替えた。いわゆる翻訳劇を観るときの、どぅしても感じてしまう少し遠い距離のようなものを、ていねいに埋めてくれた。吉原の地道な仕事の上に、坂手が現場の生命力を与えた。
役者も充実している。全体を締める狂言まわしの千葉哲也の安定ぶり、坂井香奈美のひたむきな純情、さっさと殺されて亡霊となる大久保鷹のマヌケな存在感、伊藤弘子のいい女っぶりなど、誰もがのびのびと演じている。歌も力強くて、テーマソングが今も耳に残る。
座・高円寺のこけら落としが、猥雑な魅力を持つ演目だったことは、劇場の覚悟と意志を表している。私たちは、本気でこの街で生きていきたいんだ、と。
「ユーリンタウン」 2009年7月4日 @千葉日報 ミュージカルランド 「上半期の収穫」 御木平輔
現代の「蟹工船」か?
今回はちょっと毛色の変わったミュージカルを紹介しよう。ロードウエーには、小予算で実験的な作品を上演する、いわゆるオフ・ブロードウエーのミュージカルである。
最近はこのオフ・ブロードウェーでヒットした作品が日本でも上演されるようになった。これも新しい潮流である。益々、日本の演劇状況のすそ野が広く深くなってきたようだ。
5月、高円寺に公共劇場「座・高円寺」がオープン。
その柿落としの一つが「ユーリンタウン」 (脚本・詞=グレッグ。コティス、曲・詞=マーク・ホルマン)だ。訳せば「おしっこの街」か。2001年にオフからオン・ブロードウェーに上がった。04年には宮本亜門演出で日本初演。
《地球温暖化で…水不足。家の水洗トイレは禁止され、有料トイレしか使えない。違反すれば罰金だ。そこで貧しい人々が立ち上がるのだ》。まるで「蟹工船」の世界。
70年代の歌あり踊りありの破天荒なアングラ芝居といった趣だ。歌やダンスに荒っぽさも目立つが、音楽監督。荻野清子の軽みのスパイスが効いて、ほどよい感じに仕上がっていた。ヒロイン関谷春子の清清しさ、ションベンジジイ・大久保鷹の怪優ぶり、<私的解釈>で挑んだ台本の坂手洋二、そして演出・流山児祥の勇断に拍手!!再演を望む。
「ユーリンタウン」
@ 「月刊ミュージカル
」 2009年7月号
ミュージカル時評 〜「変革」を描く2つのミュージカル〜 扇田昭彦
抑圧的な体制に反抗する若者たちを措くブロードウェイ・ミュージカルが2本、東京で相次いで上演された。流山児事務所が上演した話題の公演『ユーリンタウン』と、テレビ朝日、ホリプロなどが主催した 『ヘアスプレー』 の来日公演である。同じように「変革」を描きながら、2つの舞台の味わいは対照的と言っていいほど違う。
演出家の流山児祥が率いる流山児事務所は小劇場系、と言うよりもアングラ演劇系の演劇ユニットで、今年で創立25周年を迎える。演劇を中心に音楽劇も上演するが、ブロードウェイ・ミュージカルを手がけるのはこれが初めてだ。 とは言え、『ユーリンタウン』(グレッグ・コティス脚本・詞、マーク・ホルマン音楽・詞)はオフ・ブロードウェイからブロードウェイに進出し、02年のトニー賞で3つの賞を獲得した作品だし、内容的にもブロードウェイらしからぬ異色作だから、流山児事務所にはふさわしい作品だった。04年にホリプロが宮本亜門演出により日生劇場で日本初演したが『おしっこの町」(ユーリンタウン)で展開するこの作品は日生劇場の豪華な雰囲気には合わなかった。
さて、今回の流山児祥演出の 『ユーリンタウン』 は今年5月に開館したばかりの杉並区の公共劇場「座・高円寺」で上演された。吉原豊司の翻訳をもとに社会派色の強い劇作家・坂手洋二が台本を書き、三谷幸喜の演劇・映画の音楽でも知られる荻野清子が音楽監督とピアノ演奏を担当した(水谷雄司美術、北村真実振付)。 開場時、普通の劇場の人口を使わず、舞台装置などを運びこむ搬入口から舞台上を通って観客を客席に導入するのが面白かった。観客の案内係は警官に扮した若い男女の俳優たちだが、その口調はぞんざいで、「ケ一夕イは切っといてね」「アンケートは必ず書くように!」などと命令口調で語りかける。舞台となる「ユーリンタウン」 の抑圧的な管理体制を早くも実感させる趣向である。
ほぼ三角形をした舞台は大きく張り出し、その両側に客席がある。しかも、左右の客席の高さが違うという、かなり変則的な劇場構造だ。 まず、印象的なのはクルト・ワイルを連想させる魅力的な音楽の響きと耳に残る旋律。カオス的な活力とさめた才気が結合した音楽だ。ブレヒトとワイルが組んだ 『三文オペラ』 に似て、この作品も鋭い社会性と喜劇性、そしてメタシアター的な批評性を多く備えた音楽劇だ。
異常渇水に見舞われ、住民すべてが有料の公衆便所に並ばないと大小便ができなくなった町。公衆便所を独占的に管理し、町を支配する強欲な会社に反抗して、貧民たちが立ち上がる。リーダーは、トイレ管理人(伊藤弘子)の助手だった青年(遠山悠介)。青年は体制側に殺されるが、青年の恋人で、トイレ会社の社長(塩野谷正幸)の娘(関谷春子)が彼の遺志を引き継ぎ、「革命」はとりあえず成功する…。劇全体の狂言回しを務めるのは、千葉哲也が演じる悪徳警官だ。
48人に上る演技陣は活気にあふれ、過剰で猥雑で陽気なエネルギーを放射する。全体的に歌もダンスも洗練されているとは言えず、中には歌が下手な俳優もいるが、この作品に必要なごつごつした底辺のエネルギーは確かに感じられる。荻野清子が率いる4人編成のバンド演奏は快調だ。歌唱力のある伊藤弘子、ホームレスの少女役の坂井香奈実らの好演も印象に残る。従来型の商業ミュージカルのシステムによらない、こうした「オレタチのブロードウェイ・ミュージカル」(流山児祥)の登場に注目したい。
だが、このミュージカルの後味は相当苦い。「革命」派は勝利するが、その結果、町の水源は枯渇し、独裁的な前社長のやり方の方が効果的だったことが分かる、という結末なのだ。観客のハッピーエンド願望に水をかける強い異化作用を伴うシニカルな終幕だ。これは個人的な想像だが、この苦いエンディングには、独裁体制の崩壊後、民族対立、宗教対立などが激化した1990年代以降の東欧、中東などの現状が反映しているのかもしれない。
さて、もう1つの 「変革」を措くミュージカルは、,07年に続いて2度目の来日公演となる『ヘアスプレー』(マーク・ガシャイマン作曲・作詞、ジャック・オブライエン・オリジナル演出、マット・レンツ清出)だ。前回の東京公演は渋谷のオーチャードホールだった が、今回は新宿の厚生年金会 館大ホールだった(6月2日〜14日。)。 今回は国際ツアー租の来日で、主役のトレイシーは、前回の来日公演と同じ、ブルックリン・プルバー。トレイシーの母親エドナを女形で演じるのも、前回と同じ、ベテランのジェリー・オーボイル。それ以外の演技陣は全員入れ替わり、前回より若い顔ぶれが多かった。
舞台を観ながら、不当な黒人差別を続ける地方テレビ局に対して、黒人たちと連帯して差別撤廃に立ち上がり、合わせて肥満をはじめとする容姿に対する世間の偏見をも晴らしていく女子高校生トレイシーの、ためらいも屈折もないまっすぐな変革志向の精神に改めて驚きを覚えた。自分の太った体型にもまったくコンプレックスを持たず、仲間たちの善意を信じて前へ前へと進んでいく楽天的な姿勢。それはまさに自由と未来を信じるアメリカ的な精神であり、それはブロードウェイ・ミュージカルの精神にもつながっているのだろう。
当然、この楽観的な前向きの精神は、変革の輝きとその挫折を措く『ユーリンタウン』のシニカルな味わいとはずいぶん違う。そして 『ユーリンタウン』 の苦い幕切れに感銘を受けた私は、『ヘアスプレー』の乗りのいい音楽を楽しみながらも、その陰りのないハッピーエンドに軽い違和感を覚えたのだった。
「ユーリンタウン」
@東京中日スポーツ 2009年6月25日 「ミュージカルに新星!!関谷春子に熱視線」 本庄雅之
ミュージカル界に新星が現れた。東京・高円寺北に完成した新劇場「座・高円寺」で上演中のミュージカル「ユーリンタウン」 (坂手洋二台本、流山児祥演出)でヒロインを演じている関谷春子が、連日熱演。第一線の演出家、プロデューサーらが劇場に詰め掛けている。
オフ・ブロードウエーで2002年にトニー賞3部門に輝いた作品。地球上の干ばつで節水を余儀なくされた近未来が舞台。人々は有料公衆トイレの使用を義務付けられ、違反すると「ユーリンタウン」に送られてしまう。実態不明のユーリンタウンとは何か。不満を爆発させる貧民街の人々と、トイレを管理する側との衝突。一見とりとめなさそうな世界に、現実の世界(日本)が重なる面白さがある。
掃きだめに鶴のような状況で登場する関谷は、ふとした出会いから現実に目覚め革命の旗印となるヒロインを、堂々と演じ、透明感あふれる歌声で物語をけん引する。
関谷は、約300人の中からオーディションで選ばれた。慶応大学文学部出身で、舞台経験はあるがメジャー作品での主演は初めて。今後の活躍が期待される。
「ユーリンタウン」 @毎日新聞 2009年6月25日朝刊 「水資源が枯渇した近未来を描くミュージカル!」 明珍美紀
地球温暖化で水資源が枯渇した近未来の街の人々を描くミュージカル「ユーリンタウン」が杉並区立杉並芸術会館「座・高円寺」で上演されている。
地球が干ばつに襲われ、深刻な水不足で公衆トイレも有料化。資本家が金もうけをたくらみ、排せつ行為さえも制限される格差社会に自由を求めて人々が立ち上がる。
米ニューヨークのブロードウェーに進出してヒットした社会派ミュージカルを日本で舞台化。演出家の流山児祥さんらが、5月に開設された座・高円寺のオープニング記念にプロデュースした。 「劇場は市民が交流し、自由に創造するための広場でもある。不況で民間劇場が次々と閉鎖に追い込まれる時代に、演劇の原点を見つめたい」と流山児。
先月末から始まった公演では、週末や休日に「ユーリンタウン祭」も開催。上演前に地元の阿波踊りなどのグループが登場している。
「ユーリンタウン」 @ 日本経済新聞 2009年6月24日夕刊 「ステージ採点」 河野孝
有料公衆トイレの使用を義務付けられた貧困層が革命を起こす米国発のミュージカルで、「座・高円寺」開場記念で上演。
革命が成ってめでたしかと思えば皮肉な結果が待つ。ブレヒトの三文オペラが基にあり、知的で娯楽性もある。
歌や踊りのうまさよりも演劇的な面白昧を優先させて奏功。ただし歌のメッセージは伝わっている。
坂手洋二の台本を流山児祥が演出。
「ユーリンタウン」 @公明新聞 2009年6月20日 「役者が活発に動き回る演出に精彩!」 七字英輔
5月に開館した劇場「座高円寺」で、流山児★事務所がブロードウェイ・ミュージカル「ユーリンタウン」 {G・コティス脚本・詞、M・ホルマン音楽・詞)を上演している。2002年にトニー賞の作詞作曲賞などを受賞した作品。ニューヨーク・フリンジ(外縁)発の芝居とはいえ、小劇場劇団がこうした舞台に挑むこと自体きわめて珍しい。
旱魃で水不足が深刻化した近未来、人々は有料の公衆便所を使うことを義務づけられ、金を払えず洩らした者は、逮捕・追放される。
その管理会社社長(塩野谷正幸)がこの町を牛耳っていて、やがて貧民たちは町で一番汚い便所の管理人助手の青年(遠山悠介)に率いられて革命を起こす。そしてそれは成功したように見えたのだが――――。
狂言回しの悪徳警官(千葉哲也)によって最後に語られる未来は、決して明るいものではない。こうしたディストピア(逆ユートピア)ものの常套ではあるが、ことが「水」だけに苦い後味を残す。青年の遺志を継いで父親を倒す恋人の令嬢役、関谷春子の声が魅力的。遠山も初々しく、新人2人がいい。
錆色に統一された張り出し舞台の中央に貧民たちの公衆便所が立つ美術(水谷雄司)も面白い。回転すると敵対する社長室にもなる。
舞台下や段差のある客席の間を総勢48人にもなる役者が活発に動き回る演出(流山児祥)に精彩があった。
「ユーリンタウン」 @東京新聞 2009年6月18日夕刊 「刺激的わい雑空間」 萩尾瞳
作品と劇場が幸せな出合いをした。作品は、皮肉なユーモアとブラックな笑いにまみれた「ユーリンタウン」。劇場は、五月に開場した「座・高円寺1」。
挑戦的な作品を得意とする流山児★事務所が初めて手掛けるブロードウエー・ミュージカルでもある。小さな空間にひしめく四十八人もの出演者がわい雑なエネルギーを放ち、作品にふさわしい刺激的な舞台となっている。 水不足のため徹底的な管理社会化した近未来、人々は有料公衆トイレの使用を義務づけられている。トイレ管理会社が政治家と結託して値上げした料金を払えない貧しい人々を率いて、青年(遠山悠介)が革命を起こす。
もともとは、実験的作品の多いオフ・ブロードウエーから発信された作品。それだけに、正統派の裏をかくオフビートな展開から、管理社会や大資本と政治の癒着、人間の愚かさなどに対する批判的な視線が浮かび上がる。
「ユーリンタウン」 @読売新聞 2009年6月17日夕刊 「瞬間・旬感」 「実験的舞台 高まる高揚感」 旗本浩二
タイトルをそのまま訳せば「ションベン街」。排尿を巡るホームレスと資本家との争いという題材を強調しようと、舞台上のめぼしいセットは汚らしい公衆トイレぐらい。いかにもアングラ小劇場的な雰囲気が漂う。
だが、音楽監督の荻野清子が自ら操るピアノを軸とした軽快な楽曲が、物語の進行を効果的に盛り上げる。ミュージカルの本場でヒットしたというのもうなずける。
劇場の2辺にL字形に客席を寄せ付け、残った空間にプロレスのリングのようなステージを置いた舞台は、50人もの出演者による大立ち回りを立体的に見せるのに役立っている。特に2階席から見ると、ステージから転げ落ちる役者たちが場外乱闘さながらに足元にまで迫ってくる。それをのぞき込んでいるうぢに臨場感が高まる。
千葉哲也ふんする警官が劇の途中、狂言回しとしてマイクを握りしめて物語の展開を解説する趣向も面白い。先月、オープンしたばかりの公共劇場にふさわしい、実験的な舞台となっている。
「ユーリンタウン」 @スポーツニッポン新聞 2009年6月16日 「舞台評」 「群舞に熱気、新人もいい」 木村隆
東京・高円寺に新劇場がオープした。演出は流山児祥(りゅうざんじ・しよう)。わい雑と剛腕で鳴る流山児が初めてブロードウェー・ミュージカルを手がけるが、額縁舞台と異なる空間を味方にし、荻野清子ら音楽陣の豊かな演奏効果にも助けられて独自のミュージカルを仕立てあげている。
「ユーリンタウン」とは直訳すれば小便の町″。なんとなく小汚いイメージだが、このミュージカルには苦い思い出がある。オフからオン・ブロードウェーに進出して話題になっていたからプレビュー公演をのぞいている。帰国したその数日後にあの悪夢がニューヨークを襲った。2001年の9・11である。あれからNYの存在は私の中からスーツと遠のいた。
舞台は近未来の架空都市。長年の水不足から家庭での水洗トイレの使用が禁止され指定の有料トイレしか使えない。違反すれば厳罰が待つ。そこで貧しい人々が団結して立ち上がろうとする。構図はさながら「三文オペラ」風であり「蟹工船」風でもある。が、当時の印象では管理社会の窮屈さや大企業の横暴ぶりや貧困層の問題など今の社会的状況を先取りしたかのようでもありながら、どこか思いつきの域を出ていない感じだった。この感想は今でも変わらない。
群舞(振り付け・北村真実)など集団演技に熱気があり坂井香奈美、関谷春子、伊藤弘子、遠山悠介ら新人がいい。
「ユーリンタウン」 @毎日新聞
2009年6月15日夕刊 「記者が選ぶ今週はコレ!」 高橋豊
東京・高円寺にオープンした座・高円寺が、こけら落としとしてミュージカル「ユーリンタウン」を上演。流山児★事務所の創立25周年記念公演でもある。
脚本・詞はグレッグ・コティス、音楽・詞はマーク・ホルマン、翻訳は吉原豊司、台本は坂手洋二、演出は流山児祥。
オフ・ブロードウェーから01年にブロードウェーヘ進出、トニー賞3部門を制覇したミュージカルだけれど、「オフ出身」らしい行儀の悪さ(つまり本音)が魅力だ。
水が貴重になった近未来。トイレに関する法律に違反した人は「ユーリンタウン」に送り込まれてしまう。
日本初演は大劇場の日生劇場だったが、ユーリン(小便)をめぐる舞台なら、やはり、舞台と客席が密接な座・高円寺の方が似合う。料金も4500円と安い。
歌は決してうまくないけれど、「異議申し立て」の志に満ちている。ヒロインの関谷春子、狂言回しの千葉哲也、それに大久保鷹と三ツ矢雄二の快(怪)演を評価したい。
「ユーリンタウン」
@しんぶん赤旗 2009年6月12日 「小劇場版の可能性を示す」 瀧口雅仁
演題を直訳すれば 「小便の街」。舞台は近未来の都市。危機的な水不足が長く続くことから、人々は有料のトイレを使用することを義務付けられ、それに従わない者は、ユーリンタウンという得体の知れぬ場所へ送られてしまう…。
ブロードウェイで演じられたミュージカルを流山児が演出、舞台化。小劇場で低料金で気軽に楽しんでもらおうという趣向通りの賑やかな舞台に仕上がった。
テーマには水の利権に目を付け、政府を巻き込んで暗躍するUCCというトイレ管理会社による圧制。そして抑圧の中で怒りを溜め込み、社会を正しい道へ導こうと革命を起こす人々との対立が描かれる。
もちろん、そこにはお約束の主人公である男女二人の恋の芽生えと、その心情表現が歌と踊りで展開される。
ただしポピー役の遠山悠介の歌唱力不足が否めなかった点。そしてその恋の相手であるホープ役の関谷春子が心の内を全ての人に打ち明けるためには、舞台のセンターを分捕ってでももっと大きな演技をすべきと感じた。二人が放つ「どんな人にもハートがある」というセリフが重要な意味合いを持つのだから尚更だ。その中でUCC側につく上院議員ヒップご意見番役の三ツ矢雄二の歌良し、セリフ良し、表現良しの圧倒的な存在感が、このミュージカルの手綱をしっかりと握っていた。
革命後に訪れる結末はハッピーエンドではなく、憶測不能な未来の姿を暗示している。
そんな点からも、アングラとブロードウェイのコラボが歌い文句になっているが、小劇場版ミュージカルの可能性の大きさを感じさせる流山児ならではの舞台である。
「ユーリンタウン」 @朝日新聞 2009年6月5日夕刊 「皮肉な笑い生きる演出」 藤谷浩二
流山児★事務所が初めてブロードウェー・ミュージカルに取り組んだ。5月に開館した公共劇場「座・高円寺」での初の新作公演でもある。猥雑な空間で小劇場とミュージカルの俳優48人が競演する。その熱気が革命幻想を主題にした物語と響きあい、さながらアングラミュージカルの趣がある。
「ユーリンタウン」 (G・コティス脚本・詞、M・ホルマン音楽・詞)は「おしっこの町」の意。01年9月にブロードウェーで開幕した。近未来、干ばつによる水不足で有料公衆トイレの使用を義務づけられた貧民が「革命」に立ち上がる。荒唐無稽な筋立てに、生理現象すら規制する管理社会や巨大資本の横暴、環境問題、家族の崩壊と再生といったモチーフが投影された、実は硬派な作品だ。
04年の宮本亜門演出による日本初演(日生劇場)は、この作品の持つ鋭い批評性やニューヨーカー好みの皮肉な笑いに届いていなかった。今回の上演は、坂手洋二の台本(吉原豊司翻訳)が劇の持つ多義性と辛口のユーモアを浮かび上がらせ、アクの強い俳優たちが寓話に生々しさを与えている。スピーディな流山児祥の演出も相まって、見ごたえがある。
悪徳警官の千葉哲也、公衆トイレを牛耳る汚職社長の塩野谷正幸、トイレ管理人の伊藤弘子ら常連組の厚みのある演技と、ヒーローの遠山悠介、ヒロインの関谷春子の新人コンビの初々しい演技とのコントラストが面白い。ヒーローの父の大久保鷹のすっとぼけ(役名も!)ぶりも愉快だ。
歌唱力とダンスにばらつきがあり、名作ミュージカルのパロディーの要素が薄まったのは残念。しかし音楽監督の荻野清子がピアノも担当するバンドは、4人編成とは思えない多彩な音を奏でる。 ニューヨーク・フリンジ(小劇場)発の舞台だけに、小劇場での上演も奏功している。
パラダイス一座 『続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る』 @「太郎の部屋」2009年4月15日号 芝居の
日 鈴木太郎
パラダイス一座「オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る」(東京・下北沢・本多劇場)。作・山元清多(黒テント)、演出・流山児祥。3年間が期限の平均年齢80歳近い世界に類をみない高齢者劇団の最終公演。なんといってもパワーがすごいしカラフルだ。歌って踊って、一芸を披露する。スタッフもキャストも超一流の顔ぶれである。92歳の日本の演劇界の最長老の成井市郎を筆頭に瓜生正美、中村哮夫、本多一夫、肝付兼太の五人の俳優を中心に、今回はふじたあさや、二瓶鮫一が加わった。岩淵達治は映像出演ながら元気なところをみせていた。そして、音楽の林光がピアノの生演奏を聞かせるという豪華版。美術は妹尾河童、ヨーロッパ風のしゃれたバーの出現である。流山児がいちばん若くて61歳、まだまだである。
舞台はいまから20年前、「昭和」の終わる日の四谷の名物ゲイバー「つばさ」。ここに、ビルマ戦線から帰還してゲイになった7人の元兵士たちが集まってくる。7人の登場人物には七福神にあやかって、弁天、毘沙門、大黒などとつけられている。女装にもこだわっているところは笑いがつまっている仕組みだ。戦争の体験談も随所に出てくる。それぞれの人生の重み、時代にたいして真撃に生きてきた証左そのものである。脚本が俳優の特性をよく取材して、あてがきに近いこともあって、説得力をもたせていた。
「椰子の実」を客席といっしょに歌うことに感動していた人もいた。
また、終演後にアフタートークを設け、俳優の苦労談義などきかせ、観客との交流を大事にすることの重要さを感じた。楽しく、おかしく、さらに芝居の醍醐味に大満足だった。
パラダイス一座 『続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る』 @「悲劇喜劇」 2009年5月号 横溝幸子
演出家の流山児祥が「三年間期間限定」で旗揚げした高齢者劇団「パラダイス一座」の最終公演、山元清多作「続々オールド・パンチ−カルメン戦場に帰る」(二〇〇九年二月八日−十五日本多劇場)が、観客に惜しまれながら成功裡に幕を降ろした。平均年齢八十歳近く、世界に類を見ない出演者の顔ぶれは、その道を極めた個性豊かな大ベテランばかり。文学座の演出家・戌井市郎さんは九十二歳。「役者」の最長老である。ゲイ・バー「つばき」のママ弁天・ローズを名乗り、真っ赤なドレスに蓄薇の花をくわえ、颯爽と登場した。確かな演技力と凄い存在感に圧倒される思いがした。
出演は戌井さんを筆頭に青年劇場の劇作・演出家瓜生正美(八十四)、演出家中村哮夫(七十七)、劇場経営本多一夫(七十四)、俳優∴演出家肝付兼太(七十三)、映像参加の独文学者岩淵連泊(八十一)、新参加の劇作・演出家ふじたあさや(七十四)と全員がゲイの役。ビルマ戦線から生還した元兵士たちが戟争責任をとり復員後「男」を捨てゲイとして生きた話で、昭和天皇崩御の日にローズを死んだことにして葬式を出し自分たちの戦後を終わらせる重いテーマである。
ショータイムで成井さんは艶やかな振袖姿を披露、「椰子の実」を歌いながら死んだ戦友に会いに六人でビルマに行く。
戦争と日本の現在を捉えた問題作だ。
パラダイス一座 『続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る』 @「悲劇喜劇」 2009年5月号 演劇時評 山下悟
高田:それでは次に、流山児★事務所パラダイス一座で「続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る〜」をお願いします。山元清多脚本、流山児祥演出、林光音楽、妹尾河童美術。本多劇場でやりました。昭和の終わりの日、四谷の名物ゲイバーつばき。ビルマ戦線から帰還してゲイになった七人の元兵士たちが戦後史を語る。今回、パラダイス一座三部作の完結編ということになります。
山下:戌井市郎さんがなさっているんですが、ゲイバーのママのお葬式に、その友達らしい人たちが集まってくる。それでお葬式が始まるかと思いきや、死んだはずのママ、ローズは生きていた。大筋は、ゲイバーの経営権をめぐるすったもんだですね。新たに経営権を握っている社長の二瓶(鮫一)さんや、藤井びんさんが戌井さんの甥として水戸から出てきたりします。
戌井さん、瓜生(正美)さん、中村(嘩夫)さん、本多(一夫)さん、肝付(兼太)さん。みなさんが見事な女装をされて、それぞれの芸を出される(笑)。やっぱり戌井さんは見事なものでした。最初にもらうリーフレットに、七福神音頭ですとか、椰子の実の歌詞が印刷してあって、開演前に「芝居中に歌いますから、みなさん一緒に歌ってください」といわれます。これは珍しいなと思ったんですが、お客さんが全然抵抗なく楽しんで歌うんですね。とはいえ、七福神音頭、これは東京オリンピック音頭の替え歌ですけれども、さすがに若い人は知らないんだろうなと。その後の万博のほうの歌は覚えていても、こつちはなかなか今は出てこないのかもしれないなという気はしました。
パラダイス一座 『続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る』 @ 「シアターガイド」 2009年5月号 「お」 STAGE GALLERY
演劇界の重鎮ばかりを招集!しかも、演技はウン10年orまったくやってないという先生方の多くを俳優に起用・・・。そんな、とてつもなく破天荒な期間限定劇団が、3作目にしてついにファイナル。思い起こせば役の設定も型破りだった。1作目は銀行強盗団、2作目は元殺し屋。そして今回は、伝説のゲイバー「つばき」にかつて集っていた旧知のゲイ仲間。ママのローズを演じる92歳最年長俳優・戌井市郎が、カルメンよろしく「恋は野の烏」を歌い登場するや、客席からはどよめきと喝釆が。
物語とは無関係な恒例の余興タイムでは、ほんわか空気が流れる。そんな彼らが、数奇な人生を歩むことになった原点は、ビルマでの戦争体験。笑い多き中で、時に発せられる反戦メッセージが胸を打つ。
最後に装置が急転、舞台は“戦友”の待つビルマの海岸へ。人生の総決算に臨む晴れやかな笑顔が、最終公演を成し遂げたご本人たちの達成感も思わせて、何だか清々しかった。
パラダイス一座 『続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る』 @産経新聞2009年2月13日文化面 「柳」
3年間の期間限定で結成された高齢者劇団「パラダイス一座」の最終公演。敗戦時に捕虜収容所で知り合い、戦後をゲイとして生きた男たち(戌井市郎、瓜生正美、中村哮夫、本多一夫、肝付兼太ほか)が再会した「昭和が終わった日」の1日を描く。92歳の最高齢メンバー、戌井を筆頭に、平均年齢80歳の老人パワーが炸裂(さくれつ)。芝居を楽しむ姿勢が客席に熱く伝わってくる。
☆泣き笑い度88%☆ ☆再結成希望度88%☆
パラダイス一座 『続々オールド・パンチ〜カルメン戦場に帰る』 @
まねきねこ 「演劇◎定点カメラ」 2009年2月14日
演劇界の重鎮・演出家と役者が結集、平均年齢が80歳近い高齢者劇団。3年3回に渡った公演の最終。
舞台。イギリス風の瀟洒な木造バー。色ガラスの窓はアールヌーボー。なぜか、 中東風の天蓋が中央に置かれ。ラストの海原は手書きとか、映像でお茶を濁さない心意気を感じさせる話。20年前、昭和が終わった日。四谷の老舗ゲイバーに集う人々。
元ゲイの老人達が慕うママのささやかな葬儀、のはずだったのだが。 重いテーマも軽やかに、滋味ある人生の味わいを添えた、素敵に無茶なコメディ。
戦争をする男どものバカな本性、国家と虐げられる個人を、男を捨てたマイノリティであるゲイの視点から描いていく。従軍経験ら負の歴史の経験者である出演者達記憶に裏打ちされた言葉と演技が胸に響き。金や権力、若さ崇拝な今時に、伝え、忘れないこと、年を重ねた尊さを改めて思い起こさせ。人生は祭りと一芸ショー付きで賑わう舞台に、くっきりと鎮魂と明日の希望をおき。
さよならではなく「また逢う日まで」の暖かい挨拶へと繋がり、ほっこりするねこ。
顧みるだけでなく、進み続ける老人達がまあ凄い。ありえない女装を堂々と楽しげにまとい、人生の貫録をかろやかに楽しげに着こなして、さすが。戌井さんの艶っぽさ、瓜生さんの剽悍、中村さんの優雅さはいつもながら素敵。肝付さんの「スネ夫」で場内に満る懐かしい幸福感も忘れがたい。最年少(71才)の二瓶さん、熱風のような「演技」が、自然体の周囲に滑稽に浮いて愛おしい。それにしても、目を閉じ寝ているような場面や、台詞がつかえる場面でこんなドキドキする芝居はなかったなと、苦笑するねこ。
『ドブネズミたちの眠り』
@ 「文藝軌道」2009年4月号 野平昭和 「劇評2008年秋から冬にかけての舞台」
小劇場でしか出来ないことを、贅沢にやり続けると、こんな時代に、敢えて居直り宣言する流山児祥演出の典型的舞台を、狭いSPACE早稲田の空間で、躍動する舞台の役者群としっかり共有してきた。
先に「金玉娘」という不思議な作品を生み出した黒テントの若い作者、坂口瑞穂が書き下ろした戯曲を、もはやアングラ演出の聖者、突拍子もない比喩を用いれば、こちらからあちらへ昇天したゲバラの最後の姿にさえイメージを重ねたい演出家流山児祥が提供してくれた濃密な時間だった。狭い地下の階段を昇って明るい表へ出た時、この何と言えない八方塞がりの世界の、日本の空間を闇雲に打ち壊した爽快感のようなものを感じていたことは事実である。
それが果して作者の、演出家の狙いだったかどうかはさておき、この舞台の造りが、運びが、役者たちの演じ方が、私のような老観客にもそう思わせたのである。
三方向から迫られる狭い舞台で繰り広げられる七人の登場人物は、「テアトロ」掲載の戯曲で確認しても1〜7であり東〜北白〜中であって名前はない。
お互いに、誰が誰だったかわからない状況で集められた殺し屋(?)たちが指示した人物を殺さなければならない、という設定の下に、疑心暗鬼、暴力、協力等、人間関係のありとあ らゆる場面を見せて、結果の出ないままに終る。つまりこの世の皮を剥いでみせてくれて終るのだ。
『ドブネズミたちの眠り』
鴨下易子(アトリエ・ドミノ主宰) @ 週刊 マガジン・ワンダーランド
2008年12月24日発行 第119号
からだの奥深く入り込む、男たちのドタバタナンセンス芝居
今日はなぜか元気だ。昨日の芝居のせいだろうか? でもあれ面白かったけどしょうもない話で、最後にはみんな死んでしまう救いのない芝居だったのに…。
タイトルは『ドブネズミたちの眠り』、会場はスペース早稲田。
西早稲田駅から劇場に向かう。いつのまにか東京の地下鉄路線はどんどん深くなり、駅はどんどん無機的になった。副都心線は最新だから、特にピカピカだ。地上に出て諏訪通りの枯葉を踏みながら坂を降り、早稲田通りに入る。しばらく行った、ぱっとしない東西線の地上出口手前に目指すスペース早稲田はあった。中華料理店の地下にあるはず、と見ると店の向こうに屋台があって、それがチケット売り場だった。その横の階段を降りて、すれ違うのも窮屈な通路から入った会場は思いのほか広い。60席ぐらいと聞いていたので、「狭い所でヤクザの芝居かぁ」と、来るのを少しばかりためらっていた。だから、贅沢な空間の取り方には少し驚いた。リングのような四角い舞台の3辺に、2列ずつ客席があって、残りの1辺は壁。見たところ出入り口がない(どこから登場するんだろう?)。
舞台が徐々に明るくなると、空っぽだった空間に何かが置かれていた。舞台装置に見えたそれらはやがて蠢めきだし、男たちが姿を現す。そして設定は地下室なのに、なんと床に開いた穴から別の男たちが鉄柱を手がかりに上がってきた! 私の席からはよく見えなかったが正面の壁に画面があり、そこには地下室の下(おそらく下水道かなにか)の映像が映っているようだ。「正面の席がよく見えます」と入場の時に言われたのは、このことだったのか。席の選び方で情報量が違う。人の話を素直に受け取れず、舞台横に席を確保した自分に苦笑した。
登場人物は全部で7人。ヤクザとしてパッとせず、でもいまさら他の何者にもなれそうもない中年男が4人、ヒットマンとして地下室に隔離されている。
あとは雇い主側の幹部と下っ端2人。標的が何者かは不明。彼(女?)の現在位置が連絡されると、犯行のシミュレーションが始まる。ドタバタナンセンスだ。そういえば入り口で貰った案内パンフに「子供の頃の遊びと同じワクワク感がこの稽古場にあった」と、脚本の坂口瑞穂が書いていたっけ。確かに大の男が舞台狭しと遊んでいる様は、役割とルールを決めて遊ぶ「ごっこ」にそっくりだ。状況が滅茶苦茶ナンセンスなのを感じているヒットマンたちは「何か変だ」と言いながら、それでも何処にもいけず何者にもなれず、「男」になるために生命を賭けて遊んでいる。これは時代遅れなヤクザを使って、時代に適応したつもりのヤクザが仕掛けた茶番劇なのだ。そして最後には、罠を仕掛けたほうも死んでしまう。本当にしょうもなく情けない男たちのお話。なのに、見終わって「楽しかった」と思った。
帰路につきながらツラツラ考えた。いったい何がこんなにおもしろかったんだろう? よくわからない。この感じは、もうずいぶん前に俳優座で見た芝居に似ている。装置のない舞台上で、5人の男が大きなダンボール箱に入ったり出たりするばかりだった芝居。ダンボール箱の中で「いいんだよ〜」と何度も繰り返した台詞が奇妙に耳に残っている。話自体はもうよく覚えていないけれど、とても良い時間を過ごして「いいんだよ」と思った記憶がある。題名も覚えていないその芝居も、出演者は男だけだった。
芝居を見ているときは自分が薄れ、性別の意識も低くなる。そんなふうに自分を外した上で、自由に男になったり女になったり、また人間以外にもなれるのが観劇の楽しみの1つだ。歌舞伎やシェイクスピアが男優だけを使うのは観客に自分自身の性を喚起させず、フィクションを機能させるためだったのではないか? どうも女が出ていない芝居は、どこか無邪気さがあって「お話」の時間を過ごしやすい気がする。
私は声やからだの動きには長いこと興味を持っているけれど、芝居をすることには関心がなかった。戯曲は良くても、女の役でおもしろいとか演じてみたいと思うものは少ない。女の芝居はどこか生真面目なのだ。情けない男の話はおかし味や愛嬌があるが、(ドジや間抜けはよくても)女の情けないのは惨めなだけ。この違いはなんだろう? ふと我に帰るといつのまにか西早稲田駅の地上出口だ。けれどなんとなく素通りしていた。地下室の芝居を見た後だったから地下に潜りたくないのではなく、あまりに人間臭い話だったので無機的な物(ピカピカの地下鉄)をからだが受け付けなくなっていたらしい。そして気がついたら、いつもは苦手なJR駅の雑踏に向かってる。
男と女の違い。この劇の挿入歌でも、「女が連続・男が不連続、でも男も連続だ」というような歌詞があった。生物としての男は種を植える存在。女は種を育てる。そしてその目的のためなら男を替えることもいとわない。だから女は存在が連続ではなく、連続させるものだ。継ぎ続けるもの。女は継続させるために、どんな状況でも適応していく。一方、男は連続を想定しない者、または断ち切るもの。『断』と『継』は似た字だ。糸をたち切ることを『断』といい、切断した糸に糸を加えてつなぐことを『継』という。そういえば夏に見た『玉手箱』(脚本は同じく坂口瑞穂)の女主人公は、変化する状況の中で糸を紡ぐようにサバイバル(過適応)していた。劇中で主人公の印象は様々なエピソードで語られるが、それが彼女の実像を結ぶことにはならない。エピソードの寄せ集めでまとまりがないのは出演者全員が演出したためだと考えていたが、必死で状況に適応することによって自らの姿を消してしまった女の話だったからなのだろう、と今では思う。でも、男はこういうのを「ミステリアスな女の伝説」にするのだろうなあ〜。
生物の性はともかく、現代は性差が縮まっている。「男気がある」と評される女性までいるくらいだ。「心理学では」と言わなくても、男にも女にも逆の性が内在しているという考えは、今や半ば常識になっている。だからまた「男だけの芝居を見て、なんで私は元気になれたのだろう」と思ってしまう。
そこでふと浮かび上がったのが、家を建てる時の建前の様子だった。でき上がった土台に柱を立ててゆき、最後に屋根に棟木を上げる上棟式。大工たちが声を揃えて棟木を組んでいる姿を見ていたら、初めてのはずなのに記憶の古い層がざわめきデジャヴのように見えたものがあった。それは古から続く、死を孕むほどの危険を伴うからこそ見る者の目を奪う、男たちの力を集めた祭事だった。そうだ、あれに似ていたのだ。
祭りや芝居の生の刺激は2次元の映像と違って、からだの奥深く入り込む。
それはあたかも種を植えられたようなものだ。『ドブネズミたちの眠り』を見て、日々バーチャルな刺激にさらされている心とからだが少しゆるんで、生きる力や人と関わろうという意欲を取り戻してきたらしい。人ごみが苦手な私が雑踏を心地いいと感じるなんて、思いもよらなかった。どうも芝居は、見て分かったことだけに意味があるのではないらしい。
『ドブネズミたちの眠り』
みなもとごろう @演劇雑誌「テアトロ」2009年2月号
流山児★事務所の「ドブネズミたちの眠り」(作・坂口瑞穂/演出・流山児祥)は、強いて言えば、金儲けのためには何でもやりかねない現在の資本主義への批判ということが出来ようが、そうした言痛き見かたより徹底したエンタテイメントとして楽しんだほうがよい。その意味では90分間を面白く見た。
物語は単純である。三人の男たちに連れられて四人の男たちが部屋の下を下水が流れている密室に連れてこられる。使う側はこの四人を刺客としてある人物を殺そうとしているのである。溝鼠のような一匹狼たちを、力の差を競わせることによって絶対の服従に導こうとする。やがて使う側と使われる側の壁も壊れて七人の生死を賭けた人間関係が可笑しくうら寂しく変化してゆく。芝居の嘘と物語の嘘とが微妙に交錯するのがミソだ。
ライヴァル同士になる塩野谷正幸と千葉哲也の中年やくざには生活の影があって、そのペーソスに味わいがある。さとうこうじのアパシーぶりも即物的で迫力がある。お互いに知らないもの同士という、言わばグランドホテル形式なので、もう少し全体に人物たちの背景を書き込んだら、より濃くのあるエンタテイメントになるだろう。
『狂人教育08』
水晶(演劇評論家)@ 「幕」 話劇人社・刊
『狂人教育』の上演が終わり、解放された人形たちが、その運命を象徴するトランクを提げて舞台から降りてきて、観客のすぐそばを通り抜けて行った時、百余年の歴史を持つ早稲田大学大隈講堂には、割れんばかりの拍手が沸き起こった。
一人の中国人の観客として、役者たちが自分のよく知った母国語である中国語の標準語で、日本で公演を行うのを聞き、感慨深いものがあった。
同時に、日本の観客の熱心さにも私は感動させられた。普段は堅苦しくおとなしい日本の観客たちが、1時間20分の間に絶えず巨人なエネルギーと驚きを放出するこの「音楽身体劇」に対し、最も熱烈な認可を与えたのだ。そして、アジア各地からやってきた役者とスタッフが共同で作り上げた中国語版『狂人教育』が、輝かしい一歩を踏み出した。
寺山作品に力量見せた流山児
すでに何度も『狂人教育』の様々なバージョンを見てきたが、流山児祥の演出力のすばらしさには、再度の賞賛を禁じ得ない。
「日本のアングラ演劇のリーダー」と称えられる大御所″級のこの演出家は、60歳を超えてなお威厳と軽やかさを兼ね備え、稽古ではさっと舞台に上がって役者たちに動きの手本を示し、かつて一級の俳優であった力量を見せていた。彼は『狂人教育』の劇中で、日本の文楽の要素、ヨーロッパの小劇場演劇の風格、モダンダンスの形体など、幾重にも演劇手段を融合させている。
これは、彼が毎年劇団を率いて全世界を巡演することによって蓄積され、洗練された多元的な能力を反映するものである。
すばらしい演出家は、特級調理師のように、白菜をゆでるだけでも旨味を引き出すことができるが、その上さらに、何十種類もの素材を最高に美味な一品にまとめる能力を有している。
新しい発見と経験を味わった観客は、絶えず賛嘆の声をあげる。ところが、劇場を出る時、演出家の姿は消えている。寺山修司がこの寓話のような歴史的作品を創作したことに感謝し、12名の男優女優のアジアでもずば抜けた演技に感嘆し、劇中の音楽とすばらしい打楽器を興奮して思い起こしはしても、演出家が誰だったかなど記憶にない。優秀な演出家にとって、これこそが作品の最大の成功である。演出家や役者の後光や虚名を捨て去り、演劇の小市民性を離れ、演劇に対する既成の観念やスタイルをすべて放棄して、劇場での時間を一分一秒まで楽しむ。『狂人教育』は、ほかの多くの演劇作品よりも、しつかりとその境地に達していた。
人と人形の「音楽身体劇」
この劇の日本での公演終了後、中国の杭州と上海の観客も、これが普通の上演とはまったく異なる演劇作品であることに気づいた。歌もあれば踊りもあり、新劇風の中国語の対話もあればミュージカル式の中国語と日本語の歌もある。生演奏のドラムや打楽器の音、照明はネットライトからペンライトまで、どの要素も観客が抱いている演劇上演の既成概念をひっくり返してしまう。一番重要なのは、舞台上の一切が緊密に結合していることだ。照明や音響などの舞台手法、人形使いの虚構の演技、人間が演じる人形、この間の三重のリズム″と韻律は、折り重なって一つに溶け合い、すべての観客の鼓膜と心臓に次々と無形のエネルギーを送り届ける。観客は舞台上の人と人形と一緒に呼吸し、運命を共にする。
『狂人教育』は人形のコントロール″への服従、抵抗と脱出を描いているが、それよりむしろ、人々の社会的観念、道徳的拘束、権力への服従と抗争を暗示している。人が外界の干渉を振り払うのは難しくはない。難しいのは自己の内心を見つめ、維持することである。何度も『狂人教育』を鑑賞した中で、私個人が最も好きなのは、やはりパパ″の独白の演技である。
彼は自分と影″の間を行き来し、対話と反問を繰り返す。そして臆病で吃りがちだが、善良で音楽と詩を愛する小人物をみごとに表現している。彼のセリフ――「人生って何だろう。それは所詮洋服ダンスの中の背広の数″にすぎないのではないだろうか。春夏秋冬4着の背広、生活の楽しみは4種類くらいしかない」―は、この寓話的作品の「人と人形」「人と社会」に対する正確な概括といえるだろう。もちろん、最も印象深いのは、やはり音楽と旋律である。あの静謐で、野蛮で、ユーモラスな、心をかきたてる音楽が、ずっと心の中にまとわりついて離れなかった。
この数年来、中国国内では「スター演劇」が大流行して、より多くの観客を劇場に引きつけるための宣伝効果を果たしている。しかし、劇場に「スター演劇」だけしかないのでは不十分だ。十数年にわたって日々舞台上で鍛え上げた真の演技力がないスターたちには、演じられない芝居もある。
映画・TVや人気歌手のコンサートとは違うすばらしさが演劇にあることを本当に観客にわからせるためには、名の知られていない「演劇のスター」たちの手に舞台を返さなくてはならない。本当の演劇とはどんなものか、本当の劇場の醍醐味とは何か、それを彼らはすばらしい生の演技で教えてくれるはずだ。
「スター演劇」にあきたらない観客のために
『狂人教育』の中国語版は、「スター演劇」やリアリズムのありふれた演技に満足しない、ハイレベルな観客のために用意されたものなのかもしれない。こうした観客は高いチケット代を払ってスターを追いかける趣味を持たず、自己主張を繰り返すばかりの演技形態にも情熱を失っている。彼らが望むのはまったく新しい、通常を超えた演技の方式と舞台の手法である。『狂人教育』は、ちょうどそんな機会を彼らに提供したのだ。『狂人教育』は一見の価値があるだけでなく、三回見る価値がある。
一回目には、屈折し反転するストーリーを見る。二回目は、人と人形が入れ替わる精緻で新しい演技方法を見る。三回目には、全篇に流れる音楽と生のドラム演奏をゆっくり味わうことができる。海を越えての公演にもかかわらず、杭州と上海のチケット代は100元、200元ほどで非常に安く、本当の芝居好きの人たちに、醍醐味を味わう機会を作った。
私は中国国内のメディアがこの作品に非常に高い評価を与えていることに注目している。中国国内第二の大手都市型日刊紙『都市快報』の記者は、この劇が杭州の紅星劇院で上演された時の反応について、「終演まで携帯電話の音や他の雑音がなく、俳優が最小限の声で独り言をつぶやいても、最後列の席ではっきり聞き取れた。暗闇の中ですべての人が同じことに没頭していた。思考していたのだ」と描写している。また上海のメディアと観客もこの作品に様々な感想と評価を寄せている。『新民晩報』は、「人形の家族それぞれが観客の笑いを誘っていたほか、クールに見える人形使いたちも魅力的な演技をしていた」と評価している。
公演期間中、流山児祥が『狂人教育』のメンバーを連れて、浙江大学紫金港キャンパスを訪れ、浙江大学の黒白劇社・梵音劇社と共同で大学演劇ワークショップの活動を行ったことは特筆に価する。流山児祥のこの訪問は、浙江大学の教員や学生に彼らの俳優訓練メソッドを理解させただけでなく、海外の演劇をより深く理解する機会を与えた。まさに流山児祥の語る、「演劇は国境を越えるべきだ。私たちがマスターしなくてはならないのは身体と情感を使うことで、セリフでの交流ではない」という言葉の通りである。『狂人教育』はその独特の方式によって、日中のみならずアジア諸地域の演劇人たちと観客との間に、暖かな交流を成立させたのである。
訳・波多野眞矢(中央大学大学院)
『狂人教育08』
目黒光彦 @「河北新報」 2008年9月14日朝刊
〜社会通念疑えぬ、怖さ〜
社会の「常識」を深く理解せず、むやみに信じ込む人々のこっけいさを風刺したオペレッタ風現代喜劇。京劇を思わせる中国語の歌と、三味線の調べに乗せた浪曲、和太鼓の響きとが溶け合い汎アジア的音楽が物語を盛り上げた。
1962年に人形劇として初演された寺山修司の戯曲を、流山児祥が演出し白塗りの女6人が人形を演じ、黒子姿の男6人に操られる。 「狂人が一人いる」と医者から告げられた六人家族」六人は各自が狂人と思われても仕方がないような行動をとってきた。やがて「異分子は他人と違う行動をする」と考え、末娘以外はロボットのように動き始める。「気狂いと呼ばれても構わない」と叫ぶ末娘はついに異端児として扱われ、五人におので殺される。
末娘が話し掛けても無視して行進する五人の姿は、専制国家を想起させる。狂信的な集団は、利己的な心理を操縦されているという層造が、演出、たよって明確に浮かび上がった。 ラストでは、人形だった女性が逆に人形遣いを操る。操っている側も何かに突き動かされていることが暗示されていた。
人間の行動を無意識に拘束する社会通念の怖さを示され、背筋が寒くなる思いだった。同時に、自己の行動を振り返って検証することの難しさを感じさせられた。
『狂人教育08』
土屋孝信 @「北海道新聞」 2008年年9月11日夕刊
〜北京語で虚構世界!アングラ劇の挑戦!〜
アングラ演劇界をけん引する流山児祥が、六十歳を超えてなお新たな可能性に挑んでいる。
「狂人教育」は、一九六二年に寺山修司が書いた唯一の人形劇の戯曲。人形の家族六人全員を人間の女 優に演じさせる実験的な取り組みで、国内外で成功を収めた流山児が、 それに飽きたらず、今回、さらに女 優をすべて中国人で上演している。北京語の歌と会話が飛び交い、観客は字幕を目で追いながら、女優の身体表現に見入る。虚構の世界は一 層深まっていく。
物語は、「人形遣い」の男たちによって人形にされた六人家族が「家族の中に一人だけ気狂いがいる」と告げられるところから始まる。
誰が気狂いなのかをめぐって、疑心暗鬼に陥る家族。ついに祖父(ホン・ペイジン)が「狂人は必ず皆とどこか少し違った行動をとる。一族の誇りを守るため、その異分子の首をこの斧ではねる!」と宣言する。
猫マニアの祖母(イーラン)、対人恐怖症の父(シウメイ)、蝶を閉じ込じこめて遊ぶ兄(ワン・メイファン)は、自分が突出して見られることを恐れて、互いに振る舞いの模倣を始める。個性を殺し、画一化されていく。ポリオ(小児まひ)の末娘(カイリ・チョイ)だけが、素朴に「どうしちゃったの?」「みんなのうそつき!」と訴え、物語は衝撃的な結末を迎える。
最後に家族の一人が吐き捨てる台詞が、観劇後も頭から離れなくなった。「うそつきだって? そんなこと分かっていた。この子供!」大人と子供。体制と反体制。この劇中で、狂っているのはどちらかは考えるまでもない。ただ、同じ狂気が私たちが生きる現代社会を覆っている、と気付かされる。
治安が悪化した日本で、親は子に「知らない人に話しかけられたら逃げなさい」とまで教えている。親子兄弟の間の殺人事件も珍しくなくなった。「9・11」テロ以降、異質なものに対する包容力は疑いなく弱まっている。
四十六年たっても寺山の戯曲は古びていない。 (東京大隈講堂の初日を見て)
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■2004〜2005〜の劇評集
■〜2003〜の劇評集