カナダ・ビクトリア国際演劇祭2000グランプリ受賞作品
エジプト・カイロ国際実験演劇祭2001招待
韓国・スウォン国際演劇祭2003招待。カナダ・トロント狂気と芸術の世界芸術祭2003招待作品
北京解放軍歌劇場2006特別招待公演作品

カナダ・フリンジ・フェスティバル参加

狂人教育


作:寺山修司  演出:流山児祥

音楽:本田実  振付:北村真実  翻訳:青井陽治


プレビュー公演 8月11日(金)午後7時 & 12日(土)午後3時・7時 

出演:青木砂織、伊藤弘子、北村魚、木内尚、西谷綾子、小林七緒、佐藤華子
沖田乱、本田実、谷宗和、甲津拓平、イワヲ


カナダ・フリンジ・フェスティバル参加

 カナダ公演の模様   カナダ各紙の劇評
 



 

解説
 1935年生まれの歌人であり、映画監督であり、劇作家であり、演出家でもある寺山修司の、唯一の人形劇の戯曲が1962年に初演された『狂人教育』である。「自発性からなる台詞などを禁じている点では、俳優と人形とはよく似ている。寓意で物を語る限りそう大した違いがないのかもしれない。しかし、俳優はあらかじめ与えられた一切の物を拒んでなお、唯一独特な観念を発見する力をもたねばならない。」と語る寺山は、人形と人形使いの対話を通して、人形は人間の代用品かどうかという疑問に向かっていく。
 寺山修司没後17年の今、流山児祥・演出はこの〔人形劇〕を、女優による宝塚歌劇風の現代喜劇に仕立て上げる。「演劇のもつ自由さ」を求めて、寺山修司を読み直す作業をつづける。

物語
 舞台は、元伯爵ドン・ベンベンドッサが住んでいたと思われる「人形館」である。室内なのに月が出ている。燃える月が出ている。燃える月あかりの中、家族の象徴=不吉なコーラスが序曲を唄う。
 家族の中にたった一人の狂人がいるとドクトルから聞いて来た末娘・蘭。その狂人を見つけ出そうとする家族。人形劇の中の夜と昼、幸せ、不幸せ、正気と狂気、音楽と沈黙。それは一体誰が決めるのであろうか?
虚構の中で生きる人形達の現実…とは?
 家族とは?人形達の運命は…?!

『狂人教育』 カナダ公演
マッド・パーソン フィーバー / スーザン ランディー / 2003年4月2日 / ドリフトウッド紙

狂気な色合わせ、見事なダンス編成にすさまじい音で日曜の夜、アートスプリングの 舞台を圧倒したのは日本の劇団によって上演された驚くほどすばらしい且つ風変わり な『狂人教育』だった。

この感動的な劇は満席のアートスプリングの観客を総立ちにさせ喝采の渦をもたら し、後に行われたキャストとのレセプションへと導いた。

客席に身を仰け反ってこの夜の芸術の全てを体感している観客たちに私は嫉妬してし まった。なんと言っても彼らは次の朝、劇評を書くために話を追いながら見る必要は ないのだからだ。私も出来れば観客の一人としてただ楽しみたかったものだ。

生き生きとしてカラフルな衣装、繊細でしかも完璧なメイクアップ、懐中電灯の灯 り、魅惑的な動きは観客の目を魅了し、高鳴る銅鑼、地響きする太鼓、竹撥の撓る 音、耳障りのよいBGMは観客の耳を満喫させた。

『狂人教育』は精神によい食べ物「心の糧」とでも言うべきものか。

中略(作品解説:もともとこの作品は人形劇として1962年に日本の理想家寺山修司に よって書かれたものである。そして流山児祥氏のアレンジで流山児★事務所によって 人間人形劇として上演された・・・・・・・・・・・・

劇場を後にした今でもテンション高く興奮は覚めやらない。彼等の多才さそして人の 体の巧みさにはただ驚かされた。6人の人形役の女性は並外れたテクニックで軽々と 人間の仕草から硬張った人形の動きへと移り動いていった。12人全員の役者はアクロ バットの技術を訓練していることは明らかだった。

女性たちの白塗りの下地にされたメイクアップは驚くほど表情豊かであった。又、一 座は小道具のスーツケースを幾度となく巧みに使い、明かりを作り出したりたて壁に したり舞台の光景を引き立てていた。

劇全体からは狂気と栄華がにじみ出ていた:この独特な舞台を見られたことはソルト スプリングの劇場のファンにとって本当に味わい深いご馳走だった。

 

「実験的」2001年九月8日号(ヒシヤーム・イプラヒーム)

そこには、さまざまな芸術形式や異なる文化の対話がある。この戯曲は人形劇のためのものであり、日本の舞台芸術の伝統に深く根ざしている。今回の演出では、人形が人間の役者に置き換えられ、いくつかの詩的な象徴と深い比喩性をたたえている。また、役者の人形的動きの技巧は人形を完全に真似るほどまで完壁さに達している。そして時には繊細になったり、単純になったりして、日本の審美的伝統の特徴である示唆に富んだ語り口にもとづく高度な演技は最高の域に達している。また、語り合い、ハミングしてリズムをとり合うのは、融合と相互の愛情をひきおこす西洋的な手法でありる。それらは交錯しながら審美的語り口のあいだで一緒になり、なおかつ風刺的な喜劇感覚を失わない…。
〔略〕
 これは深遠な芸術的隠喩であり、人間の普遍的な諸問題を包含しており、個人と他者との関係および個人と社会の支配権力との関係を考察している。
〔略〕
この作品は以前、この実験演劇祭に参加したほとんどの日本のグループの上演とは対照的に、イタリア演劇に近い形式で構成されている。それは背景が西洋の演劇と結びついた形式であり、その審美性はこの劇団の公演によって確立されたものである。 流山児★事務所はこの作品で、演劇は諸文化を越えて国際的なスケールを持つ事が可能である事を証明している。なぜなら、彼らは現在の世界の文化に開かれた同時代の芸術の枠内で、全世界的、人間的諸課題を議論する前例のない上演を提出しているからである。

 

「劇場が驚くべきものになるとき」
(「実験的」2001年9月9日号)(エッズ・エッディーン・バダウィ)


 「人形の家」は、数多くの芸術形式を通してその諸思考を提示しようとしている。踊りと人間の体による表現を重視する演技を通した表現の試みとともに、劇場を演劇的祝祭の場に変化させる様々な事件に満ちている。
〔略〕
この作品は家族間の人間的欺瞞をテーマにしている。社会の一部分としての家族という意味では、普遍的に存在する人間的、社会的欺瞞を曝け出している。また、この舞台は人間の持つ普遍的なテーマに加えて、ダンス・歌・メイキャップ・楽器演奏など多くの芸術的手法を使っている。それゆえこの舞台は芸術的祝祭の場に変わり、芸術的な空間に変わる。
〔略〕
西洋的戯曲の方法で書かれた台本にもとづくにもかかわらず、この上演は、同時に、日本の演劇の伝統に非常に忠実であり、それは、芸術的楽しみを享受できる演劇様式の創造を非常に重んじるものである。この美しい上演は、これまでの演劇祭で日本が提出した多くの作品にさらに華をそえるものである。

 

『人形の家』は人間の自由の上演である」 サヒール・ニブハーン
<日本人による人形の家>

この作品は、一瞥でその諸事件を追うことは難しい。これは、刺激的な騒音とたくさんの事件ときらびやかな音楽と踊りの楽曲で満ちている。このオペラ的作品は、人形の姿をした6人の女役者とやはり人形を使う6人の男達によって演じられ、そこにおいて人間が人形に変わる大胆さなを特徴とする実験的驚きを見出すだろう。(略)
 そして、実験劇場祭の公式コンペティションへの参加上演作品の選出における基準が欠如しているため、国際オブザーバー委員会は再検討を必要とするだろう。実際、誰一人として日本の上演「人形の家」が実験演劇祭の最も重要な上演の一つであるにもかかわらずコンペティションから退けられたのか知らない。他方で、公式コンペティションには、芸術水準の低い諸上演が公式コンペティションに参加しているのである。
(略)

 

<日本の人形> (アブラ・エツルーニー)

人形を人間の相対物で置き換え、私たちに演技技術とさまざまな文化および芸術形式のあいだの交錯をもつ深い視点を与えてくれた。それは、人形的演技の技巧と詩、音楽の活用に加えるものである。

 

大岡 淳     テアトロ 2001年11月号

これは、本来人形劇として構想された戯曲である。流山児演出は、物語を演ずる人形たちを女優陣が、その人形たちを操る人形遣いを男優陣が演ずるという、明快な仕掛けを施した。人形たちが演ずるのは、ある家族の物語である。寺山戯曲の実験性は、良い意味でわかりやすいものであって、流山児演出のセノグラフィも、ロープで囲まれた空間の内側が人形、外側が人形遣いのエリアとなる、明瞭な図式を提示していた (美術=加藤ちか)。そして最後には、操る者と操られる者との関係が逆転し、日常と非日常の転倒が目論まれる。インターナショナルな視線に耐えうる古典″として、寺山作品が再生する機会に立ち会えたことを、素直に喜んでおきたい。

 

西堂行人 カイロ実験演劇祭 テアトロ 2001年12月号

「実験」は先鋭化すれはするほど、痩せ細っていくことは否めない。「実験のための実験」に陥りがちである。そこて今一度三つの「実験演劇」をシャッフルし、合体、再統合させてみたらどうなるか。それがどういうかたちをとるかはさまざまだが、わたしがこの演劇祭の最後に見た流山児★事務所の『狂人教育』にはそのヒントが隠されているように思われた。寺山の端正な戯曲は人間と人形の支配/被支配を描き、権力と民衆の断絶を切り取り、民衆の側から自己の尊厳を奪回していく革命劇である。演出家 流山児祥はこの構図をよく見通せる装置と六個のトランクに集約させ、洗練された舞台に昇華させた。複雑な内容を簡素な仕掛けのなかに圧縮し、大衆的な手法を盛り込みながら、人間世界の暗黒を暴き出したこの舞台は、字義とおりの「実験」とは言えないかもしれないが、演劇を豊かに展開しながら、演劇固有の思考の運動を刻んでいた。その上質の仕上がりは今回参加したなかでも出色のものの一つに数えられよう。実験性と大衆性(民衆性)は一見馴染みにくいように思われる。が、両者が結合して初めて演劇の可能性が切り開かれるのではないか。ただしそれは、不可能性を潜った後で、ようやく針の穴の向こう側て逢着できる地平なのだ。そこに実験演劇の未来がある。?  ? 「実験的」2001年九月8日号(ヒシヤーム・イプラヒーム)
そこには、さまざまな芸術形式や異なる文化の対話がある。この戯曲は人形劇のためのものであり、日本の舞台芸術の伝統に深く根ざしている。今回の演出では、人形が人間の役者に置き換えられ、いくつかの詩的な象徴と深い比喩性をたたえている。また、役者の人形的動きの技巧は人形を完全に真似るほどまで完壁さに達している。そして時には繊細になったり、単純になったりして、日本の審美的伝統の特徴である示唆に富んだ語り口にもとづく高度な演技は最高の域に達している。また、語り合い、ハミングしてリズムをとり合うのは、融合と相互の愛情をひきおこす西洋的な手法でありる。それらは交錯しながら審美的語り口のあいだで一緒になり、なおかつ風刺的な喜劇感覚を失わない…。〔略〕
 これは深遠な芸術的隠喩であり、人間の普遍的な諸問題を包含しており、個人と他者との関係および個人と社会の支配権力との関係を考察している。
〔略〕
この作品は以前、この実験演劇祭に参加したほとんどの日本のグループの上演とは対照的に、イタリア演劇に近い形式で構成されている。それは背景が西洋の演劇と結びついた形式であり、その審美性はこの劇団の公演によって確立されたものである。 流山児★事務所はこの作品で、演劇は諸文化を越えて国際的なスケールを持つ事が可能である事を証明している。なぜなら、彼らは現在の世界の文化に開かれた同時代の芸術の枠内で、全世界的、人間的諸課題を議論する前例のない上演を提出しているからである。? ?
「劇場が驚くべきものになるとき」
(「実験的」2001年9月9日号)(エッズ・エッディーン・バダウィ) 「人形の家」は、数多くの芸術形式を通してその諸思考を提示しようとしている。踊りと人間の体による表現を重視する演技を通した表現の試みとともに、劇場を演劇的祝祭の場に変化させる様々な事件に満ちている。
〔略〕
この作品は家族間の人間的欺瞞をテーマにしている。社会の一部分としての家族という意味では、普遍的に存在する人間的、社会的欺瞞を曝け出している。また、この舞台は人間の持つ普遍的なテーマに加えて、ダンス・歌・メイキャップ・楽器演奏など多くの芸術的手法を使っている。それゆえこの舞台は芸術的祝祭の場に変わり、芸術的な空間に変わる。
〔略〕
西洋的戯曲の方法で書かれた台本にもとづくにもかかわらず、この上演は、同時に、日本の演劇の伝統に非常に忠実であり、それは、芸術的楽しみを享受できる演劇様式の創造を非常に重んじるものである。この美しい上演は、これまでの演劇祭で日本が提出した多くの作品にさらに華をそえるものである。                       
  

 

『狂人教育』カナダ公演劇評 
by Scott Sharplin 2000年8月22日

ベケットも眉をひそめそうな登場人物達。大胆でスタイリッシュに仕上げられた感嘆すべき実験劇。そこでは、人間は人形となり、言葉はそれ以外のあらゆるものになる。豊かな音声、きらびやかな衣装、そして素晴らしい振り付けの舞踏は、演劇フリークにとって大変なご馳走である。

 

シーマガジン by Roger Lavesque  2000年8月23日

エキゾティックで実存的不可解さに満ちた舞台 ―― その多媒体視覚効果と強烈な演技は否応無しに楽しませてもらった。太鼓の生演奏、物語の句読点となる強烈な銅鑼の音、それが誘発するアクロバティックなダンス(特に人形を操るシーン)。衣装、フェイス・ペインティング、パーカッションなどに日本古典演劇の片鱗が見られるが、この作品、本質的には自然発生的で、時として背筋の寒くなる現代劇である。

 

エドモントンジャーナル  by Mike Ross   2000年8月26日          

 「人間の自由意思」と「宿命」との対立を主題にした「狂人教育」はカラフルで無秩序な超現実ドラマ。何とか正常でありたいと必死に足掻く破壊された家庭の物語。歌舞伎調の衣装を纏った六人の女優を黒ずくめの人形遣い六人が時折操る精巧な舞台。エキサイティングな「音」と「動き」、そして芳醇で妙に魅力的な音楽に満ち満ちている。黒衣達の発する強烈な叫びと衝撃音、それがもたらす高揚感に乗って俳優達は悪夢のような一族の物語を紡ぎ出す。

 

エドモントンサン  by Adrian Chamberlain  2000年9月2日   

 「狂人教育」が忘れがたくエキゾチックな印象を与えるのは、その構成要素の豊かな多様性に負うところが多い。能、歌舞伎、更にはブレヒト劇、モダンダンスの要素を併せ持ち、その音楽は西欧のジャズ、ポップ、ラテンを日本的感性で濾過した片編の組み合わせである。「狂人教育」は、女権剥奪社会に住む女達の苦悩を基本的テーマとしている。抵抗に打ち勝って羽ばたく創造精神と言う一抹の希望が暗示されてはいるものの、このオペレッタの劇的なフィナーレには身の毛がよだつ。

 

タイムズコロニスト  by Peter Birnie   2000年9月7日  

同国が持つ人形劇の長い伝統に‘ひねり’を加えた、魅惑的な社会風刺劇。幕開きの舞踏シーンは象徴性に富んでいる。踊りと歌とリズミカルな詠唱で綴られる夢の世界。「狂人教育」を文学として理解すべきであるか、或いは、単に心を奪われて観るべきであるかは、議論の残るところである。