■劇評■ (2004〜05)

 

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『SMOKE』  雑誌「映画芸術」2006年冬号 「2000年にアングラ芝居を探して」  第21回 「天野天街」      伊藤裕作 

 『SMOKE』は、とある島にテレビのバラエティ番組のクルーがやってくる所から物語は始まる。 タイトルの『SMOKE』は煙草の煙りで、この島では煙草を吸うと、処刑されることになっている。さらにいえば、この島にはインドネシア・バリ島のマッシュルームのように口にすると幻覚をもたらす何かがあるようで、出演者の日常が、徐々に徐々に狂い始めていく。

 わたし自身、ケラの芝居はこれまで観たことはなかったが、こうした日常のズレの世界は嫌いじゃない。やがて、その奇妙に歪んだ台本の世界が、同じ台詞、同じ動作を繰り返し、繰り返し役者にやらせる天野演出で、さらに増幅され、また、処刑した人間の肉を調理して食べさせているレストランの存在も明らかになってきて、物語は歪みの極みへと入っていく。 たまにはこういう芝居も面白い。そんなふうに思って観ていたのだが、暫くするとちょっと気になることが起こり始める。出演者の中で最も政治的な臭いのする、流山児祥が演じるチェ・ゲバラ好きの校長が煙草を吸って処刑されてしまうのである。なんだよこの芝居、革命に憧れる者をこんなふうに扱うのかよ。わたしの中で作者、演出家への不満が燻り始めた。 ところがである。 処刑されたゲバラ好きの校長の肉体が、この歪みの世界の中で唯一希望として登場し、突拍子もないなぞなぞを出し続けていた夕沈が演じる、ちょっぴり逆髪の少女と何故だか解らないが入れ替わる。このシーンを観ながら、わたしはわたし自身が学生時代に作った短歌を思い出していた。その歌というのはこういう歌だ。

帰るべき山河を断ちていまは暮暮・逆髪の少女と解けぬなぞなぞなどを

 この歌を作ったのは三〇年前のことである。わたしは、わたしたちは、あの時代どこか(その場所、その状況は人それぞれ)で絶望して立ち止まり、立ち尽くし、自ら進んでなぞなぞだらけの迷路へと迷い込んでいった。 後を若い人に託して…… そして、時は流れた。わたしは今、あの時迷い込んだ迷路から、ともかく無理矢理にでも一度抜け出てみようと思い始めている。そんなわたしが眼差しを向けている世界は三○年前に断ち切った故郷の山河である。その故郷と東京を、わたし自身が往ったり来たりすることで都市の文化と、故郷の自然の交流の手助けができないものか?∪ターンではなくハーフターン。もちろん世の中がそんなに甘いものでないことはよく知っている。半分帰ろうとしている故郷が『SMOKE』の島のようになっていないとも限らない。それならそれでそれもまたよしである。そうなったら『SMOKE』で流山児がやったように革命大好きな校長を演じよう。むろん殺される覚悟をして……。

 わたしは『SMOKE』で、たった一ケ所の 希望のシーンである、革命大好きな校長の身体が少女に入れ替わる劇的な場面を観ながら、そんな妄想に耽っていた。ちなみに、この芝居の台本にはチェ・ゲバラ好きの校長などという登場人物は書かれていない。この役はただの浮浪者だった。それを流山児がゲバラ好きというキャラクターを与えてしまったばっかりに、わたしはとんでもない妄想を巡らすことになったというわけである。 芝居ってどのように見るかは見る者次第。今回わたしがしたように自分勝手に観て、自分の人生と重ね合わせてもいいのである。

 ところで、この『SMOKE』の結末はというと、島に火が放たれ、全員が死んでしまう。その時、上空に土星が浮かび上がり、出演者全員がそれを見つめているところでジ・エンドとなる。このシーン、どう観ればいいのだろう。わたしはこれを天野の地球への絶望〃と観た。

 尚、ついでに記しておけば、わたしは天野天街と四半世紀前の一九八五年に、新宿二丁目の「モダンアート劇場」で裸のないストリップ劇場レビュー『人工少年博覧会−イナガキタルホ−少年愛の美学−』(作・演出=天野天街)という女の子が少年を演じての美少年アングラ舞踏芝居を一緒にやっている。その時のラストは、半ズボンの少年が望遠鏡を日に当て宇宙を覗くシーンだった。あの望遠葡の中に映っていた物は? もう随分と昔のことだからではなく、作・演出が天野天街だったから無か死の物であったと、わたしはあのときも、そして今もそう思っている。

『SMOKE』  雑誌「テアトロ」 2006年2月号   劇評 「悪意に満ちたホラー喜劇」   丸田真悟

 若い男女のグループが旅に出てカップルになったら帰国するというテレビ番組の撮影のために、南の島にやってきた出演者やスタッフが奇妙で恐ろしい事件に巻き込まれる・・・・。
この島では喫煙は死刑になると知らされ困惑する彼ら。我慢できない者は島の運転手に勧められた奇妙な草を煙草代わりに吸ってしまい、幻覚により次々と事故死してしまう。しかもその死体は島のレストランで料理の肉に化けてしまうという、スラップスティックな物語。
お気軽に出会いを求める若者たちとそれを番組にしてしまうテレビ局の人間、児童殺傷事件を起こしてしまった少年とその両親、そこには表層だけの繋がりしか持てない現代人の孤独と心の闇、それを作りだした社会への悪意が込められる。


 が、表現は徹底して喜劇。役者たちはそれぞれに強烈なキャラクターを見せる。演出も、同じセリフや動作を無意味に延々と繰り返したり、映像的処理を多用して、観る者の劇世界との距離感を狂わせるなど天野らしい特徴が随所に出ていた。
 特に歌とセリフの関係がおもしろい。セリフから突然に歌となり、歌として終わるように見えてそのままセリフに繋がる。そのために観る者は劇世界から歌の世界へすくい取られ、再びブランコの揺り戻しのようにストンと劇世界にもどされる感覚は新鮮だ。
(後略)

 それにしても、最近の流山児★事務所の世代やジャンルを越えたネットワークによるエネルギッシュな作品づくりはもっと注目されて良い。

『SMOKE』   「感想」  2005年12月5日  歌手 谷山浩子さん

むちゃくちゃ面白かった!この面白さは人に伝えるのが難しいですね。無意味で執拗な繰り返し、中途半端に割り込んでくる歌、撒き散らしたまま回収されない断片的な謎、バラバラなテンション、そういうものの全部が最高に楽しかったです

 

『SMOKE』 読売新聞 2005年11月30日 「ケラ流の恐怖、天野演出で増幅」 多葉田聡

 脚本は、小劇場から大劇場まで幅広く活躍する人気劇作家のケラリーノ・サンドロヴィッチ。演出は、名古層を中心に活動する劇団・少年王者舘の天野天街。若手作家を積極的に登用し、さまざまなプロデュース公演を企画してきた流山児★事務所らしい異色の顔合わせだ。

  異性との出会いを求める若い男女がワゴン車に乗って、海外を旅する人気テレビ番組。その収録のため、プロデューサー(沖田乱)やスタッフ、素人の出演者らがある島国にやって来る。しかし、一行が宿泊するホテルで次々と奇妙な事件が起きる。 狭い舞台に30人以上の俳優が出たり入ったりする、いかにもケラらしい群像劇。番組作りの裏側を皮肉った描写はそれほどでもなく、むしろ、現地の人々の奇妙な言動や突然始まる風変わりな歌などで笑わせる。この国では喫煙は死刑という設定。喫煙者の肩身がすっかり狭くなった現代社会を風刺した描写も随所に顔を出す。(中略)

恋愛ゲームに興じる若い男女を実は冷めた目で見ているワゴン車の運転手(栗原茂)や、犯罪を犯した息子を島に捨てに来たらしい老夫婦らの悪意がむき出しになるに従って、ケラ流の不条理かつ毒に満ちた世界が全容をあらわにしていく。映像も巧みに駆使した天野の演出も相まって、逃げ場のない恐怖と乾いた笑いが増幅されていく。(後略) 


『静かなうた』 映画芸術 2005年秋号   [2000年にアングラ芝居を探して]  第20回 「物語る身体」   伊藤裕作

(略) 刺客、くノーの小泉にガチンコでぶつかる反小泉大阪夏の陣に匹敵するぐらい面白いとわたしに思わしめた芝居の一本目は、八月三十日〜九月六日、流山児★事務所Space早稲田公演『静かなうた』(作=北川徹 演出=北村真実)。

 この一年、わたしは二十歳代の若い主宰者が率いる劇団の科白のない演劇を何本か観る機会があった。映画のセットさながらに作られたリアルな舞台の中で繰り広げられる言葉のない芝居。作・演出がいるのだから、その舞台にもおそらくは、なんらかの物語はあったのだろう。だが、わたしには、それらの舞台からはなんの物語も伝わってこなかった。

 そんな科白のない演劇に、流山児★事務所が挑戦するという。この手の芝居は、わたしには合わないと結論づけるのはそれを観てからでも遅くはない。そう思って、楽しみにしていたのが、この『静かなうた』だった。

 選挙戦まっ只中の九月五日に、大阪から東京へ戻り、白い砂が一面に撒かれ舞台が砂漠と化したSpace早稲田の客席に座った。幕があき、やがてそこがおそらくはイラクの砂漠であろうことがわかってきた。旅人が砂漠で生きる人たちと遭遇し、仲間になろうとするのだが、なかなかうまく事は運ばないという物語。 旅人が持つ水入りのペットボトルが意味深で、イラクで給水する自衛隊と読めた。悪源太義平、ラビオリ土屋、木内尚、横須賀智美、小林七緒などなど、流山児★事務所丹の縁の深い役者の物語る身体が科白なしの舞台にしっかりと物語を立ち上げていた。

この手の芝居も面白い。私は正直そう思った。(以下略)

 

『静かなうた』 感劇 埼玉新聞2005年10月7日号 山関英人 「9月のお薦め芝居 その後」

 ダンス色が薄い身体表現を意識させた『静かなうた』に は、台詞が一切なかった。それだけに視覚に訴えるものが あり、滑稽さと悲哀が漂う雰囲気の中で、浮き彫りにされ た都会での孤独が、記憶に留まっている。く同6日観劇>

 


『永遠』 シアター・アーツ 2005年秋号 鹿野晶子「肉体で漉される言葉―岸田理生作品連続上演2005」

最も印象的だったのは、長細い柱のような直方体の舞台装置を使って、場面ごとにその柱を組み合わせて、お棺に見立てたり、舟に見立てたり、あるいは登場人物に見立てる演出だった。それらの舞台装置の移動は俳優たちが台詞を言いながら行ったため、聞こえづらい部分もあり、言葉が少し犠牲になっているようにも見受けられた。
しかし、岸田の言葉が、その色彩感覚や匂いの感覚において、岸田の世界の中である記号性を持つことを考えると、舞台装置を記号化することで、言葉の再生産を成功させたと言うこともできるだろう。
けれども、そうであるならば尚更、コントラストとして、僧が恋人の吸血鬼を食べる最後の台詞が、肉体で漉されていく感覚を肌で感じ得なかったのが残念である。男性の血を吸うはずの女性が、男性によって食べられていくのだから、その言葉が肉体で漉されなければ、吸血鬼の肉体が性別を持つのは難しいだろう。

 


『戦場のピクニック・コンダクタ』  テアトロ 2005年6月号  田之倉稔 「時間の刻印」

彼(若松武史)」は軍楽隊の隊長、つまり「戦場のピクニック・コンダクタ」なのである。「彼」が指揮棒をふりおろすと、KONTAの即興的な金管楽器の曲が高鳴り、戦争の音を想起させる。大雑把にいうと、「静かな街」が、戦争を予想させるような状況を迎えてゆく。坂手の作品にあっては個々の内的表出であったものが、流山児の舞台にあっては共同体意識の集合的表出となっている。

流山児といえば、荒々しく、挑発的な演出を得意とするが、これは音楽性豊かな、静かな実験的な芝居になっている。俳優のな かで印象に残るのは、やはり主役の若松のキレのいい身体の動きと美加理のういういしさであるが、特筆すべきは瓜生正美の、八十すぎとは思えない柔軟な身体表現だった。

『戦場のピクニック・コンダクタ』 しんぶん「赤旗」 2005年6月21日 菅井 幸雄 「演劇時評」

「舞台の中の戦争 不安な状況と重ねて」
戦後六十年、憲法をめぐる論議が活発になり、九条の廃止や改悪に反対する行動も、全国的に広がってきている。それだけに戦争とかかわり、戦争を体験した人びとの行動を題材とした舞台に、注目が集まるのは当然である。 

 流山児★事務所が六月に上演した「戦場のピクニック・コンダクタ」(坂手洋二作・流山児祥演出)は、おとぎ話の世界を不条理劇として書かれた十五年前のドラマを、現代化しようと意図する舞台であった。初演の「ピクニック・コンダクタ」に、近未来に起こるであろう戦争を登場させる改訂をおこなったのである。

平和なピクニックの隣で恐ろしい戦争がはじまること、しかもその戦争が、非人間的なグロテスクさで迫っていることを、鋭く風刺している。八十歳になる青年劇場の演出家瓜生正美が「父」として登場し、諷々(ひょうひょう)と好演していることも、この舞台に厚味をもたせてくれた。舞台の中に戦争世代が息づいていたからである。

 


『ハイ・ライフ』 朝日新聞 2005年5月25日 桐山健一「グランプリは『ハイ・ライフ』」

公募4劇団が「異文化との出会い」をテーマに競演した愛知県芸術劇場フェスティバルが閉幕した。作品の出来は玉石混交だったが、アイデアと実験性には富み、目的の「地元演劇界の活性化」の成果はあったようだ。

文字どうりの力作は流山児★事務所『ハイ・ライフ』だろう。胸に一物で銀行強盗を企てた4人のアナーキーで奔放な言動は、しがらみや世間体の呪縛下にある”常識人”を抑圧から解放してくれるかのように魅力的だ。千葉哲也、塩野谷正幸ら4男優がパワフルに表出する狂気と暴力と黒い笑いは痛快そのもの。俳優の肉体にこそ演劇の原点があることを再認識させた舞台であった。

 

『ハイ・ライフ』中日新聞 舞台細見  2005年4月23日 安住恭子

男臭いハードボイルドを得意としてきた流山児★事務所が、その傑作を持ってきた。カナダのリー・マクドゥーガル作の『ハイ・ライフ』(流山児祥台本・演出)。翻訳劇と意識させない、ひりひりするような舞台だ。クスリを手に入れるためなら何でもする。そのことだけで生きてきた四人のジャンキーの物語。一人が三人を誘い、ATM強盗を持ちかける。クスリとタバコとビールだけで生きている彼らに綿密な共同作業などできるはずもなく、仲間割れし・・・という話だ。

舞台は、向かい合った客席に挟まれた四角い空間。四隅にベッドがあり、与太話か諍いかラリッてぶっ倒れているかという彼らの日常を端的に見せる。その小さな空間が彼らの世界のすべてなのだ。仲間が殺したり殺されても、何も変わらない。いかにもダメな男たちの、あまりにもこっけいで、どこまでも悲惨な姿である。

リーダーの千葉哲也、粗暴な塩野谷正幸、内臓全部がいかれている若杉宏二、ハンサムなゲイの小川輝晃が、それを一級のエンターテインメントとして見せる。彼らのキレのいい動きは、ほれぼれするほど魅力的だ。

そして一見特殊な彼らの話に、共感の輪を広げるのだ。小さな世界で身動きがとれずにもがいているのは、彼らだけではない。先に光が見えず、脱出する術もないところで、彼らと紙一重の生を生きているのではないか、と。

『ハイ・ライフ』名古屋タイムズ 2005年4月20日 上野茂「見た!!観ゲキ」

愛知県芸術劇場演劇フェティバルのオープニング作品。2001年に初演、03年再演した劇団の代表作。4人の救いようのないアウトローの壮絶でこっけいな生きざまを描いたハードボイルド。

地なのか演技なのかは判断できないが、舞台の4人が放つ暴力的雰囲気には圧倒された。麻薬を打ち、興奮と快感にのた打ち回るさまは、人間の末路を見ているようで重く悲しい。両サイドを客席にした開放的な舞台のレイアウト。にもかかわらず、完ぺきに観客との距離を保った。訓練を重ねたプロの仕事である。

クライマックスは、銀行強盗をたくらみ、車中で待機するシーン。おびえと苛立ち、そして仲間割れ。車中は血の海と化し、計画は失敗する。それでも彼らは、それが天命であるかのように、また新たな犯罪を企てる。それを哀れとみるか小気味よいと感じるか・・・。

ともあれ、登場人物と俳優が同化した、圧巻の舞台だった。


『夢の肉弾三勇士』  演劇ぶっく2005 8月号   ウニタモミイチ 「なんちゅうか、劇中歌」 

上海事変の際に爆薬筒を抱えて敵陣に突っ込んだ自爆決死隊=肉弾三勇士を軸に、近代日本のテロルの風景をチャンポン状にかき混ぜ、それを全共闘的アジテーションの皮で包んだのが、流山児祥によるオリジナル戯曲。そこに、月蝕歌劇団の高取英が得意の伝奇的タイムスリップ手法で真田十勇士と肉弾三勇士を邂逅させる脚色を施し、さらに少年王者舘の天野天街が独自のパズル組換え式想像力で加工し、三十数年前の戯曲に魔界転生を遂げさせたのが今回の上演だった。 

夢のアングラ三勇士の競演。あらゆるアングラ的要素が濃縮されて詰め込まれ、アンクラ劇の理想的完成型をそこに見た思いがした。

 

『夢の肉弾三勇士』  シアター・アーツ 2005年夏号 江森盛夫 「小劇場の現在」

流山児の33年前の若書きを時空飛ばしの名手高取が脚色、常に想像を絶する舞台を作る魔術師天野が演出。今や円熟味も垣間見せる流山児が堂々の主役で「演劇団」の同志悪源太義平とともにアングラ演技のサンプルを見せる。

戦国、豊臣の 時代の真田十勇士が昭和の関東大震災の朝鮮人虐殺につながり、テロリスト朝日平吾、犬神博士、アンジェリータ‥‥‥時空を越えた人物たちが入り乱れ、イメージが脈絡なく乱舞する。天野のシャープな演出が明暗のコントラストを浮き出させ、狭い舞台で最大限に時空を拡大し強度を増殖させてアングラ演劇の見事なサンプルを提示した。

この芝居から見えてくるのは、20世紀日本が天皇を楯にしてアジア、中国を食い荒らし、享楽の限りを尽くした歴史、またアングラ芝居もそのロマンの対象にして享楽したこと、そして今やそれら全てにツケが回ってきて日本が立ち往生している冷厳な現実。全員奮闘の熱い舞台が現在の日本の困難を示唆して歴史のダイナミティを若い世代に伝えるまたとない機会をつくった。流山児のワールドツアーの体験が日本の演劇の変革をもたらすよう期待する。

 

『夢の肉弾三勇士』 日刊ゲンダイ  2005年3月17日

30年ぶりに復活したアングラ「革命」歌劇。流山児★事務所の前身である70年代の「演劇団」時代に流山児祥が上演した初期代表作を高取英(月蝕歌劇団)が脚色、天野天街(少年王者舘)が演出した。

上海事変の際に捏造されたといわれる軍神美談「爆弾3勇士」の物語を軸に、日本民衆史のテロルの軌跡を歌と踊りでつづる、シュールなレビューショー。

 

『夢の肉弾三勇士』   映画芸術 2005年春号「2000年にアングラ芝居を探して」   第18回「われわれとわれ」  伊藤裕作

 1972年という年は、2月に連合赤軍のあさま山荘事件があり、5月に日本赤軍のテルアビブ空港事件があった年だ。その年、ボクは本来なら大学を卒業する年度だったにもかかわらず留年し、他者と上手に関係が作れない若年性インポテンツの身体をもてあましつつ「われわれは闘うゾ」のわれわれとは何なのか? われとは何者なのか? われわれとわれの間を行きつ戻りつしながら、ある革命の演劇″を目指す演劇集団の事務所で電話番をし、五七五七七の短歌に自らの悶々を叩きつけていた。

 そんな1972年に初演されたアンクラ芝居が2005年3月15日〜29日、スペース早稲田で三十三年ふりに再演された。
 流山児祥原作、高取英脚本、天野天街構成・演出、流山児★事務所公演『夢の肉弾三勇士』で流山児祥が書いた70年代アングラ芝居の過激でわい雑な原作を、時空を自在に飛翔する高取英史観で書き換え、それをさらに言葉遊び、重ね言葉の才人、天野天街が今風にアレンジした作品で、既視の夢を見ているようで、それはもう文句なしに面白かった。

 ストーリーはこうだ。
 軍隊で息抜きのために芝居をやっている。そこへ真田十勇士のサスケ、小介、甚八が迷い込む。
 ♪わたしからわたしたちへ言葉のヤジロベエ という歌で始まる。舞台では上海事変時の肉弾三勇士、安重根と伊藤博文、そして豊臣秀吉の朝鮮征伐などの物語が「劇中劇」として繰り広げられていく。真田十勇士の他のメンバーはというと1972年ならではの展開でアラブの地で戦士として闘っている。
 こうした奇想天外さはいかにもアングラ芝居ならではの展開である。

 そして、この「夢の肉弾三勇士」の物語はこのアラブの戦士が見る夢という形をとってもいる。
 さらにいえば、この芝居を見ていると、日本人がかつてアジアの人々に何をしてきたのか? アジアで何をしてきたのかが暴かれ、そのアジアの人々の怨念が二重、三重に罪重なってアジアの呪怨として舞台上に立ち現れてくる。もちろん,この芝居はアジアの呪怨を見せるための芝居ではない。根底を流れるメッセージは、虐げられし者の反骨、反権力パワーの讃歌。その視点で見れば肉弾三勇士が自爆テロリストに見えてくる。
 こんなシーンもある。ラスト近くにサスケがアメリカ大陸に立ち、小介、甚八にこれからメイフラワー号を襲撃しようと提案する。メイフラワー号とは、いわずもがな北アメリカに最初に渡ったピューリタン植民者を乗せた船である。
 「オレは今まで間違っていた。国だの、天皇だの作ろうとしている奴らと戦うべきだった」
 サスケは宣言する。
 その直後に大爆発の音と映像。
 それはまさに9・11。

 この芝居で、ポクの耳に今も残っているセリフがある。アラブの地で闘う真田の六人、死んだらオリオンの三ツ星になるというくだりで、「オレたち六人いる」「半分死に、半分は生きる。それくらいがいいだろう」「残った者が、逝ってしまった者の意志をついでいけばいい」 多分われわれというのはこういうことをいうのであろう。

 ところが現実はというと、ネットで自殺志願者を集めわれわれになる時代。でわれはというと、17歳のゲーム脳の少年が、突然元の学舎で教師を襲ったり、57歳の老人保険事務所の事務長が、突然家族を襲ったり一人でわれが狂い始めている。そんな時代だからこそわれわれを考えるのにもってこいの『夢の肉弾三勇士』の芝居は今日性を持つのである。

 ボクらの世代はアチラこちらで、今再びわれわれとわれにこだわり始めているようである。 
 尚ついでに記しておけば、あの頃ボクが作った歌にこんなのがある。
 《われわれ》と 《われ》とをわかつ 鏡橋 なみだ合わせの のちのふしだら

 

『夢の肉弾三勇士』 週刊金曜日 2005年4月22日 高橋敏夫

すべてを寸断してしまえ。すべてをゆがめてしまえ。すべてを壊してしまえ。禍々しく、騒々しく、かろやかに、鮮烈な悪夢の実現を。そのむこうにだけ、夢の連帯すなわち夢のインターナショナリズムがかすかに姿を現す――こうした、アングラの華麗なる野望は、そのはじまりの時代以上に、今、つよく求められているのではないか。

流山児★事務所が創立20周年記念公演の目玉に選んだのは、『夢の肉弾三勇士』。劇団の前身「演劇団」が1972年に上演し、「革命劇=テロルのオペレッタ」として流山児祥の最初期代表作であるばかりか、アングラのもっとも過激な達成のひとつと記憶される芝居である。今回は、脚本を高取英、演出を天野天街が担当して、アングラ系「夢のトリオ」による大噴火となった。

70年前の上海事変における「肉弾三勇士」の爆死と、400年前の「真田十勇士」の孤立した闘いとが重ねられ、そこに、朝鮮出兵から現在の「帝国」の時代に至る侵略と虐殺の歴史を黒々とうかびあがらせつつ、朝鮮、中国、日本で炸裂した抵抗と自律と連帯のテロリズムを鮮やかに対峙させる。結末では、アジアを越えた世界中の闘うマイノリティとの連帯が示唆されて、グローバル「帝国」による「新しい戦争」への終わりなき闘いが開始される。

 


 『桜姫表裏大綺譚』 テアトロ 2005年3月号 中本信幸

流山児★事務所の 『桜姫表裏大綺譚』(脚本=佃典彦、演出=流山児祥)は、鶴屋南北の「桜姫東文章」を現代劇に書きなおしたものである。 「2005年新春流山児かぶき連続公演 恋の炎の南北オペラ」 の一環として、イラン、中国、ロシア、ベラルーシでも公演される『盟三五大切』とともに上演された。筋が錯綜している原作を見事に現代化した脚本である。わずか1時間45分で、スピーディーな舞台運びのアクション・プレイとして迫力がある。日本暗殺者協会・関束・支部のメンバーで殺し屋界に君臨する桜姫=白菊丸(中村音子)、カルト集団・宗教法人蒼虫教団のホモ教祖・清玄=清川玄太郎(栗原茂「桜姫に心を奪われる警視庁特別捜査課の警視正・入間悪五郎 (沖田乱)、入間に信頼される正義の味方・釣鐘権助(大内厚雄)という具合に、原作での「善玉」と 「悪玉」を入れ替えて、「悪」の再検討を迫る。愛のためならすべてが許されるというメッセージらしい。 権力、金力に媚びることなく、南北の精神で芝居作りを! この種の芝居は、場所を選んで上演してこそ真価を発揮する。小綺麗な劇場ではサマにならない。今回の公演場所はぴったりである。いっそう俳優陣を充実させ、真の「悪」を跳梁させる衝撃的な「悪場所」を作る営みをつづけてほしい(1月8日、ベニサン・ピット)。


『盟三五大切』 1月26日 共同通信 (日本海新聞、東奥日報、徳島新聞 ほか) 斉藤泰行

流山児祥率いる流山児事務所が海外ツアーに先駆けて上演した「盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)」は、大義名分に振り回される人間の不条理を笑う現代のかぶき″だ。舞台転換や音響も掛け持ちする俳優陣のシャープな動きが光った(十五日、東京・森下のペニサン・ピット)。 鶴屋南北の歌舞伎脚本原作で、いわば「忠臣蔵」の外伝。軸となるのは芸者小万の夫、三五郎と、小万にほれて百両をだまし取られる浪士の源五兵衛の関係。この二人を青木砂織と伊藤弘子が演じているのがミソ。 三五郎は父親の主君のために金をだまし取ったが、その主君が源五兵衛と知らず、小万とともに無残な死を迎える。一方、三五郎の仲間や小万を殺した源五兵衛は百両を持ち、念願だった主君のあだ討ちに加わり、忠義の侍とたたえられることに―。 報復、大義名分、金…。現代に通じるキーワードがちりばめられている。庶民の立場から描かれた物語だが、女性が主要人物を演じ、女性の視点を加えたことでさらに批評性が強まった。戦いの中で源五兵衛が息絶えた後、幼子の笑い声を響かせる幕切れも辛辣(しんらつ)だ。 再演を重ねるレパートリーだけに、場をつないでいく手法に磨きがかかっている。畳に隠れて俳優が消えていく転換も、歌や踊り、殺陣と相まってスピード感がある。舞台両脇に座って、げたで床を打つ音響もユニークな試みだ。 海外ツアーは中国、イラン、ロシア、ベラルーシを回り、二月中旬に帰国予定。宗教の違いなどに配慮して演出も変えるという。実り多き成果を期待したい。

 


 『心中天の網島』  テアトロ  2004年12月号 林あまり

、この劇団もパワフルである。  芝居の序″は、お初・徳兵衛の心中カップルが成仏できず、近松門左衛門のところに文句を言いに来る喜劇だ。岡本綺堂の一幕劇「近松門左衛門」をもとにしているというが、実に現代的でひきつけられる。芝居の本編は小春・治兵衛の恋の悲劇を描くが、序″によって芝居が相対化され、奥行きが出て、しつかりした構造を得た作品となった。  遊女・小春と、治兵衛の妾おさんを七瀬なつみが一人で演じ分ける仕掛けがまたいい。山元清多の戯曲の、こういう誠実さが私は大好きだ。この仕掛けによって、舞台がいっそう多面体の輝きを増す。七瀬もこれによく応え好演だったが、小春の演技はもう少し華やかでもよいのでは、と思う。  篠井英介の演出は、抑制をきかせ、ドラマそのものがたちあがってくることをめざしたのだろう。役者たちが生き生きと見え、シンプルで良い。セットは終始、白地に水色と薄桃色を流した和紙のようを壁で統一され、時代などを表さないようにしてある(美術・島次郎)。衣装も洋服・和服が混在、現代のようにも見える暖昧さがむしろ魅力的だ。  ドラマを書かずにいられない近松を、流山児祥が演じたのは、ある意味でハマリ役。表現者の業が感じられ、舞台をひきしめた。 

 『心中天の網島』  演劇ぶっく   2004年12月号

流山児祥率いる流山児★事務所が、創立20周年を迎える。その記念公演の第1弾は、劇団とは10年の付き合いとなる篠井英介が演出する近松門左衛門の心中物。現代風なアレンジが古典の魅力を際立たせた繊細な舞台のその裏には、役者たちに対する篠井の愛情が溢れていた。感覚を呼び覚ます舞台であった。         

 


盟三五大切 第二次シアターアーツ 004年秋号 江森盛夫

流山児★事務所『盟三五大切』(原作/鶴屋南北、脚本/山元清多、演出/流山児祥) ペニサン・ピット。流山児事務所の再演だが、流山児は趣向をがらりと変えた。主要人物二人を女優が演じる。薩摩五兵衛を伊藤弘子、笹野屋三五郎を青木砂織が務める。その意図は‐平和への祈りを捧げる「女たち」が男たちの繰り広げる不毛な<大義>のための戦いを「演じてみせる」事によって<戦争の時代>の現在を逆照射するドラマとして構成してみた−のであり、−歌あり、踊りあり、殺陣ありの「流山児タカラヅカかぶき」と呼ぶしかない…− ものだ。  この「流山児タカラヅカかぶき」の趣向は成功した。伊藤弘子はまずはきちんとサマになって忘れがたいほど格好がいい。青木砂織は腹が座ってりりしく、演技の切れが抜群。  またこの二人が演じたことによって<大義>に呪縛ざれた人間の愚かさ悲しさが増幅され、また<大義>という至上のイデオロギーが血なまぐさく君臨している現在を炙りだした。そして<大義>に仕えるのでなく、源五兵衛に必死で仕える若党六七八右衛門の涙ぐましい奮闘ぶりがいかに人間的か。演じた女優畝部七歩が素晴らしい。  他の役者も沖田乱(この長い間小劇場を支えてきた役者には勲章をあげたい)を筆頭に打って一丸新趣向を盛り上げた。百両の金の変転のカラクリが恐ろしいぼど明快で、破滅もいとわぬ色の闇、金と色に身動きできぬ人間の業の深さ。江戸の下層武士、町人の一寸先が闇の日々の暮らしと<大義>との関わりなど、南北が錯雑したテクストで活写した世界を、シンプルで分かりやすく脚色し、歌と踊りがタップリのスピーディなステージングで古典を現代に蘇らせた山元・流山児の一連の仕事は、この舞台で確固とした路線になった。

盟三五大切 熊本日日新聞 2004年8月6日

『東海道四谷怪談』の作者、四世鶴屋南北の原作で、芸者とその夫に金をだまし取られる赤穂浪士を軸に展開する愛憎劇。流山児氏の演出で歌や踊りを交えたエンターテイメント作品に仕立てられ、役者のエネルギーと作品の重厚さが舞台で交錯した。

 


続・殺人狂時代   進歩と改革 2004年8月号   村井秀美

 国際貢献の名の下で参戦国化がもくろまれ、憲法第九条が踏みにじられる状況が進む中で、社会の閉塞感が偏在する現状を激しく痛快にえがいた作品であった。  アングラ演劇の復権を掲げ、ダイナミックに役者の身体的演技を引きだし、観客を挑発しつつラジカルなテーマを現前化するのに定評のある流山児祥の演出であった。  作者の鐘下辰男は、旧日本軍を題材に日本人の原型を探る数々の秀作を発表してきた。『ベクター』『出撃』『ポプコン・ネイビー』や『国粋主義者のための戦争寓話』など、リアルな歴史観に支えられながらメタファに満ちた作品である。また朝鮮独立闘争の義士安重根を主人公とした『寒花』では日朝の国境を超えた人間像に迫る視点を提示した。  (中略)  前作の「戦場委員会」の実際の騒乱計画が実行され、その破綻いや隠された陰謀が明らかになる。登場人物は前作と同じ老人(観世榮夫)と十二人の若者たち。この十二人の構成は前作と異なり、実戦部隊らしい指揮官―隊員のヒエラルキーが確立している。また前作のディスカッション・ドラマの面は後景に引き、激烈な身体的所作が舞台狭しと展開された。  前方客席をいくつか取り払って設けられた傾斜舞台が前方にのび、その両サイドにも客席。東京の地下にはりめぐらされているというコンクリート壁に囲まれた旧日本軍の作った地下道の一個所。  老人が作業服姿で地下道を掃除しながらつぶやくように語る。「言葉、言葉、言葉……言葉でなにが解決されたか……我々は話し合いの時代を終らせるために生まれた。話し合う時代から行動する時代へ……」と。  「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」と年金加入問題で小泉首相が国会で開き直った言葉に象徴される「言葉の軽さ」が際立つ昨今。彼の特権的地位利用の表明がこんな言葉で糊塗されてしまうとは。「言葉よりは行動!」とは、いくら短絡的ではあれ、現在の閉塞感を突破しようとする"ある雰囲気"を伝えるものである。  一人の男の笛を合図に十人の薄汚れた迷彩服を着た若者たちがナイフを手に戦闘訓練をくりひろげる。一ヶ月に亘ってドブ鼠のようにくり返された訓練。五人ずつ二分隊に分かれてデパートを占拠し、一般市民を人質にとり、天皇と人質交換を要求し、天皇暗殺を計画していると語られる。  戦場委員会は"市民・人道・慈愛・正義・道徳・憲法・真実・言論"などの既存価値を「敵」とし、肉体を武器としてその転覆を図る組織であることが明らかにされる。  若者たちは「あなたも人を殺してみませんか-戦場委員会」との新聞広告に応募した若者たちで、元傭兵、元自衛隊員、元ジャーナリストのほか二人の少年も加わっている。  劇中に語られる「いいか、この国にも立派な戦場がある。どこだ?学校だ。まさに今や学校は戦場だ」の台詞とともに、この二人の少年が劇の後半大活躍するのには驚き。少年の一人の「さとうこうじ」という短身異能の役者が老人役の観世榮夫の存在感と共に印象的。 (中略)   地下に転がる十三人の男たち。言葉のむなしさの果ての「行動」が、よりむなしい結末を迎えたことを、一見荒唐無稽な物語の中に批判的寓意的に表現された。  密室のような空間の中に展開された悪夢または妄想のようであり、意外とこの国の未来を予見しているのではとハッとさせられる。

 

続・殺人狂時代 新日本文学 004年651号 黒羽英二

『続・殺人狂時代』  二年前の「殺人狂時代」の続編だが、この二本を観た観客は、前作がディスカッション・ドラマ風の、作者の言葉の空転が気になったのに反して、今回の「続」の舞台は、妙に生々しく、この十二人の男たちの動きと目指すデパート爆破テロが不思議な現実味を帯びていて(当然挫折は予想されるにもかかわらず)、自分も否応なく巻き込まれたテロの当事者であるかのような臨場感が、何もない舞台に粘っているのを感じたのである。作者の獲得した新しい視点が加えられたということもあろうが、何よりも、この二年間のイラク派兵によって日本が確実にアメリカの始めた理不尽な戦争に加担したことにょって生じた地獄的状況の中で「続」が上演され、それを観たことに重大な関係があるのだ。それは具体的に役者の口を通して、ずきずきと客の胸に響いてくる。隊長の老人(観世栄夫)のせりふ、「言葉でなにが解決されたか、この国のなにが?」「我々は話し合いの時代を終わらせるために生まれた」は、人類文明が壊れてきていることを感じさせる。そして戦争請負業のプロの男10(塩野谷正幸)が、馬鹿にしていたガキの男8(さとうこうじ)にやられてしまう等のドンデン返しもあり、逆説的だが楽しい戦場ドラマにもなっていた。そしてこの答の出せないアクションディスカッションドラマ(妙な造語だが)は大いに挑発的で成功していると言いたい。プログラムの中の作者自身の言葉、「かつての『昭和の悲劇』、そのスイッチを押したのは翻弄された、圧迫されたと、ことさら自らの悲劇を臆面もなく主張し続けてきた『我々』の側だったということをです。暴走したのは軍部ではなく我々の方です」ほど、的を射た、この「続」の核を為しているものとして敬意を表したい。保村大和、小川輝晃、里美和彦、関秀人、大谷亮介、竹内大介、倉持健吾、坂本篤篤、海津義孝、小村裕次郎が出演している。      (下北沢本多劇場・6・10〜20)

 

続・殺人狂時代 テアトロ 004年9月号 「今月選んだベストスリー」 渡辺保

 「続・殺人狂時代」は、前回とは全く違う新作(鐘下辰男作、流山児祥演出)、最後のどんでん返しがあざやかだが、 そこへ行くまでに中だるみするところが問題である。前回は一気呵成で面白かったが、今度はそこが問題である。

 

続・殺人狂時代 野田 学

皇民に天皇が殺せるか
政治的対話の促進と民主性は演劇に本質として内在しない。それでも芝居好きが演劇を特権的にあつかいたくなってしまう理由は想像できる。空間と空気を共有した人々がともに主観的想像力を働かせる。これこそ政治的対話の根本ではないか、という議論だ。対話を通じて社会の自己(再)定義をもくろむフォーラムとしての演劇という考え方である。

 無論この議論は怪しい。むしろ演劇的想像力には、ファシズム的志向が内包されており、一九世紀初頭に英国のウィリアム・ハズリットが言ったように、「詩の言語はおのずから権力の言語に同調する」と考えることもできるからだ。叙事詩や演劇は英雄を特権的に描く。演劇的想俸カは、言葉よりもむしろ行動を志向しうるのだ。

 鐘下辰男の『続・殺人狂時代』に、このような演劇的想像力の危険性を示唆するせりふがある。空虚な言葉に飽き飽きしていた男たちの目に新聞広告が飛び込んでくる。「あなたも人を殺してみませんか 戦場委員会」ひとりの男はこれを見て勃起する。「最早 言葉は必要ない 重要なのは行動だ」という確信のもと、男たちは叫ぶ。

すでに「大衆」は死んだ 「市民」の欺瞞は暴かれつつある 今こそ我々は「肉体」を取り戻す時がきた この血 この腕 この身体で 肉体を取り戻すときが来たのである 戦場委員会は この肉体を唯一の武器とするために生まれたのである戦場委貝会」を「演劇」におきかえてみればよい。たちどころに、演劇的想像力の危険性が姿をあらわすだろう。男たちの身体性は、対話が不可能になる地平を目指してひたすら突き進もうとする。演劇において宣伝される特権的身体性は、対話を凌駕しようとする。

鐘下の作品が天皇制をめぐる戦後日本民主主義の機能不全を指し示していることはつとに指摘されているが、この機能不全とは同時に 民主主義と演劇的想像力との間に生じうる齟齬をも示唆してしまう。対話を回復しようとするならば、演劇的想像力そのものにも作品は疑義を挟まねばならなくなるだろう。

 となると、『続・殺人狂時代』は少々真正面すぎるかな、というのが僕の考えである。題名の通りこの作品は二〇〇二年の『殺人狂時代!十二人のいかれる傭兵』の続編である。先編では、戦場委員会の新聞広告に惹かれてやってきた十二人の男たちが、徹頭徹尾ファッショ的な委員会の方針と「首都制圧」という馬鹿げた計画について同調すべきかどうかをめぐって議論をする。しかしながら、彼らはファッショ的言論機制に対抗しうる言論行使ができない。戦後人間主義の破綻が、戦場委員会の糾弾を待つまでもなく明らかになる中、粛正が訪れる。

 『続』はこのターデタ一計画の実行編だ。首都東京の足下には、旧陸軍の地下壕ネットワークがはりめぐらされている。場面はそんな忘れられた地下壕の一つである(美術の加藤ちかは、周りを水樋に囲まれた赤さび色の傾斜舞台をくんだ)。現代都市東京の地下に眠る戦争の遺物、という意匠だ。しかしそこで訓練を続けてきた男たちのクーデター計画は事前に外に漏れていた。迷彩服姿の追っ手を逃れ、男たちはほうほうの体で地下壕に逃げ帰ってくる。そして彼らは、自分たちが結局捨て駒にすぎなかったことを知る。

興味深いのは、一見人物間の対立を軸にしたディスカッション・ドラマの体裁を鐘下の戯曲は持っているにもかかわらず、多くの場合そのペルソナは内からの言葉と言うよりもむしろ外からの言葉を話しているという点だろう。極限状況における対立構造と緊張を描くという一見西洋型の劇作に見える鐘下の作品であるが、『国粋主義者のための戦争寓話』や『統・殺人狂時代』を見ていると、登場人物の声は内面から発せられるのではなく、外から降ってくるのである。ギリシャ悲劇よりも日本の能に似ているのだ。ただしこの場合、降ってくる声とは、『続』の老人の妄語に代表される戦前・戦中から連綿と流れとしてある声のことであり、戦後教育が訣別しようといぅそぶりを見せながらも実は延命・強化していった皇民性の声である。降ってくる声とは、近代的市民性を獲得できない者の額に刻まれた印なのだ。

 イラク人質事件の被害者に向けられた「自己責任論」と、それに屈して「謝罪」する被害者家族のテレビ映像。このような「ゆるやかなファシズム」に癖易している鐘下は、同時に戦後日本の心情左翼的良識派の無条件な人命尊重論にも与そうとしない。言葉を選びながらも(「イラクの自衛隊派兵はもちろん反対です。別にそれは人命尊重第一で言っている訳ではありませんが、とにかく反対です。くどいくらいにこれだけは言っておかないと変な誤解を受けてしまうのが戦後日本の面倒なところです」)、鐘下はこの「自己責任論」に戦前の「非国民」という言葉の響きを重ね合わせる。「つまりあの「非国民」なんて言葉も、以外と生み出したのは軍部ではなく「我々」の側だったというのが真相なのかもしれません」。皇民性という言論機制がいまだに続いているという認識がここにはある。集団的想像力が言論の民主王義的機能をバイパスし、暴走する身体性に直結してしまうカルト構造だ。

 空虚な中心を鏡像的に反復することで日本は皇民体制を維持している。しかしながら、何度も指摘されてきたこの体制に対処できる即効性の解毒剤はない。空虚な中心をめぐつて流通するもう一つのものに貨幣があるが、貨幣経済からの脱却が難しいのと同じことである。中途半端に具象化されているという共通点も含めて天皇制は貨幣体制に似ているのだ。ならば近代市民社会の基盤たるべき参政主体としての個を持たない日本が、二・二六のようにこの地では成立もしていない「近代」を超克して一気に運命共同体的ユートピアを目指してしまうという危険は、現在でも成立する。皇民たりつづける民衆の政治的無気力が行動と暴力の誘惑に一気に屈しても不思議はあるまい。

 それならばせめて「死/殺」に対する想像力を持て、と鐘下は言う。能の『求壕』(二〇〇四年七月)を題材に世田谷パブリックシアターの「現代能楽集」企画のために書き下ろすにあたり、披はインタビューでこう述べている。「傍らみたいに戦後教育どっぷりで育った人間ってのは、旧軍人なんかを笥頭に、武士なんてのは野蛮な殺戟者なんてイメージを植え付けられてるわけだけども、号つじやないんだと」。また、能にほ「人を殺さなくなったことで現代が失ってしまった、ある豊かな精神」があるともコメントしている。

 これを「死/殺」への想像力を欠いた人命至上主義がもたらす弛緩した思考への苛立ちと読むことは可能だろう。勝手に排除・排斥を行っておきながら、自分だけほ「大衆」「庶民」という傘のもとに共生のサークルに入れてもらおうとする姿勢への嫌悪である、と。大義なき戦争のために、法制上おのれもろくに守れないものたちをありもしない「非戦牌地域」に送り込むことを許してしまう姿勢とこれは無関係ではない。

 確かに、身体を武器とする演劇は、「死/殺レへの想像カを淑り戻すのにふさわしいジャンルだ。その点において鐘下の戦略は間違っていない。ただ一つ気になるのは、『続』に出てくる男たちのなかで、唯一抵抗のそぶりを見せ、降ってきた声ではない声を発することができるのは、ボスニアでの苦い戦闘経験を持つ元傭兵二人とジャーナリストあがりの男だけだということだ。「死/殺」を実体験として持つ者としての傭兵。彼が最後まで見捨てようとしないジャーナリストあがりの仲間わジャーナリストは何かを書き残そうと瀕死のドブネズミのように床に文字を刻み続ける。英雄的で書えあるシーンだ。

 しかしだ、この幕切れのシーンは、あまりに「解答」としての身振りを見せ過ぎなのではないか(皆、最後は殺されるにしても、である)。この作品はやや真正面すぎるという僕の感想も、ここにある。挫折の場としての戦場を知る者のみが言菓の大切さを知るという設定は(「アフガンでもボスニアでも 言葉があるから通じ合えたんだ」)、体験を持たぬ者が発揮し得たかもしれない冷静な想像力への門戸を閉ざしてしまい、かえって行動をいたずらに神格化することになりはしないか、ということだ。

 この作品には、オウムによる弁護士一家殺害事件を描いた鏡下の『ルート64』のようなドキュメンタリータッチは題材の性格上無理だろう。ならば痛烈な諷刺という形式の方が似合っていただろうと思うのだ。その点、通常の鏡下演出にくらべて登場人物たちの劇画的身体性を強調した流山児の演出ほ、むしろこの作品の題材にふさわしかったと言えるだろう。『続』は自分たちの喪失感(ないしは敗北感)を過激な劇化により埋め合わせようとした者たちの物語であり、またその劇化を結局は他人任せにした者たちの茶番なのだから。

 


鼠小僧次郎吉 第二次シアターアーツ 004年夏号 新野守弘

七十年代の書き手は、運動としてのテクストの魅力に憑かれていた。その一人として佐藤信の名を挙げることができる。流山児★事務所若手公演『鼠小僧次郎吉』(佐藤信作、流山児祥演出、二〇〇四年二月十四日〜十六日、space早稲田)はアングラ・小劇場運動の現場で生まれたテクスト(佐藤信「あたしのビートルズ」晶文社、一九七〇年所収)がどのような特徴を持っていたかを明らかにしている。研究生主体の卒業公演であるため、俳優の身体は前傾姿勢に、発声は単調な怒鳴り調子になり、何を言っているのか聞き取りにくい。しかし、通例俳優技術の稚拙さと評価されるこのような熱情的演技は、テクスト自体の持つ運動への欲求を若い俳優たちが前進で体現する結果でもある。舞台が狭く、床に穴も開いているので、激しい振りのダンスを踊りだす時など、怪我の危険と紙一重だ。その熱情的演技から、佐藤信の世界が徐々に姿をあらわす。舞台下手に巨大な男根を思わせるご神体の柱があり、これを一人の門番と三人の巫女が守っている。「鼠小僧参上!」と名乗りながら次々に五人の鼠小僧たちが登場し、ご神体を攻撃する。道行きも心中もののアベック、愛し合う二人の男たち、学者というふうに世相の風俗が類型化された五人の鼠小僧たち。昭和天皇の終戦の玉音放送が何度も流れ、鼠小僧たちは特攻隊のイメージと重なり、鼠小僧の中のひとりの女性が門番を刺し殺して幕切れとなる。歴史と風俗が幾重にも絡まったテクストは唐十郎のテクストに驚くほど似ており、イメージの連鎖をスピード感で伝える演出は、七〇年代の小劇場の再現に近い。ただし、現在は二〇〇四年である。
 二〇〇四年、大多数の観客には熱情型の演技は、時代錯誤と映っている。汗と埃にまみれた演技は、時代錯誤ゆえの可笑しさを狙って、いわばパロディとして行われるのが常だ。しかし流山児祥はあえて計算づくで熱情型の演出を行い、観客が体験する時間を揺さぶろうとしている。テクストの運動性を俳優の熱情に託して舞台化する意図は、アングラ・小劇場運動の終焉を疑いもなく当然とみなして既視感に組み込んでいる多くの観客の時間的意識を混乱させ、運動としてのテクストの魅力を再発見させるところにあると言えるだろう。もちろん演出家のこのような試みが続いたからといて、アングラ・小劇場運動が再興されることはない。しかしその一方で、唐ゼミの公演からもわかるように、七〇年代のテクストを上演する試みは、アングラ・小劇場運動の魅力と限界を明確にする。新しい可能性は、運動を歴史化する作業のなかに見つかるはずだ。『鼠小僧次郎吉』の舞台は、漠然とした既視感のなかに捉えられている観客にアングラ・小劇場運動を再考する機会を提起した。



鼠小僧次郎吉 映画芸術 2004年春号(407号) 伊藤裕作(文筆業)

♪うちたいな うちたいな
 天にかわりて
 不義うちたいな

 大義のないイラク戦争を始めたアメリカに追随して、自衛隊派兵までしてしまった日本。それにNOを突きつけることもできない日本。で、この国で今一番の関心事といえば、団塊世代の老後の暮らしだというのだから平和ぼけしているとしかいいようがない。
 そんなさ中の二月十五日にスペース早稲田で観た芝居、涜山児★事務所2004若手公演「鼠小僧次郎吉」(作=佐藤信 演出=流山児祥)で歌われていた次郎吉のテーマ″の歌がコレ。
 それからというもの、団塊世代の最後尾にぶらさがる五十四歳のボクは、♪うちたいな うちたいな〜 この歌を時々口ずさんでいる。一九六九年に佐藤信によって革命の演劇として善かれたこの芝居の台本には形而上的な物と形而下的な物が一緒くたに書き込まれ、七〇年代アングラ芝居のもつワイ雑さがメイッパイちりばめられている。
 ところでどうして初演から三十数年後の今、流山児祥は再びこの芝居をやろうとしたのだろう? この公演を観てその理由がハッキリとわかった。これは流山児祥のボク、あるいはボクら団塊の世代に対する優しいアジテーション。少なくともボクには、そう思えた。(中略)
 そんなこんなで日本がおかしい、日本の老後がおかしいと思い始めていた矢先に観たのがこの芝居。実はこの芝居では、革命とは生活を変えること″ということが繰り返し語られる。この生活を変えること″は易しそうだが実は非常に難しいことでそれ故に革命は難しいということになるのだが、全くもってその通りだと思う。
 だが、だからこそ五十四歳の今、この年齢だからできるかもしれないとボクはひたすら生活を変えること″を希求している。そんなボクには、この「鼠小僧次郎吉」はメチャ為になった。


『イエロー・フィーバー』 新日本文学 2004年9,10月号 「舞台に展開する2004年の現在」 黒羽英二

トロント生まれの日系カナダ人作家シオミの戯曲で、舞台は一九七三年春のカナダバンクーバー日本人街での話。一九九五年下北沢で初演したものを新たに流山児祥が再構成して演出した。桜祭の最中にミス桜が誘拐されたところから事件は始まる。日系カナダ人二世の私立探偵サム・シカゼ (塩野谷正幸)、カドタ巡査部長(龍昇)、中国系女性記者ナンシー・ウォング(伊藤弘子)、弁護士チャック・チャン(栗原茂)等が、それぞれの立場から事件と関わって謎解きを進めて行くが、日本人はじめ有色人種を憎むマッケンジー巡査(大谷亮介)、ジェームソン警察署長(悪源義平)の姦計が明らかになる。人種差別団体との闘い、男たちとの友情、恋愛の世界に客を引き寄せ、ハードボイルド仕立ての楽しい舞台で、単なる教条主義的社会批判劇を超えた哀愁さえ漂わせた舞台であった。他に根本和史、渡辺恵美、上田和弘、阿川竜一等出演。  (両国シアターX(カイ)3・17〜23)

 

『イエロー・フィーバー』 テアトロ 2004年6月号 渡辺淳 

 日系カナダ人劇作家、リック・シオミの原作(1983年アメリカ初演)で、日本では 流山児祥台本・演出により95年に初演されたもののキャストを変えての再演である。 テーマはバンクーバーを舞台にしたある誘拐事件で、実はそれに警察がかんでいたと いう、よくある話で、別にそのこと自体は何てことはない。しかしここには、日系は じめ東洋系のカナダ人が今もなお差別・排斥されている現状へのプロテストがこめら れている点がユニークというかリアルだった。
 そして警察主体の白人暴力団、《ウエスタン・ガード》を向うに回して、誘拐犯探 しをめぐり、日系二世の中年私立探偵、サム・シカゼ(塩野谷正幸好演)ら東洋系が たたかうわけだが、それが白黒、いや白黄のただ善・悪二言論的対立の抗争として描 かれていないのがいい。これは台本・演出によるところが大きいようだが、そこに笑 いも入れ、シカゼをめぐる、白人巡査(大谷亮介)とコンビを組んだ、やはり日系の 巡査部長(龍昇)や、ともに中国系の弁護士(栗原茂)と女性新聞記者(伊藤弘子) らとの関わりが、変にメロにならずに独り暮しや恋や友情などを折り混ぜた人間ドラ マになっていたのは面白い。
 ただし、白人組を終始舞台に出して、コーラスよろしく躍らせたりするのはまあい いが、彼らの滑稽さをからかおうとしてか、首謀者の署長(悪源太義平)のホモ仕立 てという流山児流は少々やり過ぎのように思えた。(テアトロ2004/6号 評者:渡辺 淳)

『イエロー・フィーバー』 悲劇喜劇 2004年6月号 高橋敏夫(近・現代文学)

カナダの日本人街、とても劣悪な環境の中で日本人、あるいは中国人、朝鮮人が暮らしているそういう街で、だれもやりたがらない、どぶさらいのような、そういう仕事をしてきたのです。そういう私立探偵として非転向を貫いてきた、それを塩野谷正幸がしぶく、ちからづよく、そして優雅に演じています。 (中略)ウエスタン・ガードの一員マッケンジー巡査を演じた大谷亮介、日系人であるがゆえに昇進が遅れたカドタ巡査部長の龍昇、それぞれによかった。ウエスタン・ガードというのはカナダでのことであり、この芝居を今の日本でやる意義としてもうひとつ問題が重ねられている。つまり、近代においてずっとアジアから西欧よりに位置取りをしてきた日本のありかた、そして現在の不法「外国人」から日本人を守れという、日本民族防衛隊みたいな、そういうものが重ねられている。一九九五年に初演したときには、現在のようなナショナリズム、排外主義的な風潮はそれほどつよくなかった。しかし、二〇〇四年の現在、事態は深刻化している。こうしたなかで、流山児さんはウエスタン・ガードを今回、ジャパニーズ・ガードとして読みかえようとしたのではないか。 三十年以上演劇活動をしてきて、いまなお、いまだからこそ、こういうことをやろうとして

『イエロー・フィーバー』 シアター・ガイド 2004年6月号

ナダの日本人街で起こった誘拐事件をめぐる私立探偵、警察、弁護士、女性記者の謎解きと、意外な結末をスリリングに見せつつ、人種差別というテーマを描く。差別される側の日系の中年男を演じた塩野谷と龍。日本人街に留まる者、そこを脱出しホワイトカラーになった者、それぞれの男の生き方と苦悩がひしひしと伝わってきた。そして、差別主義のカナダ人を演じた大谷と悪源太。笑いと恐怖が表裏一体となった怪演は見事!


『ガラスの動物園』 悲劇喜劇 2004年 5月号 岩佐壮四郎

 非常階段に面した壁、床、天井とすべてガラスの部屋を思わせるアクリル張り、薄 暗い電灯の照らす奥が食卓のある部屋で、手前が蓄音機とタイプライター、それにガ ラスの動物園のある居間というのが今回のアマンダ家の佇まい。
 朝倉摂の装置は、殺風景だが奥行きのあるベニサン・ピットの空間をうまく活かし て、寒々とした雰囲気をよく出しています。回想されるのは夏の出来事ですが、やは りこの劇は、川べりを寒風が容赦なく吹きつける冬に、こういう小屋でこそ演じられ るのが似つかわしい劇だということを改めて痛感しました。
 演出が松本祐子、トムに若杉宏二、ローラが青木砂織、ジムに文学座の粟野史浩、 アマンダに李麗仙というのが今回のキャスティング。いかにもアメリカン・マッチョ 風の粟野のジムが、痩せて顔色の冴えないローラの痛々しさを際だたせて鮮やかです が、なんといってもこの舞台の主役は李麗仙のアマンダで、黄水仙を片手に、やや色 の褪せた純白のドレスを着て客を迎える彼女の姿からは、母親というものの哀れさと おぞましさを一身に背負ったかのような切迫した息遣いが伝わってきます。

『ガラスの動物園』 テアトロ 2004年 4月号 斎藤偕子

 流山児★事務所がめずらしく西洋近代古典劇を、それも新劇団で活躍をはじめた若 手演出家を招いて上演している。松本祐子の細部からしっかりアクションの枠を押さ えていく丹念な舞台づくりの力量と、俳優、とくに時代にずれた母娘を演じた李麗仙 と青木砂織の冷めていて繊細な役づくりの適切さとが相俟って、いい舞台を創造し た。
 この作品は多くの人にとってわが青春のドラマとして思いを寄せられているが、そ れはこれが、最も大切な母と妹を不穏な時代の現実社会に残して、自分の人生を求め て飛び出した詩人の息子の、痛恨の罪悪感と愛と充たされぬ自己実現希求が手繰り寄 せた過去の家庭の幻だからなのである。当然、第二次大戦の危機の迫った時代を放浪 する彼に、懐旧のゆとりはなく専ら心に突き刺す痛みと未来への希求が全編の記憶の 場面を包んでいる。
 その意味で、主人公若杉宏二の冒頭の観客への愛想のいい向き合い方に違和感を持 ったのだが、これは演出家が主題音楽として「埴生の宿」を選んだことへの疑問でも あった。少なくともわたしの時代感覚とは、ずれた。


『ハイ・ライフ』 スポーツニッポン 2003年12月9日(火) 木村隆

 演劇界の風雲児的存在の流山児祥が演出200本を達成した。まだ56歳だからこれは大変な数字かもしれない。200本目の記念に選んだのはリー・マクドゥーガル作(吉原豊司訳)のカナダ戯曲。確かな手応えを感じさせ、なるほどこれはヒット演出の一本と呼べるものだった。
 1時間45分、短い中に凝縮された本もいいが演技陣のアンサンブルも見事だった。登場するのはワルばかり4人。うち3人は人生のほとんどをヘイの中で過ごしてしまったつまはじきものだ。もう一人だって小利口だからまだ臭いメシを食った経験がないだけでワルに変わりはない。社会の秩序の枠の中ではもう収まり切れないどうしようもない男ばかり。それでも見ていてそんな連中に次第に親近感を抱くのは、人間洞察へのユーモアと共感だ。
 千葉哲也がリーダー格ディック。一攫千金の悪事を練って仲間を集める。平然と人殺しのできる乱暴者バグが塩野谷正幸。内蔵のあちこちが破たんをきたし今にも倒れそうなドニーが若杉宏二。知恵者だが一番弱気なコソ泥だ。誰よりもカッコよくて女にモテそうなビリーが小川輝晃。それぞれが役割を決めてさあ夢の生活実現のための大仕事にとりかかるのだが、結果はお定まりの内部分裂でご破算になる。4人の俳優の迫真な演技に魅力がある。裸舞台を対面式で見る、この劇場(下北沢ザ・スズナリ)では珍しい試みも成功している。

『ハイ・ライフ』 テアトロ 2004年 2月号 中本信幸

 流山児★事務所のリー・マクドゥーガル=作、吉原豊司=訳、流山児祥=台本・演出、トムソン・ハイウェイ=音楽、『ハイ・ライフ』は、二年前に 「カナダ現代演劇祭」の一環としてシアターX(カイ) で初演され好評だったものの再演である。今回は、会場も共演のチームもちがう。
 現代カナダに生きる四人の男は、そろいもそろって麻薬依存症の若者たちで、銀行強盗を企てるが、仲間割れや不条理な生理現象のために失敗する。社会の規範から完全に離脱しているがゆえに、自由奔放にふるまう男たちの痛快な冒険物語は共感できる。
 塩野谷正幸、千葉哲也、若杉宏二、小川輝晃が、客席をはさんでの「なにもない空間」で熱演する。男たちはもっとふてぶてしく、あっけらかんとしているほうが、見る者に共感と想像の輪をひろげてくれるだろう。アナザーバージョンも上演する意欲的な企画である。再再演してほしい (12月9日、下北沢・ザ・スズナリ)。

『ハイ・ライフ』 テアトロ 2004年 2月号 巻頭リレー劇評 今月選んだベストスリー 渡辺保

 「ハイ・ライフ」はカナダのリー・マクドゥーガルの作品、すでに上演されたものだが、私ははじめてみた。簡単にいえば四人の麻薬常習者の夢見ている銀行強盗の話。男四人、一時間四十五分の芝居である。狂気と暴力と恐怖のサスペンスで、現代の人間の欠落した暗部を見せる。
 流山児の演出は、全ての出来事を四人の俳優が「演じている」ということを強調しながら、しかもそこにあらわれてくる、現代の深い絶望をあきらかにしている。その意味ではこれは現代の「ゴドーを待ちながら」のパロディでもある。彼等が待っているATMの修理係はついにやってこないからである。そればかりではない。銀行強盗の計画そのものが間が抜けている。喜劇でありながら夢であり、幻想であって、しかも同時にシリアスな現代の深層を示している。
 四人の俳優がまた怪物揃いである。千葉哲也、塩野谷正幸、若杉宏二、小川輝晃。個性の強い俳優同士の組み合わせが、芝居を弾ませて、この芝居の持つ、日常の現実からかくされた暗部を鮮明にしている。

『ハイ・ライフ』 テアトロ2004年3月号 2003年舞台ベストワン 村井健

 怠惰、凶悪を絵に描いたような世界の『ハイ・ライフ』である。登場するのは四人の薬中ども。薬がなければ夜も日も明けない連中が、その薬を好きなだけ使える金を手にするためにATM強盗をたくらむという話である。
 ところが、この計画がなんともお粗末。だれが見ても失敗するのは明らか。なのにめげない。失敗してはたくらむ。しかもこの連中、暴力・殺し・裏切りも平気の平左だ。そのくせどこか憎めないところもある。つまりは喜劇。それも悪夢のような喜劇だが、これが面白いのはまさにそこのところだ。自分がよければそれでよい。他人の痛みなど知ったことかという自己本位の生き方は、そのまま現代に生きる人間の裏返された本音だろう。それがテンポよく描かれている。
 役者もいい。出演しているのは、千葉哲也、塩野谷正幸、若杉宏二、小川輝晃の四人だが、どの顔も一癖二癖あって、いかにもの感じがするところがご愛嬌だ。流山児祥の演出だが、彼の演出作品の中でもこれは出色のものだろう。書いたのはカナダのリー・マクドゥーガルだ。
 この舞台の、罪の意識などどこにもない人間のハイなライフ・スタイルを見ていると、バーチャルな世界を思わないわけにはいかない。薬によるハイな世界も、ナチズムも、いわば一種のバーチャルな世界だろう。ある時期、ナチズムもまた「ハイ・ライフ」だったのであり、日本もまたそうだった。パックスアメリカーナも例外ではない。つまり、バーチャルな世界は、現実世界とまったく別物とはいえないのだ。むしろ本質において深く結びついているといってもいいものなのである。いや、時にそれが現実そのものとなる。現代は、それがますます複雑に絡み合い、分別不能となりつつある。
 この二つの舞台(もう一つはひょうご舞台芸術『ニュンベルグ裁判』)には共通したものがある。それは、いずれも作品本位に作られているということだ。作品を生かすためのキャスト・スタッフによって舞台が追求されているということである。なぜ舞台をつくるのか、やらずにおれないのか。舞台でなければ伝えられないもの、やるからにはとことんやらずにすまないものがあるからだろう。その、命の「ドクドク」が、この二つの舞台にはあった。

『ハイ・ライフ』 悲劇喜劇2004年3月号 演劇時評 岩佐壮四郎

 キワメツケの暴力劇の一つ。ムショ帰りの三人の男と若いジャンキーによる完全犯罪の企てと仲間割れを描いて三年前に話題になり、昨年一月には青年座も上演したので改めて付け加えるまでもないかもしれませんが、暴力への衝動や、ホモ・ソーシャルな連帯の確認など、我々が内部に隠し、禁圧しているものをそれこそ暴力的に暴きたてる。流山児★事務所の本領を発揮した舞台といえます。
 強いて難点をさがせば、暴力の形象が洗練されてしまっているようにみえることで、いうまでもなく暴力は決して洗練されえないもの、過剰なもので、そこに表現の困難もあるはずです。この劇団、幕前と幕後に流山児による挨拶がアナウンスで流されるのが恒例ですが、今回は「流山児祥演出200本記念公演」ということで、カーテンコールに黒いタキシードの彼が登場、畏まって挨拶しました。役者の誰よりも、彼自身が暴力的な雰囲気を漂わせているのが、印象的でした。

『ハイ・ライフ』 噂の真相2004年4月号 小劇場情況'04 江森盛夫

 初演は01年だが流山児が迷わず200本記念の演目にしただけのことがある極上の舞台だった。圧倒的な燃焼度で昨年のベストワンだ。救いようがない4人のジャンキーが最後の一山を目論むが、仲間内のイザコザで失敗。この顛末の話だが、麻薬まみれの彼らの生きざまの活写が真骨頂で、地道な暮らしなど一瞬でも考えないジャンキーたちの恍惚の別天地は、長い一生を苦労を重ねて生きる我々をあざ笑っているようだ。役者たちも何しろ芝居も一種の麻薬だからノリが違うハイ・プレイ。塩野谷、千葉がリードするが出色は若杉。積年の精進が実って優しげでチャーミングなジャンキー像を創り上げた。見果てぬ夢を追う演劇ジャンキー流山児の魂が乗り移った200本目の舞台評で23年続いたこのコラムを終えるのも仕合わせか。

 

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